133.哀愁
四角い中庭に逃げ場はない。侵食していく黒い水と次々現れるグールに、辺りはパニックに陥っていた。
獣型ならまだしも、人型な上にアンデッドときたら、それだけでも震えてしまう。
剣を抜き立ち向かう者、魔法で応戦する者、各々が目の前の敵を殲滅しようと必死に戦い始める。
マシュー翁は俺と古賀を激しく睨んだ。つぶらな瞳を必死に見開き、シワの形がおかしくなるほどめちゃめちゃに睨み付けてくる。身体を支えていた数人の従者の手を払い、細い足で地面を踏みしめ、血管という血管を全身に浮かび上がらせ怒っている。
「では、本物の救世主殿は一体どうなさったのだ……。お主は一体、一体何者なのじゃ……!」
温和なマシュー翁とは思えぬほど、老人は激しい感情をぶつけてきた。感情は力となり、熱風となって俺に襲いかかる。しかし、俺の身体は微動だにせず、じっとマシュー翁の姿を見つめている。
「この身体はキスミ・リョウ本人のもの。さっきも言ったでしょう、『キスミ・リョウは屈した』と。人間如きがどんな手を使おうと、俺には敵いっこないってことですよ」
ドレグ・ルゴラは俺の口調を真似て、大げさに身振り手振りしてマシュー翁を挑発した。
マシュー翁は俺に杖を向け、銀色の魔法陣を描き始める。
「『人間如き』……、じゃとぉ……? テラ殿ではないな。お主、何者じゃ……!」
手を震えさせ、それでも魔法を発動させようとするマシュー翁。とても見てはいられない。
「当てたらいいじゃないですか。キスミ・リョウの身体を乗っ取っている凶悪犯は何者か、本当はご存じのはずだ。認めたくないから答えを求めて誤魔化している。戦争もない、飢えもない、平穏で平坦だったレグルノーラで、唯一悪しき感情を持ち、全てを消し去ることで快感を得ているおぞましい存在がいるということを、あなたは認めたくないと思っている。しかし、残念ながらマシュー翁、私は認められないということにすっかり慣れてしまった。誰も私の存在を認めない。誰にも声をかけられず、誰にも理解してもらえず、誰にも受け入れてもらえない。私は幻ではない。私は存在している。現実を受け入れたらどうです、マシュー翁。あなたは私という存在を抹消させるために日々努力していたのではないのですか。塔の魔女と共に能力者や干渉者を束ね、どうにかして見えない脅威と戦わなければならなかった。相手の強さもわからず、どうやって倒すべきかも知らず、闇雲に救世主を求め、彼に全てを背負わせた。その結果がこれです。キスミ・リョウは壊れ、私が身体を支配した。……おおっと、未だ慣れぬな。“表”へ向かうまでにリョウになりきらなくてはならないというのに」
薄ら笑いを浮かべ、俺は翁を小馬鹿にするように喋っていた。
目の前に展開されていく魔法陣の文字が少しずつ明らかになる。聖なる魔法で俺の身体から得体の知れない何者かを追放しようとしているらしい。
この魔法が全く意味を成さないことを知っていて、ドレグ・ルゴラは嬉々とした。
「無駄な力は使わない方が良いですよ、マシュー翁。そんなものでどうにかなると、本気で思っているのですか」
言いながら俺はマシュー翁に近づき、杖の先をギュッと握った。銀色の魔法陣がかき消され、力が拡散されると、マシュー翁は慌てて杖を放り投げた。
「理解できないものを認めるというのは大変なことだと聞く」
視界の外で激しい戦闘が繰り広げられているのを音と気配で感じながら、俺の身体はあくまでもマシュー翁に集中していた。その顔がみるみる青ざめ、恐ろしさからまともに後退ることもできないのを、ドレグ・ルゴラは喜んで見ている。
「名前を呼ぶことすら憚るほど畏怖しているというのに、認めたくはないと。何と愚かしい。では正体を現せば認めますか?」
「い……、いかん。それだけは」
「それだけは? おかしいじゃありませんか。あなたは答えを知りたいと思った。私は答えを提示しようとしている。それだけのことです。塔の魔女が“表”に行ってしまった今、レグルノーラで今のところ最高の権威を持つであろうあなたに会うことで、私はレグルノーラの市民にハッキリと私の存在を伝えようと思っているまで。人間どもが期待した救世主など、とっくに消えてしまったこと。救世主の殻を被った“白い悪魔”が世界を滅ぼそうとしていることを」
ビクンと、身体が波打った。
最初に手が竜化した。テラの時とは違う、細かな白い鱗。黒い袖の下で膨れあがった腕は、簡単に上着を破った。
俺の身体の変化に気が付き、マシュー翁が声をひっくり返して叫んだ。
辺りの何人かが、翁の叫び声で動きを止める。
視線を感じる。複数の目が俺を凝視している。
人間じゃないものに変化していく俺を。
白く巨大な竜に変わっていく俺を。
それは今まで浴びせられたどんな視線よりも冷たい――見開かれた目には恐怖の色が沈着し、ざわめきと悲鳴が辺りに充満する。死を悟った声たちは絶望に狂いだし、ありとあらゆる光を遮っていく。
俺は、俺の身体は最早俺の物ではなかった。存在するはずはないと言われ忌み嫌われてきた白い竜、その姿を見たものは死ぬと言われてきたおぞましい竜。そんなものに、俺は。
意識が飛ぶ。
まただ。
俺は、こんなことをするために踏ん張ってきたわけじゃ。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
川面に子どもの顔が映っている。
小さな男の子。
手を伸ばし水に手を付けると、子どもの顔はかき消される。
未だ小さな手。柔らかい曲線だけで構成された、丸みの残った手。
濡れた手を一度膝に置き、もう一度川面を覗く。
すると、川の底に不思議な物が見えてくる。
田んぼの中の小さな川に屈み込む俺。そうか、これは俺の記憶。
四歳の頃、じいちゃん家の裏の堰に落っこちたんだ。
見えていたのは街の風景。ミニチュアを上から眺めているような不思議な感覚。この日はそれが鮮明に見えていた。だから俺は、手を伸ばせば掴めるんじゃないかと思ったんだ。
お風呂の中、水たまり、洗面器にも。水のあるところには映った景色と一緒に、不思議な物が映る。それは見たことのない建物だったり、生き物だったり、人だったりした。未だあの頃は小さくて、自分に見えていたものは全部人にも見えていると思っていた。だから疑問にも思わず、それが日常の光景だと信じ切っていた。
見えなくなったのはいつからだろう。
誰も俺の言うことを信じてくれないと悟った、小学校低学年の頃だったろうか。
「あの川の中に、女の子が棲んでるんだよ」
じいちゃん家に帰る度、俺がそんなことを言うもんだから、兄がぶち切れたんだ。
「凌、嘘ばっかり言うと、誰もお前のことを信じなくなるぞ」
心底傷ついて、俺は嘘つきなんだろうかと心を閉ざす切っ掛けになった。
自分の目に見えている物が真実で、そうじゃないものは信じない。そういう世の中の常識を徐々に知るようになり、俺は自分のことを人とは違う、変なヤツなんではないかと思うようになっていった。
図工は嫌な時間だった。
車は空を飛ぶ物だと思っていた俺は、車のおもちゃを作るとき車輪を付けなかった。
「来澄君、タイヤはどこに行ったかな。このパーツだけ残ってるよ」
先生に言われて俺は、
「走るときは浮くから、要らないかなって」
何の気なしに言ったのに、クラス中の笑いものになった。
「バッカじゃねぇの。コイツ、車見たことないんだ!」
「車走らせるのにタイヤ要らないって、変なの!」
街を走る車には確かに車輪はあったけれど、『自由に、未来の車を作りなさい』という課題に沿ったものを作ったつもりだった。未来の車には車輪がない。車は宙に浮いて、あっちこっち好きに飛び回る。だからタイヤは要らない。そういうのは俺の中だけの常識で、世の中の常識じゃない。
想像するということは馬鹿にされること。
自分の目に見えていた不思議な光景を話すということは嘘を吐くということ。
虚言癖、妄想癖があると揶揄され、俺は空想を止めた。
――『もうちょっと、自分を信じてもいいんじゃない?』
美桜に言われるまで、俺は自分をずっと欠陥品だと信じて疑わなかった。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
「やめろよ。バッカじゃねぇの」
俺は誰かを睨んでいた。
何年生だろう。眼鏡の女子が半泣きしている隣で、俺はクラスメイトであろう男子に凄んでいた。
教室はざわめき、みんなが俺に注目している。
「ハァ? 何だってぇ?」
俺よりずっと体格のいいその男子は、小学生のクセに大人ほどの胴回りがあった。
「だからやめろって言ったんだよ。最低だな。“まるいち”だろうが“いちまる”だろうがどうでもいいだろ。人と違うことをちょっと口走ったくらいで。まっしの何が気に食わないんだよ」
益子怜依奈が俺の陰にそっと隠れる。それを見てまた、周囲がやんややんやとかき立てる。
「来澄、お前、田舎者まっしとお似合いだな! 付き合ってんのかよ!」
小学生独特のわけのわからない冷やかしに、俺は眉をひそめるくらいしかできない。
益子の腕をギュッと握り、
「気にすんな。アイツらアホだから」
俺は慰めるつもりでいったのだが、益子は何故か泣き出してしまう。
「何泣いてンだよ」
「だ、だって」
「うぇ~い! 来澄が女子泣かした! 最低野郎だ!」
「違っ! 俺はまっしを守ろうと」
「守るだって! 王子様かよ!」
つくづく、この年齢の男子というのは会話に詰まる。全く日本語を理解してくれない。
俺は益子の手を引いて教室を出た。益子の細い足がヒョコヒョコと倒れそうになりながら必死に付いてくるのが足音でわかる。
「待って、待って来澄君」
廊下には殆ど人影がなかった。中間休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り始めたところだった。
益子は俺の手を引っ張って、その場に止まった。
「どうして、庇ってくれたの」
丸い眼鏡をかけて長い髪を二つに結った益子は、目を腫らしていた。
「庇う? 俺はただ、我慢ができなかっただけだけど」
「え?」
「ちょっと人と違うことがあっただけで馬鹿にされるっておかしいだろ。アイツらは自分が他人と違うところなんて一つもないと思ってる大馬鹿野郎どもなんだよ。個性で良いじゃん。言い方が違うとか、喋り方が変とか、そんなのどうだって良いじゃん。誰かがそれで迷惑したのかよ。それで困ったり、それで苦しんだりしたのかよ。そうでないなら、アイツらにそんなこと言われる筋合いないだろ。そういうの俺、我慢できない」
今思えば、俺は自分を益子に重ねていた。
変に大人びて同級生のテンションについて行けず、どこか俯瞰したように過ごしていた俺を、ヤツらは嗤ったんだ。年寄りか。何カッコつけてんだよって。
だから俺は、益子を守るフリをして、自分の思いを彼らにぶつけていたんだ。
何も知らない益子は、
「ありがとう」
とまた泣き出した。
チャイムの音に重ねて、担任の、
「そこの二人! 早く教室に入りなさい!」
という怒声が廊下に響いていた。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
「昔から優しいんだよね、凌は」
薄暗くなってきたグラウンドで、須川が言った。
項垂れた須川の横には陣が居て、そっと肩を抱いている。
「怜依奈は凌の昔を知ってるんだっけ」
陣が言うと、須川はこくりと頭を垂れた。
「正義感が強くて、凜としてて。変な男子とつるんだりしないし、馬鹿げたこともしなかった。真面目で、物静かで。でも、頑張るときは凄く頑張ってた。変わんないなぁ。そこが、好きだったんだよね」
須川の顔が歪み、涙が溢れ出す。陣はそっと須川を抱き寄せ、自分の胸に須川の顔を押し当てた。
「戻ってくるよ、きっと」
陣の言葉には根拠がない。
それを知っていて、須川もうんと頷いている。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
暗い洞穴の中に場面が切り替わった。
石の宮殿の入り口で、グロリア・グレイが神妙な顔をしている。
側には協会から派遣された白いローブの男が二人。
「そうか。白い竜が。そして、リョウまで」
憔悴しきったような顔で、グロリア・グレイは長いため息を吐いた。
「あれらの竜石では間に合わなかったということか。追加を?」
ローブの男たちは互いに確認しながら、首を縦に振る。
「……仕方あるまい。柱でも壁でも、好きに持っていくがいい。全部竜石でできている。こんなことになるのなら力尽くでも止めておくべきだった。などと……、今更か。好きなだけ持っていけ。それでリョウが元に戻るなら、私は住む場所を失っても構わぬ」
自分の住処にこだわりを持っていた彼女にしては、大胆な発言だ。
そもそもこれが、現実なのであれば、だが。
「報告ありがとうと、塔の連中に教えてくれ。竜石のことは好きにしろと」
頭を下げて帰って行く二人の後ろ姿に、グロリア・グレイはまたため息を吐く。
「ゴルドンが死んだか……。おかしいと思っていた。気配が消えて、卵も戻ってこない。あの白き愚か者を止めることができる唯一の男さえ、ヤツに呑まれた。不思議とリョウの気配は近くに感じるのだがな」
グロリア・グレイがちらりとこちらを見た気がした。そもそも俺は何を介してこの映像を見ているのだろうか。
「あのとき、もう少し長く接吻ができていればどうにかなったかもしれぬな。あれでは足りなかったということか。ゴルドンさえ邪魔をしなければと思うと、なんとも皮肉な話だ。さぁて、リョウ。聞こえているんだろう」
嘘だろ。
身体もないのに。偶然か?
「干渉能力で言うところの“意識を飛ばしている”状態ならば、どこに居てもおかしくない。どうもさっきから、やたらと気配がするのだ。気のせいであれば我の独白。良く聞け。我の接吻には魔法がかけてあった。同化を解除しやすくする魔法だ。我は未だ反対なのだ。竜と人間がひとつになるなど竜に対して冒涜も甚だしい。ゴルドンにも昔同じ魔法をかけようとしたが、上手くかわされた。もし効き目がある程度あるのであれば、分離できるかもしれない。汝が白い竜そのものになったのではなく、身体の中に入り込まれただけだとするならば、或いは」
――そういう意味があったのか。単に趣味で舌を入れられたのだとばかり。
どおりで竜石を採掘してから先、簡単にテラと分離するようになったと思っていたら。
しかしこれは、嬉しい誤算。
「ん? 魂が揺らいでいる。やはり居るようだな。流石は我の見込んだ男。ドレグ・ルゴラに呑み込まれてもただでは済まぬところ、益々気に入った。汝がそうしたように、今度は我らが最後まで踏ん張る番じゃ。ドレグ・ルゴラに呑まれてもこうして意識を飛ばすだけの余裕があるということは、希望を捨てる必要など皆無だということ。最後まで諦めるでない。ありとあらゆる方法を使って汝を救い出して見せようぞ」
松明の光がグロリア・グレイの顔を浮かび上がらせる。
彼女は少し笑っていた。それはディアナが全てを捨てると覚悟したときの笑いによく似ていた。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
大きく吸い込んだ息が口の中でどんどん熱を帯びていくのがわかる。腹の底から目一杯息を吐き出すと、それが火炎となって眼下に降り注いだ。
必死の抵抗虚しく散ったと見える幾多のレグル人が、死体となってあちこちに横たわっているのが見えた。瓦礫に潰された者、炎であぶられた者、引きちぎられた者。たくさんの人間たちが未曾有の危機に晒されていた。
街がどんどん潰されていく。
高いビルはなぎ倒され、崩され、噴煙と炎を上げる。
上空から攻撃しようと翼竜やエアバイク、エアカーを駆使して攻撃してくる市民部隊らも、ドレグ・ルゴラにとって敵ではなかった。手を払い、尾を振り、火を噴けば、それだけで全てをなぎ払うことができた。
人間にとっての脅威が同じ人間ではなく、数百年に一度程度姿を現すだけの得体の知れない白い竜だったレグルノーラでは、兵器の開発が順調には進まなかったらしい。どの武器も固い鱗を通すことすら敵わず、ダメージも殆ど入らない。
これが“表”はらば少しは違うのだろうか。戦車、各種砲弾、ミサイル、デカい竜に効果があるかは不明だが、どうにかなりそうではある。
『つまらぬ』
ドレグ・ルゴラはぼやいた。
『リョウ、お前もそう思うだろう。私をいくら忌み嫌い、倒したいと思っていても、“裏”では所詮この程度。狭い世界では何も面白いことなど起こりようもない。となると、やはり“表”だろう。この面白味のない世界などさっさと破壊して、“表”へ行く。そうすればまた、面白いことが起きそうだとは思わないか』
……勝手なことを。
『何もかも、三百年前とは違う。私は満身創痍ではないし、最も恐れるべき救世主の肉体さえ、私は手に入れた。混沌を求めるならば、長年の夢だった二つの世界の完全なる融合を――更に、推し進めるべきだと私は思う。全ての世界が、時空の狭間にある黒い水で覆われ、私の存在を広く認める恐怖の色に染まるのを、この目で見たい。私は絶大な存在として君臨するのだ。全ての生き物が私に恐怖し、私を崇める。どうだ、面白いとは思わないか……?』
にんまりと笑うドレグ・ルゴラ。
俺はその思想に心底身震いした。