132.不条理
砂埃と血の臭いが混じって、レグルノーラの大気は普段よりもずっと生臭い。
原因はわかっている。
目の前には大量の死体。市民部隊第二部隊の面々を、ドレグ・ルゴラは俺の力を使っていとも簡単に殺しまくったのだ。
ペロリと、自分が舌なめずりをしていることに気が付いてゾッとする。
何を見て? 人間の死体を?
『腹が減っていたところだ』
ハァ?
こんな光景、見て言うことじゃ。
『人間の肉は、柔らかくて美味い』
ちょ、ちょっと待て。それは。それだけは絶対――。
身体が膨れあがる感触。竜化する。
俺は自己防衛するように、意識を身体から切り離していた。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
美桜の姿が見える。
陣の腕の中、背中に白い竜の羽を生やした美桜の姿が。
砂埃の舞うグラウンドには、涙を流したり、大声で叫んだりしている仲間の姿が見える。
「ディアナ様、どうしてリョウを!」
ノエルがディアナに向かって怒鳴った。
ディアナは目を合わせない。
「凌自身が望んだことだ。美桜を止めるために、凌は何もかも捨てて竜になることを選んだ。竜になってしまえば“表”に居続けることはできない。だから穴に飛び込んだのだ」
「だからって穴を閉じてしまえば、リョウはもう戻れない。竜化した身体をまた竜石で押さえ込めば今まで通り人間の姿で過ごすことだってできたんじゃないのか?」
半泣きのノエル。
「来澄のことは最初から居なかったと思えと。そういうことなのか……? 無鉄砲で融通の利かない大馬鹿野郎だったかもしれないけど、けど……、それは……!」
泣き崩れていた芝山が、身体を起こす。自らを奮い立たせるように首を左右に振ってから、芝山は歯を食いしばってディアナの元へ向かっていく。
「ディアナ様、よろしいですか」
芝山は険しい表情でディアナを見上げた。
「そろそろ、本当のことを教えてください」
ディアナが目を見開き、芝山を見下ろす。
「美桜の秘密。隠しても無駄です。来澄が竜化したときとは何かが違う。竜石で力を奪っても人間に戻りきらないのにも、きちんと理由があるんでしょう。隠しごとは止めにしませんか。来澄にしたってそうだ。何も言わない、相談もない。自分で決めて自分で穴に飛び込んだ。ディアナ様は本当のことをご存じなはずだ。でなかったら、わざわざ危険を冒してまで“表”になんか」
拳を握り必死に訴える芝山に、ディアナは破顔した。
「美桜も凌も、素晴らしい仲間を持ったな」
まるで壮絶な戦いの後とは思えない笑顔だった。
はぐらかさないでくださいよと言う芝山に、
「全部話そう」
と、ディアナは確かに言って、美桜の側に皆を呼び寄せた。
美桜の上には既に大きなタオルケットが掛けてあった。先まって駆けつけたモニカが魔法で用意した物だった。
すやすやと陣の腕の中で眠る美桜の身体は、中途半端に竜化したままだ。
ディアナは全員が集まったのを確認すると、ゆっくりと美桜の側に屈み込んだ。
「悪いな、美桜。私が全部喋ろう。こんなことになる前に、どうにかしなければと奔走したが、間に合わなかった償いだ」
眠る美桜の頬を撫で、ディアナはとうとうあの言葉を口にした。
「美桜はかの竜、白い悪魔ドレグ・ルゴラの実の娘だ」
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
「僕が白い竜だって知らなかったら、もっと遊んでた?」
薄暗い森の中、人間の子ども数人に、俺はそう訴えかけていた。
言われた子どもたちは返答に困り、互いに目を見合わせている。
「おいかけっこ、楽しかったのに。どうして止めるの」
俺は首を傾げ、両手を広げて理由を請う。
「し……、白い竜は普通、存在しないって聞いた」
言った子どもが竜に姿を変える。
「みんな言ってる。不吉だ。交わらないようにって」
別の子どももそう言って、竜の姿になる。
人間に変化する遊びを覚えたばかりの若い竜たちは、こぞってこちらを警戒している。
「そうか。成竜たちがそう言うんだね」
俺は何故かニヤリと笑い、グッと拳を握る。
瞬きをしている間に、俺は白い鱗に覆われた若い竜になっていた。
「『不吉』って何だ。『存在しない』……? では僕は何だ。僕は何故ここに居る。居ないはずの存在がどうしてこうやって君たちと会話していると? 愚かだな。理解に苦しむ。他の竜と色が違うだけで、僕は最初から存在を否定される。僕は生きている。存在している。誰が何と言おうと、僕は僕という存在を、認めさせてやる」
言うと俺は、思いっ切り空気を吸い込み、身体の中に蓄えた。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
「つまり来澄は、美桜を守るために……?」
ほとんど空になったペットボトルを両手で抱えながら、芝山が呟いた。
「結果的には、そういうことになる。実際、救えてないのが悲しいところだけれど」
薄暗くなってきた校庭の隅、瓦礫に腰掛けながらディアナが言う。
地面には大きなレジ袋が三つ。そのどれにも、飲み物や弁当の空箱が詰まっている。どこぞのコンビニロゴの入ったレジ袋に、芝山は空いたペットボトルを詰めた。彼らしく几帳面に、ペットボトルのラベルを剥がし、キャップも分別している。
レオたちの姿はない。一通り仕事を終えて、“向こう”へ戻ったのだろうか。
横倒しになった外壁の上に、美桜が半竜の姿で横たわっている。どうやら寝ているようだ。ディアナかモニカの趣味だろうか、少しフリルのある白っぽいワンピースを着せられていた。
「どちらの世界に居ても、美桜は苦しむ。生まれる前からわかっていたこと。竜となって出てくるか、人間として出てくるか。賭けだった。美桜を抱き上げたとき、美幸がどんなに喜んだか。余程嬉しかったのか、直後に私のところに飛んで来てね、『大丈夫、私やっていけます』なんて言うんだよ。レグルノーラとは違って、“表”で婚外子は育てにくいと聞いていたのだけど、兄が何とか面倒を看てくれることになったと嬉しそうにね。……ところが、人間の心というヤツは残酷で、変わりやすい。彼は、得体のしれない世界に飛んでいく妹と姪をいつまでも同じ気持ちで見ていくことができなくなってしまっていた。けどね、それは仕方のないこと。責めてはいけないよと私は言った。自分の知らないもの、理解できないことを恐怖だと思う。これは人間が持つ自然な気持ち。怖いからこそ警戒する。警戒するからこそ自分を守ることができる。警戒は防御。だから、お前の兄を責めてはいけないと、私は美幸に言ったんだ」
陣はディアナの紡ぐ言葉を噛みしめるように、皆から一歩離れた校舎の壁に寄りかかっていた。陣の視線の先には、今にも破れてしまいそうな結界があった。学校の敷地をグルッと囲ったそれは、いつ壊れてしまってもおかしくないくらいヒビだらけだ。
「ドレグ・ルゴラは人の心を操るのが得意らしい。心の中に入り込まれては、打つ手がない。強靱な肉体を持っていたとしても、その心まで強靱でなければ打ち勝つことはできないだろう。覚悟を決めた凌が、真の救世主となるために命を懸ければ、どうにかできるかもしれないと――これは、一縷の望みだ。美桜の力を封じ込め、使える竜石の数は減ってしまったが、まだ巻き返すだけの力がどこかに残っていると信じたい。時空の狭間で何が起こっているのかわからない今、私たちにできるのは信じ続けること。そして、魔物が侵入しないよう、警戒を続けることだ」
一人一人の目を見て、ディアナは丁寧に語った。
芝山、須川、陣、それからモニカとノエル。皆が頷く中、一人だけ首を横に振るヤツがいる。
ノエルだ。
「そうかな。真に警戒すべきは白い半竜人だと思うけど」
周囲が怪訝な目を向けても、ノエルは怯まない。
「竜に変化していくときのあの感じ。明らかにおかしかった。もしとっくに彼女の心が壊れてたとしたらどうする? 目を覚ましたらまた、オレたちを襲うかもしれない。守りたい気持ちがわからないわけじゃないけど、かの竜を倒すという真の目的を忘れてまで守る相手じゃない」
彼らしく冷静に分析し、しっかりと意見を言う。
ディアナはうんうんと何度も頷き、その後でもう一度、あのことを話した。
「けれどノエル。美桜はかの竜の娘なのだ。情というものが存在するのかどうかは不明だが、身内を殺されれば普通、大抵の生き物は殺した相手を敵だと認識する。つまりね、安易に殺すことはできない相手だと言っているのだ」
ノエルの表情が重くなる。唇を噛み、拳を握る彼に、誰も言葉をかけることはなかった。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
「不吉な噂が蔓延しているが」
干渉者協会のマシュー翁が、ディアナに耳打ちする。
仕事で訪れたのだろうか、本棚がギッシリと並んだ協会の会長室、二人は茶をすすりながら話し込んでいる。
「噂、とは」
ディアナは眉を動かしてマシュー翁の顔を覗き込む。
低いテーブルの向かいに腰掛けたマシュー翁は、ディアナの表情を確かめながら、慎重に言葉を選ぶ。
「かの竜が復活したと」
フンッとディアナは鼻で笑い、
「馬鹿馬鹿しい。冗談でもそんなこと」
「――人間の男に化けていると聞く。見た目では判断できず、気配も竜のそれではないと。しかし、人間ではない何かを感じるらしい。まさか塔の魔女が何も知らぬわけがないと思って聞いたのだが」
まだ黒い色が残る長いあごひげを擦りながら、マシュー翁はディアナの心を探る。
けれどディアナは無表情のまま、
「知らないな」
とピシャリと言った。
「この世界でかの竜を知らぬ者はない。常に畏怖の対象であり、決して触れてはいけないものの一つ。数百年前に時空の狭間に封印されて以来、今も世界中に様々な影響を及ぼしていることも確かだ。この世界の異常の殆どは、かの竜の仕業。そう揶揄されるほど恐れられる竜が、まさか小さな人間に化けているなどと、誰が信じようか。協会の会長殿もその御年でようやく冗談を言うようになったと捉える」
口角を上げて再びカップを手にする、その手が震えているのをマシュー翁は見逃さない。
「仮に」
と前置きし、
「かの竜が復活したとして、救世主たる存在が現れなければ、この世界は滅びる。早急に適合者を探さねばならぬ。潜在能力が高く、志が高く、誠実で実直な“表の世界の干渉者”を。そのためにも、塔の魔女であるディアナ様には何としても力を借りねばならない」
「――“この世界”の危機など、“表”の人間に何がわかろうか。干渉を止めれば関わることのない遠い世界だ。“表の干渉者”の何割が“ここ”を実在する世界だと思っているか知れたもんじゃない。その多くは“裏”は夢だと、睡眠中にだけ訪れることのできる不思議な世界なのだと思っているくらいだ。訴えるのは難しいよ。余程“表”に影響するか、でなければ“裏”を救わなければならないという合理的な理由を持つようでなければ、遠い世界の出来事で済まされてしまう」
「それならば、作り上げてしまえば良い」
マシュー翁の不穏な言葉に、ディアナは顔を上げる。
「かの竜の復活がまだ噂に過ぎないうちに、作り上げてしまえば良い。条件に適合する“表の干渉者”を。“合理的な理由”を持ち、自らの意思でレグルノーラを救おうとする干渉者を作り上げてしまえば良いのだ。なぁに、簡単なこと。未だ幼少にある“干渉者の卵”にこの世界の隅々を見せ、徐々に“裏”を身近に感じさせる。往来が自由にできるようなった時点で干渉の仕方や魔法の使い方を教えていく。“裏”とたくさんの接点を持たせ、この世界に愛着を持った時点で、どうしても世界を救わなければならないと思わせるような事件を起こす。……候補はたくさん居た方が良い。協会でいくらでも選別しよう」
「――ダメだ」
テーブルに手を付いて、ディアナが立ち上がった。
「“救世主”は作られるべきではない。いくら別世界の住人とはいえ、相手は人間。意思を尊重することもなしに簡単に『作り上げる』などと。私は反対だね。絶対に協力などしない」
凄むディアナに動じることもなく、マシュー翁はじっと彼女を見つめている。
「実際に復活が確認できれば、綺麗事では済まされぬぞ」
唾を飲み込むディアナ。
「それでも、私は」
彼女はそれ以上、言い返さなかった。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
「救世主殿。どうなされた」
干渉者教会の中庭に、俺は立っていた。
能力を鑑定すると言われて皆の前で戦わされた、あの場所だ。
目の前にはマシュー翁。周囲には、あのとき立ち会ってくれた鑑定士や戦闘時に見たことのある能力者たちの姿もある。
「どう、とは」
俺は首を傾げてマシュー翁を見下していた。
「ディアナ様と共に竜石を携えて“表”へ向かったのではなかったか。して、その者は?」
マシュー翁の目線が、俺の少し後ろに移される。
スッと後ろから右前に一歩踏み出して、そいつはかしこまったように頭を下げた。
「“表”で来澄凌の学校の教師をしています、古賀です。私も干渉能力を持っていまして、今日は同伴で」
リザードマンから古賀明の姿に戻ったらしい。古賀はいかにも教師らしく丁寧に振る舞った。
「同伴、のぉ……」
言いながらマシュー翁は白いあごひげを何度も擦る。うぅんと唸りながらまじまじとこちらを眺めては、首を何度も傾げている。
「額に石がないのは、何か理由があってかの? 確か赤い石を埋め込まれていたはずじゃが」
「あぁ。それなら白い竜と戦ったときにパリンと。力を出し過ぎて」
間違ったことは言っていない。
けれどマシュー翁は、未だ訝しげな目をしている。
薄暗い中庭は、ヤケに緊張していた。大勢人間がいるというのに、誰も一言も喋らず、ただじっと俺たちの様子を覗っているのだ。
「うっかり、竜の姿になってしまって。でも今は大丈夫です。同化にも慣れ、石がなくても人間の姿を保てています」
かの竜は俺の声でしれっと言った。
「しかし、何かが違う」
とマシュー翁。
「全てが解決したという報告は未だ受けておらん。かの竜の力か、再びダークアイが街に現れたと、市民部隊が大騒ぎで出動していると聞いた。中心部一帯のビルが崩れ落ちた原因もわかっておらん。こんなときにお主がここに来る理由がまず、わからんのじゃよ。モニカやノエルはどうしたのじゃ。彼らは常に一緒ではないのか」
「ええ。大事な用があって、俺と古賀先生だけが先にこちらに」
「大事な用とは」
「それはですね」
そこまで口にした段階で、俺の周囲には黒いもやが立ちこめていた。真っ黒い煙に似たもやは、足元から一気に中庭全体に広がり、徐々に液体化していく。
「大切なお知らせをするためですよ、マシュー翁」
黒くねっとりした黒い湖の水が庭の緑を呑み込み、急激に枯らしているのが見える。悲鳴、慌てふためく声、にわかに散り始める人々。しかし彼らを黒い水は逃さない。意思を持ったかのように、黒い水は彼らに向かって広がっていく。
ボコッ、ボコッと音を立て、黒い水が細長く盛り上がった。ザバッと水がはけると、人々の悲鳴は一層高くなる。黒い水の中から、半分腐った死体の化け物、グールが随所に現れたのだ。
「救世主など最早存在しない。キスミ・リョウは屈した」
俺が言うと、皆一斉に顔を青くした。
「屈した……? まさか。ではお主は」
たじろぎ、倒れそうになるマシュー翁を何人かが慌てて支える。
皆が息を飲む中、ドレグ・ルゴラはさも楽しそうに、満面の笑みを浮かべた。