131.何者
火矢が放たれると、闇夜が赤く染まった。
硬い鱗が火矢を跳ね返し、地面に落ちては枯れ草を焼く。それでも人間たちは火矢を射る手を止めない。それしか方法を知らないのか、そうすればどうにかなるとでも思っているのか。
瞬く間に森の木々へと火は燃え広がり、あっという間に辺りが火の海になる。
人間や小動物たちは逃げ惑い、炎の中で自分だけが達観している。
『愚かしい』
俺はまた、若く白い竜の心の声を聞く。
『不吉だと? 禍々しいと? 僕を見て言っているのか』
天まで高く上がる炎は、まるで沸き起こる怒りを体現したかのよう。
『求められるならば、悪にでもなろう』
白い竜はそう思って目を細めた。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
「お前は誰だ」
ディアナが目を大きくしてこちらを見ている。
「誰、とは」
俺はそう言って、眉をひそめている。
「人間ではないな……。だが、魔物ともまた違う。竜の気配に似てはいるが、普通竜はこんなに黒い気配をしていない。お前は一体何者だ……!」
白い塔の魔女の間に、俺は居た。
けれど俺は俺じゃない。また誰かの身体に入り込んでいる。
その男はニタリと笑い、感嘆の息を吐く。
「流石は塔の魔女。この世界で絶対の権力を持つ最高能力者。他の誰も私のことを疑わなかったというのに、あなたは一目見ただけで私を疑った。素晴らしい。実に素晴らしい」
わざとらしく拍手して、男はディアナを見下した。
広い室内に二人きり。逃げようにも、ディアナは足がすくんで動けないらしい。小刻みに震える身体を守るように、両肩を抱えている。
「人間に化けられる竜の話を聞いたことは?」
男が言うと、ディアナは噛み合わない歯を必死に噛み合わせながら、
「勿論、知っている。竜の中には魔法を使い、人間に化け、更に人間と同化するものまで居るという。同化は知らないが、人間に化ける竜には心当たりがある。人化後も……、竜の臭いや気配は変わらないし、立ち位置を変えることもなかった。けど、お前は違う。竜の臭いも気配も消して、人間の社会に溶け込んでいる。……誰かと契約しているわけでもなさそうだ。野生の竜? ――にしては魔力が高すぎる。異常なくらい高い。お前は一体、何者なのだ」
ディアナが言葉を紡ぐ度に、男は興奮した。
嬉しくて嬉しくて堪らなくなって、とうとう声に出して笑い始めた。その笑いに、ディアナは益々怯え、壁に背中を付ける。
「若く美しい塔の魔女。お近づきになれて幸い。けれど残念だ。私には名乗るような名前がない。本来の姿を見せたいところだが、それではこの塔どころか街まで壊れてしまう。今はご挨拶まで。目覚めたばかりでなにぶん、世界に馴染まないのでね」
男は笑う。
ディアナは血の気の引いたような顔をして、呆然と俺を見ている。
黒い服を着た男が、ディアナの瞳に映っていた。細身の、人の良さそうなその男は。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
腕の中に少女を抱いている。
柔らかな肌と髪の毛の感触に酔いしれている。
少女もギュッと抱き返す。
「もう少しこのまま」
暗がりの中、二人はベッドに寝転んでいた。ただ抱きしめ合って、時間の過ぎ去るのを待った。
「ずっと、誰かにこうして貰いたかったのかもしれない」
少女は言った。
「ほんの少し人と違うことができるだけで、みんな私のことを気持ち悪がって。理解してくれる人が欲しかった。この心の隙間を、私はずっと、埋めたかったんだ」
少女は力を入れて、俺の身体を抱いた。
俺は彼女をまたギュッと抱きしめる。
「可哀想に。私がその隙間を埋めてやろう」
俺ではない低い声が、俺の口からそう言った。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
まただ。
知らない記憶がどんどん頭に流れ込んでくる。
わかってる。これがドレグ・ルゴラの悲しい記憶。迫害され、孤独の中黒い感情を募らせて発揮していく記憶。
力もある。頭も切れる。けど、果てしない孤独に支配された生涯。
同情を誘っているのか。俺が少しでも彼の味方をするように。
冗談じゃない。どんな理由があろうとも、何かを破壊しなければ自分は救われないなんていう恐ろしい考え、持つべきじゃない。それこそ、レグルノーラというこの世界の根本的な法則“何かを失わなければ何かを得ることができない”に通じる。
どうにかして止めないと。
ヤツが俺の身体で何かしでかす前に。
思っていても思うように意識が戻っていかない。俺は頭の片隅にぽつんと置いてけぼりで、遠くから自分の身体の動きを俯瞰している。
ヤバい。テラの時と全然違いすぎる。 互いのテリトリーを侵さない程度に意識の共有を図るなんて甘っちょろいことはしない。ヤツは完全に俺の身体を手に入れて、俺に成り代わってしまっている。
キースもそうだった。テラと共に戦った干渉者の欠片も感じられなかった。
ドレグ・ルゴラにとって俺は器。人間と同化することでしか得られない未知の力を手に入れるための、単なる器に過ぎない。
けど、どうにかしてこの事態を打開しないと。
――目が、開いた。
薄暗いレグルノーラのビル街に俺は居た。度重なる戦闘ですっかりボロボロの外壁、基礎部分から傾いたビルや、途切れ途切れの高架橋。かつてエアバイクや竜たちが悠々と飛んでいた空には何もない。ただ暗雲が地の果てまで延々と続くだけ。
人っ子一人居ない街で、俺の目はそんな景色をゆっくりと見回していた。そうしてニッと笑い、右手を高く挙げる。手のひらに力を集中させてバンと弾けさせると、そこから黒くねっとりしたものが湧きだしていく。べちょべちょと気色の悪い音を出しながら、黒い粘液が地面に落ち、モニュモニュと意識を持ったかのように動き回いては、それがくっつき合ってどんどん巨大化していくのが見える。
ダ……、ダークアイだ……。
あの恐ろしいデカい目玉の化け物。アレを、俺の身体が生み出してしまった。
身震いしたいが、生憎身体は乗っ取られている。悔しいながらも、俺は動向を見守る。
目の前には数体のダークアイが居る。どれもグネグネと波のようにくねり、障害物を呑み込みながら前へ前へ進んでいる。それぞれの個体が何かにぶつかる度に分裂し、小さくなった個体を更に膨らませ、どんどんどんどん増えていく。
背後でふと気配がして、俺の身体はようやく右手を下ろした。
「我が主。如何でスか、来澄凌ノ身体ハ」
歯切れの悪い喋り方には聞き覚えがある。
声の主を確認もせず、俺の声は、
「悪くはない」
と答える。
「金色竜との同化と分離を何度も繰り返すだけの体力、度重なる戦闘で培ってきた持久力、そして底知れぬ魔力を秘めている。私の力と合わされば、キースなどとは比べものにならない程の破壊力を発揮できるだろう。素晴らしい逸材だ」
ここまで言われているのに、全く褒められている気がしない。
けど、俺は嬉しそうに顔を歪めている。
「力を試したい。見ていてくれるか」
「御意」
今度は右手を前に突き出し、手をバッと開いて一際高いビルの一つに照準を合わせた。その奥に天に向かって伸びる白い塔が見える。激しく、嫌な予感がした。
魔法陣を宙に描く。
明らかに俺のじゃない。気高いが、どこか不気味で気持ち悪い模様がそこかしこに描かれている。書き込まれるのはレグル文字。しかし、文体が少し違う。恐らく現代の言葉ではなく、いにしえに使われていた言葉。読めない。“波動”“消し去る”なんだ、この不穏な文字列。魔法陣が赤黒く光っていく。これは、破壊の。
音もなく魔法が発動した。
魔法陣から発せられた光がレーザーのように一直線になって街を切り取っていく。右に手をずらしていく度に、まるで鋏で切られたかのように、上下の景色が分かれていった。光の矢は、直線上に存在するあらゆる建物をなぎ倒した。
積み木が崩れるようにビルの上部が崩れ落ちていく。地響き、砂煙。あちらこちらで激しい音が鳴り響く。
巻き込まれた人間はいないだろうか。市民部隊は。どんなに気になっても、今の俺にはどうすることもできない。
半周ほど身体を捻ったところで、俺は魔法を打つ手を止めた。景色の中にある白い塔だけが、何かに守られているかのように姿を変えていないことに、ドレグ・ルゴラが気が付いたからだ。
ディアナや能力者たちが結界を張っていたのだろう。俺はホッと胸を撫で下ろすが、ドレグ・ルゴラは気に入らない様子で白い塔を睨み付けている。
「塔ヲ崩すのハ至難の業カと」
言われてようやく、俺の身体は声の主を見る。
リザードマン。中身は古賀明。翠清学園高校の物理教師。
「フン。まぁいい。力の加減がわかればよかったのだ」
ドレグ・ルゴラは俺の手を何度も握り直して、感触を確かめた。見慣れたはずの手が、別人のそれに見える。
こんなことをされるために戦ってきたわけじゃない。世界を救う。そうしなければならないと、固く心に誓ったにもかかわらず、俺の身体を使って悪竜が世界を壊そうとしている。その皮肉に、はらわたが煮えくりかえる思いだった。
「ただ一つ、不満なのは頭の片隅でゴチャゴチャと呟く輩が意識を取り戻してしまったこと。あれだけの衝撃を与えたというのに、完全なる精神の崩壊を果たせなかった。しぶとすぎる。キースの時は簡単に私のものになったのに。食えない男だ」
散々な言われ方だが、少し光明が見えた。
キースを乗っ取ったのは、彼がテラと同化し、竜石を使ってドレグ・ルゴラの力を封印した直後。全ての力を使い果たし、身体もボロボロになっていた。言わば死の寸前に乗っ取られたらしかった。
けど俺の場合は、確かに戦いの連続で疲れ切ってはいたが、まだ余力はあった。それに、困ったことに絶望には慣れてきていた。先に芝山のことがあったから、その分少しだけ、覚悟ができたのかもしれない。
いずれにせよ、こうして自分の頭の片隅で物事を俯瞰できているうちは、どうにかできそうだ。
問題は、手も足も出ないこの状態で何ができるか、だが。
にわかに複数の足音が耳に入ってきた。発砲音や破裂音も聞こえてくる。
足音は徐々に近づき、俺の背後で止まる。同時に、複数の人間が口々に驚きの声を出しているのが聞こえてきた。
「誰だ!」
銃を構える音がして、俺の身体はゆっくりと声の方に振り向いた。
ビルとビルの間から、シルバージャケットの集団が覗いている。
市民部隊。第二部隊の隊長ウィルが、俺に銃口を向けていた。キャンプへ向かったとき、翼竜の背に乗っけて貰い、色々語った相手だった。
他にも見覚えのある隊員が何名か。それぞれに銃身の長い銃を構え、俺に狙いを定めている。
相手が敵意を見せていると知るなり、ドレグ・ルゴラはよりによって、俺の顔に笑顔を作った。余裕たっぷりに腰に手を当て、
「久しぶり」
などと口にする。
当然、ウィルたちは戸惑った。明らかに動揺し、銃を持つ手を震わせている。
「わからないか。俺だよ。リョウ。あのときは世話になった。竜の背に乗ったのは良い思い出だ」
ドレグ・ルゴラは俺の口調を真似し、ニコニコと言い放った。
俺の記憶を探り、もっともらしく話すかの竜に、俺は激しい怒りを覚えた。
「まさか」
ウィルは首を傾げ、銃の照準器から目を離して俺の顔を確認している。
が、彼は直ぐに、
「違う」
と言い返す。
「お前があのリョウなわけがない。第一、その半竜人は何だ。彼は誇り高く、皆に心配りをしながら戦える心優しい少年。救世主となって世界を救うため奔走しているはずだ。確かに顔は似ている。背格好も。けど、こんな……、こんな真っ暗闇のような顔、リョウはしなかった。お前は――、お前は一体誰だ」
奥歯を震わせながら、ウィルはもう一度俺に照準を合わせた。引き金にかかった指が、恐怖からか細かく動いている。
「誰? おかしいな。間違いなく俺はキスミ・リョウで、あなたが言うところの救世主で、あのとき一緒に過ごした記憶もしっかりある。高いところは苦手だったけれど、竜の背はどっしりしていて乗り心地がよかった。夕方から夜になっていく臭いや、風の音、他愛ない話の端々もちゃんと覚えてる。エアカーかエアバイクで移動するのかと思ってたところに、あなた自身が提案したんじゃないか。『竜の背にでも乗せてやろうかと』って」
最後まで言い終わらないうちに、最初の銃声が響いた。
弾丸が一直線に飛び、俺の頭めがけて向かってくる。
軌道が見える。まるでスローモーションみたいに、弾の動きがハッキリと見える。
目をつむれ! 避けろ!
けど、俺の身体は微動だにせずじっと弾を見つめている。
――死ぬ。
思った瞬間、目の前で何かが弾けた。いつの間にか張っていたシールドが、銃弾を防いでいる。いつ魔法を放ったのか、全くわからなかった。それくらい瞬時に魔法は発動され、その威力たるや、銃弾を一つも通さないほど強固なものだった。
瞬きもせず銃撃が収まるのを待つ俺の身体。
どんなに銃を撃っても倒れない俺に恐怖を感じ始めるウィルたち。
「愚かな」
銃弾が止む。立ちこめた噴煙の中で俺の声がそう呟く。
口が半月状に開いた。細めた目がつり上がった。
ダメだ。
相手は人間だぞ。
物じゃない。
そういう魔法を簡単に使ったら。
右手がゆっくりと上がっていく。人差し指がウィルたちに向けられる。
ツイッと指先が上下した。
瞬間。
地面から無数の棘が突き出す。金属製の棘は鋭く伸びて地面からウィルたちを串刺しに――。
目を、逸らすことすら許されない。
ドレグ・ルゴラは嗤う。俺の声で嗤う。
何が愉しい。何が可笑しい。
命だぞ。さっきまで会話してた。動いてた。彼らを、お前は。
辺り一面に赤が飛び散り、手足が千切れ、首が飛んだ。身体に穴が大量に空き、回復不可能だと一目でわかる。
『戯れだ』
ドレグ・ルゴラが俺の声に初めて答えた。
『長い長い時間を過ごす私の、一つの戯れ。退屈な時間をお前という存在が愉しませてくれる。せっかく手に入れた力を使わない手はない。もう少し、愉しませて貰う』
ケタケタと肩を揺らしながら、ドレグ・ルゴラは俺の声で高笑いした。