128.湖を抜けた先
黒い湖に飛び込む。
湖面が激しく揺れ、高く飛沫が上がる。
大粒の水滴が湖面に帰るのを待たずに、俺はできる限り深く潜った。
二つの世界を繋ぐ不思議な湖は、光という光を全部吸収した。暗い感情が湖に注ぎ込んで黒くなったのだとテラは言う。たくさんの鬱憤とたくさんの不満、欲望、嫉妬、憎悪、恐怖、悲哀……。それらは二つの世界で人や竜が生きてきた証でもあるのだろう。
湖は、暗い感情と共に暗い記憶も全部呑み込んでいた。
誰かが泣いたこと、怒ったこと、苦しんだこと、恨んだこと。妬んだり、悔しがったり、はたまた絶望したり。
潜れば潜るほど、ねっとりとした湖水は竜となった俺の身体に絡みついた。
水の音に混じって、誰かの声が聞こえてくる。それは助けて助けてと、どこかで泣いているような悲しい声だった。
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『怖い……、怖いよ……』
耳にやっと届くほどの、か細い声。
『お願い、助けて。助けて』
何かに怯える少女の声。
『どうしよう、どうしたらいい。誰に相談するの? 怖いよ。私、どうなってしまうの』
美幸だ。
直感的にそう思った。思った途端、頭に映像が浮かんできた。
古びたアパートの片隅で膝を抱え、頭を抱えて縮こまっている女子高生が一人。
『彼は一体何者だったの? 私のことを騙していたの? そもそも……、何のために私に近づいたの……?』
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『泣いたところで、誰かが助けてくれるわけじゃない』
映像が消え、少年の声が聞こえてくる。
『一人じゃないだとか、守ってあげるだとか。そういう無責任なことを言うヤツに限って僕から一番に逃げていく。僕の何がいけないんだ。見た目で決めつけるような愚か者じゃないと言ったクセに、結局はみんなと同じ。くだらない同情なんてされるくらいなら、いっそ嫌われた方がスッキリする。……どいつもこいつも、頭が悪すぎる。目障りならば殺しに来ればいいじゃないか』
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「お前を殺してしまうことが最善の解決策になるが、それでもいいのか?」
ディアナが誰かを睨んでいる。恨みではなく、哀れみの目。
誰かが首を横に振る。
「私にはこの世界を守るという使命がある。今お前が宿した命は、今後二つの世界を脅かす存在になるかもしれない。だったら、その前に殺してしまえばいい。それが、当たり前の考えというヤツだ。無事に産まれたところで、同じこと。“向こうの世界”でも“こちらの世界”でも、お前の子どもは歓迎されない」
絶望したような顔でディアナを見上げるのは、やはり美幸だった。
助けてくれると信じていたのに。ディアナは簡単に、優しい言葉をかけなかった。
「どちらがいい? 私に殺されるか。自ら命を絶つか。選択肢は二つに一つ。この世界に絶望をもたらす子どもを、私は許すことができない。苦しめずに殺す方法ならいくらでもある。お前が死んだところで、お前の兄とやらも、妹が過ちを犯して自ら命を絶ったのだと納得するのではないか?」
突き放つような一言に、美幸はブルッと肩を震わした。
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雑踏の中を誰かが歩いている。俺は目線の人物の身体に入って、あちこちを見回している。
『こんな狭いところで、ひしめき合って生きているだなんて。人間とは何と不可思議な』
頭に響くその声は、かの竜に違いない。
『四角い建物の中で誰かと暮らす。必要なものを似たような価値のものと取り替える。食べ物が欲しければ、同等の価値の貨幣を払う。身なりも肌の色もてんでバラバラなのに、大きな争いごともない。人間の姿に化ければ、私でさえ溶け込める。人間とは……実に不可思議な生き物だ』
人化したかの竜は、口元に薄ら笑いを浮かべていた。
『不可思議で、愚かだ。人間の殆どは、私の力を感じ取れない。何もわからないのだ。私が“かの竜”などと呼ばれて恐れられていることも、私が恐ろしい感情を持って道を歩いていることも、彼らは何も知らない』
――ふと目に入った小路から、一人の少女が現れた。セーラー服のその少女は、明らかに周囲から浮いていた。
『干渉者か』
かの竜は彼女を、異界から迷い込んだ者だと認識していた。
『……なるほど。面白いことを考えた。頭の片隅に引っかかっていたアレを試してみる、またとない機会が訪れたようだ』
彼は歩を早め、ズンズンと彼女の方へと向かっていった。
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潜っても潜っても、黒い湖の底には辿り着かない。
砂漠から湖に出て俯瞰したときには、リアレイトの街が透けて見えていた。二つの世界は湖を介して繋がっていると俺は直感した。
湖という巨大なレンズを挟むようにして二つの世界は存在している。という、これは俺の臆測。このまま湖の中を突き進めば、レグルノーラへ出るんじゃないかと更に潜る。
人間のままならばとても堪えられないだろう深度まで身体を沈めていく。
けれど竜になったからといって、身体に貯め込める酸素には限界というものがあるわけで、少しずつ吐き出した息がそろそろ悲鳴を上げそうだ。酸欠状態に陥れば、当然意識はもうろうとするし、手足は痺れてくる。息が続かなくなって口を大きく開いてしまえば当然――、肺に水が入る。
ダメだ。我慢しろ。
干渉者はイメージを具現化できる。
帆船で長の水責めにあったことを思い出せ。あのときは確か、水中でも呼吸できると、肺を水が満たしても苦しくないと。
強くイメージを持ち続ければ、自分さえ変えることができるはずだ。
ガバッと水を勢いよく飲み込んだ。黒い水が一気に体内に流れ込んでいく。大丈夫、これで呼吸はもっと楽になる。そう、黒い水の中でさえ、俺はしっかり呼吸できる。こんな所で息絶えることは絶対にできない……!
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手のひらをじっと見つめる。
剣を握りすぎてできたマメがところどころ潰れて血が滲み、指はあちこち擦り傷だらけ。ゴツゴツしていて、とても綺麗だとは言い切れない手。
だけれども、そいつはその手を見て喜んでいた。
『ようやく手に入れた。人間の身体だ』
辺りは一面の砂漠、砂嵐が巻き起こり、そいつの身体を激しく揺らしていた。けれどそいつは微動だにせず、自分の身体の隅々をまじまじと眺めてはニヤニヤと笑っていた。
『あの愚かな金色竜が私に教えた唯一は、人間との同化で強くなれるということ。私はこの世界で最強の存在になれる。何も怖くない。誰も私を倒そうとはしないはずだ。ただ……馴染むまで時間がかかる。そして、回復するのにも相当の時間が必要だ。金色竜め、私の力をよくも吸い取ったな……。根こそぎ吸い取るために、大量の竜石を用意するとは不覚だった。復活まで何年かかる……? 十年、二十年……、いや、もっとだ』
生きているのが不思議なくらい、そいつはフラフラだった。身体中から力という力が抜け、激しい痛みと息苦しさでいつ倒れてもおかしくないほど、体力を奪われていた。
空は厚い雲で覆われ、湿った空気が渦になってつむじを巻いている。風と風がぶつかり合い、砂を巻き上げて辺りを白くした。目を凝らすと地平線が途切れているのが分かった。砂漠の端っこ、大地の終わりにそいつは立っていたのだ。
『しかし何故だろう。心が躍る。これほどまでに胸が高鳴ったことはない。あれほど執拗に追い詰められたこともない。平坦だった私の半生に、一筋の光が差したようだ。残念ながら、私は眠らなければならない。が……、眠りから覚めた暁には、今度こそ二つの世界を――』
そいつの身体は遂に倒れた。
砂に倒れ、埋もれていく身体。大地が削れ、もろとも黒い湖へと――……。
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『竜の居ない世界がある……?』
映像が消えて、再び少年の声が戻る。
『リアレイト。……へぇ。そこには人間ばかりが住んでいて? 干渉者? それぞれの世界を行き来する人間が存在する? す、凄い』
少年は仲間の会話に聞き耳を立てていた。もっとも、彼らは少年を輪の中に入れようとはしていないようなのだが。
『どうやったら行ける? 竜のままでは無理なのか。ゲート……。そうだよな、竜の大きさじゃ通れない。けれど、どうしてだろう。気になる。とっても気になる』
少年は声を弾ませる。
『二つの世界を繋ぐ穴が大きくなれば、リアレイトに行けるかもしれない。けど、そうか。魔法。魔法を使えなくちゃならない。選ばれた竜ならば魔法が使えるようになると聞いたことがある。誰よりも強くなって、魔法を使えるようになって、その――リアレイトっていうもう一つの世界に行きたい。魔法が使えたなら、人間の姿に化けることもできるようになるかもしれないし、そうしたらリアレイトで、僕は人間として生きることもできるかもしれない。翁は反対するだろうから、絶対に秘密。内緒でコッソリ、魔法の練習を始めなくちゃ』
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白い竜は地面に伏していた。
うっそうと茂った木々が、彼を覆い隠すように枝を伸ばしている。
「白は目立つと。そう言って彼らが僕を茶化すので、僕は我慢がなりませんでした」
全身傷だらけで横たわる白い竜の側には、彼が翁と呼ぶ年老いた深緑色の竜が居た。
「我慢がならなければ、殺して良いことにはならない」
翁の声は厳しかった。
「竜が仲間を殺すということは、あってはならん。竜は誇り高くなければならない。長い長い年月を生きていくのだから、苦しいこと、辛いこともあるだろう。しかし、精神を高く保ち霊竜と呼ばれるまでになれたなら、そうした嘲りや罵声はなくなるだろう」
「――それまで、待てと」
「そういうことだ。今のままでは、独学で研究した魔法を見せつけるために仲間を殺した愚かな白い竜だという評価しか残らない。煮えたぎるほどの感情を持ってしまったとしても、それを抑えておく心がなければ、お前はただの悪竜だ」
「悪竜……?」
白い竜はその言葉に異常に反応して、首をもたげた。
そうして、ニヤリと小さく嗤った。
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気を、失いかけていた。
指先に、肌に、徐々に感覚が戻っていく。
黒い水の中は目を凝らしても何も見えない。墨汁を溶かしたような黒をくぐり抜けていく。
それにしても何故だ。何故、ドレグ・ルゴラと思われる白い竜の記憶が俺に流れ込んでくるんだ。同情すらしてしまいそうなほど報われぬ無垢な竜が、徐々に黒に染まっていく様子を、これでもかと見せつけてくる。
黒い水が見せるのか?
はたまたドレグ・ルゴラが見せるのか?
どちらにしても、あまり歓迎されるものじゃない。知りたくない情報まで、まるで洗脳するみたいにどんどん流れ込んでくる。
それが身体を共有するテラにも伝わっているのかどうか。
『流されるな』
テラの声が頭に響く。
『残念ながら、私にはその映像が見えない。しかし――、あまり良い傾向だとは思えない。ヤツの思い通りに事を進めさせてはダメだ』
わかってる。
俺だって同情したいとは思わない。孤独を黒い感情の理由にするようなヤツと一緒にはされたくない。
ふと、辺りが心なしか明るくなっていることに気が付く。漆黒から徐々に薄まった黒が、徐々に光に溶けていく。
レグルノーラ側に出る。直感的にそう思った俺は、水を蹴ってスピードを速めた。水圧が弱まり、加速しやすくなっている。ズンズンと進み、進み、遂に。
激しく叩き付ける水の音。肺に空気が戻ってくる。
高く上がった飛沫が湖面に落ち、バシャバシャとけたたましい音を出す。
羽を大きく広げて宙にとどまり、周囲を見まわす。間違いない、これはレグルノーラ側から湖を見た光景。どこまでも続く黒い湖と、その上に円盤のように浮いたレグルノーラの大地。それから、黒い蒸気を含む、どんより曇った空。
『かの竜の気配がする』
テラの言葉に、俺はビクッと身体を揺らした。身体をよじって360度確認すると、湖面に立つ人間の姿が目に入った。
キースだ。
彼は波紋の広がる湖面から、金色の竜に成り果てた俺の姿をじっくりと眺めていた。
――パン、と静寂を割くように彼は手を叩き始めた。何に対してなのか、彼は静かに笑いながら拍手を続ける。
「素晴らしい」
低い声が音のない世界に響き渡り、俺はそれだけで心臓がバクバクと高鳴るのを感じていた。
「短期間で二つの世界の構造をよく見抜いた。流石、私が見込んだだけのことはある。異界の干渉者、リョウ。私は君がここに来るのを首を長くして待っていた」
キースの姿をしたドレグ・ルゴラは、わざとらしく叩いた手を止めると、今度は両手を大げさに広げて歓迎を表した。
それから両手を腰に当て、「だが」と前置きする。
「君は人間じゃなくなってしまった。とてもよろしくない。君は君でなければならない。下劣な金色竜などと同化する必要などないのだ」
下劣、とは聞き捨てならない。歯を食いしばり、唸ってみせるが、この程度で彼は動じない。それどころか、哀れみの目で俺の方を見上げている。
こうやって見ると、本当に彼がかの竜の化身なのかわからなくなってくる。ただ、身体の奥底に秘めた黒い感情が溢れていて、翁が言うところの、『煮えたぎるほどの感情を持ってしまったとしても、それを抑えておく心を持つ』状態に達したのではないかと推測する。
キースはおもむろに右手を掲げた。
何をするつもりだ。警戒する中、彼は宙に魔法陣を描きだした。魔法も使えるぞと、それはさっきも夢で見た。
『凌、こっちもシールドを張れ』
テラの声で我に返り、ワンテンポ遅く魔法陣を描き始める。
――“巨大なシールドで、攻撃を全て押さえろ”
俺が日本語を書き込んでいる間に、キースもやはり文字を刻んでいた。レグル文字――けどしまった、竜石を砕いてしまった。文字が、なんとなくしか読めない。
何て書いてある? 同化? 金色竜がどうしたって?
しかも早い。俺の魔法陣が発動するよりもずっと早く、キースの魔法陣が光った。赤黒い光を帯びた魔法陣が薄暗い世界を照らすように煌々と光り輝いた。
かと思うと、俺の身体は痙攣するほどの衝撃を受ける。
魔法陣と同じ赤黒い光に包まれた俺の身体は、凄まじい力で空中に固定された。
“スライス”される。
咄嗟に思った。身体が何度も切り裂かれ、バラバラになってしまうと脳が警告を出した。
『ダメだ、凌……ッ! この魔法は』
テラの声が途中で途切れ、意識が離れていくのを感じる。
身体が千切られ、細胞が解けていく。巨大化した身体がどんどん縮んでいくのがわかる。
自分の声が咆哮から悲鳴に変わり、鱗が消えていく。背中の羽も、どんどん小さくなって肩甲骨に吸い込まれ、かと思うと自分を包んでいた硬い皮膚が徐々に人間の肌そのものになっていって。
もしかして、これは。
つまり、俺の覚悟など全部無駄であったかのように。
身体が、言うことを聞かない。金縛りに遭ったかのように自分の意思で動けない。
テラとの同化が、せっかくの竜化が解かれる。
赤黒い光がフッと消えると、俺の身体は解放されると同時に、湖面へと落下した。バシャンという音が耳に響き、また水中へ戻されると思ったが、そんなことはない。まるで分厚いガラス板のような冷たい感触が背中に当たり、全身を強く打ち付けたショックでしばし動けなくなる。
人間に……戻ってる。
一糸纏わぬ完全無防備な姿で、キースの前に横たわっている。
何だこれ。
どんなプレイだよ。
離れたところに、やはり竜の姿に戻って倒れるテラの姿が見えた。
嘘だ。こんな簡単に引き裂かれるなんて。グロリア・グレイのときも酷かったが、これはもっと別の次元で酷すぎる。
「この下劣な金色竜のどこが良いのだ」
キースの足音が耳元でして、俺は顔を上に向けた。
目が、光っている。
黒かった瞳が赤々と光り、俺を見下しながら薄ら笑いを浮かべている。
「下劣な金色竜のどこが良いのだと聞いている」
まるでそれは死刑宣告のように、俺の頭にしっかりと響いた。