126.竜になる
ディアナは冷静だった。背負ってきたモノの大きさを感じさせないほどに静かに笑み、光の中に消えていく。
同じ魔法の光に包まれながら、俺は彼女の覚悟がどれだけ大きく、どれだけ無謀か考えた。
レグルノーラの隅から隅まで見渡しながら、常に民を愛し、民を守る。世界の中心に高くそびえる塔の上で、自分の失ったモノと運命を天秤にかけながら必死に務めを果たしてきた彼女がその肩書きを捨てるというのは、強大な力を持ったかの竜に立ち向かうための最終手段なのかもしれない。――しかしそれは、レグルノーラにとってあまりに重大な損失ではないのだろうか。
モニカの話では、塔の魔女になるべく、たくさんの少女たちが訓練しているらしい。残念なことにそのレベルに達する実力者は出ていない。あれだけ強大な魔力を持った人間がホイホイ出てこられたらそっちの方がびっくりだが、かといって次の世代を担う者すら現れない状況で塔を去るというのは、レグルノーラにとってある意味恐ろしい賭けだ。
けれど、事態はもう迷ってはいられないところまできていた。
このままでは二つの世界が同時に壊れてしまう。
それを阻止できる人間は、残念ながら限られているのだ。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
「殺せばいい」
誰かの声が頭に響いた。
「殺してしまえば全てが解決するというなら、そうするべきだ。何を躊躇している」
俺の意識はまた、誰かの中に入っていた。
そいつの中で渦巻く黒い感情が俺を押し潰そうとする。闇よりも黒い鉛のような重たい感情は、ありとあらゆる方向から俺を殴りつける。
「それとも、気高い竜は同族を殺しはしないと。そういうことか」
ハッキリとした色の見えない薄暗い空間、そいつは目の前に居る一人の人間と一匹の竜に対し、感情をむき出しにして睨み付けた。
岩砂漠のように見えた。時空嵐にも似た強い風が渦巻いて、辺りに砂を巻き上げていた。
「アウルム、やはり説得は無理だ。あの方法しかない」
黒髪の青年は、連れの金色竜を見上げ、低い声で強く言う。
アウルムと呼ばれた竜は、
「しかし」
と渋るが、青年の決意は固いようだ。
「グロリア・グレイに貰った石がある。これを使えば、竜の力を押さえ込める。大丈夫、臆することはない」
青年は首から提げた赤い石を金色竜に見せ、迷いのない笑顔を見せた。青年は真っ直ぐな目をしていた。吸い込まれるような綺麗な黒い瞳には、全てを終わらせようという決意がにじみ出ていた。
「同化しろ! アウルム!」
魔法陣が出現し、青年を包んだ。金色竜のシルエットが淡く光り、青年の中へと吸い込まれていく。竜の力を注ぎ込まれた青年は、両手両足で踏ん張りながら必死に力を全身へと受け入れた。
「何を……している?」
目の前から金色竜が消え、青年一人きりになってしまったことの意味を、そいつは直ぐに理解できなかった。金色竜の気配は感じるのに、何故かしら姿を消してしまった。そのカラクリがわからなかったらしい。
青年はゆっくりと顔を上げ、静かに息を吐く。
「僕とアウルムは同化した。人間でも竜でもない、別の存在になった」
白いシャツの真ん中で赤い石が皓々と光っている。
「――ドレグ・ルゴラ。僕はお前の非道を許さない。竜のアウルムはお前を殺すなと言うが、そんな悠長なことを言えるほど、僕の心は広くない。お前の真っ黒な心が二つの世界を壊していく。平和だった村が消えてなくなるのを呆然と立ち尽くして見ているしかなかった僕の気持ちなど、お前には到底わかるまい。大切な人は亡くなり、大切なモノは跡形もない。“表”でも“裏”でも不穏なことばかり起きている。その原因がお前なのだとしたら、僕は命を懸けてお前を倒す!」
人差し指を向け、睨み付けてくる青年。溢れる感情が細胞を刺激し、彼を徐々に竜人に変えていく。
「……滑稽な」
ドレグ・ルゴラはクククと嗤い、
「私に刃向かうために、非力な人間などに力を借りるとは。愚かな竜もいたものだ」
長い尾をぐるんと回して、かの竜はどこか嬉しそうにそう言った。
「私を倒す……? そうか。私はやはり、忌み嫌われる存在なのだな。――面白い。倒してみれば良かろう。そうしてみなければ、本当に悪いのが私なのかどうかさえわからない。私が死んで全てが元通りになるのだとしたら、やはり私が原因。しかし、それでも尚、何も変わらないのであれば、別に原因がある。私は後者だと思うがね。私だけがあの暗黒の湖を作り上げたのだとしたら、それほど世界が私に与えた拷問は恐ろしいものだったという証明になる。どちらにせよ、たかが竜一匹の力ではなしえないことなのだと気付くべきだ。世界を破滅に導く竜に私を変えていったこの世界の愚かさに……!」
金色の鱗に覆われていく青年に向かって、かの竜は大きく口を開いた。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
光が消え、徐々に色が戻ってくる。
竜の甲高い鳴き声で、俺は一気に現実に戻された。
ぼんやりする頭。何故俺はかの竜に。
けれどそんな疑問は、あっさりと目の前の光景にかき消された。
翠清学園高校のグラウンド。ぽっかり空いた大穴を前に、真っ赤な装束のディアナが深すぎるため息を吐いている。
「なんだ、この穴は。まるで見たことがない」
ブラックホールの如く底の見えない穴の縁から、這い出るようにして骸骨兵が出てくると、彼女は更に表情を険しくした。
ディアナの竜は、その巨体を縮こめて彼女にすり寄っている。本能で恐ろしいと感じたらしい。彼女は竜の長い首を撫でて、懸命になだめていた。
レグルノーラとリアレイトを直接繋ぐゲートなどと言いながらも、既にその気配はない。ディアナと能力者たちによって魔法で一時的に開けられた穴はすっかり閉じて、グラウンドの大穴だけがその存在を主張している。それだけでも、この穴の恐ろしさがしっかりとわかる。
ふと視界をずらすと、一緒に転送されてきた大量の竜石が後方にあった。車輪のない車体は、どういうメカニズムか知らないが、魔法が存在しないはずのリアレイトでもしっかりと浮いていた。あとはこれを使ってどうにかしなければいけないわけだが。
「――先生!」
声のする方向を見ると、いち早く彼女の存在に気が付いた陣が大急ぎで駆けつけてきたところだった。見覚えのない少年姿に、ディアナは一瞬戸惑った。
「その気配、ジークか?」
言われて陣は自分の姿を確認し、慌ててハイと返事する。
「そのままでいい。それより、私が“向こう”で見ていたよりも実際はかなり酷い。レオたちが居れば大丈夫だと思っていたのだが、甘かったようだ」
ギリリと奥歯を噛みしめるディアナ。
確かに酷い。俺が白い竜によって穴の中に突き落とされたときよりも、状況はもっと悪くなっている。校舎はほぼ潰れ、敷地を囲うように張り巡らした結界にもところどころひびが入っている。白い竜はまるで砂の城を壊して歩く子どものように、相変わらず校舎の上に居座っていた。その間も骸骨兵たちは際限なく穴から這い出ては暴れるを繰り返していたらしく、一人当たりに相手をする敵の数は、最初の頃より確実に増えている。
魔力が尽きつつある人間たちと、限界の知らない骸骨兵たち。どちらが先に力尽きるかは、戦う前から明らかなことだった。
「凌、君も無事に」
「――そんなことより、みんなは。無事なのか」
陣の言葉を遮り、俺は強い口調で返した。
自分の居なかった時間がどれほどだったのかもわからないほどに、辺りは全部めちゃくちゃだった。まるでダークアイが襲ってきた直後のレグルノーラの街並みのような、非現実感があった。
「少なくとも、モニカたちは無事だ。けど、校舎にどれくらいの一般人が残されていたのかまではわからなかった。結界も限界だ。ひび割れた結界は、それまで覆い隠していた白い竜の姿を世間に晒してしまった。パトカーや消防車の音に混じって、報道関係の車やヘリの音までしだした。隠し続けてきた“裏の世界”が表沙汰になろうとしている。もう、僕たちじゃどうにもできなくなってしまっている。……ん? 凌、これは?」
陣は目の前にある大量の石に訝しげな目を向けた。そっと手を伸ばし、一つを手に取る。ラグビーボール大の石は淡くキラキラと光り、様々な色を発していた。
「竜石」
俺が言うと、陣はボロッと手から石を零しそうになって、慌てて両手で抱え直した。
「まさか! こんなに大量に!」
「ノエルやモニカと一緒に掘ったんだ。これならば白い竜の力も抑え込めるかもしれない」
「けど、これはかの竜を」
「――今は、四の五の言っていられない。白い竜に効果的ならば、ドレグ・ルゴラにも効くに違いない。それくらい前向きでなきゃ、何も解決できない」
「そりゃそうだけど。一体どうするつもりだ」
竜石一つでもかなりの重さ。使うと言ったところで明確なビジョンなどないのだが、今はそんなことで立ち止まってはいられない。
「白い竜を魔法で足止めし、そこに竜石をぶつける。もしくは、白い竜をこちらにおびき出す。陣はどちらが現実的だと思う?」
「どっちかな……。後者?」
「じゃ、後者で。アシスト頼む」
「えっ……! ちょ、ちょっと待て。アシストったって」
陣はさりげない俺の言葉に明らかに動揺していた。
残念なことに、彼からは大量の魔力が失われていて、もうまともな魔法は使えないというのが火を見るより明らかだった。陣だけじゃない。芝山も、ノエルも、レオもルークもジョーも、皆戦っているのが不思議なくらいに力を使い果たしている。つまりもう、頼れる人間は数少ないというわけで。けど、俺一人じゃできることに限界がある。悪いけど、ここはどうにか振り絞っていただいて。
「私が、骸骨どもをどうにかしよう」
ディアナは既に魔法陣を宙に描いていた。その手には長い木の杖。彼女が本気で戦おうとするときにはいつもこのスタイルだ。
魔法陣の文字を読み切るよりも先に魔法が発動し、まずは骸骨兵たちの時間が止まる。それから更にもう一つ魔法を打つ。銀色に光る魔法陣は聖なる光の魔法か。
「私の魔法に見とれてる場合じゃない。凌、お前は美桜を。白い竜を何とかしろ!」
ディアナの声に我に返る。
うっかり、彼女の美しい魔法陣に魅せられていた。
「ああ、わかってる。頼むぜ、ディアナ!」
俺は具体的に何をするとも告げることなく、その場から飛び出した。
崩れた後者の方向に駆け出す俺に、
「凌! アシストって何!」
陣が叫んでくるが、白い竜をおびき出すビジョンなんて本当にどこにもない。強いて一つだけ考えていたとすれば、彼女を止めるために俺自身の安全は無視することくらいか。
走りながら俺は、自分の身体を竜化させていった。腕に足に鱗を纏い、徐々に肌色の面積が減っていく。
『凌、まさかとは思うが』
大人しくしていたテラが、再び頭の中で喋り始めた。
『戻らないつもりか』
せっかくディアナに着替えさせて貰ったのに、竜化に伴って肥大化する身体は、いとも簡単に服を破いた。口が裂け、尾が伸び、鋭い爪が靴さえ壊した。背中に羽を生やし、急所を装甲で覆う。
――竜になる。
白い竜へと成り果ててしまった彼女を止めるには、俺自身が完全な竜となってしまわなければならない。竜化だとか竜人だとか、そんな中途半端な状態じゃなくて、完全なる竜となって彼女を食い止めなければ。
『君は……、何をそんなに焦っている。竜にならなくったって、止める方法はいくらでもあるはずだ。止めるという選択肢の他にも、別の何かが』
ダメだ。
俺は何が何でも彼女を救う。
いくらディアナが白い竜を殺せと言っても、彼女が自分を見失ってただの獣になってしまったのだとしても、俺は美桜を見捨てること何て絶対にできない。
『世界を滅ぼそうとしていたとしても?』
それは彼女の意思じゃない。全てはドレグ・ルゴラの。彼女はその犠牲者。
『君をこの世界に導き、巻き込んだ張本人だぞ?』
わかってる。
だからこそ。だからこそ、なんだ。
俺は、彼女の居なくなった世界なんて見たくない。
寂しさの中で必死に立っていた彼女を、どうして責められようか。
誰にも言えない悩みを抱えながら、気丈に振る舞っていた彼女をどうして追い詰められようか。
成功できるかどうかもわからない。けれど、全力で挑まずに後悔はしたくない。
もし、白い竜となった彼女を止められるとしたら俺しか居ないし、俺以外にこんな無謀な人間は存在しないだろう。
テラをアウルムと呼んだ過去の干渉者がどんな気持ちで竜化していったのか、俺にはわからない。そこまで追い詰められたのには何かしら理由があったのだと思うし、そうしなければかの竜には勝てなかったはずだ。
完全なる同化というのが果たせているのかどうか、何度も同化しては分離し同化しては分離しを繰り返している辺り、繋がりが浅すぎるのかもしれないと思うこともある。けれどもそれはもしかしたら心の問題で、俺に未だいろんな迷いがあって、全てを失ったなどと言いながら、やはりディアナの言うように、何か未だ犠牲にしていないものがあって、だから簡単に同化が解けてしまうのだとしたら。
俺は、俺自身の存在を、自分の命を、残している。
レグルノーラにおける負の連鎖のひとつは、白い竜に対する偏見と憎悪。
そして、何かを犠牲にしなければ何も手に入れられないという究極の選択。
それすら断ち切りたいと必死にもがいてきた――ディアナも、俺も。けれどやっぱり、世の中そんな甘いもんじゃない。
プラスとマイナスがしっかりと噛み合わなければ、物事は成り立たない。
つまり、やはり誰かの犠牲でしか、誰かの幸せは実現しない。
今ならばなんとなく、テラに魔法をかけたのだという魔女の気持ちがわかる気がする。こんな役目、引き受けるのは無謀な人間だけだろう。何人も、何十人も犠牲にするより一人が全部背負ってくれた方が双方の世界にとっても被害が少ない。消えてしまっても良い人間が全部背負って、そうして、他のみんなが幸せになれるよう願ったんだ。
だったら。
だったら俺は、美桜のために喜んで犠牲になろう。
彼女がもう一度笑える世界に戻すためにも。
『しかし、君が犠牲になれば、彼女と肌を重ねることもできない。彼女は更なる悲しみを抱いてしまうかもしれないのだぞ』
俺のことなんて、忘れてしまってもいい。
俺の存在はリアレイトからは消えてしまったのだし、元々、忘れられてしまう予定だったのに、うっかり覚えていてしまっただけなんだから。
思い切り、地面を蹴った。
身体を浮かせ、校舎の上に居座る白い竜の側まで飛ぶ。
校舎沿いの銀杏並木が根元から折れている。二階の天井がなくなり、黒板や机、椅子が外から剥き出しになっていた。
2-Cの教室。
美桜に“見つけられた”場所。
西日の入る教室で、彼女の瞳は不思議な色を見せていた。茶色の髪はキラキラと夕日に照らされ、殆ど度の入っていない眼鏡のレンズが彼女の表情を隠していた。
いろんなことがあった。
美桜に怒鳴られ、貶され、それでも必死に食らいついてきたのは、初めは下心からだった。次第に彼女が心を開き、自分のことを話してくれて、俺は遂に彼女を守ろうと思うようになった。自分の意思で強くなろうと思い、自分の意思でこの道を選んだ。
巻き込まれただなんて、もう微塵も思っていない。
美桜が居たから俺が居るのだし、出会ったからこそ俺は前向きになれた。
過去の、後ろ向きでぼっちな自分には戻りたくない。
美桜と過ごした日々が全てで、レグルノーラが俺の居場所で。
白い竜が俺の存在に気付き、瓦礫の中から顔を上げた。少し前に穴に落としたはずなのにと、少し訝しげな顔をしているようにも思えた。
意思はあるのだろうか。まだ美桜は心を失っていないだろうか。
不安しかない。もしかしたら、命を賭したところで何も変わらないのではないかと常に思ってしまう。
けれど、俺の出会った様々な竜たちはそれぞれ意思を持っていたし、きちんと会話もしてくれた。竜は言葉を失ったりしないとテラは言った。
大丈夫。間に合う。
美桜。
君を助けるために、俺は竜になる。