123.非情な現実
崩れた校舎の壁が塊になって校庭に落ちた。地響きと共に砂煙が巻き起こり、大穴から噴き出す黒いもやと混ざって視界を塞ぐ。咄嗟に腕で顔を守り、突風に堪える。
校舎の上を我が物顔に歩き、時に咆哮する白い竜。まるで悲しみと絶望に打ちひしがれたかのような悲痛な叫びが空気を震わしていく。
その鳴き声に呼応するかのように、グラウンドの真ん中に空いた巨大な穴から骸骨兵が次々と姿を現す。結界を張ろうと魔力を高める俺と陣に襲いかかろうとするのを、裏の干渉者たちが必死に食い止める。聖なる光の魔法を帯びた剣や銃が次々に骸骨兵を仕留めていく。しかし、無尽蔵に湧き出る魔物たちに、彼らは既に疲弊しきっているように見えた。
――“レグルノーラと時空の狭間に関する一切を翠清学園高校の敷地内に封じ込めよ”
かなり強引な文字を、俺は魔法陣にレグル文字で書き込んだ。これには陣も苦笑いしたが、もう本当に、それしかなかったのだ。
高校の周囲には住宅密集地が広がっている。もし結界が成功しなければ、被害は更に拡大してしまうだろう。とにかく今は、あの白い竜が羽ばたいてどこかに飛び立とうとしたときに、それを防ぐくらい頑丈な結界を張らなければならない。
分厚い強化ガラスを二重、三重にするイメージで、敷地を囲う巨大な結界を作り出していく。
「サンクス、陣。あとは骸骨の方頼む!」
魔法が成功したことを確認して、俺は陣にそう言い放った。
「頼むって、君はどうするんだ」
走り去ろうとする俺に、陣が背中から声をかけた。
「俺はあの白い竜を止める!」
「止めるったって! 凌!」
陣を無視して俺はグラウンドを駆けた。
白い竜は、なおも校舎の上を移動していた。四棟ある校舎の二つ目の真ん中辺りでまた立ち止まり、空を仰いだり尾で校舎の壁を叩いたりしているのが見える。
具体的にどうしたら良いのか、プランは全くない。けど、生徒が残っているかもしれない校舎をこれ以上壊されたら大変なことになるに違いないのだ。
――バンと、校舎の一部が破裂した。あれは二階にある二年の教室。背の高いイチョウの木が並ぶ一角。まだ白い竜は到達していないのに、何が。目線を移すと、教室の崩れた壁の中に人影があるのが見えた。
逃げてないのか。俺は咄嗟にそう思い、背中の羽を広げて一気に飛び上がった。
「大丈夫か!」
声をかけた瞬間、黒い空気の塊が真っ正面から俺を襲った。
バランスを崩し弾き飛ばされるも、必死に堪える。空中で静止し、改めて教室を覗くと、男子生徒が数人、ケタケタと笑い声を上げて立っているのが見えた。
「何コレ、超面白い」
思いも寄らぬセリフに、俺は耳を疑った。
何が起きているのか直ぐには理解できなくて、俺はしばらく呆けた顔をしてしまっていた。
「何あいつ。空飛んでやがる。撃ち落とそうぜ」
誰かが言った。
人影が一斉に俺の方を向く。
「ちょ、ちょっと待て! 俺は!」
言うやいなや、次々に黒い塊がぶつかってくる。様々な威力の玉が遠慮なしに来るのを、俺は咄嗟にシールド魔法で弾き飛ばした。それがまたヤツらのツボに入ったらしい、彼らはまたケタケタと俺を指さして笑っている。
『あの黒いもやのせいだ』
テラが言った。
『黒い感情を含んだもやが、彼らに力を与えてしまった。凌、無視しろ』
その方が楽に違いない。けど。
白い竜が近づいてきている。このまま進めば、この場所も犠牲になる。三階建て校舎の最上階、彼らは間違いなく竜に踏み潰される。わかっていながら無視するなんて、俺にはできそうにない。
俺は身を屈め、崩れた壁の隙間から教室内に入り込んだ。なぎ倒された机と椅子があちこちに散らばる中、男子たちの隙間を縫って着地する。羽を畳んでグルッと周囲を見渡すと、彼らは怯んで攻撃の手を止めた。
「ここは危ない。早く逃げるんだ」
一人一人の顔を見て、俺はゆっくりとそう告げた。
皆、見覚えのある顔ばっかりだ。同級生なんだから当然か。
けど彼らは俺のことは覚えてない。元々影が薄かったのもあるけれど、テラの封印と同時に発動した忘却魔法がその原因だろう。制服は着ているけれど誰だコイツとばかりに俺の方を睨んでいる。
最後の一人を見る。友達の少ない俺にも、そいつの名前はハッキリわかった。峰岸健太。社交辞令的に相手にしてくれてたクラスメイト。美桜に近づきすぎた俺に対し、最近じゃ陰口まで叩くようになっていたが、俺と会話してくれる数少ない級友だった。
「こいつ、ヤバくねぇ?」
峰岸が顔を引きつらせ、皆に言った。
「変な羽生やしてるし、身体中鱗だらけだし、刺青までしてやがる」
――刺青!
レグルノーラに関係する人間にしか見えないはずのそれが、峰岸の目にも見えるようになっている。これも黒いもやの影響か。それとも、元々見えていたのか。
『黒いもやの影響だろう。君だって彼らに干渉能力は感じないはず。力の無い人間にさえ力を与えてしまう。そのくらい、あの黒いもやの力は絶大だってことだ』
確かに、こいつらに力を感じたことは一度もない。黒いもやの出所を探ったときだって、全然候補にすら挙がらなかった。それがこうなってしまってるってことは、テラの言う通りなのかもしれない。
レグルノーラとは無関係、ならば尚更助けなければ。
「校舎の上を大きな竜が歩いている。このままじゃ踏み潰される。今なら間に合うかもしれない。脱出を」
目配せするが、彼らは全く動じない。
「竜? 馬鹿か? どこのファンタジー世界だよ」
「コスプレもいい加減にしろよ」
「違う、そうじゃない。今俺がそっから入ってくるの見てただろ? 飛んでたのも。ファンタジーじゃなくて、現実に」
「現実って何? こういう力が使えるようになったってこと?」
ドンと弾き飛ばされた。机の角が背中に当たり、そのまま半回転して床に打ち付けられる。
立ち上がろうと膝を立てたところに横から蹴り。立つ前にまた倒される。
「話を、聞い……」
身体を起こそうとした俺に、誰かが思いきり殴りかかった。頬に激痛が走り、言葉が遮断される。何かが頬に刺さった。何だこの、鈍い痛み。
「うンわ! スゲェ! メリケンサック欲しいと思ってたら、メリケンサック付けてた!」
言葉を失う。
まさか、具現化――?
「嘘だろ? 俺もやってみよ。じゃぁ、鉄パイプは? あ~、やっぱ釘バットにするわ」
「え? 俺にもできるかな。サバイバルナイフとか? って、スゲェ! できてる!」
俺が何週間もかかってできるようになったことを、ヤツらは一瞬で成し遂げてしまう。
何だこれ。一体何がどうなってる。
干渉者でもないのにどんどんイメージを具現化してる。一般人がもう一般人じゃない。
『通常レベルのイメージ力さえ持っていれば具現化できるようになっているとしたら、大変だぞ、凌。私たちには見えないだけで、もしかしたらあちこちで同じ事象が起きているかもしれない。救護に当たっているモニカたちも、外で戦っているシバたちも、同じ現象を目の当たりにしている可能性がある』
可能性……? 可能性って何だ。
『姿形が人間のままなら良いが、下手すれば』
そこまでテラのセリフが聞こえたところで顔を上げる。
メリメリと皮の裂けるような音がしていた。釘バットを持った男子の身体が肥大し、制服がバンと弾ける。肌の色は黒く変わり、目は大きくギョロギョロし、大きな牙と大きな角がハッキリと見えてくる。
「オ……、オーガ!」
ゲームや小説に出てくるモンスターの名を一人が叫ぶ。叫んでいる間に、そいつもまたオーガに姿を変えていく。
「冗談」
俺は思わずそう零し、慌てて装備を調えた。薄地の制服じゃとてもじゃないが持ちそうにない。全身鎧に替えて、しっかりと盾を持たねば。
『武器は持たないのか』
とテラ。
持つ気はない。だってヤツらは元々、ただの高校生で。大穴から這い出た骸骨兵とは全然違う、救うべき存在なんだから。
『無理だな。彼らはもう、人間には戻れない。リザードマンの時と同じだ。戦わなければ殺されるぞ』
「――クソッ」
二人目が完全にオークになってしまうと、残りの男子は自分もそうなってしまうのではないかと顔を青くした。自暴自棄になってオーガに向かいなぎ倒されるヤツも居れば、狂ったように嫌だ嫌だと唱えるヤツも居た。
オーガは案の定俺に武器を振るい、俺はそれを必死に盾で受け止める。
「逃げろ! 早く!」
怖じ気づき腰を抜かした男子に叫ぶが、聞こえているのかどうか反応がない。
仕方ないのかもしれない。戦いに慣れた俺でさえ、見慣れた顔が魔物になるのは堪えられなかった。まして、何も知らずにこんな事態に追い込まれれば誰だって。
ドンと、建物全体が揺れた。頭上で何かが崩れる音がする。
「マズい! 竜が来た!」
オーガの攻撃をかわしながら、無事な生徒を早急に助けなければならない。無理ゲーにも程がある。けど、四の五の言ってはいられない。
盾越しに思いっ切り体当たりし、二体のオーガを突き飛ばした。引っ繰り返っている隙に魔法陣。
――“無事な生徒を守りながら校舎の外へ運べ”
宙に緑色の魔法陣が現れ、文字が日本語で書き込まれると、それを目撃した男子共は目を丸くした。全ての文字が光り終えた途端、彼ら一人一人を大きなシャボンの玉が包み込む。玉に封じ込められた彼らが事態を飲み込めず眼をキョロキョロしているウチに、シャボンはスイスイと空いた壁の隙間から、ひとつ、またひとつと外へ飛んでいった。
峰岸も同じようにシャボンに包まれ――、飛ばされる前に一瞬、俺を見た。そうして、
「俺、お前のこと知ってる気がする。お前も俺のこと、知ってるよな」
意味不明な言葉を放つ。
「誰だよ、お前。何で俺たちのことを助けようなんて」
彼が俺のことをどう思っていたかなんて、今でも全然わからない。
誰ともつるまない俺に同情し、無理に話しかけてくれていたのかもしれないし、一人で居た俺に構うことで、優しい自分を周囲にアピールしていたのかもしれない。友達と言うにはあまりにも希薄で、あまりにも表面上過ぎる付き合いに俺は疲れていた。だけど、だからといって峰岸が嫌いかというと、そういう感情すら湧かなかった。
同じ空間に生きているのだから、多少の愛想は必要だろうというのは理解できたから、俺も峰岸の好意に甘えた。けど、それも美桜との関係が始まったのと同時に不要になった。それだけのこと。
それを義理で助けてやろうって思ったわけではなく。ここにまだ人が残っていたから助けようと思ったまでで。そういうのを一言で説明するなんてまず無理だ。だから俺は一言だけ返してやった。
「誰かを助けるのに理由は要らない」
峰岸を包んだシャボン玉がすうっと外に消えていく。視界から消えるまで、彼が俺のことを見ていたのがなんとなく嬉しかった。
さて。教室には俺と、オーガが二体。起き上がって武器を振り回して向かってくる。天井にひびが入り、崩れかけているのを指さし、
「止めろ! 今はそれどころじゃない。逃げないと潰されるぞ!」
魔物化して知能レベルまで下がってしまったのか、話しかけてもまともな反応がない。ルーティンのように俺をただただ攻撃してくる。
『凌、これ以上は無駄だ。諦めろ』
流石の俺も、そうかもしれないと思い始める。攻撃をかわし、隙を縫って壊れた壁の間からスッと外に出た。飛び立った直後に被さる白い影。頭上には正に白い竜が居た。
竜は更に肥大化していた。それが一人の少女だったなんてわからないくらい巨大な――最早校舎とほぼ同じくらいの大きさまでに膨れあがり、鱗は堅く、爪は鋭く、尾は太く、鋭い牙と立派な羽を持った成竜となってしまっていた。
俺はその身体に沿うようにして竜の目線の高さまで飛んだ。無駄かもしれないと思いつつも、もしかしてという一縷の望みに賭けたかった。
俺の身体よりも大きな瞳が、ギョロリとこちらに向く。沈んでいく夕日を暗くしたようなオレンジの虹彩に、俺の姿がくっきりと映っていた。
白い竜は俺を見つけるなり大きく瞬きし、フンと大きく鼻で息をした。その風圧で煽られ飛ばされそうになるのを必死に堪え、体勢を整えてから意を決して声を上げる。
「美桜! 俺だ! 聞こえるか!」
できるだけ大きな声量に努めたが反応がない。
まさかあのオーガたちのように人語が理解できなくなっているわけじゃと不安がよぎる。
「美桜!」
もう一度声をかけると、今度は聞こえたらしく、白い竜はピタリと動きを止めた。
「美桜、落ち着け! 君はかの竜とは違う。言葉に踊らされるな」
言ってみたが、白い竜は何も言わない。
……もしかして、鎧のせいで俺が誰だかわからない? オーガとの戦いで鎧を着込んだことを思い出し、取り急ぎ兜を脱ぎ捨てた。
「俺だよ、凌! 来澄凌! 竜と同化しようと俺は俺であるように、白い竜になろうと美桜は美桜のはずだろ? 落ち着け! 気をしっかり持つんだ!」
どうにかして白い竜を止めなければ。その一心で放った言葉だったのに、言葉が言葉として機能しなくなると、それはただの雑音でしかないらしい。
白い竜はガバッと口を開け、大きく息を吸い込み――吐き出した。
炎の混じった息を突然真っ正面から浴びせられる。咄嗟に盾で避け、加えてシールド魔法。間に合わず、羽の一部が焼け焦げる。刺すような痛み。
結界にぶつかった炎がジュッと吸い込まれるようにして消えるのが見え、万が一のことを考えて正解だったとホッとする。
これ以上真っ正面から挑むのは危険だ。俺は高度を下げ、距離を取った。ところが白い竜は、俺の姿を追うようにして首を曲げ、身体までもゆっくりと動かし始めた。
『白い竜が言葉を理解していないとは思えない。何かがおかしい』
頭の中でテラが唸った。
「というと?」
『凌を凌として認識はしているが、君の言葉を理解しないようにしているとしか思えない。案外竜は耳が良い。だから聞こえないということはないはずだ。まして元々人間として暮らしていたのだから、急に言葉がわからなくなるなんて不自然だ。竜はそんじょそこらの魔物とは全然違う。一度言葉を覚えた竜がそれを忘れるなんてことは、先ずない』
「じゃあなんで美桜は俺に攻撃を? 俺を敵と見なしてるからだろ?」
『美桜が……妙なことを言っていたな。“誰かが、私の中で”とか何とか』
「言った。『世界を滅ぼす白い竜』だとか『“悪魔”を呼び寄せた』だとか」
『つまり、私が考えるに、彼女は操られている』
「操られてる? 誰に?」
『わかっているだろう、他でもない、――ドレグ・ルゴラに』
まさか。
思うよりも先に、全身に鳥肌が立った。
「ここは“表”だぜ? そんなこと、あるわけ」
半笑いの俺に、テラが追い打ちをかける。
『ここがどこだろうが関係ない。元々かの竜には“表”も“裏”もないのだから。それに、あれだけの大穴が空いた今、かの竜が自在に“こちら”で動いても不思議ではなかろう』
考えたくはない。
考えたくはないが、現実はそうさせてくれない。
絶対に起きては欲しくなかった未来が、目の前に広がっていた。