113.光
頭の中がこの上ないくらい真っ白だった。
感情という感情がどこか遠くへ消えてしまって、俺は単なる抜け殻になっていた。
だからこそきっと、恐ろしい顔で芝山を見ていた。
シバを殺した絶望と、今また芝山を失うかもしれないという恐怖で、俺はどうにかなってしまっていたのだ。
普段は俺の無茶を止めにかかるモニカやノエル、美桜さえも、何故かしら動こうとしない。止めようとさえ思えなかったのか、止めても無駄だと思ったのか、止めたら自分にも被害が及ぶと思ってしまったのか。
俺の身体を乗っ取ってでも妙な動きを止めさせたいと思ったのだろう、テラが必死になって意識に介入してくる。けれど、俺は拒否した。コントロール不能になった俺を止める術は既になかった。
この悲しみは誰にもわからない。
この苦しみは誰にもわからない。
過去の世界で、俺はドレグ・ルゴラに抵抗した。咄嗟に出たひと言が、かの竜の魔法を狂わせた。
それだけ。
たったそれだけで、何故俺は標的にされなければならなかったのか。
悠久の時の中で生きる孤独な竜を、俺はそれほど刺激したのだろうか。
自らの孤独を分け与えた新たなる脅威に対し、かの竜がどのような感情を持っているのかなど考えも及ばない。
俺はただ守りたかった。
目の前にある全てを失いたくないと、本能的に動いてしまっただけだった。
恐怖など二の次。
その姿勢が気に食わなかったのか、かの竜は俺を執拗に追い詰めていく。
「来澄、君は……、何がしたい」
窓辺に追い詰められた芝山の顔は引きつっていた。
高くなった太陽の光が後ろから照らして、芝山のシルエットが浮いて見える。他の髪型ならもう少しまともに見えるだろうに、ストレートヘアを綺麗に切りそろえキノコカットになっているあの特徴的なシルエットだ。眼鏡の縁に光が反射し、表情を曇らせていく。
「砂漠には行くなと言った。何度でも言ってやる。砂漠には行くな。帆船の長だなんてふざけた真似は止めろ」
気の利いたセリフが出ない。
自分の顔がどんどん歪んでいくのがわかる。
「ふざけた……? ボクはいつだって本気だ。君こそ、“救世主”だなんて呼ばれて頭がおかしくなったんじゃないのか。存在を消され簡単には戻れなくなって、とうとう頭がイカレてしまったとか? 悪いけど、そんな君に何を言われても、ボクは信念を曲げる気はないね。砂漠の奥にこそ真実が眠っている。ボクはそこに辿り着くために全てを賭けているんだ」
震えながらも必死に訴えかけてくる芝山に、血だらけのシバの顔が重なっていく。
――お前が殺した。
――そして今も、殺さなければならない。
強迫観念が頭を占拠して、単純なことを考えることさえ難しい。
芝山は死ぬ運命。シバを殺した俺が芝山を殺さなければならない。
何で殺す? 剣で刺して? 魔法? それとも。
知らず知らずのうちに力が膨れあがり、魔物が居るわけでもないのに竜化していく。腕も足も、頭さえどんどん竜になっていくのがわかる。竜石で抑えているはずの力がみるみる溢れ出して、収拾が付かなくなっていく。
「凌! いい加減にしろ!」
視界の隅っこで陣が叫んだ。
ガタガタと歯を鳴らし、銃を持つ手さえ震えている。
「ば、化け物……」
芝山が呟いた。
そうだ。あのとき、お前も化け物だった。
大きく開いた黒い穴から染み出した大量のヘドロが、シバを化け物にした。黒くデカい魔物になったシバは、無数の目でギョロギョロ俺たちを見回し、大きな口で俺を喰った。腹の中で強酸に溶かされそうになった俺は、脱出するために魔法を放った。親友とレグルノーラを天秤にかけた。決して比べてはいけないものを比べて、俺はシバを殺してしまった。
レグルノーラにおける死とは何か。
リアレイトにおける死とは何か。
“表”だの“裏”だのまどろっこしい。結局は二つは一つで、一つは二つ。
俺は“裏”でシバを殺した。だから“表”でも芝山を殺す。そういう運命。
両手が、芝山の首に伸びた。開け放した窓から芝山の身体が半分出て、今にも落ちそうになる。反り返る芝山。苦しそうにもがくが、抵抗しきれずに呻いている。芝山の身体が浮く。
――銃声。
脇腹に激痛が走り、血が飛び散るも、俺は止まらなかった。
続けて数発。脇腹、腕、足、肩にまで。
痛みより、もっと強いものに支配されていた。血が止めどなく出ようが、女子たちが泣き喚こうが、芝山の顔が青ざめていこうが、俺にとってそんなことどうでも良くなっていた。
どうすれば苦しみから解放されるのだろうか。
どうすれば悪夢から逃げられるのだろうか。
後ろめたさと悲しみが身体を動かしていた。
何も聞こえない。何も見えない。
ただ、自分の手で必死に芝山の息の根を止めようとしているのだけはわかった。
真っ暗闇の中で一人で苦しんで、もがいている。一筋の光すら見えない。
真っ黒に染まっていく。
力を得ようが肩書きを与えられようが、結局俺は何もできない、どうしようもないクズなのだ。
逃げたくて逃げたくて逃げたくてしょうがない。
誰が俺を巻き込んだ。誰が俺を貶めた。
自分で選んだはずの道さえ、俺は歩むことを恐れている。
「これ以上は止めて! 凌が死んじゃう……!」
美桜が叫んでいる。
須川が言葉にならない声で喚いている。
「しかし美桜、こうしないとシバが」
冷静を装う陣。
「救世主様、お止めください! お止めください! ああ、どうして! どうして魔法が効かないのです!」
モニカが泣いている。
「モニカ、諦めろ。あいつはもう……」
ノエル。悪い。俺は本当に。
この感覚は本物なのか。
夢?
現実?
俺は芝山を救いたいのか?
それとも殺してしまいたいのか?
殺せば楽になるとでも?
芝山という存在が俺を苦しめるなら、いっそのこと殺してしまえば良いと考えてしまった?
大事なモノを一つも守れないで、救世主を騙るのは卑怯だ。
救おうとするものに大も小も関係ない。
一つ残らず救えなければ、意味がない。
逃げても良いだろうか。
死んでも良いだろうか。
俺という存在がなくなっても、二つの世界は続いていく。
そうさ。
きっと、俺がいなくなったとしても、第二、第三の俺が現れるに決まってる。
そうなんだろ? テラ。
お前はそうやって、主がいなくなる度に卵に還っては次の主が現れるのを待った。
本物の救世主は俺じゃなかった。
期待するだけ無駄だった。
買い被りすぎだったのだ。
テラも。
ディアナも。
ジークも。
美桜も。
モニカやノエル、それから帆船の男たちや干渉者協会のヤツら。
グロリア・グレイ。
それに、ドレグ・ルゴラさえも。
このまま俺の手の中で芝山が死ねば、俺は害悪認定される。
力を暴走させた異界の救世主もどきは、干渉者たちの攻撃の的になる。
俺という個性が消え、単なる魔物に成り果ててしまえば、殺すのは容易いだろう。
どうせ俺は“この世界”から消えてしまった人間なのだから。
死ねば良いんだ。
なくなってしまえば。
そうすれば、全てから解放される。
幸い、自分から命を絶たなくても、死ねる環境は整っている。
さあ、早く。
俺を――。
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
白い、一筋の光が頭に浮かんだ。
冷たく閉ざされた世界に意識を放り込んでいた俺は、その眩さに堪えられなかった。
「絶望するには早すぎます」
モニカの声だ。
凜とした透き通るような声は、冷えた俺を一生懸命に暖めようとしているようにさえ思えた。
「このままでは、かの竜の思惑通り。いいですか、救世主様。私たちは悪い夢を見させられているのですよ。絶望の先に何があるのか、かの竜はそこに興味があるのでしょう。夢と現実の判別ができないところに私たちを追い込んで愉しんでいたのです」
どういう……意味だ。
「つまりですね、私たちが連れ込まれたのは黒い湖の底。救世主様には“リアレイト”に見えたあの湖の底に、私たちは連れて行かれたのです。迂闊でした。時空の狭間と呼ばれる意味を、私たちは真摯に捉えるべきでした。脱出を試みます。少々手荒な真似をしますが、堪えてくださいね。正直、私はこれほどに自分が力を持って生まれたことに感謝したことはありません」
白銀色に輝く魔法陣が闇に浮かぶ。
これが脳裏に描かれたイメージなのか、それとも現実なのか、残念ながら全く判別ができない。
ただ、魔法陣から優しく温もりある力が溢れているのだけは、しっかりと感じ取れる。
――“聖なる光よ、我らを護り給え。
混沌たる黒い湖の底から我らを救え。
行くべき場所へ我らを運び、そして、真実を見せよ”
一つの魔法陣に書き込むには情報量が多すぎだ。発動させるのに時間はかかるし、そこに注ぐ魔法量も多くなる。
けれどモニカは躊躇しない。
真っ暗闇で姿は見えないが、彼女の清らかな力だけはひしひしと伝わってくる。
“聖なる光”の魔法は難しい。
イメージを具現化させる方法の一つが魔法だとして、清らかで濁りのない“聖なる光”を出現させるには、術者がまず透明でなければならない。どんなに力を持っていたとしても、どこか濁っていたり、汚れていたりしたら操ることはできないのだ。
モニカは純粋だ。透明で、清廉で、潔白で、美しい。
塔の魔女になるべく努力を重ね、それでも候補から外れたというのに、彼女はその過去を恨んではいなかった。ただ残念がって、それでも前向きに進んでいる。そんな彼女の力が美しく白銀色に輝いている。
全ての文字が刻まれ、一層光が強くなってく。
「救世主様が何を見せられていたのか、私にもノエルにもわかりません。ですが、これだけは言えます。かの竜の罠にかかってしまえば、全てが無駄になる。私たちは何故こんな所まで来たのか、思い出してみては如何でしょう。大丈夫、誰も責めたりはしませんよ。皆知っています。救世主様が必死に歩んでこられたことを。どれだけの人を救って、どれだけの人を勇気づけたかを。さあ、魔法が発動します。もう少しです。真実が、そこに」
・・・・・‥‥‥………‥‥‥・・・・・
急激に体温が戻って来た。
指先の感覚で、自分が今地面に伏しているのがわかる。短めの草。外の臭い。日陰と日向の間に身体があって、右は暑く、左は冷たい。
いろんな音が頭の上から降ってくる。
ボールの弾む音。かけ声。葉の擦れるような音や、車の排気音。蝉の声。
――“リアレイト”!
咄嗟に顔を上げて目を開けるが、あまりの眩さに面食らう。真っ暗闇から抜け出したばかりで、全然色が入ってこない。
魔法の気配がする。
それから、何か不穏な気配も。
「侵入者……? 陣君、シールドが緩すぎじゃないか」
「失礼だな。僕はきちんとやってるよ。それより、時間がかかりすぎだ。美桜も怜依奈も、一気に片を付けよう。体力は持ちそう?」
「大丈夫」
「何、とか……」
魔法量が一気に上がり、黒い気配が収縮されていく。
もしかして、“ゲート”を閉じている……? てことは、ここは。
もう一度ゆっくりと目を開ける。少しずつ、少しずつ、色を確かめていく。
草の緑。その間に潜む小さなジャリの灰色と、土の茶色。自分の肌色。右腕の刻印。それから半袖の白いワイシャツ。
大きな建物が見える。灰色のコンクリート基礎と、白い壁。高い位置に窓がある。体育館だ。
敷地を囲うコンクリート塀に大きな穴が見えた。直径2メートル近い黒い穴。美桜の部屋や帆船で見たのと同じ。
これ以上広がったらどうなるか。思い出すだけでゾッとする。
俺は咄嗟に立ち上がり、穴の前で必死に魔法を注ぐ数名の側まで駆け寄った。
「退いてくれる?」
そこにいた女子生徒の肩をトンと触ると、彼女は俺の顔を見てハッとしたのか魔法を止めて数歩下がった。
「須川さん、なんで止め……」
そこまで言って、もう一人の女子も動かなくなる。
「う、嘘」
俺は敢えて誰の顔も見なかった。
穴の前には魔法陣があった。
男子二人が手のひらを向け、魔法を注いでいる。穴は意思を持っているかのように広がろうと抵抗し、簡単には閉じそうにない。大きな力で一気にやらなきゃいけないってことらしい。
俺は呼吸を整えて新たなる魔法陣を出現させた。
――“時空の歪みを閉じ、ゲートを完全に消滅させよ”
緑色の二重円に、日本語で文字を刻んでいく。竜石のお陰で一応レグルの文字も扱えるようになったのだが、やはりこれが一番しっくりくる。
描いた魔法陣を見て、今度は男子二人が反応した。
「え……? ちょっと待っ……」
「まさか。あり得ない」
驚き、魔法を注ぐ手が止まっている。
魔法を受けなくなった瞬間、穴はまた広がり始めた。広がりきってしまったら、帆船のときのように、塞ぐのが困難になる。それどころか、穴の中から何が出てくるのかわからない。
全ての文字を刻み終えると、魔法陣は強く光を放ち始めた。
両手を魔法陣に向け、ひと呼吸。瞬間的に強大な力を放出する方法なら、極端な竜化をせずとも力が使える。
両足で踏ん張り、一気に穴を塞ぐ。
中心に向かって急激に小さくなっていく穴に手ごたえを感じ、俺は更に力を注いだ。
「す、凄い……! なんて力だ……!」
誰の声だとか、そこに誰がいるだとか。
考えたらダメだ。今はとにかく、穴を塞ぐことだけに集中する……!
魔法陣を通して最大量の魔力を注いでいくと、穴が過剰に反応してビシビシと音を出した。コンクリートの壁を抉るようにしてできた穴が、逆再生のように縮んでいく。
もう少し。あと少しでというところで、追加の魔力。一瞬竜石が反応したが、未だ行ける。
激しく渦巻きながら穴が閉じ――、一旦全ての時間が止まった。音が消え、色が消え、風が止まり、それから全ての時間と色が元に戻っていく。
上手く、行ったのだろうか。
自分の魔法に絶対的な自信があるわけではないが、やれることはやった。
大きく息を吐き、腕で汗を拭う。
蝉のつんざくような声が木々の間から聞こえてくる。どうやら残暑の季節らしい。油蝉に混じってツクツクボウシの声がする。
……誰かが突然手を叩き始めた。
俺は怖くて、微動だにできなかった。
わかっていた。
須川の肩に触れ、美桜が驚き、陣が目を丸くし、芝山がたじろいでいた。
ここは翠清学園の体育館裏で、Rユニオンのメンツが必死に穴を塞いでいたことも、彼らが疲弊しきってまともに魔法が操りきれてないことも、全部、わかっていた。
後方から足音がして、彼らの視線はそちらに向いた。
「救世主様! 良かった。ご無事で」
「リョウ! 探したぞ!」
モニカとノエルが駆け寄ってくる。どうやら彼らは、俺とは少し違う場所で目を覚ましていたらしい。
「凌……、だよね?」
美桜の声だ。
途端に、熱いモノが溢れてくる。
「来澄……。もしかして、戻って来た……のか?」
この声は、芝山だ。
ダメだ、涙腺が。
「いよいよ戻って来てくれたんだな。“異界からの救世主”として」
似たような陣のセリフは前にも聞いた。
けど、今の方がもっと、心に染みる。
「良かった。生きてる」
泣き崩れる須川。
ゴメン。心配させて。本当に、ゴメン。
「ここは間違いなく“表”ってことで、合ってる? まさかまだあの黒い湖の底だってことはない……よな?」
半信半疑のノエルが恐る恐る尋ねると、モニカが自信たっぷりに、
「大丈夫ですよ」
と返事した。
「さっきまでの変な気配はしませんし、皆さんの反応も正常です。私たちのお洋服が“表”のそれに変わっていることを考えると、あれは夢ではなく現実……? 少し不思議な気もしますけどね」
そう。
アレが夢だったなんて断定はできないのだ。
確かに俺はこの手で芝山の首を締めた。その感触がしっかりと手に残っている。千切れたシバの身体を剣で刺した感触も、生々しく覚えている。
どうやって顔を見たらいい。
どんな風に振り向けばいい。
黒い湖に意識を支配されてしまったからと言って、俺はやってはいけないことをやってしまった。
絶望に打ちひしがれ、芝山を殺そうとした。
謝れば済む話じゃない。
俺は、“この世界”に居るべきじゃない。
どこかへ行かなければ。早く、立ち去らなければ。
これ以上誰かを傷つけたら、俺は本当に、俺ではなくなってしまう。
下唇を強く噛み、ギュッと両手を握った。
足元に魔法陣を描く。移動魔法だ。早く、どこかへ去らなければならない。どこでもいい、誰も知らない、遠くの場所へ。
二重円の中に文字を書き始めた、その瞬間に、誰かが背中に飛びついた。
「ダメ」
か細い腕を俺の身体に回して、そのままギュッと抱きしめてくる。
「行かないで。もうどこにも行かないで。お願い」
背中に顔を埋めたのは、美桜。
顔なんか見なくったって、ちゃんとわかる。
失いたくないモノの一つ。守りたい、大切な人。
「世界があなたを忘れても、私はあなたを忘れない。言ったでしょ? 『見つけた』って」
美桜の手が、シャツを強く掴んだ。
その手に自分の手をそっと重ねる。
柔らかい。そして……、なんて、温かいんだろう。
中途半端な魔法陣が光の粒になっていくのと同じように、心の中につっかえていたものが少しずつ消えていく。
美桜の手をほどき、ゆっくりと後ろを向く。
未だ高い日の光が、彼らを上から照らしていた。
「大丈夫、ここに居て、良いんだよ」
美桜のその一言が、強張っていた俺の心をどんどん溶かしていった。