103.同化
それは絶望と言うに相応しい。
洞穴という密封空間、只でさえ逃れることも叶わないというのに、グロリア・グレイは穴を塞がんばかりの巨大な竜に変化した。
地竜とでも言うべきか、翼竜とは比べものにならないくらい大きな身体、地を踏みしめる足は象のように太く、身体を覆う鱗は一枚一枚が盾のようだ。背中の羽は飛ぶためではなく、巨体を動かしやすくするためのものだろうか、全長に対して異様に小さい。後ろ足二本で立ち上がり、俺たちを挑発するかのように大きな手を何度も開いたり閉じたりしていた。
ドレグ・ルゴラよりは小さいのかもしれないが――、決して弱い竜じゃないってのは見て直ぐにわかった。普段見ている翼竜とは全然比べものにならない。『世界で二番目に凶悪な竜』とテラが言ったのもあながち間違いではないのかもしれない。
見上げるしかない。
何十メートル下がっても全身が一度に視界に収まらないほどの大きさなのだ。
グロリア・グレイは大きく息を吸い込んだ。その勢いで風が生まれる。宮殿を包む魔法の炎が何度も揺れる。
「救世主様、お下がりください!」
モニカが前に出て杖をかざす。緑色の魔法陣を宙に描き、文字を書き込む。
――“巨大な盾よ、炎から我らを守れ”
シールド魔法。
素早く書き込まれた文字が光り、一人一人の前に透明で巨大な盾が出現する。直後、グロリア・グレイの口から強烈な炎が噴射された。盾が炎をはじき返し、間一髪難を逃れる。
「続けます!」
――“風の如き速さと鉄壁の護りを我らに与えよ"
――“大地よ、我らに癒やしと力を与え続けよ”
激しく展開し続ける魔法陣。モニカの魔力は底なしだ。流石、塔の魔女の候補生として訓練していただけのことはある。柔らかい魔法の光りに包まれると、身体の底から力がわき上がってくるのがわかった。
「サンキュー、モニカ!」
俺も、戦わなければ。
手の中にいつもより大きめの両手剣を出現させ、構える。へなちょこ剣では勝てないのはわかりきっている。最初から全力でやらなければならない。しかし、具現化した剣の重さがズッシリと腕に伝ったとき、俺は咄嗟に危機を感じた。
ヤバい。
俺は今、単なる生身の。
グロリア・グレイの影に隠れるようにして洞穴の壁に寄りかかるテラの姿が見えた。
俺の身体は普段より軽くて筋力がない。大きな両手剣を容易く振り回せていたのも、様々な攻撃に耐えられたのも、素早く動けたのも、全部テラが俺の身体に入り込んでいたからだ。竜との同化がなければ、俺は単なる干渉者。イメージ力でどうにかこうにか力を増したとしても、体力的な限界は超えられない。
竜化。
テラと同化して竜人になれば、絶対的に力が増すことは証明済み。100%の力を出し続ければどうにか。
「テラ! 同化しろ!」
俺は咄嗟に叫んだ。
グロリア・グレイの頭が俺の方を向く。
「愚かなる人間よ。汝はまだ金色竜を求めるか」
鋭い牙が口から覗く。あんなのに喰われたら一溜まりも。
「言ったろ。『力を借りたいと思ったらいつでも借りる』って。あなたと互角に戦うためには竜化は必要だ。勝って竜石をいただくためにも。――さぁ、テラ! 早く!」
手を延べるが、テラは反応しない。
進展しない状況にムカムカしたのか、ノエルが隣で魔法陣を描き始める。濃い緑色に光る魔法陣は、召喚魔法。
――“巨大なる我が化身たちよ、目の前の敵を撃破せよ”
緑色の光が複数現れ、次々に人型になっていく。
「竜化なんか待ってたら、明日になっちゃうんじゃないの? さっさとやってさっさと帰ろうぜ」
まるで自分自身を奮い立たせるかのように、ノエルは言った。
目の前にはあのときと同じ巨人が五体。が、グロリア・グレイの前では極端に小さく見える。
「巨人を操るのに集中する。モニカ、守ってくれ」
「わかっています」
サッとモニカが前に出て、更に魔法陣を一つ。
――“聖なる光よ、巨大な竜からノエルを隠し給え”
淡い銀色の光がノエルを包み込む。
「リョウも突っ立ってないでさっさと動きやがれ。救世主なんだろうが」
「わかってるって」
舌打ちをして、俺は重すぎる剣を無理やり構えた。
雷を纏わせれば少しはダメージが入りやすいだろうか。
魔法陣を刃先に向けて這わせ、意を決して走り出す。重い、重い。けど、勢いを付ければどうにかなるかもしれない。
グロリア・グレイの足元まで走り、地面を蹴る。いつもならもっと高く飛べるはずなのに、思うほど高度が出ない。
「ちっくしょぉおっ!!」
掲げた剣を思いっきり振り下ろす。が、固い。金属板にハサミで戦いを挑んでいるような、圧倒的な力の差を感じる。
着地、更なる攻撃をしかけるも、グロリア・グレイはびくともしない。
「口ほどにもない」
グロリア・グレイは嘲笑う。
巨体をグンと捻り、太い尾で払うだけで、俺も、五体の巨人たちもあっという間に吹っ飛ばされた。宙を舞い、受け身をとって転がるだけで精一杯。
体勢を整えて立ち上がるが、それにしてもこんなの、どうやって倒せば良いって言うんだ。
「テラ! どうしたんだ! 早く同化を!」
あのクソ竜め、全ッ然動こうとしない。どれだけグロリア・グレイが怖いんだ。普段は偉そうにしてる癖に、急にネガティブになりやがって。
『……デリカシーがないな、君は。自分の存在を否定されて凹まない竜がどこに居るというのだ』
「凹むとか! 馬鹿か! 今はそんな場合じゃ」
ダメだ。全然ダメだ。埒があかない。
こうなったら。
グロリア・グレイが巨体をこちらに向ける前に。
力をできる限り集中させる。大丈夫、できる。俺は、俺の身体は今テラの元へ。
目を閉じる、開く――!
できた。目の前には金色竜テラの、冴えない顔。デカい眼ン玉を丸くして、テラが俺の顔を見ている。
「おい、クソテラ」
俺はわざと、挑発するように言った。
テラはデカい嘴で長く息を吐き、見たくないとばかりに目を閉じた。
「悔しくないのかよ。自分の戦い方を否定されて。単独での戦いは苦手でも、同化することで強くなれるなら、それだって立派な戦い方だろ。迷惑なんて思ってない。必要としてる。だから早く。いつもと同じように同化すれば良い」
両手剣を地面に落とし、俺は両手を広げなければ抱えきれない程大きなテラの顔をしっかと掴んだ。毛糸の手袋越しに、ゴツゴツとした感触が伝ってくる。竜の顔を触ったのは、思えば初めてだった。いつもいつも、鉤爪で掴まれて逆さ吊りにされたり、何の前触れもなく同化されたりで、生き物としての竜をまともに感じたことなどなかった。
テラは顔にシワを作って表情を歪めた。
「何を迷ってるんだ。グロリア・グレイを倒して竜石を手に入れなければ、ドレグ・ルゴラを封印できない。ドレグ・ルゴラを封印できなければ、二つの世界を救うことができない。だからこうして洞穴に潜ってるんだろ。らしくもない。俺の意思なんか関係なく、いつも勝手に同化してたくせに」
『……勝手に? 私は一応の許可を取っているつもりだったが』
「ハァ? 許可する前に同化してることの方が多い気がするけどな」
『君はどこまでも失敬だな。それに、私が同化を渋っているのは、何も君との同化を否定されたからではない。同化したところで勝ち目がないからだ。グロリア・グレイが人化している間に話を付ければ良かったのに、君は彼女を怒らせた。話をややこしくしなければ、もしかしたら石をくれていたかもしれぬのだぞ』
薄目を開けるテラ。お互い、機嫌は最悪だ。
「そりゃすみませんでしたね。どうせ話し下手だし。けど、確か怒りだしたのは、テラが人間と同化するのが気に食わないとかそういう内容だっただろ。俺のせいじゃない」
『グロリア・グレイには嫌われている。だから大概面倒な干渉者を当てられる』
「つまりは俺が面倒な男だって言いたいわけか」
『君が面倒でないのなら、世の中の何が面倒なのだ』
「お前の方が随分面倒だっての。――ヤバい」
グロリア・グレイが俺たちに気が付いた。大きく前屈みになって口をガバッと開き、腕をこちらに伸ばしている。
「テラ、お前がその気じゃないならこっちから」
こっちから、どうする?
とにかくテラと同化しなければ。
俺が、テラに入り込んだらどうだ。俺が竜になる。結局は一緒だ。人間と竜が同化するなら、どっちがどっちに入ろうがきっと一緒に違いない。
「身体、貸して貰うぜ」
一か八か。
今まで俺が何度もやられたように。自分の身体を溶かして相手に入り込む。
生身だろうが何だろうが、この世界はイメージを都合良く具現化させてくれる。
俺にはそういう能力がある。
テラが俺の中に入り込み、俺の身体を操ったように、俺だってテラの身体に入り込み身体を操れるはず。
人間? 竜? どっちの世界の人間? ――関係ない。
全てはイメージのままに。
両手で抱えたテラの頭に、俺の頭を突っ込ませる。
大丈夫、溶ける。俺の身体は溶けてテラと一緒になる。
『何を考えている。やめろ、凌……!』
テラの苦しみが頭に響く。
苦しいのは俺も一緒だ。息ができない。自分が今どこに存在しているのか、感覚が掴めない。真っ暗で、重々しくて。まるで泥の中を泳いでいるような。
頭も、身体も、手も足も。全部全部、溶けていく。俺の身体は分解され、テラの頭になり、身体になり、手となり足となる。
『吐く……、吐き気が』
嗚咽するテラ。けど、今はそれどころじゃない。
目を開け。グロリア・グレイから目を逸らすな。
ヤツの大きな手が俺たちを掴んだら最後、俺がノエルの巨人にやられたように、骨が砕かれ内臓をやられる。
圧倒的な体格差。勝つためには力ではね除けるしかない。
視界が赤くなる。血潮の赤。
『うおぉおぉぉぉぉぉおぉぉぉおぉおおぉおお!!!!』
天を仰ぐ。叫ぶ。
身体中が熱を帯び、抑えきれない力がどんどんと放出されていく。力という力が身体の奥底から噴き出し、風を巻き起こした。
敵も味方もない。洞穴は揺れ、宮殿の柱が壊れ、倒れていく。
モニカたちの逃げ惑う声。ノエルの生意気な遠吠え。
そして、
「な、何をした? ゴルドン……! その姿は……、何だ」
グロリア・グレイがおののいている。
「何だとは……、どういうことだ? 私はどうにかなって……ん?」
テラの声が洞穴に響く。
目を開けた。視線が――高い。グロリア・グレイを見上げる角度が違っている。ぐるりと周囲を見渡し、テラは続けて自分の身体を念入りに観察した。
「腕が……ある」
プテラノドン型の翼竜であるテラには、独立した前足がない。前足は羽と一体化し、関節部に鉤爪がくっついていた。元々筋力のある種類の竜ではない。砂漠で俺を岩場に運んだときだって、重くて辛そうだった。
ところが視界に入ったのは、鉤爪じゃない。鋭い爪の付いた五本指のしっかりした手。肘と肩には大きな角が生え、胸と腰回りにはしっかりと防具を着けている。そして足。空を飛ぶために細く退化した足ではない。キッチリと地面を掴む足がある。全身を覆う金色の鱗。尻には尾、背中にはしっかりと羽の感触。
「半竜人……? いや、違う。汝は何者ぞ」
人型の竜。
テラが俺に入り込んで全身竜化したときとは微妙に違う。
まずは大きさ。テラがベースだからか、背が異様に高い。モニカとノエルの頭を軽々と俯瞰出来るくらいだ。筋肉の付き方も、全身のバランスも、どこか人間とは違う。ドレグ・ルゴラの手先、リザードマンともまた違う。
「凌と同化して、私は私ではなくなってしまったということか」
とテラ。
当たり。俺がテラにされたのと同じことを、俺もテラにやったまで。
「この奇っ怪な姿でグロリア・グレイに挑もうというのか? 正気か?」
テラが左手で頬を擦った。顔はどうやら爬虫類っぽくなっているらしい。プテラノドン型翼竜独特の細長い頭の形とは一線を画している。
相変わらず鏡もないし、自分の姿など半分以上想像でしかわからないが。
狂ってなけりゃ、こんな強そうな竜に戦いを挑もうなんて思わないわけで。
剣と盾を出現させる。戦いが苦手だというテラでも、こんだけ戦闘に特化した姿になれば動けるに違いない。
「ちょ……、ちょっと待て。入る方を逆にしても変わらないというのは気のせいだと思うぞ。何度も言うが、私は自分で戦うのは苦手なのだ。相手を動かすのと、自分で動くのとは全然違う。そこを君はまるで理解していないではないか」
良く言うよ。俺の身体を乗っ取って、救世主気取りだったくせに。
「あれはだな。あくまで君の身体だったからであって」
「――何をごちゃごちゃと。汝は我を揶揄っておるのか」
脳内とのやりとりは外から見たら変な独り言にしか聞こえないんだった。
これ以上待たせたら、また妙なことになる。
テラ。
悪いけど、ここは俺が主導権を握らせて貰う。
「ハァ? 何を言い出……」
テラの意識を塞ぐ。いや、言い方が悪かった。押しのける。そして、俺の意識をテラの身体の隅々まで巡らしていく。
頭も身体も手も足も、全て俺の意思の通りに動くことを確認する。
「グロリア・グレイ。卵と石を守る竜よ」
俺の言葉がテラの声になって洞穴に響き渡る。
ピクリとグロリア・グレイは反応し、しばし耳を傾けた。
「待たせたな。準備は整った。あなたが否定した人間と竜との同化をしかと見てもらおう。そして、この戦い方もアリだとあなたが納得したなら、是非竜石をいただきたい」
沈黙。
テラの心臓の高鳴りだけが、耳に響く。
「ほぅ……、面白い」
グロリア・グレイは不敵に笑い、それから大きく両手を開いた。
やられる、と思ったが、彼女はそのままパシンと手を叩き、かと思うとあの巨体を瞬く間に小さな女に戻してしまった。
美しい黒髪の女が、目を細めてテラに入り込んだ俺の方をじっと見ていた。半竜のなまめかしい女は、ご機嫌を悪くするどころか少し嬉しそうに笑っていた。
「竜たちを守るために洞穴へ潜む暮らしを初めて早数百年。我を畏れ、まともに話し合おうとする者は少ない。塔の魔女たちでさえ、当たり障りのない言葉ばかり使ってくる。我の務めは竜の卵と石を守ること。卵は主を失った竜が眠りに就いたもの、石は竜の力を吸い取り封じ込めるもの。二つとも、大事に大事に守り続けてきた。――正直、退屈であった。ドレグ・ルゴラが地上で暴れても、我はこの地を動けぬ。石を求めて人間が来ても、面白味もなく逃げ帰る。ゴルドンぐらいなものよの、平気で我を怒らせ、我を狂わせたのは。次から次に問題を背負ってきおって……! 平気で聖域を侵し、禁忌を犯し。竜とは何か、人間とは何か。恐らく難しいことなど何も考えておらぬのだろう。――よかろう。汝らのやり方が正しいかどうか。見させてもらおうではないか。竜と人型では釣り合うまい。我もこの姿で愉しむとしよう」