10.異変
美桜の考えていることが、全くわからない。
彼女は一体なぜ、俺との交際をあっさりと認めてしまったのだろう。
事実無根、だというのに。
芝山はショックのあまり、午後の授業を欠席した。次の朝登校したのを確認してホッとしたものの、ことあるごとに俺を睨み付けてくるようになった。
芝山の席から俺の席までは結構遠い。ヤツは教室の最前列の右角、俺の席は教室の真ん中にある。そこから、授業中ずっと俺の方を振り返るようにして睨んでいるわけだ。教師に注意されることもあるが、最前列ってのは案外死角らしく、ヤツは周囲の目を気にすることもなく俺を……いや、俺と美桜をじっと見ている。
美桜はというと、特にいつもと変わった様子はない。凜として清楚で近寄りがたい。
この女が突然、公衆の面前で俺に抱きつきキスをほのめかしただなんて。芝山に限らず、誰もがショックだったに違いない。
あんなことがあってから、俺と美桜の周りにはこれまで以上に誰も近づかなくなってしまった。ピリピリとした気持ち悪い空気が漂って、俺は息をするにも苦しくなった。
大見得切って“男女の仲”などと言いながら、美桜は甘い雰囲気を微塵も感じさせなかった。日中の態度は相変わらずで、これはある意味尊敬に値した。
俺が美桜と付き合っていることになるだなんて、彼女と密接な関係になるまでは思いもしなかった。むしろ、そうなることを望んですらいなかった。声をかけられ、もしかしてだなんて甘い幻想を抱いたときもあったが、本当に幻想でしかなかったわけだ。
彼女は、俺を“干渉者仲間”としか見ていない。
その関係を保つためなら、彼女は手段を選ばないのだ。
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「じゅ……授業中に、レグルノーラへ飛べってのか!」
思わず、声を荒げた。「シッ」と美桜が、人差し指を差し出し、俺は慌てて口をふさぐ。
誰もいないとは思うが、誰かが聞き耳を立てていたらどうするのと、美桜は眼鏡の奥で目をぎらつかせた。
二人でいるのを見られても気にしなくてよくなったとばかりに、美桜は朝登校するなり、俺を誰もいない化学室へと呼び出した。
薬品の臭いが広がる室内は、湿っぽくじっとりしている。
特別教室の入った西棟の校舎には、朝ほとんど出入りがない。二人でこっそり会うには、確かにうってつけだった。
「放課後会わなくなってから、凌は“あっち”へ飛んだ?」
美桜の目は冷たい。
「い、いや……。だって、どうやって飛んだらいいのか、よく、わからなくて」
「やっぱりね。ここしばらく、気配がなかったもの」
気配。
また妙なことを言う。
美桜はどうやら第六感が発達しているらしい。俺の考えを瞬時に言い当てたり、気配や雰囲気で、敵の動きを察知する。……オカルト過ぎる。いや、もしかしたら本当にそういう能力なのかもしれないが。俺にとってはぼんやりとした、気持ちの悪いモノでしかない。
「第一、“ゲート”からじゃないと飛べないんじゃないのか。この辺りで一番“あっち”に近いのは2-Cの教室だって、ジークも言ってただろ」
「そうよ。だから、放課後コソコソやらないで、授業中に飛びましょうって言ってるのよ」
「ハァ?」
また、理解不能なことを。
俺はボリボリと頭を掻いて、このお嬢さんは何を考えているんだと、思いっきり顔で訴えた。
当然、美桜には何も伝わらない。
「訓練すれば、“ゲート”以外でも、簡単に“向こう”へ飛ぶことができるようになるわ。そのためにはまず、どんな状態でも“飛べるように”しておかないと」
化学室の机に尻を引っかけて、彼女はさも当然でしょとばかりに俺を見下している。
「まだ、飛べるようになって一ヶ月だぜ。そんな簡単にぽんぽん“あっち”へ行けるかよ」
俺がいくら頭を抱えていても、彼女は一向に引かなかった。
「何言ってるの。年月は関係ない。問題は、強い“心”を持っているかどうか。それともあなたの“心”は、こんなことに耐えられないほど弱い、とでも?」
――美桜は、やたらと痛いところを突く。
俺の気持ちがどう動くか、よく知っている。
弱いかと言われて、弱いと認める男はまずいない。自尊心を傷つけられるのを嫌って、首を横に振るか、言い返すか、無言でいるか。だからこそ、こういう切り返しできたんだろう。
「“飛び方”を忘れたら、向こうには行けなくなるわよ。必要とあらばいつでも“向こうへ飛べる”くらいの勢いじゃないと」
「必要とあらばって、なんだよ」
「忘れたの? “表と裏”、二つの世界は互いに影響し合っているのよ。今、“あっち”は“あっち”で大変なの。妙な魔物が湧いて」
「ま、魔物?」
俺はまた自分の声が大きいのに付いて口を塞ぎ、キョロキョロと周囲を見回した。大丈夫、他に人はいないみたいだ。
「魔物って、どういう」
今度は静かに、美桜のそばまで身体を寄越して呟く。
「詳細はあっちで。ここじゃダメ。いい? 授業中の、ほんの数秒でいいから、意識を集中させるのよ。長く続けていれば、どんどん時間を延ばせるはず」
そろそろ、ショートホームルームの時間だ。
美桜は教室の時計をチラッと見て、早口で喋りだした。
「数学の授業中はダメ。現国か世界史、英語の時間、先生がまったりと教科書を読み始めたころ、右手で髪をかき上げるから、それが合図よ。“こっち”の1秒は“あっち”の1分、“こっち”の10秒は“あっち”の10分。できるだけ長い間あちらにいることができれば、ほんの少しタイミングがズレたとしても、互いの時間は交錯する」
「で、できるのか、そんなこと」
「できないって思うから、できないのよ」
「だって、手は……。授業中は、手は握れないじゃないか」
美桜の手を握って、彼女の存在を確かめながら“裏の世界”へ行っていたのだ。それが誤解を招いたのだというのはわかっているが……、そうしないと飛べないという頭があった。
「『私の手を介さなくったって、飛ぶことはできるはず』って、私、言わなかった?」
「そりゃ、言ってたけど」
「だったら、やってみればいいじゃない。あなた、私の席の後ろでしょ。不安なら、まずは私の背中や髪の毛を触りながら飛んでみたらどう?」
「ど……どうって」
時間だ。
美桜は俺の返事をきちんと聞かないまま、スタスタと化学室から出て行った。
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彼女が提案した通り、同じ時間に“裏”へ飛ぶのには、かなりの覚悟が必要だった。
美桜は簡単に言ってのけたが、ちょっと前まで“干渉者”でも何でもなかった俺は、意識を飛ばすだけで相変わらずかなりの精神力と体力を消耗する。それを、彼女はよくわかっていないのだ。
今までは二人っきりだったこともあり、少しだけだが心に余裕があった。全く俺に気がないのはさておき、彼女がいるという安心感があったからだ。
だが、授業中となると状況が180度変わってくる。
周囲の目がある。『私の背中や髪の毛を触りながら飛んでみたら』だなんて、できるわけがない。触るためにはまず、いくらか手を不自然に伸ばさなきゃならないし、姿勢だって相当前屈みになる必要がある。美桜が何のために“男女の仲”を認めたのか知らないが、授業中に女の髪の毛や背中をやたらと触るなんて、どう考えても不自然だ。
第一、授業中先生の視線を気にしつつ、板書を取りつつ、周囲の目を気にしつつ、“裏の世界”へ意識を飛ばすなんて正気の沙汰じゃない。
ところがそれを、美桜は簡単にやれと言う。
要するに、彼女自身はそうすることができる、という意味だ。
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その日の昼、俺はまた美桜に呼び出された。今度は、人気のない屋上だった。
「やる気、あるの」
飯を食う前の超空腹状態の俺に、彼女は冷たい言葉を浴びせた。
「あ、あり、ます」
残念ながら彼女の合図虚しく、午前中は全く“向こう”へ飛ぶことができなかったのだ。
少なくとも一時間に一回以上は合図を出していた。それは知っていたのだが。
「あなた自身が努力しないと意味がないの。わかってる?」
アゴを上向きにして目を細めた彼女は、威圧的だった。
立場のない俺は、ただただ肩をすぼめて謝るしかない。
夏が近づき、じりじりと日が照りつけていた。風は少しあったが、涼しいと感じるほどではない。こういう日には、屋上で飯を食おうなどと言うヤツはいないのだろう。人影は全くなかった。
それをいいことに、美桜は鬼のような形相で俺に迫った。
「私は、“干渉者”としてのあなたの才能を買っているのよ。才能は、持っているだけでは意味がない。発揮して、初めて認められる」
両手を腰に当て、眼鏡を光らせて、背中には妙なオーラまで出ている……ような気がする。
こんな女に憧れている連中が居るのだと思うと、そいつらが哀れになってくる。悪いが、彼女は天使でも女神でもないのだ。
「飛ぶ気、あるの」
「ありますありますあります」
「……よろしい」
ホッと、思わず息をつく。怖い。
「そしたら今すぐ、飛べるわね?」
「へっ?」
美桜はまた、唐突にとんでもないことを言い出した。
「飛べるの飛べないの」
「と、飛べるけど、飯は」
「馬鹿ね。満腹になれば、集中力が欠如する。空腹時の方が集中できるのよ。知らないの?」
いや、知ってる。知ってる……が。
今じゃなければならないのか。どうしても。
喉元まで出ていたセリフを、美桜の顔を見て呑み込んだ。無理だ、言えない。
彼女はスッと、俺の顔に人差し指を向けた。
「さぁ、目をつむって」
俺は仕方なく、彼女に言われるがまま目を閉じる。
「いい? 私の存在を感じながら、少しずつ意識を沈めていくのよ。手を握らなくても、きちんと飛べるはず。どんどん沈んでいく。深く、深く、深く」
さながら催眠術をかけられているような、感覚。
彼女の指が、すぐそこにある。
指先から同心円状に波紋が広がり、そのうねりが俺の意識をレグルノーラに誘っていく。
意識は更に沈んでいく。立ったまま、深い眠りに落ちていくように、全身の力を抜き、あらゆる神経を集中させ、どこまでも深く、深く……。
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目を覚ますと、いつもの小路だった。
なんだ、手を繋がなくったって来れるじゃないか。ホッとため息をつく。
ここ数日来ていなかっただけなのに、この小汚い場所をなぜだか懐かしく感じてしまった。
レグルノーラは相変わらずの曇天で、薄暗くじめっとしている。そういえば“こっち”では晴れ間を見たことがない。“灰色の世界”だと俺が感じてしまった理由はそこにもあった。
視界に、薄いグレーのワンピを着た美桜の姿が映った。制服よりもこっちの方が似合ってるなと、そんな他愛ないことを考えていた俺は、背後から近づいてきた何かに全く気付いていなかった。
「凌、後ろ!」
後ろ?
半分まで振り返ったとき、俺の目の前を細長く黒いねっとりとした何かが通り過ぎた。
何だ。何が起きた。
驚いて周囲を見回すが、何もいない。
「武器、何か武器出して!」
美桜の焦るような声。
彼女は彼女で、武装した上、小型の銃を構えている。
戦闘態勢だ。
「突然言われても」
オロオロしていると、また何かが背後で動く。
ニュルッと気持ち悪い音を出し、わざと俺の視界に入らないようにしているようだ。
こういうときはやっぱり飛び道具なのか。
銃身の短い小型の銃を想像する。両手で握る仕草をして、手のひらに意識を集中させる。刑事ドラマでよく見るヤツ、黒くてずっしりとした、実弾の入った銃。
周囲に気を払いながら、俺は必死に頭の中で銃のイメージを描き続けた。
フッと手に重さがかかり、何かに触れている感覚に気が付く。
できた。俺はニヤッと口元を緩めた。
「上出来――」
言いながら、彼女は一発銃弾を放つ。
狭い小路、銃弾が跳ね返る。
黒い何かは驚いたように一瞬動きを緩めたが、シュルシュルと音を立て、身体をくねらせながら壁を這って通りに向かう。
大きい。少なくとも、一抱えほどありそうだ。
「凌、早く小路を出て! 早く!」
美桜は珍しく焦っていた。
それもそのはず、小路の壁という壁から、黒いぬめぬめした塊がニュルニュルと際限なく染み出てくるのだ。初めは一体だった黒い何かは、いつの間にか小路全体を埋め尽くしていた。
一体、これは何だ。
足元にヌチャッと絡みついてくる何かを振り払いながら、俺は必死に大通りに向かって走った。
息が切れ、喉が渇く。が、足を止めれば、あの黒い何かに捕らわれてしまう。
「ち、くしょう、が……!」
無我夢中で足を動かし、大通りに出る。
ここまで来れば安心なのか?
だが美桜は走るのを止めない。通行人をかき分けかき分け、どんどん先へ先へと進んでいく。
「凌、早く!」
「わかってるよ!」
周囲に人がいないのを確認して振り返り数発、俺は黒い何かめがけて撃ち込んだ。弾ける音と共にその物体は粉々に散り、俺は頬を緩めた。だが次の瞬間、欠片は膨れあがり、それぞれが急激に大きくなってこっちへ向かってくる。
何だ。
一体これは、何なんだ。
きびすを返し、俺はまた美桜の後を追った。
普段は車でいっぱいの道が不自然なほどスカスカだった。通行人の姿もほとんど見かけない。街は死んだように静かだ。
何かが、おかしい。
空を見上げても、いつもなら街を見守るように旋回している翼竜の姿すらない。
「おい、美桜! 美桜ってば!」
彼女は振り返らない。
いつの間にか彼女の銃は、長い両手剣に姿を変えていた。
「来るわよ!」
何が。
聞き返す間もなく、大通りのど真ん中に大きな影が被さった。
突然夜が来たかのように、辺りは光を失う。メキッと音を立て周囲のビルが砕け、外壁やガラスがドバドバと道の両端に崩れ落ちた。巻き込まれぬよう、俺と美桜はその場を必死に駆け抜けた。ただでさえ数の少ない通行人や車が、無残にも瓦礫に押しつぶされていくのが見える。
「な、何だよアレ」
彼女はすぐには答えない。
こんな非常事態にも関わらず、信号機だけは機械的に動いて赤から緑へ、緑から赤へと変わっている。
一体、レグルノーラの人たちはどこへ消えてしまったのか。
そして何が、今この世界に起きているのか。
美桜はようやく足を止め、大きく肩で息をした。両膝に手を当てて前屈みになり、俺もやっと一息つく。
いつもの小路から随分走った。イメージで何とか誤魔化したものの、体力は確かに限界だった。華奢な身体で障害物を避けながら走っていた美桜は、俺よりずっと疲れているはずだ。
道の真ん中で、俺たちはようやく、壊されていく街の全体像を見ることになる。
大きな丸く黒い影が空全体を覆い、そこから雨粒のように、黒いモノがぼとぼとと落ちてくる。さっきのニュルッとした黒い物体も、それに違いない。近未来と中世の融合したような独特な街並みが、黒ずんで穢されていく。
何もかもが押しつぶされ、この場で生きているのは俺と美桜の二人だけ。
今朝、確かに美桜は言った。
――『妙な魔物が湧いて』
急いでいた理由は、コレか。
「それだけじゃない。次が、来る」
美桜はキッと前方を睨んだ。
どういう意味だ。
俺が悩んだのもつかの間、彼女は声を張り上げて剣を構え、今来た道を戻っていく。
「お、おい、美桜!」
黒く丸い物体が、ニュルッと道路のど真ん中から湧きだした。同じように次々と大小様々な球体が現れ、宙に浮いて美桜の行く手を塞ぐ。
球体はまるで意思を持っているかのように、ゆらゆらと揺れ動いていた。
眼ン玉だ。
中からギョロリと巨大な眼球が覗いて、美桜の動きを注視している。両手剣を振り回す美桜をせせら笑うかのように、眼球はゆらりゆらりと攻撃を交わす。
「凌、何してるの! 攻撃して!」
言われ、ハッとした。
そうだ、俺も武器を持ってるんだ。
両手で銃を構え、一発でも放とうと――が、でき……なかった。
俺の存在に気が付いた眼球の一つが、ヌッと真ん前に現れたのだ。
巨大な――、瞳。直径1メートル以上あろうかというそれの眼力に、俺の手足は凍りついてしまっていた。
なんだ。
なんだコレ。
金縛りか。
必死に動かそうと思っていても、全く動かない。
巨大な眼球が、徐々に近づいてくる。音もなくゆっくりと、俺の真ん前に迫ってくる。
当たる、当たる当たる当たる――血走った眼球に、俺の青ざめた顔がくっきりと映っていた。