1.灰色の世界
五月のゴールデンウィークを過ぎたある日のこと。同じクラスになって一年ちょっと、芳野美桜が突然、話しかけてきた。
「見つけた」
放課後の教室、補習が終わって忘れ物を取りに来た俺は芳野に呼び止められた。教室に二人きり。否が応でも高鳴る胸を押さえつつ、
「何が、だよ」
独り言だったかもしれない。だが、俺は反射的に言葉を返した。
無意識のうちに、俺は何かを期待していたのかもしれない。
これから愛を告白されるのか。もしくは自分との接点を見いだして、友人としてでもいい、付き合いを始めようと言われるのかも。
眩しいほどの夕日が差し込んで、芳野の顔は霞んで見えた。
普段気にしたことはなかったのだが、よく見ればかなりの美人なのだ。端整すぎる顔立ちを隠すようにかけた眼鏡のレンズが、夕日を反射して鈍く光っていた。
「あなたのことを、ずっと、探していた」
彼女は重ねて言った。
「へ、変なこと言うなよ、芳野さん。俺たち、ずっと同じクラスだったじゃないか。何をどう探してたんだよ」
口をひん曲げ、俺は苦笑いした。
芳野のことをよそよそしく“芳野さん”と呼んでいるのには訳がある。彼女が今まで、誰かに話しかけた場面など見たことがなかったからだ。いつも一人、教室の中で浮いていた。優等生で、綺麗で、まるで作り物のような彼女は、同性からも距離を置かれるような存在だった。
そんな彼女が俺を『探していた』と言う。それが、どれだけ俺を興奮させたか。
一方の俺と言えば、……確かに目立たない。
高校に入ってこの方、友と呼べる存在が全くいない。どちらかと言えば誰かとつるんでいるよりも一人でいるのが好きだし、誰にも干渉されずゆっくり自分のペースで動くのが気楽でいい。常に一人でいても、寂しいとは思わない。どうやらこういう状況を“ぼっち”とか言うらしいが、それを解消しようとも思わなかった。
ただ、自分でそう思っているのと他人から指摘されるのでは、まるで意味が変わってくる。
俺がそうやって困惑していると、彼女はフンと鼻で笑って口角を上げた。
「違う、あなたは何か勘違いをしている」
芳野は俺のそばまで近づいてきて、窓際の机の上にドカッと腰を下ろした。足組みすると、スカートのヒダから柔らかい太ももがのぞく。それが何ともエロティックに思え、俺は思わず、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「世界には、“表”と“裏”がある。この世界の幸福は裏の世界“レグルノーラ”にも幸福をもたらすけれど、不幸は更なる不幸を与えてしまう。プラスとマイナス、表と裏、白と黒、光と影。それぞれがそれぞれに影響を及ぼし、うまくバランスを保ちながら成り立っている」
芳野は淡々と、与えられたセリフをそらんじているようにも見えた。それほど、彼女の言葉は滑稽で、理解し難いものだった。
――コイツ、病んでるのか。
目立ちはしないが、かなりの美少女。本来ならばクラス中、いや、学校中の注目の的にさえなりそうな彼女が、俺と同じように“ぼっち”状態な理由。彼女の思考は明らかに偏っていた。
前述の通り、彼女は自分から誰かに話しかけたりはしない。実に受動的。自分のことを話したり、誰かと笑い合ったりすることもない。
そう考えれば少しは親近感も湧くが――、この風体でこの趣向とは、勿体ないと言わざるを得ないだろう。
俺は、彼女が至極真面目な表情で訴えているにも関わらず、そんなことを考え心の中で嘲笑っていた。
すると、
「今、思っていたのでしょう、私のことを、“滑稽だ”と」
彼女は、俺の心を読んだかのようなタイミングで目を細めた。
俺は思わず後ずさりする。上履きのかかとが机の脚に当たり、ギィと音を立てて俺を追い詰めた。またゴクリと唾を飲み込む。
「“この世界”と“裏の世界”は、互いに影響し合っている。特に大きく影響を及ぼすのは、そこに存在する“心”の概念。あなたが思っているよりも、強く、深いしがらみが世界を支配している。“この世界”で戦争が起きれば、“レグルノーラ”には魔物が現れる。“この世界”に救世主が現れれば、“レグルノーラ”でも不幸が取り除かれ、平和が訪れる。同じように、“レグルノーラ”で悪いことが起きれば、“この世界”でもそれなりの不幸が起きる。表と裏とは、そういうこと。“この世界”の人間からは見ることができないが、確実に存在している世界、“レグルノーラ”に干渉することのできる数少ない人間、それがあなた、来澄凌だということ」
外見は紛れもない美少女なのだが。
初めて二人きりで交わした会話が、コレか。
一瞬とはいえ淡い期待を抱いていた俺は、ガックリと肩を落としていた。
「そ、そういうのは脳内でやれよ、芳野さん。どうにかしてるぜ」
言わなければ良いのに、そんなことを口走ってしまう。
だって、そうだろう。表の世界だの、裏の世界だの、わけがわからない。
確かに、今の俺には行き場がない。友達もできない高校生活に不満がないと言ったら嘘になる。だからって空想に逃げ込むなんて、愚の骨頂だ。
芳野美桜も寂しかったに違いない。だから、一緒に“裏の世界ごっこ”をしてくれる暇な相手を探していた。――そして、俺にたどり着いた。そういう意味での“見つけた”だったんじゃないか。
そう考えると、つじつまが合ってくる。
俺は一人、頭の中で納得してうなずいていた。
だが、事態は俺の思った方向には進まなかった。
芳野は机からひょいと降りて俺の胸ぐらを掴み、ぐいと自分の眼前まで引き寄せた。
口の中が、乾いてきていた。
どうにもこうにも逃れられなさそうなこの状況に、俺の心臓は高鳴っていた。
「この世界と“レグルノーラ”を行き来できる、数少ない人間。二つの世界に干渉し、問題を解決することができる力を持つ選ばれた人間。“干渉者”あるいは、“悪魔を打ち砕く者”」
ぶれることのない視線は、発言に真実みを帯びさせる。が、にわかに信じ難い言葉を、俺はどこまで飲み込めばいいのか。
冷や汗がアゴを伝い、ポトリと落ちた。気が付けば、全身に嫌な汗をかいている。
まさか、この病的美少女の言葉を俺は信じてしまっていたのか。馬鹿か。
俺がそう思ったのと同時に、芳野は俺の胸ぐらから手を離しフフと笑った。
「信じる信じないは、あなた次第。……一度、私とともに“レグルノーラ”へ飛んでみれば、全てが分かるはず」
「ば、馬鹿言うなよ。芳野さん、ね、いい加減にしようよ」
「いい加減? 果たしてそうかしら。全身からあふれ出す“干渉者”の臭いはごまかせない。私の思い違いだとでも?」
に、臭い?
俺は焦って自分の腋の臭いを嗅ごうと、肩をすぼませた。汗……臭い。変な臭いは確かにするが。
「そういう意味じゃない。わかっているのでしょう」
今度は強引に、左手を俺の右手に絡ませてきた。細くて白いすべすべの手のひらが、俺の無骨な手と重なった。柔らかい胸が制服越しに密着してくる。芳野の、さらさらした髪の毛が顔の真下まで迫っていた。
な、何コレ。何の冗談。
抱き、つかれ……た?
端から見たらどう映ったのだろう。愛を語らっているように見えたのだろうか。女子に迫られて、離れようとすると逃さないとばかりに指先に力を入れられて。かといって、そんな気もないのに抱きつき返すこともできず、変にエビ反りになって膝カクカクさせて。
実際は変な脅迫をされているのにも関わらず、俺は妙に興奮していた。
一体、なんなんだこの女。俺をどうしたいんだ。
「来澄凌、あなたが“干渉者”である証拠を見せてあげる。もし、目を瞑った後に“レグルノーラ”へたどり着けば、あなたは自分の隠れた力を認めること」
「へ?」
「もし、目を瞑っても何も起こらなければ、私はあなたと今後一切関わらない。それで納得できるでしょう」
「ちょ……ちょっと待って、芳野さんてば。何を言って」
「いいから。目を瞑りなさい」
□■━━━━━・・・・・‥‥‥………
俺はそこで目を瞑るべきではなかった。
どうにかして逃れて、その場から立ち去るべきだった。
俺の意識は、彼女の言う通り“レグルノーラ”に召喚されたのだ。世界の終わりを形にしたような、……灰色の世界に。
………‥‥‥・・・・・━━━━━□■
突然のことで理解に苦しみ、腰を抜かして尻餅をついた俺に、芳野は言った。
「どう、少しは信じた?」
初めての召喚で彼女が俺に見せたのは、ビルの屋上からの景色だった。
東京、……じゃない。少なくとも日本じゃない。それはすぐに分かった。
天に向かって真っすぐに伸びたビル群と、その隙間に点在する背の小さい建物は、洋画でよく見るヨーロッパやアメリカの街並みに近かった。日本ではほとんど見ることのない煉瓦造りの建物が多く軒を連ねていた。教会らしき建物や石造りの橋がある一方で、ビルとビルの間を抜けるように張り巡らされた高速道路があったり、全体がねじれたような変なデザインのビルがぽんぽん建っていたりする。
道を走る車には車輪がなく、ビルの合間を小さな飛行機か羽の生えたバイクのような乗り物がブンブン行き交っていた。
どんよりした空を見上げれば、雲の切れ間から翼竜が現れ視界を横切っていく。
「都市を囲う森は魔物の巣窟よ。だけど、砂漠の侵食を防いでくれる生命線でもある。レグルノーラの人間は、この狭い世界の中で、魔物と砂漠の侵食、そして悪魔に怯えて生きている。それを救うことができるのは、表の世界とこの世界を行き来することのできる“干渉者”だけ」
俺の狼狽を余所に、芳野はどこか遠くを見つめながら、一言一言噛みしめるようにそう話した。
冷たい風の感触も、尻から伝わるコンクリの感触も、手を付いたときのざらざら感も、確かに作り物とは思えない。それでも本当に“裏の世界”とやらに来てしまったのかどうか、俺はまだ半信半疑でいた。
「何度か、来たことがあるはずよ」
「はぁ?」
芳野はまた、おかしなことを言い出す。
「“夢”を介して何度か来ているはず。あなたは無意識のうちにここへ来た。私はそれを知って、あなたに声をかけたというわけ」
夢……、身もフタもない。第一、寝ている間に見る夢を、どれくらいの人間が覚えているというのか。
今見ているこの光景だって、夢の中のそれに違いない。朝起きて、アレは夢だったと何となく覚えているがはっきりとした感覚じゃない、あの状態なのでは。
「“夢”じゃない証拠が欲しい?」
「そりゃ、まぁ……」
のっそりと立ち上がり、尻の汚れを払いながら、俺はとりあえずの返事をした。
馬鹿馬鹿しい。夢ならば覚めてしまえば証拠もクソもあるまい。
ところが芳野は、自信たっぷりに上から目線で笑っている。俺より15センチは低かろうに、圧倒されそうだ。
「もし“夢”じゃなかったら、私とあなたは“干渉者仲間”ってことになる。“干渉者”は互いに名前で呼び合う。私はあなたを“凌”と呼ぶ。あなたも私を“美桜”と呼んで。いい?」
「み……み、お?」
「そう、名前を呼ぶことで、互いの存在をより近くに感じることができるようになる。幸い、私もあなたも、あちらの世界では孤独な存在。下の名前で呼び合う仲間など、いないのでしょう。だとしたら、なおさら都合がいい。もちろん、普段の生活では“来澄くん”“芳野さん”で構わない。“干渉者”として接するときは必ず、下の名前で呼ぶこと。わかった?」
ここで『わかった』以外の答えが出せるのか。俺はただただ圧倒されて、無言でうなずいた。
芳野の長い髪と制服のスカートが、ビル風に揺れてなびく。
ゴロゴロと空で雷が鳴り始め、これから天気が荒れますよと伝えてくる。
「腕を出して」
嫌な予感はしたが、断ったら更に威圧的な態度をとられるのは想像できた。俺は仕方ないと、渋々右腕を差し出す。
芳野の白い手が俺に触れた。彼女は俺のワイシャツの袖口ボタンを外し、ブレザーごと袖をまくし上げてきた。何をするつもりなんだろう。俺はただじっと、その様子を見つめる。
「“夢”ならば、覚めたら消えているはず、よね」
ニコッと笑いかけてはくるが、決して微笑みではない。目を細め口角を上げているその仕草は、俺を凍りつかせるには十分だった。
芳野の口が、何かを呟いた。
はっきりとは聞こえなかったが、確かに何かを呟いた。
呪文……のようなものだったのかもしれない。耳障りの悪い、変な言葉にも思えた。
唇に当てた芳野の人差し指の先がぼんやりと光を帯びて、俺の視線を釘付けにした。光を帯びたまま、指がすうっと俺の腕まで伸びる。光は何かの文字を宙に描いたが、こっちの言語なのだろうか、読むことが出来ない。
光の文字は次第に輪郭線をはっきりとさせ、明るさを失い、黒くなる。
宙に浮いた文字の羅列。
「レグルの文字で、“我は干渉者なり”と書いたのよ」
芳野はそう言って、トンと、文字を軽く指で突いた。
途端に、焼け付くような痛さが腕の端々まで走る。俺の腕に文字が焼き付いていた。彫られたような、焼かれたような、決して消えることのない文字列。
「な、何すんだよ!」
俺は無意識に芳野を突き飛ばした。彼女はそれでも薄ら笑って、
「目が覚めても消えていなかったら、信じてくれる? 信じるしかないよね? 凌」
青の混じった目が、ギラリと光った。
意味が分からん。
俺が何をしたと言うんだ。
“干渉者”って、何だ。“裏の世界”“レグル”……理解、不能、だ。
………‥‥‥・・・・・━━━━━■□
教室の冷たい床に仰向けに倒れている自分に気付く。
深呼吸。ゆっくり目を開け、絶句する。
芳野の顔が、真ん前にあった。
覆い被さるようにして、芳野が俺の顔を覗き込んでいる。
「腕、見て」
ニヤリと彼女は笑い、机や椅子をすり抜けるようにしてそのままゆっくりと後ろに退いた。
腕。
言われて、仰向けのまま恐る恐る右腕を上げる。
「まくって」
「ま、くる?」
「早く」
寝転んだ俺に窓の影が被さっていた。
逆光に目をくらませながら、ゆっくりと彼女の指示通り腕をまくる。
「夢じゃない証拠、見えた?」
彼女の顔は、暗くてよく見えなかった。
「“我は干渉者なり”と書いたのよ。これでもう、あなたは逃れられない」
腕にくっきりと浮かんだ黒い文字は、俺を絶望の底へと突き落とした。
俺は呆然と腕の刻印を見続けた。
いろんなことが頭を掠め、頭が真っ白になっていた。
反対に、彼女は嬉しそうに小さな笑みを零していた。