第10話:名前を返した朝
舞台袖の暗闇は、まるで底なしの深淵のように理久を飲み込もうとしていた。
数メートル先では、眩いばかりのスポットライトが円形の光を描き、そこへ「現代の至宝」を招き入れるための準備が整えられている。司会者の声が、スピーカーを通じて腹の底に響く。
「――それでは、お待たせいたしました。文芸三冠という前代未聞の快挙を成し遂げられました、九条理久先生です!」
その瞬間、理久の指先から、由希が徹夜で書き上げた「受賞スピーチ案」の紙が、力なく滑り落ちた。
三年間、彼はこの紙に書かれた文字を、自分の血肉であるかのように演じ続けてきた。だが今、床に落ちたその紙は、ただの白々しい嘘の残骸にしか見えなかった。
「……先生? どうされましたか、お時間です」
スタッフの声に背中を押され、理久は光の中へと踏み出した。
視界が白く焼き切れる。何百というカメラのレンズが、獲物を狙う銃口のように自分に向けられている。割れんばかりの拍手が耳を劈くが、理久にはそれが、自分の葬送行進曲のように聞こえていた。
マイクの前に立つ。
静まり返る会場。数秒の沈黙が、永遠のように引き延ばされる。
理久は、客席の最前列で勝利を確信した笑みを浮かべる瀬尾を見た。そして、舞台袖の暗がりに立ち、自分を真っ直ぐに見つめている由希を見た。
彼女の目は、言っていた。
――「名前を返して。私に、そして、あなた自身に」
理久は、深く、深く、肺が破れるほど空気を吸い込んだ。
そして、三年間で初めて、自分の喉を震わせる「本物の振動」を、マイクに乗せた。
「……今日、僕は、ここにある全ての栄光を捨てに来ました」
その一言で、祝祭の空気は一瞬にして凍りついた。
「……今日、僕は、ここにある全ての栄光を捨てに来ました」
理久の放った一言は、静寂を切り裂くナイフだった。
華やかなシャンデリアの下、数瞬の空白の後、会場はざわめきを通り越し、地鳴りのような困惑に包まれる。瀬尾の顔から余裕が消え、眉間が険しく歪むのが見えた。だが、理久はもう誰の視線も恐れていなかった。
「皆さんがこれまで愛し、涙を流してくれた九条理久の作品は……一文字残らず、僕の言葉ではありません。僕には、一行の物語も、一滴の絶望も、自ら生み出す力なんてありませんでした。僕はただ、一人の女性の魂を……佐伯由希という作家の命を盗んで、自分の顔で売り捌いていただけの、空っぽな偽物です」
会場のあちこちで、グラスが床に落ちる高い音が響いた。
カメラのフラッシュが、かつてないほどの激しさで理久を撃ち抜く。それは祝福ではなく、裏切り者への死刑宣告の光だった。
「彼女は三年間、この部屋の影で指を血に染めながら、僕という人形を動かし続けました。僕が語った過去も、僕が背負った孤独も、すべては彼女の記憶を汚して作った、まやかしのメッキです。……僕は今日、この場所で、九条理久という名前を死なせます。そして、廃業します」
理久の声は震えていた。だが、その震えは恐怖ではなく、三年間せき止められていた「本当の自分」が溢れ出す熱量だった。
「……あ、先生! 何を言っているんですか!」
「冗談ですよね!? 放送事故だ、マイクを切れ!」
スタッフたちが慌てて駆け寄る。だが、理久はマイクスタンドを強く握り締め、剥き出しの言葉を続けた。
「……騙し続けてごめんなさい。でも、僕を愛してくれた皆さんに、これだけは伝えたかった。……九条理久は死んでも、佐伯由希の言葉は、本物です。どうか……僕という嘘を呪っても、彼女が遺した物語だけは、汚さないでほしい……」
理久は、深く、深く、折れそうなほど腰を曲げて頭を下げた。
それは、三冠作家としての優雅な礼ではない。自分の卑屈さと罪をすべて晒した、一人の男としての無様な、しかし初めての「誠実な礼」だった。
会場は一変して、罵声と怒号が飛び交う戦場となった。
スポットライトが消え、闇が降りる直前、理久は舞台袖を見た。
そこには、震える肩を抱き、涙を流しながらも、真っ直ぐに自分を見つめ返す由希がいた。
由希の瞳の中で、九条理久という名の怪物が灰になり、ただの理久が、今、産声を上げた。
理久がマイクから手を離した瞬間、会場を支配していた祝祭の空気は、一気に凍てつくような悪意へと反転した。
数秒前まで「至宝」を眺めていた人々の瞳には、今や剥き出しの軽蔑と、騙されたことへの憤怒が渦巻いている。
「ふざけるな! 詐欺師が!」
「金返せ! 読者を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
怒号が飛び交い、誰かが投げたクリスタルグラスが壇上の縁で砕け、鋭い破片を理久の足元に散らした。舞台袖では瀬尾が、これまで一度も見せたことのないほど激しい形相で、スタッフに怒鳴り散らしている。
「マイクを切れと言っただろう! 中継を止めろ! 早く彼を引きずり降ろせ!」
屈強な警備員たちが理久の腕を掴み、半ば拉致するように舞台の奥へと引きずっていく。理久は抵抗しなかった。ただ、その乱れた髪の間から見える瞳は、すべてをさらけ出した安堵感からか、不思議なほど透き通っていた。
舞台裏の通路。由希は押し寄せるスタッフの波を掻き分け、理久の元へと駆け寄った。
「理久!……理久!!」
由希の声に、理久が顔を上げる。二人の間に、数人のスタッフと警備員が割って入ろうとするが、理久は死に物狂いでその腕を振りほどき、由希の、インクの染みがついた右手を強く掴んだ。
「由希……言ったよ。全部……全部返した」
「……馬鹿ね。本当に、取り返しのつかないことを。これで、あなたはもう一生、日の当たる場所へは戻れないのよ。……名前も、名誉も、全部灰になったのよ」
由希の頬を、熱い涙が伝い落ちる。理久はその涙を、震える指先でそっと拭った。
「いいんだ。灰の中で、君の名前だけが残ればいい。……ごめんね、由希。こんな無様な終わり方で。……でも、今、やっと君とまともに目が合っている気がするんだ」
理久の言葉が、由希の胸を鋭く刺した。
三年間、彼女が見つめていたのは「九条理久」という自分が創った幻影だった。だが、今目の前にいるのは、汗と涙でぐちゃぐちゃになりながら、必死に自分の存在を証明しようとしている一人の男だ。
「……行きましょう、理久。ここにはもう、私たちの居場所なんてない」
由希は理久の手を引き、逆光の中、ホテルの非常階段へと走り出した。
背後からは、狂ったような報道陣の足音と、怒号の残響が追いかけてくる。
栄光という名の牢獄が崩れ落ち、二人の「本当の地獄」と「本当の人生」が、同時に幕を開けようとしていた。
ホテルの搬入口を飛び出した二人が目にしたのは、夜の闇を白く焼き切る、無数のフラッシュの光芒だった。
情報は光よりも速く街を駆け巡り、ネット上の速報を見たパパラッチや野次馬たちが、獲物の首を狩るために包囲網を敷いていた。
「九条さん! 今の発言は本気ですか!」
「佐伯由希さんですね! あなたが本当の作者なんですか!」
「読者を騙していた罪の意識はないんですか!」
浴びせられる言葉は刃となって、二人の肌を容赦なく切り刻む。理久は自分のジャケットを脱ぎ、由希の頭から乱暴に被せた。彼女の小さな肩を抱き寄せ、押し寄せる群衆の壁を強引に割り進む。
「……見ないで、由希。前だけ見て!」
理久の叫びは、怒号にかき消された。ようやく捕まえたタクシーのドアを叩き閉める。運転手が「なんだ、騒がしいな」と怪訝そうにバックミラーを覗き込んだ。
「……いいから、出してください! どこでもいい、真っ直ぐに!」
理久が叫ぶと、車は急発進した。窓の外を流れていくのは、自分たちの罪を糾弾するSNSの投稿や、ニュースサイトの「九条理久、衝撃の謝罪」という見出しが躍る電光掲示板だ。
車内には、重苦しい沈黙が降り積もる。
由希は膝の上で組んだ両手を、爪が食い込むほど強く握りしめていた。理久もまた、乱れた髪を掻きむしり、荒い呼吸を整えることができない。
「……ねえ、理久。分かってるの?」
由希が、掠れた声で沈黙を破った。
「明日、目が覚めたら……私たちは、日本中で一番嫌われている人間になっているわ。あなたがこれまで手にした印税は、返還請求の対象になる。出版社からの違約金、CMの賠償金……それは、一生かけても払い切れないような金額になるはずよ」
「……分かってる。分かってるよ。僕が犯した罪だ。美貌を売りにして、君の言葉を盗んだ、そのツケを払うだけだ」
「それだけじゃないわ。……あなたの顔はもう、公衆の面前で自由に歩くことも許さない。どこへ行っても『あの詐欺師だ』と指を指される。……私たちは、社会的に殺されたのよ」
由希の言葉は、冷徹な事実として理久の胸に突き刺さる。
理久は、タクシーの窓ガラスに自分の顔を押し付けた。そこには、三冠作家としての面影など微塵もない、ただの、恐怖に震える哀れな男が映っていた。
「……でも、不思議なんだ。由希」
理久は、力なく笑った。
「こんなに最悪な夜なのに……。あの四十二階の密室で、君の顔色を伺いながら、自分の喉から他人の言葉を吐き出していた時よりも……ずっと、呼吸がしやすいんだ」
「……馬鹿ね。本当に、救いようのない馬鹿だわ、あなたは」
由希は理久の手を、そっと握り返した。
その手は冷たく、激しく震えていたが、由希はそれを一度も離さなかった。
二人の本当の戦いは、スポットライトの下ではなく、この名もなき暗闇の中から始まるのだ。
タワーマンションの四十二階。かつては全能感の象徴だったそのリビングは、今や冷え切った処刑場のようだった。
中央のソファには、瀬尾が足を組み、書類の山をテーブルに広げて待ち構えていた。その背後には、二人の退去を監視するための屈強な男たちが、影のように控えている。
「……九条先生。いえ、ただの『空箱』さん。ずいぶんと派手な心中劇を演じてくれましたね」
瀬尾の声には、怒りすら通り越した、凍てつくような蔑みが宿っていた。彼は指先で一枚の書類をはじき、理久の足元へ滑らせた。
「これは、現時点で算出された損害賠償と違約金の概算です。広告の解約、既刊本の回収、そして修英館の信用失墜に対する補填。……三桁では足りない。あなたが一生かけて、土下座して泥水を啜りながら働いても、払い切れる金額ではありませんよ」
理久はその数字を一瞥し、静かに目を閉じた。由希がその横で、瀬尾を真っ向から睨みつける。
「お金なら、私の口座にある分も、印税の残りも、全部差し出すわ。……それで満足? あなたが愛していたのは、文学でも才能でもなく、九条理久という商品が稼ぎ出す『数字』だけだったものね」
「満足? 冗談はやめてください。私が惜しんでいるのは、私が丹精込めて作り上げた『最高の欺瞞』が、あなたたちの稚拙な正義感で壊されたことだ」
瀬尾は立ち上がり、由希に一歩詰め寄った。その瞳には、狂信的なまでの執着が宿っている。
「佐伯さん、あなたは分かっていない。……明日から、あなたたちの名前は辞書に載る『汚名』になる。どの出版社も、どのメディアも、あなたたちにペンを握らせることはない。……あなたは、九条理久を殺したつもりかもしれませんが、同時に自分という作家も殺したんですよ。世界はね、『本物の真実』なんて求めていない。美しき嘘を愛しているんです」
「……それでいいわ」
由希の声は、驚くほど澄んでいた。彼女は理久の手を引き、瀬尾の横を通り抜けて玄関へ向かう。
「嘘の神殿で崇められるより、ドブ川の底で自分の名前を名乗る方が、ずっと清々しい。……瀬尾さん、あなたはこれからも、中身のない美しい箱を探して、一生虚像を追いかけていればいいわ。私たちは、もうあなたの『作品』じゃない」
「……後悔しますよ。地獄は、これから始まるんですから」
瀬尾の呪詛のような言葉を背に、二人は一度も振り返ることなく、重厚な扉を閉めた。
カチリ、とロックが閉まる音。
それは、三年間続いた贅沢な悪夢からの、完全な決別だった。
数日後。四十二階の「神殿」は、文字通りもぬけの殻となっていた。
イタリア製のソファも、特注のデスクも、三冠受賞を祝う無数のトロフィーも、すべてが差し押さえの赤い紙と共に運び出された。残されたのは、フローリングに刻まれた家具の跡と、驚くほど無機質な、ただの四角い空洞だけだった。
理久と由希は、照明さえ消された暗いリビングの床に、寄り添うように座っていた。
「……こんなに広かったんだな、ここ。家具がなくなると、自分の声が響いて、なんだか別の場所にいるみたいだ」
理久がポツリと漏らす。その声は、かつての傲慢な響きが嘘のように、凪いでいた。
「成功って、案外軽いものね。三年間、あんなに必死に守り続けて、命まで削って積み上げたものが、数時間の暴露と数枚の書類で、これっぽっちも残らないんだから」
由希は自分の指を見つめた。ペンだこで歪んだ中指は、重圧から解放されたせいか、少しだけ軽く感じられた。
「……ねえ、理久。あなたは、あの大きなステージの真ん中で、何を考えていたの? 全部を捨てて、私を『本物の作家だ』って叫んだとき」
理久は、暗闇の中で天井を見上げた。
「……何も考えてなかったよ。ただ、君が書いてくれた嘘の台本が、急に砂を噛んでいるみたいに不味くなったんだ。……君の母さんの思い出を自分のものとして語るたびに、僕の中の何かが死んでいく音が聞こえて。これ以上喋ったら、僕は本当に、君が愛したかもしれない『僕』を殺してしまう気がしたんだ」
「……愛してなんて、なかったわよ。私はただ……」
「いいんだよ、由希。……嘘でもいい。君が僕を創ってくれたことだけは、僕にとって唯一の『真実』だった。……見てごらんよ、あの夜景」
窓の外、遮光カーテンを失った大きな窓からは、東京の街が、これまでで一番残酷に輝いて見えた。
「あんなにたくさんの光があるのに、僕たちの名前を知っている人は、もう一人もいない。みんな『九条理久』という幻影が死んだことを喜んで、別の物語を探しに行くだけだ。……僕たちは、本当の意味で、ただの二人きりになったんだね」
理久が、震える手で由希の肩を抱き寄せた。
かつての贅沢な食事や、高価な香水の匂いはもうない。そこにあるのは、互いの不安な鼓動と、生きるために必死に繰り返される呼吸の音だけだった。
「……怖い?」
由希の問いに、理久は小さく首を振った。
「いや……不思議だよ。何もないこの部屋の方が、あの重厚なソファに座っていたときより、ずっと自分の体がここにあるって感じがする」
二人は、朝の執行人がやってくるまでの数時間を、沈黙の中で共有した。
全てを失い、灰になったこの場所で、二人は初めて、誰の言葉でもない「自分たちの沈黙」を、深く、静かに噛み締めていた。
マンションを後にした二人を待っていたのは、物理的な暴力よりも鋭い、言葉の暴風雨だった。
ネットを開けば「稀代の詐欺師」「文学を汚したゴミ」という罵詈雑言が、秒単位でタイムラインを埋め尽くしている。理久の美しい顔は、面白おかしくコラージュされ、嘲笑の対象として拡散され続けていた。
二人は顔を隠すように深くキャップを被り、格安の深夜バスを乗り継いで、誰にも知られない地方の安宿を転々とした。
「……九条理久。見てよ、これ」
コンビニの片隅で、理久が震える指でスポーツ新聞を指差した。そこには『偽天才、地獄へ。違約金は数十億か』という見出しが踊っている。理久は自嘲気味に笑ったが、その瞳にはかつての絶望的な怯えはなかった。
「みんな、僕が死ぬのを楽しみにしてる。僕が積み上げた『嘘』が崩れる音が、彼らにとっては最高のご馳走なんだろうね」
「……ごめんなさい。私が、あなたをそんな場所に立たせたから」
由希が俯くと、理久は静かに首を振った。
「いや……いいんだ。こうして街の冷たい空気を吸って、見知らぬ誰かに睨まれたり、無視されたりするたびに、僕は自分が『九条理久』という記号じゃない、ただの人間なんだってことを思い出せる。名前なんてなくても、石を投げられても、僕はここに立っている。それが分かっただけで、僕はもう十分だよ」
公園のベンチで、冷え切った缶コーヒーを分け合う。
隣を通る人々は、この汚れた身なりの男女が、つい数日前まで日本中の脚光を浴びていた三冠作家とそのゴーストだとは夢にも思わない。
世界から捨てられた。それは、誰の期待も、誰の視線も、誰の台本も気にしなくていいという、究極の解放でもあった。
「……ねえ、理久。私たち、これからどうなるのかしら」
「分からない。でも、もう誰にも『九条』なんて呼ばせない。僕は、僕の名前を取り戻すよ。……君も、そうだろう? 由希」
理久は空になった缶をゴミ箱に投げ入れた。かつての優雅な仕草とは程遠い、乱暴で、しかし力強い動き。
社会的な死は、彼らにとっての「脱皮」だった。
二人は互いの泥にまみれた手を確認するように握りしめ、冷たい夜風の中を、逃亡者ではなく「歩行者」として歩き始めた。
辿り着いたのは、あの築三十年の安アパートだった。
三年前、雨に濡れた理久を拾い、すべてが始まったあの場所。
錆びついた鉄の階段を上るたび、ギィ、ギィと不吉な音が響く。だが、今の二人にとってその音は、自分たちの本当の足跡を刻んでいるような、不思議な安心感を与えていた。
鍵を開け、ドアを押す。
カビの匂いと、閉め切られた部屋特有の澱んだ空気。
タワーマンションの自動空調に慣れきった体には、その湿り気がひどく生々しく感じられた。
「……何もないな。本当に、最初と同じだ」
理久が、月明かりだけに照らされた六畳間の真ん中に立ち、ぐるりと部屋を見渡した。
差し押さえの手を免れた、数冊の参考書と、古びたローテーブル。そして、由希が肌身離さず持ち歩いていた、あの母との思い出が詰まった一冊のノート。
「……おかえり、由希。……いや、佐伯由希先生」
理久は振り返り、玄関で立ち尽くす由希に、優しく微笑みかけた。
その微笑みには、もはや鏡の前で磨き上げた「九条理久」の影は一欠片もなかった。
借金を背負い、名前を汚し、未来を失った一人の男。
だが、その瞳は、他人の言葉を代弁していた頃よりも、ずっと深く、強い意志で由希を捉えていた。
「……ただいま。理久」
由希は靴を脱ぎ、畳の上に崩れるように座り込んだ。
指先が、無意識に、何もない空間で文字を打つように動く。
三年間、彼女はこの部屋から逃げ出したい一心で、理久という虚像を創り上げた。
だが、結局戻ってきたのは、自分の嘘と本当が混ざり合う、この最低で最高の原点だった。
「……ねえ、理久。私たち、あんなに遠くまで行ったのにね。結局、この六畳間から一歩も進めていなかったのかしら」
「違うよ。……三年前の僕たちは、ただここから逃げることしか考えていなかった。でも、今の僕たちは、ここが自分の場所だって分かって戻ってきたんだ。……それは、天と地ほどの差があるよ」
理久は由希の隣に座り、彼女の冷え切った手を、自分の大きな掌で包み込んだ。
ペンだこで歪み、腱鞘炎で震えるその指先こそが、自分を「生かしてくれた」本物の才能であることを、彼は今、理屈ではなく心で理解していた。
「……もう、九条理久はいない。ここには、ただの無能な僕と、本物の作家の君がいるだけだ。……さあ、由希。君の本当の物語を、ここから始めよう」
理久の声が、静かな部屋に溶けていく。
二人の間にあった歪な「主従関係」は消え、そこには、互いの傷を知り尽くした共犯者同士の、静かな覚悟だけが漂っていた。
深夜二時。窓の外は、静まり返った街に街灯が一つ、瞬きもせずに立っているだけだった。
六畳一間の安アパート。かつてこの部屋で、由希は自分の「無能」を呪い、理久という仮面を被ることで世界を欺いた。だが今、彼女の前に置かれているのは、もう誰の名前も借りない、ただの真っ白な原稿用紙だった。
「……書けるかな。理久」
由希の指は、キーボードの上で幽霊のように震えていた。
名前を失い、社会的抹殺を受け、莫大な借金を背負った今の彼女に、誰かが言葉を求めているわけではない。むしろ世界は、彼女が二度とペンを握らないことを望んでいる。
理久は、隣で静かに茶を淹れていた。
かつての高級なアールグレイではない。スーパーで買った安物の番茶。だが、その湯気の向こうにある彼の眼差しは、どの読者よりも厳しく、そしてどの崇拝者よりも優しかった。
「書けるよ。……君は、僕という嘘を創り上げたときよりも、ずっと自由なんだから。……誰の視線も、誰の期待も、ここには届かない。……君が、君自身の魂を、一文字ずつ処刑するみたいに綴ればいいんだ」
理久は由希の肩に手を置いた。その掌の熱が、冷え切った由希の指先に伝わり、凍りついていた思考を溶かしていく。
「……そうね。私は、私のために書くわ」
由希は深く、重い息を吐き出した。
カチ、という乾いた音が、静寂を破る。
最初の一文字。
それは「九条理久」が得意とした、洗練された比喩でも、澄んだ孤独でもなかった。
泥臭く、不恰好で、それでも生きることを諦められない女の、剥き出しの絶望と、微かな、本当に微かな「光」への飢えだった。
カタカタカタ……。
タイプ音が、夜の空気を震わせていく。
一文字打つごとに、自分の過去を一つずつ埋葬し、代わりに新しい「佐伯由希」という輪郭をなぞっていく感覚。
由希は泣きながら、狂ったようにキーを叩き続けた。
腱鞘炎の痛みが火を吹くが、その痛みこそが、自分が「作家」として今この場所に立っている証拠だった。
理久は、その音を黙って聞いていた。
かつてのように「次の原稿を早く」と急かすことはない。
彼は、由希が苦しみながら紡ぎ出す一文字一文字が、自分たちが犯した罪の浄化であり、同時に新しい人生への署名であることを知っていた。
夜が明けるまで、その音は途切れることがなかった。
由希の瞳には、三冠を獲った夜にも見せなかった、凄まじいまでの生気と執念が宿っていた。
名前を返した今、彼女は初めて、自分自身の「血」で、物語を綴り始めていた。
東の空が白濁し、夜の帳がゆっくりと剥がれ落ちていく。
六畳間の薄暗い闇が朝の光に侵食され、埃の舞う空気の中に、一晩中格闘し続けた二人の輪郭が浮かび上がった。
由希は、重い瞼を持ち上げ、ディスプレイの最後の一行を見つめた。
そこには、三冠作家「九条理久」が決して書くことのなかった、あまりにも無様で、あまりにも生々しい、希望の欠片もない絶望の記録が綴られていた。
だが、その不恰好な文字の羅列こそが、由希が三年間ずっと、喉の奥に詰まらせていた本物の言葉だった。
「……終わったよ。理久」
理久は、いつの間にか由希の足元で眠っていたが、その声に弾かれたように目を開けた。
彼は顔を洗いに行くこともせず、寝惚け眼のままディスプレイを覗き込む。
数分間の、張り詰めた沈黙。
理久の瞳が、画面の文字をなぞるたびに、驚きと、悲しみと、そして深い敬意に濡れていくのを由希は隣で感じていた。
「……すごいよ、由希。こんなに苦しくて、こんなに汚いのに……これまでのどの名作よりも、僕の胸に刺さる。……これが、君の本当の言葉なんだね」
「ええ。……もう、誰の顔も、誰の名前も借りない。……私は、私を殺して生きるのを、今日、この瞬間をもって終わりにするわ」
由希は、震える指先でカーソルを末尾へと移動させた。
かつて、魔法のように名声をもたらした「九条理久」という四文字ではない。
あの日、雨の新宿で一度捨てた、呪いのような自分の本名を、一文字ずつ、祈るように打ち込んでいく。
――著者:佐伯由希
その署名が画面に刻まれた瞬間、窓の外から強烈な朝日が差し込んだ。
ゴミの散らかった部屋、ボロボロの服、莫大な借金、そして社会的抹殺。
照らし出されたのは、あまりにも悲惨な現実だった。
だが、朝日を浴びる由希の横顔は、四十二階の密室で女王として君臨していた頃よりも、ずっと誇り高く、気高く、そして自由だった。
「……行こうか。理久」
由希が立ち上がると、膝の関節がミシミシと音を立てた。
理久は微笑み、由希の泥のついた手を、かつてないほど確かな力強さで握りしめた。
「ああ。……まずは、コンビニで一番安いパンでも買いに行こう。……これから、死ぬほど働いて、死ぬほど恥をかいて、死ぬほど君の物語を書こう。……二人で、ただの人間として」
二人は、鍵の壊れかけたドアを開け、眩い光が満ちる外の世界へと踏み出した。
階段を降りる足音は、まだ少し頼りない。
それでも、彼らの背中を照らす朝日は、名前を返した二人の、新しい一行目の始まりを祝福するように、どこまでも白く、どこまでも真っ直ぐに輝いていた。
名前を貸した夜は、もう遠い昔。
ここから始まるのは、誰も知らない、嘘のない、自分たちだけの署名が続く物語。




