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metamorphosis  作者: シ閏
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最近聞いている曲は、Frank OceanのPretty Sweetです。

 瀬名と獄介


 全身を包み込む心地良さ。瞳を覆う温かな瞼と指先から足のつま先を伝う朗らかな感覚。目をつぶりながら、いつの間にか戻っている感覚と、つい先ほどまでしていた考え事や悩み事、布団に潜ってからの記憶が曖昧に形を崩して脳みそに流れ込んでくる。

 目の前は真っ暗。なのに、少しオレンジがかった赤色。少し肌寒くて、焦げ…臭い………?

 あれ……これって。


 瞼を開く。

 丸い蛍光灯と、薄いオレンジ色の天井。かすかに聞こえる車の行き交う音。男の不満げな声。

 布団をはねのけて体を起こす。大きくあくびをしてたるんだほっぺたを持ち上げ、ベッドから立ち上がる。そうして、焦げた臭いの充満したリビングへと顔を出す。

 「瀬名、起きたか。すまん卵焦がしちまった」

 エプロンが全くと言っていいほど似合わない男がフライパンを片手に配膳をしている。ヨレヨレの襟とボサボサの髪。いつも通りにだらしない。 

 「料理は私がするって言ったじゃん」

 悪態をつきながらも席に座り、コップに注がれたお茶を飲む。

 「おら、俺の特製ポーチドエッグだ」

 そうして机の上に出された所々が黒く染まったスクランブルエッグを睨んでため息を吐く。

 この野暮ったい男は坂口 獄介。両親がいない私はこの獄介おじさんと二人暮らしをしている。獄介は所謂政府の人間だ。具体的に何の仕事をしているのかも知らないし、家に帰ってくるのも遅い。何週間と帰ってこないこともざらにある。そうやって仕事で家を空けている獄介の代わりに学校から帰宅してすぐのクタクタな状態の私が一人で家事をこなす。

 それが、坂口家の日常。

 「今日から何日間か帰りが遅くなる…というよりは、家に帰れない日が続くかもしれねんだが、この前みたいに寂しがって執拗に連絡とかしてくんじゃねえぞ?」

 そうしていつものように茶化してくる。執拗に電話をかけてくるのはお前だろう、と喉まで出かかった言葉を焦げたスクランブルエッグと共に渋々飲みこむ。

 「なにかあったの?」

 「まぁ、あれだ。血族動物の野郎がやっちゃいけねえことをしたんで、しばきに行くんだ」

 血族動物。テレビだと毎日のように事件だの事故だので聞く単語。しかしそこまで興味があるわけではないし、自分とは関係ない所で勝手にしてくれて構わない。

 「しばくって…私いまごはん食べてるんだけど」

 「え?あぁ、おう」

 こちらの言葉の意図がまるで汲み取れていない様子の獄介がパッとしない表情を浮かべて下手な相槌を打つ。

 「まぁ、それで俺がいない間のハウスキーパーを友人に頼んだんだが」

 「なんで?私がいるのに?」

 「あぁ…?お前、四日後には修学旅行で大阪にいるんじゃなかったか?」

 「……確かに」

 四日後の修学旅行、そういえばそうだった。まだ一つも準備もしていない。

 「で、その人はいつ来るの?流石に出発のタイミングで鉢合わせとか嫌なんだけど」

 「え?……あー………そう…か…あぁー……」

 獄介が何やら渋い表情を浮かべては節操なく視線を動かしてそう繰り返す。

 「すまん。来るの、今日なんだわ」

 は?

 「今日!?」

 イスを跳ねのけて立ち上がる。その反動で箸が落ちてしまったが、そんなのどうでもいい。

 「普通は私が修学旅行行ったあとに呼ぶでしょ!!!」

 「そ、そうだよな!それが普通だよな!あはは」

 「あははじゃないでしょ!!」

 「おお………あぁ、すまん。つい我が娘の勇ましさに感心して…つか、そんな声を荒げんでもいいだろう?」

 机に肘をつきおでこに手を当てその厄介そうな顔を瀬女から逸らす。

 「は?!じゃあ私は見ず知らずの人と4日間一緒に生活をしろって?そんなの絶対イヤ!!イヤと言うか無理!!無理無理無理!!」

 「なぁ、これってそこまでの事か?」

 「そこまでの事だよっ!!」

 瀬女のその心からの叫びを聞いた獄介はおでこへ当てていた手のひらを耳に押し当てては面倒くさそうな顔で軽くため息を吐く。

 「あぁもう、悪いことをしたとは思ってるから、とりあえず、ほら、落ち着けって…な?和解しようぜ?」

 獄介も同じように立ち上がり、身振り手振りで弁解を試みる。

 「まぁ、なんだ。そいつは、まぁ、一応は女だし、酒飲んだら手が付けられなくなるが……いや、その、なんだかんだ面白い奴で……お前も会って損はないだろうから…何と言うか…あはは…」

 何を笑っているんだ!!こっちはもうすでに損した気分だ!!…と睨みながら頭の中で言い放つ。

 「なんでこうさ…」

 そう言いかけたタイミングで獄介が視線を上に逸らし、変わらない口調で口を開く。

 「それよりお前、支度はしなくていいのか。もう8時だぞ」

 「え?」

 まさかと思って振り返ると、7時58分を指す時計の針が見える。ここから学校までは徒歩40分。朝の会が8時45分からなので今から支度をするとなると……遅刻だ。

 「ちょっと!!早く言って!!」

 そう吐き捨てながら勢いよく自室に飛び込み、学校へ行くための支度を始める。慌ただしくパジャマをベッドの上に脱ぎ捨て、下着姿のままで部屋をうろつく。

 「うっわさっむ」

 ドスを利かせた女子らしからぬ声でそう呟いて、制服が掛けられているはずの壁へ目をやる。が、ハンガー一つ残してシャツが行方を眩ましている。

 「はぁ?…もうなんで」

 そのまま慌ててリビングにかける。

 「ねぇ!私のシャツは!?」

 「あぁ、お前のシャツは…だっっ!?おめぇなんちゅう格好してんだ!少しは女の自覚を」

 「シャツどこ!!」

 獄介の言葉をひねりつぶし、恥ずかしげもなく下着姿でシャツの行方を問い続ける瀬女に押し負け「風呂場…」と片手で両目を隠しながら一言。

 「もうなんで」と吐き捨て急ぎ足で自室に戻ると、学校カバンとスカート、黒の靴下とを両手いっぱいに抱えながら勢いよく飛び出し、そのまま風呂場へ直行する。

 靴下を履き、洗濯籠に粗雑にたたまれたシャツの袖に腕をくぐらせる。乾燥器から出したばかりなのか、ほのかに暖かい。次にスカートをたくし上げて制服に着替える。髪を櫛でとき、鏡に映った自分を凝視する。

 つややかな黒髪に生まれつきの真っ白な1本線。眉間にシワを寄せる自分が鏡の向こう側から睨みを利かせている。

 獄介曰く、顔も性格も母親そっくりなのだそうだ。

 「似てるかなぁ」

 そう呟く。

 私の母はノイズのひどい何かしらの集まりの集合写真でしか見たことがない。どんな目で、どんな喋り方で、どんな声だったのかも知らない。知っているのは乃々女と言う名前だけ。

 手首にはめたヘアバンドを外して髪を括る。髪をそのまま提げるのは問題ないが、肩にかかるのは校則違反なのでポニーテールに仕上げる。歯磨きを手短に済ませ、カバンをぶら下げ、ローファーのかかとを踏み、勢いよく玄関のドアを開け放つ。


 同級生とハウスキーパー


 ドアを勢いよく開くと、木の匂いと同年代の男子女子の喧騒の充満する空間が立ちはだかる。大きく呼吸をして、うるさい鼓動を落ち着かせながらその空間へ足を踏み入れる。

 「セナチンぎりぎりだね~」

 教室に入るとすぐそんな声が聞こえた。

 「あーちゃんおは。いやぁごめん、時計見てなかったわ」

 花垣 明佳とは同じ中学に通っていた親友でこの高校へは共に進学を果たした。

 『市立平塚西高等学校』はそれなりに偏差値が高いこともあり、明佳には中学3年生の夏以降勉強面で信じられないほど助けられた。彼女には一宿一飯の恩義?とか言う奴があるのだ。

 「ちょ、汗やば、下着透けてるって」

 仕方がないだろう。自宅からここまで全力で走ったのだ。階段を駆け上がる姿なんて、明佳が見たらきっと私が誰だか分からなくなるくらいには全力で駆け上がってきた。

 そんな瀬女の勇姿を見た明佳が慌てて立ち上がっては瀬女の小さな肩を鷲掴み教室から押し出す。

 「こんなの、ブレザー着ちまえば問題ないって」

 「だーめ!セナチン可愛んだからしっかりしないと!!」

 あと5分でチャイムが鳴るにもかかわらず、瀬女は明佳によってトイレに連れ込まれ、肌についた汗をボディペーパーで満遍なく拭き取られる。

 そうこうしているうちに8時半を告げるチャイムが校内に鳴り響く。急いで教室に戻っては席へつき、そのタイミングで1年C組担任の上石神井先生による朝の連絡が始まる。

 出席番号順に名前が呼ばれ、各々が軽く返事をする。それが終わると、酔っ払いの不審者情報からお昼休みにある集会の話に移る。そして保健室からのお便り、学校調査アンケート、その次に保護者に渡す用のプリントがまるで単純作業をこなすかの様にして配られる。それをひたすらにファイルに閉じてゆく。

 そうして朝の連絡が終わり10分ほどの休み時間が始まる。

 「一時間目ってなんだっけ」

 瀬女がカバンの中をまさぐりながら煩雑に入れられた教科書とノートを机の上へと積み重ねていく。

 「一時間目は血族史だから、移動教室だよ」

 「うへぇ…めんどくせえ」

 そうぼやいては机の上に聳え立った教科書の積み木から血族史の教科書を器用に引き抜き、ルーズリーフを一枚だけ手に取ると教科書の中へ挟んで閉じる。

 「あーちゃん、今日もシャーペン貸ーして!」

 「えぇ?今日も持ってきてないの?全くセナチンときたら…」

 そんな会話をしながら教室の戸を開けると、やつれた表情をした男子生徒が突っ立っている。

 「うお、ひゅーちゃん。見ないと思ったらまた遅刻?」

 加賀 飛兎汰は入学式より仲良くしている男友達というやつだ。この様子だとまた遅刻して反省文を書かされていたのだろう。

 こちらに気付いた飛兎汰はため息をつきながらぼそぼそと話し出した。

 「いや、ガチでツイてねーわ。今日の指導担当荒カスだった。マジでつかれた…」

 荒カスは隣のBクラスの副担任である体育教師の荒川 哲茂のことだ。その理不尽さと器の小ささから侮蔑の意味を込めて荒カスと呼ばれている。

 「あら~それは災難、ドンマイ」

 隣にいた明佳が軽く励ます。

 「お前今日は遅刻しないとか言ってなかったか?」

 後ろから声が聞こえる。振り向くと、見上げてようやくその顔が窺い知れる程の高身長の青年が腰を掻きむしりながら突っ立っている。

 飛兎汰の親友である赤曽根 恭介はバスケ部に所属しており、高校1年生にして174㎝と高身長で顔も整っていることから校内中の女子が彼を狙っている、のだそうだ。

 「急げ~おいてくぞ~」

 いつのまにか廊下の突き当りまで歩を進めていた明佳に駆け足で瀬女がついていき、その後を追うように恭介、数秒してからダッシュで飛兎汰が教室を出てくる。


 北山 東

 

 「ふいー、やっと終わった…あーちゃん帰っぞー」

 六時間目の授業が終わり、今朝の喧騒とはまた違った慌ただしさが夕日の差す教室を満たしては徐に失われて、途端に静寂が訪れる。そうしていつも通りの放課後が訪れる。

 「ごめん!今日塾の日で迎え来てるから一緒に帰れないんだよね」

 「えぇー…」

 しょげる瀬女を他所に明佳は「じゃあお先!」と言い残して早々に教室を去る。

 「……まじかー」

 そうつぶやいては机に積まれた教科書の積み木をカバンの中へと流し込む。


 一人寂しく帰路を進んでいると、どこからともなく誰かが喧嘩をしているのであろう怒鳴り声が聞こえてくる。副数人いるようで、その中からは女性の声も聞こえる。ろれつが回っていないようで各々が何を言っているのか全く分からないし、分かりたくもない。おおよそ酔っ払いの喧嘩だろうと気に留めず、8階建マンションの3階にある我が家へと帰宅する。鍵は掛かっていて誰かが来た痕跡はない。一息ついて、部屋の片づけを始める。


 日も沈み1人パジャマ姿で夕飯の冷凍チャーハンを食べながらバラエティ番組を見ていると玄関のチャイムが鳴った。例の友人か否か。相手が女性であること以外の情報が無いのでドアの向こう側の人物が本人かどうかは直接聞く必要がある。

 少しだけ緊張をしながらインターホンの前に立ち『通話ボタン』を押すと、画面越しに服がはだけ、髪はぼさぼさ、片手に一升瓶を抱えた顔の真っ赤なショートカットの女性が映る。それを見て、とてつもなく嫌な予感を瞬時に催す。

 「……坂口です」

 「おーーーーっす!!ごっくすっけちゃーーーーーーん!!!きたろーーー!!つーか来てやったろーーーー!!!」

 なんだこいつは。

 「え?やば、あの、すみません。どなたですか?というか静かに…」

 「あれーぇぇぇえ?女の子の声がするろぉーー??私を差し置いれ女つれこんれんのかよ!!おーーーい出れこーーい!!私がFBIだぞぉぉお!!!!」

 モニターのスピーカーがはち切れそうな程の音割れとノイズ音。そんなに騒がれたら間違いなく苦情が来る。

 「やばいから!ちょっ、あの、いい加減にしてください!あぁ、もう!!」

 急いでカギを開け、女の腕を掴んで中へ連れ込む。

 「くっさ!!」

 そして同時に信じられないほどのアルコール臭が部屋に充満する。

 そういえば酒を飲んだら手が付けられなくなるとか言っていた。なるほど…いやはや…

 「あの、もしかして、あなたが坂口 獄介のご友人の…」

 鼻をつまみながら質問する。

 「あー!!うん!!!きらあら らじゅまれすぅぅ!!よろしく!えーろぉ……かんなちゃん!!」

 え?なんて?ららら?

 「カンナじゃなくて、セナです」

 「セラちゃん!!かっわいいれぇえ!!」

 一体どれだけ飲めばこれほどまでに仕上がるのか。自分の名前すらろくに言えないなんて。

 「えーと、もうちょっと素性の分かるものを…」

 そうだ、とにかくこの謎の女のことを少しでも知っておく必要がある。

 「えーっろれぇー、ハイ!さいふッ!」

 「え、あの、財布?」

 「中にいろいろあるはずだからぁ、さがしれみれぇ」

 言われるがままその財布を開くと、いくつかあるクレジットカードに被さる様にして収まっているマイナンバーカードと、所々に黒いしみがついた菱形のバッチ。

 「きたやま……アヅマ?」

 カードには「北山 東」と記されて、バッチにはIROの文字が彫刻されている。

 大体の予測は付いていた。あの人の知り合いなら同業者やその筋の人が来るのだろうと。でも、この名前だけは知っている。日本人の中でも特に名の知れた学者の名前だ。なんか、何とか賞に何度もノミネートされてる凄い人だ。

 「もしかして、キタヤマ アヅマって…」

 「あー!やっぱり知っれるよねー!今はクビになっちゃったんられろ、”イロ”で科学者やっれましらー!」

 全くろれつが回らずほとんど何を言っているのかわからないが”イロ”だけ聞き取れた。

 この人の言う”イロ”は「国際改革機関(International Reform Organization)」略して”IRO”のことを言っているのだろう。

 IROは、言ってしまえば色んな国とその国の団体や軍隊、警察とが寄り集まってできた大きな組織だ。獄介曰く、IROの目的はその名の通り「改革」。古きを捨ててより良いものを構築しましょう。価値観を更新しましょうという組織なのだと。つまりこの世界を改革することを目的としているのだと。そして、そこに組織しない、加盟していない国や団体は、限って良からぬ噂が立つと。

 IROはそういう所らしい。

 「えっと、本当にあのミス アヅマ?あなたが?」

 「本当…ら…も……うっ…」

 先ほどのノリとはうってかわり気分が落ち込んでいくのがわかる。震える口に手を押し当て、その真っ青な頬と焦点の合わない瞳でこちらをじっと見つめる。彼女が一体何を訴えんとしているのか、そんなの聞かなくても分かる。

 「トイレは玄関横にあります。どうぞ」

 そういうと、アヅマは前かがみの状態で口を押さえ、震える肩を壁に擦りながらトイレへ向かう。そしてしばらくしてから「オエェー!!」という猛々しい声と共に吐しゃ物が水に吐き散らかされる音が聞こえてくる。

 ふと帰路の途中で聞こえた酔っ払いの怒鳴り声はあの東のもので、朝の酔っ払いの不審者情報もそうだったのではないかと思ったが、もう色々と面倒くさいので考えるのはやめた。


 だいたい30分くらい経った。顔面蒼白のアヅマはトイレから帰ってくるなりリビングの机に突っ伏してはスマホのバイブ音にも似た呻き声を発し続けている。そうして、ようやく落ち着いてきたのか籠りに籠った声が机を介して聞こえてくる。

 「もぉ……絶対…お酒…飲まない……誓う…からぁ…セラ、ひゃぁんん…セイヤクヒョ……誓約…ヒョ…持ってきて……」

 「はぁ…」

 呆れて何も言えない。

 本当にこの人があの天才科学者ミス アヅマ?もっと堅実で、いや、てっきり男だと思っていた。メディアに顔も出さず研究施設での目撃情報もないとか、一部では架空の人間説というのが出るほどだ。いや、そもそも、同姓同名の赤の他人の可能性もある。

 「あの、誓約書なんてないですから。というか、なんで”獄介おじさん”とアヅマさんは知り合いなんですか?アヅマさんみたいな人があんな頭の悪そうな人とどうして友達みたいな関係なんですか?」

 自分でもすごいことを言ってるのは分かるが、仕方ない。気になるのだから。

 「あはは…ひどぉい……言うあぅぇ…あぁ、気持ちわりぃ……」

 吐き疲れたのか、酔っぱらっていた時と同様に全くろれつが回っていない。

 「すいません、疲れてますよね。変なこと聞いちゃってごめんなさい。明日は学校休みなんで、また明日たくさん質問させてもらいますね」

 そういうとコップにお茶を注ぎ、東の前においた。

 「お風呂場はトイレの横です。それじゃまた明日」

 そういうと瀬女は自室にすたすたと入っていった。


 ミス アヅマ


 翌朝、リビングへ行くとソファーの上で気品のかけらもない格好で眠る東を見つけた。腹を出し、ズボンとTシャツは床に脱ぎ捨て、下着姿のあられもない姿で。世の男性はこれにエロスを見出すのかもしれないが、瀬女にしてみればただのだらしないダメ女である。なるほど、このだらしなさ、だれかとそっくりだ。

 キッチンで朝ご飯を作っているとダメ女がむくりと起き上がる。

 「あっれ~…?ここはどこだぁ…?だれだぁ…?きみはぁ…?」

 どうやら昨晩の記憶が飛んでいるらしい。いや、普通記憶が飛ぶほど飲むか。獄介でももうちょっと自重する。この人はやばい奴か?家に入れちゃダメだったか?

 瀬女の中で危険信号が灯された。

 「えっと、東…さん。おはようございます。ここはあなたの友人?の坂口 獄介の家で、私はその娘の坂口 瀬女です……で、えっと、東さんはこの家のハウスキーパーを頼まれて…ここにいます。あの、お酒はほどほどにしてくださいね」

 後から色々質問されるのは、IROの天才科学者だろうが何だろうがはっきり言って面倒くさい。そして今日はこちらが質問をする番なので隙なく説明する。

 「あー…そっか、また飲みすぎちゃったか。なんかごめんよ。せ、せ、セラちゃん…だっけ?」

 「セナです」

 「そうだ、瀬女ちゃんだ」

 そう言うと、気持ちよさそうに背伸びをし、深く深呼吸をしてからこちらをジッと見つめる。

 「えっと…顔になんかついてます…?」

 「…え?あぁ、似てるなって思って」

 似てる…?

 「誰に…ですか?」

 「お母さんに」

 お母さん………そっか、私ってやっぱり似てるんだ。というか、この人も母と知り合いなのか。そう言えば、母の話は獄介おじさん以外に聞いたことが無かった。

 「お母さんを知ってるんですか?」

 「知ってるって言っても、ちょっと話をしたことがあるってだけなんだけどね。その時は…確か瀬女ちゃんは彼女のお腹の中にいたんだっけ?」

 東が自分のお腹をポンポンと叩いてニッと笑って見せる。

 「お腹の中…ですか」

 「うん。ノノメちゃんに初めて会った時には既にお腹がぷっくりしてたからね」

 東がソファに深く腰掛け、目を瞑っては気持ちよさそうにユラユラと頭を揺らしている。心なしか楽しそうな彼女は続けてそのニタついた口を開く。

 「獄介ちゃんから話は聞いてるよ~。確か、純血なのに”高施”行かずに普通の高校生してるんでしょ?いやー、今時珍しいね」

 ……まぁ、そうだろう。おおよそ言われることはわかっていた。過去、”この選択”をしたことにより周囲の人間からうんざりするほど言われたフレーズだ。

 『高施』とは『高等施設』を略したもので、ボンボンの血族が通う、能力の研究や調整重視の大学みたような場所だ。そして、そこへは能力の才能を認められれば何歳からでも、何時でも入ることができる。本来は私のような純血への水準の高い教育を主として設立された教育機関だから、純血に限っては学費が免除される。つまりは無償で高水準の授業や能力の運用方法を教わることができる場所だ。

 私はそんな機会を蹴って全日制の普通の学校に進学した。

 「まぁ、こっちのほうが楽しそうだったので」

 そうやって適当にごまかす。

 「楽しそう…ね。それで、どう?楽しい?」

 「はい、楽しいです。友達もできたし、みんな私のことを変な目で見たりしなくて、誰も私が純血だからって贔屓したりしないから、こっち選んで正解かなって。それに、高施はとても厳しい場所だとか、能力社会過ぎて精神病んじゃうとか聞いたし、私はそこまで特異能力に興味もありませんから」

 きっぱりと返したつもりだったが東の口角はなぜか上がっている。

 「ふーん……それが良いとか思ってるんだ」

 「……え?」

 先ほどと口調は変わらない。おそらく東のその一言で、ほんの少しばかり、この場の空気の流れが変わったのだろう。

 「知ってるだろうけど、特異能力ってのは思春期が終わるまでには”確実に”使えるようになる。高施の高水準な教育を受けながら特異能力発動のパターンを過去の生徒のデータに則って勉強して、実践する。そうしていくうちに特異能力の何たるかを学んで、気付けば使えるようになっていた、っての言うのがほとんどだね。まぁしかし、極々稀にそうならない事がある。つまりは、特異能力が思春期、もしくは18歳を終えても発現しなかった場合、適齢期を過ぎても発散されない、日の目を見ない特異能力は純血本人の体内で不規則で予測不可能な反応を起こして、最悪の場合......」

 そこまで言うと東は、軽く握った拳を目の高さまで上げて、おどけるようにして爆発のジェスチャーと共に「ボンっ」と一言。

 この人もお堅い研究職の人間だ。この人の素性を知った途端から、いつかこういう話を振られるんじゃないかとうすうす勘づいてはいた。

 しかし、その言葉はこれまで耳が腐り落ちるほど聞いているし、瀬女にとってその言葉はただの”フレーズ”に過ぎない。あしらいなれている。

 「お気遣いは無用です。”特異能力の暴発”なんて、その純血さんが持っていた特異能力が人に危害を加えるかもしれないって場合に限った話でしょう。花の成長速度を加速させる特異能力が暴発したところでその場所が一面花畑になるだけ。しかも、そういう危ない特異能力はここ何百年って出てきていないじゃないですか。それに、特異能力の暴発で死んだ人は1920年以降一人も確認されていない。でしょ?そもそも私はまだ15歳ですし」

 そういうと瀬女は心の中でドヤって見せる。

 ”暴発、ぼうはつ、ボウハツ”。私が普通に学校生活を送っているのを見た奴らは口々にそう言う。”あなたは純血なんでしょう?暴発のことはしっかり考えているの?”だとか”純血としての責任が足りない”だとか。耳にタコができるほどに聞かされたセリフだ。特に、隣のクラスのあのムカつく教師にはうんざりするほどに言われた。

 最初は黙ってはいはいと流していたけれど、段々悔しくなっていって相手が絶対言い返せないようにと、とことん調べ上げた。

 どうだ、言い返せるものなら言ってみろ。とでも言わんばかりにひけらかし、ほくそ笑む。その様子を見た東は、表情一つ変えることなくこう言い放つ。

 「こりゃ重症だ」

 「重症って……何ですかそれ。失礼じゃないですか?」

 「失礼なんかじゃないよ」

 「いえ、失礼です」

 瀬女がそう踵を返すと再度口角をあげ、間をおいて口を開く。

 「確かに瀬女ちゃんの言う通り、特異能力ってのは100種類以上あってうんざりしちゃうし、危険な特異能力もその内の数パーセントしかない。でも、重要なことが抜けちゃってるよ」

 その”重要な事”を強調し、尚もおどけてそう言う。

 「重要なこと...ですか」

 「特異能力ってのは循環している。例えば君がAという特異能力を保持していたとして、そのAという能力は君が死ぬとまた先の、未来のどこかの誰かの特異能力として発現される」

 「それは習いました。確か『グラストーンの循環法則』ですよね。」

 「そう、カナダの血族種考古学研究の第一人者である『アンドロ・グラストーン』が発見した純血における循環の法則だね」

 「それがなんですか?」

 「この地球上には今現在60人程度の純血がいて、そのうち20人余りが君みたいな特異能力未発現の子供たち。そして残りの80種程度の特異能力を20人で取り合っている状態。500年前から一度も記録に乗らない超レアで超危険な特異能力とか、使い方次第で地球を滅ぼしちゃうことができる能力がまだまだあるってことを考えると、瀬女ちゃんの言ってることってすごく悠長というか、慢心してるというかなんというか」

 言いたいことがなんであるかは分かる。けれど、それでも約100年間一度も死亡事例はない。そんなことを言ってもこの私を説き伏せられるわけではない。

 「でも、私さっき言いましたよね。1920年以降は暴発の死傷者はいないって」

 「それ、おかしいと思わなかった?”暴発が起きてない”じゃなくて、”暴発の死傷者はいない”って」

 「………」

 東のその言葉に沈黙で返す。それを見た東は、どこか含みのある表情をした後に一呼吸おいて話を続ける。

 あぁ、この感じ。すごく嫌な感じだ。

 「暴発なんて毎年起こってるんだよ」

 ……どこで……?

 「そもそも、死傷者いないってのもイロが流したデマだもん」

 「……あの…」

 この人は何の話をして……?

 「確かに、一般市民の死傷例はないね。うん、すばらしい!でも、純血がどんな状態でも常に間近で見て、その様態を観察し続けないといけない彼らはその一般市民に含まれないんだ。分かる?」

 「………」

 言葉の意味は分かる。分かるのに、分からない。

 「嘘…ですよね。だって」

 「あっはは、嘘じゃないよ」

 話題に反して、彼女の態度は陽気そのものだ。

 「だって、もしそうならとっくにニュースとかで…」

 そうだ、そんなはずがない。きっと瀬女を怖がらせるために嘘をついているのだろう。瀬女を丸め込みこのまま高施に送り込ませる魂胆に違いない。

 東は浅く呼吸をして、ソファーの背もたれにより掛かってその突き指すような目をこちらに向ける。

 「私の従妹の旦那は、広島の高施で研究者をしていた。妻思いのよくできた旦那だったよ。私の従妹が妊娠したって聞いた時は泣くほど喜んでたそうで。しかも双子だってさ、前世でたくさん得を積んだんだろうね。けれど、3年前のとある夏の日、19歳の純血の子の定期健診をしているときに、その子の特異能力が暴発。旦那さんは上半身が吹っ飛んで即死。19歳の子の方は、能力の保持者であるが故に無傷。従妹は機関と国を訴えると躍起になったけれど、その一週間後に生まれたてのガキどもを残して、自宅で吊ってるとこ見つかって…」

 嘘だ。嘘に違いない。それがそうなら噂やらなんやらで少しは聞き及んでいるはずで。絶対、そんなはずがないんだ。 

 「でも、だって、そんなことがあるなら…」

 「話を遮らない。まだ途中なんだ。瀬女ちゃんの言う通り、遺族が訴えを起こしたことは過去何度もあるし、マスメディアに垂れ込もうとした人もいた。でも残念ながら、この世界の実質的な支配者はその高施のお上さんである、私の所属するイロで。司法やマスメディアを操り、研究者たちの死因を偽り、それでもって正義を語る。笑えるだろ、世界の均衡を保つためなら平気で人を殺す連中だ」

 あぁ、どうすれば、どうするのが良いのだろう。この話をハイハイと鵜呑みにして、マズいマズいと2年過ごすのか。急に特異能力に目覚めて、ほら見ろと言う日が来るのを待つのか。

 困惑と激しい動揺を抱えたまま東の方へ顔を向けると、相変わらずの腑抜けた表情で踏ん反り返ってはこちらをその鋭い眼光で見つめている。そうして少しの間見つめ合った後に、こちらの動揺を察したのか、東は軽く微笑んでからそのニタついた口元を緩める。

 「ごめんね。さっきまでの話はウソってことにしといて」

 「……え」

 本当に、この女の、東の言動の意図が全く読めない。

 「ウソ……なんですか」

 動揺に動揺を重ねて、絞り上げたような声でそう質問する。そして、その質問に対して、東はしばらくの沈黙の後に「そう」と呟き、軽い頷きで返答する。

 「なんで……」

 ウソ……嘘?……もし、嘘だとして、それでどうなるのか。それで安心できるのか。

 「暴発なんてないんだ。」って、悠長なことをいつまでも吐き出し続けて、自分が今何を抱えているのかを大して知ろうともせずに、自分の都合の良い情報ばっかり吸い込んで、自分に対して情けない言い訳を聞かせて、それで、今まで通りに怠惰に生活をして……それって、そんなのって…。

 そこまで考えてから、ふと脳裏をあらぬ未来が過る。私が、友人や赤の他人を虐殺して、周辺一帯を更地に変えてしまう、そんな未来だ。私が大事にしていた人たちが、場所が、時間が、私の悠長な考え一つでグチャグチャになって、それで、それから……

 「セナちゃん!!」

 「!!……あ、はい…えっと……わたしは」

 「大丈夫?」

 「あ…あの、わたし…どうしたら…」

 東の呼びかけにも気づけないくらいに考え込んでいたのか。東も心配そうな眼差しで私の瞳をのぞき込んでくる。

 「………瀬女ちゃんさ、居安思危って知ってる?」

 「こあん、しき…ですか」

 東が、今度は励ます様な口調でそんな話題を振ってきた。

 「居安思危は中国のお偉いさんの有名な言葉で、”居安思危、思則有備、有備無患”って続いてくんだけど」

 「……ゆうび…むかん?」

 「やっぱり、ちょっと難しいよね。日本語で言い換えるなら、”安きに置いて危うきを思い、思えばすなわち備えあり、備えあれば患いなし”ってなるんだけど。知ってる?」

 備えあれば、うれいなし…このフレーズは知ってる。

 「……はい…知ってます」

 備えあれば…うれいなし………なら、私は今からでも高施へ行くべきなのか。でも、今の毎日を捨てるのは………みんなと会えなくなるのは………この家に帰れなくなるのは……なんというか、苦しい……。

 「瀬女ちゃん、明後日から修学旅行行くんでしょ?」

 「…はい、行きます」

 「聖都市にも行くんでしょ?」

 「…はい」

 「じゃあさ、唯谷井資料館ってとこに行くことをお勧めするよ。あそこは今の君にとって、ヒントの山のはずだから」

 そう言うと東はソファから立ち上がりシャツを羽織り、ズボンを履いては玄関の戸を開け「お酒買ってくる」と一言残して坂口家を後にする。

 一人残されたその空間は酷く居心地が悪くて、いつも以上に寒気がして、広く感じた。

 私が、しなきゃいけないこと。今の私にとって。知らなきゃいけないことが、ヒントがそこにある……いや、きっと、私の答えもそこにあるのかもしれない。

 私が行くべき場所が、守るべきものが、進むべき道が何かを、私は大して知らなかったのかもしれない。知った気になって安心したかっただけなんだ。

 きっと。

 


 翌日、昨晩の一件で憔悴し、眠りに落ちた瀬女を起こしたのは、焦げ臭さでも酒臭さでも、ましてや食欲そそるいい香りでもなく、冷気だった。まさしく12月の早朝、冷蔵庫を開けたときに全身で感じるような冷気が布団にくるまる瀬女を包み込み、部屋に充満する。まだ一か月は早い。

 「うぇ、寒……なに…これ」

違和感を覚え、布団をはねのけ起き上がるも、布団によって暖められた体にとってその気温の変わりようは寒暖差アレルギー持ちの瀬女にとってはただの地獄そのもので、1月なら耐えれたであろうこの状況もまだまだ暖かい11月初めには酷なもの。

 「え、なに、もしかして冷蔵庫か冷凍庫閉め忘れちゃった?どうしよ、うっ…」

 動けない。ただのパジャマじゃ防ぎようのないこの寒波にたまらず布団を掘り上げて羽織る。

 「あの、東さーん…」

 そのまま自室のドアノブを羽織っている布団越しに器用に捻っては、ゆっくりと体当たりして戸を開いてリビングに向かう。が、そこにはソファーに深く腰掛け、のほほんとした態度で朝のニュース番組を眺める東がいた。

 その隣には謎の氷の塊が置いてあった。

 その謎の氷塊は、向こう側が見えてしまう程に透き通り、絶えずランダムな形へ変形を繰り返し、球かと思えば角を成し、分裂してはくっついて、まるで1個の生物であるかのように蠢いていた。

 「あの、東…さん…これは…?」

 「おはよ瀬女ちゃん。よく眠れた?」

 「え、あ、おはようございます。それは、何ですか」

 「んっふふー、これはねー」

 そういうと膝に手をつきゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをしてから「ふぅー」と大きく息を吐く。何か、準備運動のような、その今から面白いものを見せてやるぞと言わんばかりの行動に昨日のようなオーバーアタックをまた瀬女に繰り出すのではないかと身構えて、固唾をのむ。

 東がこちらを向き、ニヒルに笑いながら手を差し出し、突然グーにしたかと思えば薬指と中指を上げて下して、次は親指を突き立て、拳をギュッと握る

 これは知っている。『手詠法』というやつだ。

 血族種には『起動法』という考え方がある。コントラック…じゃない、なんか、能力のトリガーの一つで……東の使用しているものは、えーと、手詠法の中でも手首より上だけで行う『印法』とかいうので、確か宗教的な意味があって…あれ、それで確か…あぁ、もっと勉強しとくべきだった。

 東の印法の後に部屋中に分散していた冷気がパキパキと凍てつく音を発しながら東の胸の前へ集中していっては一つの塊を形成していく。それに共なって部屋は通常の温度を保ちだす。いびつな形を模した塊はなおも痛々しい音を立てながら一つの大きな何かになろうとしている。

 「……氷属だ」

 初めて生で見た。まさかこんな飲んだくれがこれを使えるなんて。東と過ごした三日間で一番の衝撃だ。

 「見てごらん、この塊」

 気付けば東が”それ”を生成し終えていた。その塊は先ほど東の隣にあった、絶えずうごめく透き通っていた”それ”と同じものであった。

 ”それ”もまた、生成されると同時にランダムに、まるで意思でも持っているかのようにうごめきだす。曲線になれば角を成し、開いて閉じて、穴を開ける。東が動かしているのではないかと彼女に視線をやるが、当の本人は瀬女の反応を待ち望んでいるかのようにニヤニヤしながらじっとこちらを伺っている。

 「東さんって氷属使えたんですね」

 そう言った途端に東の整った顔が崩れる。

 「あ、そっち?たしかに瀬女ちゃんには言ってなかったけど…まぁその話はまた今度するとして……これ、何だと思う?」

 「わからないです」

 「即答~…」

 分からないものは分からないんだから仕方ないだろう。

 そういえば、この人がIROでどんな偉業を成し遂げたか、公には水属の能力の開発と、それを応用した次世代エネルギーの開発だとかどうのこうのと。氷属も水属の派生能力で、つまりこの氷の物体も東の生み出した新しい何かしら…?

 「まぁ、そうだよね。よし、まずこの私が書いた論文を読みたまえ!あ、ちなみにこいつと、この論文は一般人には見せちゃダメなやつで、世間様に公表するのとかも繊細な内容だからって保留になっちゃってるから、口外とかしちゃダメだよ!」

 ふざけるな!先に言え!!

 喉を過ぎ、口内まで出てきたその言葉を何とか噛み砕く。

 「え、いやそういうのは先に言ってくれませんか。困ります。というかこの一週間家にいるのは構わないですが、IROさんに顔を出さなくていいんですか?」

 そう言うと東は渋った顔をしてから、ため息交じりに話し出す。

 「だってさー、そこの頭でっかちな所長がクソッたれでさー。私専用の研究所を増築するから経費で落とせって言ったらあのクソじじいなんて言ったと思う?調子に乗るなだよ?あんのクソじじい自分の書いた論文が評価されないからって私に嫉妬して八つ当たりカマしてんだよ?それでじじいぶん殴ったら研究所から追い出されてさ。ほんとクソじじいだよねしょうもない。あんなとここっちから願い下げだっつーの!!…で、今はソウルにあるホワイトなIROの研究施設でお世話になってるんだよね。がはは!ざまあ見ろってね!……あ、これも内緒だよ」

 最悪だ、口を開くたびに内緒話が飛び出てくる。ここまで来たら引き返せない、というか引き返させてくれないだろう。

 「まぁまぁ、とりあえずその論文にすべて載ってるから。読んでみて!」

 ここまで来たら見るしかないのか。そう揺るぐ決意のまま獄介を強く恨んだ。


 修学旅行


 なにかが上に乗っているのがわかる。この温もりはおそらく人だ。

 布団越しに伝わる温かみ、その酒臭さ。

 とてつもない、鼻をつんざくようなアルコールの臭いが瀬女を叩き起こす。

 「う”っ...」

 眉間にシワをよせながら、ゆっくり目を開く。

 目の前にある瞳と目が合った。頬が赤く染まっているのがわかる。

 「セラちゃんはかわいいれ~。わらしのお嫁さんになっれよ~」

 口を開くたびに放たれるそのアルコール臭が、瀬女の脳を覚醒させる。

 「あの……クッサ!ちょ!あの、なにしてるんですか…」

 このしつこいアルコール臭とろれつの回っていないこの感じは…まさか、朝から酒を飲んでいたのか。信じられない。

 いや、それはそうとして、こうして間近で見て改めて思う。綺麗な顔をしている。鼻は筋が通っていて目は少し釣っているにも関わらずパッチリとしていて、ショートカットがよく似合う。もし自分が男なら確実に一目ぼれして、付き合ってみて、それから死ぬほど後悔するタイプだ。

 「朝ご飯、作るのでのいてください」

 「えーーー、もっろこのままがいいのにーーーー」

 あぁ、もう、面倒くさい。大人というのはみな酒を飲むとめんどくさくなる。獄介も酒を飲むと職場の愚痴を聞いてもいないのに話し出す。そして面倒くさくなってついでに臭くなる。

 「早くのいてください。今日は早めに出ないと集合時間に間に合わないんですから」

 今日は修学旅行の初日。東のおかげでいつもよりも一時間ほど早く起きることができた。奇跡だ。

 覆いかぶさる東を押しのけると「うぎゃ」という声と共にベットから転がり落ちる。そのまま床に寝そべる東を放っておいて自室のドアを閉めようとすると、背後から「おいてかないで~」という酔っ払いの声が聞こえるがそのまま無視して台所へ。

 瀬女は車酔いが激しい。おそらくバスでも酔うだろうから朝食べるものは慎重に選ぶ。

 厚めの食パンに包丁を入れ溝を作り、その中にレトルトシチュー、チーズをのせてオーブンへ。

 これがとてもおいしい。あの酔っ払いの分も作っておいたが、応答がないためあのまま寝たのだろう。ラップをして冷蔵庫へ。

 朝食を済ませ時計を見る。集合の時間まであとだいたい二時間はある。風呂場に行って服を脱ぎ、シャワーを全身に浴びる。体についたアルコール臭が流されていく。ふと鏡に映る自分の姿に視線をやる。身長はクラスのみんなとほとんど同じくらい。

 「そんなに似てるかなぁ」

 口癖になりつつあるその言葉をひとりでに呟く。

 瀬女のスマホのアラームがドア越しに鳴る。7時30分のアラームだ。今日のためだけに設定しておいたものだったけれど、東によって起こされたがために役には立たなかった。風呂場から出て濡れた手でアラームを止め、体を拭いて着替えに入る。

 着替え終わると、持っていくモノの点検を始める。

 3日分の着替えに体操服と寝具、自分用のリンスとシャンプーに歯磨きセット、タオル、ハンカチ、ポケットティッシュ5個にナイロン袋3つ。そして獄介から授かった15万円。無駄なものは持っていかない。

 忘れ物はないことを確認してキャリーケースを閉じる。

 今日から3泊4日の修学旅行、期待と不安が入り混じる。確か一日目の予定は…



 学校までは意外にゆっくり行くことができた。いつも遅刻寸前の瀬女にとって、それはイレギュラーのほかに無かった。いつもは早足かダッシュのみの登校も、毎日が今日のようにゆっくりならばどれほどよかったであろうか。見慣れたはずのこの平塚の町並みも、こうゆっくりと見渡すことで新たな発見があったりするものなのだが、特に見当たらない。

 ふと、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、明佳と恭介が仲良く並んで向かってきているのが見える。傍から見ると、美男美女の仲良しカップルだ。

 「おっ、あーちゃん恭介、おっすおっす!」

 なんて女っけの無い挨拶なのかと自分でも飽き飽きしてしまう。

 「あの瀬女ちゃんがこんな時間に登校してる…信じられないな」

 恭介が鼻につく物言いでそう言い放つ。

 「あ~?私だってこれくらいやろうと思えばできるんですがー?この女たらし~」

 「おっ、中身も体格も揃ってメンズのセナ君が何か言ってるな」

 「はぁ!?」

 生産性の無い二人のやりとりに見かねた明佳が「まぁまぁ」と会話の仲裁に入る。

 「相変わらずムカつくなぁ……っつか、ひゅーた間に合うかな。バスに乗り遅れて現地に先生の車で来たりして」

 「うわーありそう」

 「まぁあいつのことだからそうなるよな」

 などという会話をしているうちに校舎の一部が徐に見えてきた。校門前の広い駐車場には計6台のバスが止まっているのが見える。

 そして、驚くことに話題に上がった飛兎汰はもうすでに校門の前で腕を組み、大股で構え、三人を見下すようにして立っていた。

 よほど今回の修学旅行が楽しみだったのだろう。

 「一体そなた等は何の話をしていたのだ?」

 飛兎汰はまるで代官様にでもなったかのような気味の悪い口調でしゃべりだした。

 「はいはい、すごいすごい」

 「そんな胸張ってもかっこ悪いだけだからやめときなって」

 「結果は経歴が伴ってこそって誰かが言ってたな~…」

 そういって3人は飛兎汰の隣を通り過ぎてゆく。

 「なんだよ!俺これでも頑張って起きたんだからな!」

 悲しいかな。褒められるべき行動もその後が大事なんだと痛感させられる。

 そんなこんなで4人は集合場所であるグラウンドへと足を運ぶ。


 1日目は大阪で班ごとに自由行動。2日目は広島へ行き平和記念資料館の見学や野球観戦。3日目は聖都ウィッチグレーブで自由行動。4日目は京都で、またまた自由行動。

 この高校は校則は厳しいものの、唯一良いところを上げろといわれると真っ先に修学旅行での自由行動が多いところだと答えるだろう。と、予定表を見ながらにそう思う。

 バスに乗り込み窓際に座る。乗り物酔いが激しいことを明佳は知っているため、言わなくてもすぐに窓際を明け渡してくれる。明佳のこういう気遣いが出来るところが良い。

 ドアが閉まり、運転手の自己紹介と共にバスが動き出す。


 6台あるバスがすべて同じ行動をとるわけではなく、それぞれのバスの行き先はクラスごとに異なる。

 瀬女と明佳、飛兎汰と恭介含む1年C組を乗せた1台のバスは、このまま関西方面へ。

 そのほかA組、B組、D組、E組、F組を乗せた5台のバスは『超都市センダイ』のある東北方面へ向かう。

 超都市センダイは行政都市とも呼ばれ、国の政治のおおよその機能を担っており、日本にある3都市の1つでおよそ四国ほどの面積を持った巨大な都市だ。さらにその面積に所せましとそびえたつ超高層ビルと科学施設群、そのすべてにおいて世界トップレベルの技術と質を持つ。

 対して1年C組が向かう聖都ウィッチグレーブは一般的な市区の面積しか有しておらず、アミューズメントの要素もない。そして基本的に皆行ったことがあるという理由で各組の旅行先投票で人気を得なかった。

 「パーキング付いたら起こしてー」

 バスの窓際席に座る飛兎汰が早々に眠りにつく。

 私も寝てしまおうか。窓の外にうつる、フィルムが投影機に吸い込まれてゆくような景色をまじまじと眺める。


 

 これは、あの日だ。あの日の、夢だ。

 窓のガラスが弾け飛んで、勢いよく火柱が立って、お隣さんの悲鳴が張り詰めた空気を伝って響いて、熱いはずなのに体中は冷たく感じて、息も苦しくて、怖くて。

 でも、足は動かなくて。

 私はまだ、ずと、自分に自分で言い訳を聞かせてる。私は小さかったから何も分からなかった。助けを呼ぶことも、助けに行くことも、そもそも、どうしてそうなったのか、何が起こっているのかすらも分からなかったんだ。

 

  「__い!__て_!」

 

 ……誰かの声が聞こえる。聞いたことがある。あの時に、あの場所で聴いた声じゃない。 


 「おーい!_きて__!」


 あぁ、これは…。


 「はーい!瀬女さーんおきましょーねー!」

 ゆさゆさと肩をつかみながら瀬女の小さな体が左右へ激しく揺れる。

 「ほらー、もうすぐ目的地だぞー……セナチン!ほら、起きて!」

 開くのを拒む瞼を抉じ開けて、目に映るくすんだ視界とこれと言ってはっきりとしない意識のまま呟く。

 「もぅー…?私って、どんぐらい寝てた…?」

 「えっとねぇ、一時間くらい?」

 その明佳の返事を聞いたすぐ後に後部座席から耳障りな声が聞こえて来ては瀬女の不明瞭な意識の覚醒を援助する。

 「セナチン今起きた?さすがの俺でも起きてたぞ!つか富士山見れなかったな!」

 「あぁーん?なんだこの野郎」

 隣に座している明佳が興奮する飛兎汰を一蹴する。なんて心強いのだろうか。彼女は、明佳は、器でかい。乳もでかい。度胸もあるし、かわいくて心強い。このスペックの高さ、あぁ、うらやましい。

 「大丈夫だよセナチン、しっかり写真撮っといたから」

 結婚しよう。この女はだれにも渡さない。

 「え、ほんと?見たい!」

 「仕方ないな~、ほれ」

 1世代ほど前のスマホの画面にはバスの窓越しから撮ったであろう雄々しい風貌の富士山を背景に深い眠りに落ちる瀬女のツーショットが写っている。素朴な街並みと合致したその大きな富士の峰。私の寝顔はちょっと恥ずかしいけれど、これはこれで良い思い出の一枚に………ん?

 「あれ?ねぇ、ひゅーちゃんの顔が窓に反射してるくない…?」

 「あ、ほんとだ。むっちゃ変な顔してる」

 少しの沈黙が流れた後、明佳が席と席の間から飛兎汰を睨みつける。当の本人は、二人のやりとりを聞いていたのか妙に背筋を伸ばして汗をだらだらと垂らし、黙々と窓の外を眺めている。

 明佳が聞こえるように咳払いをかますと飛兎汰の表情が明らかにぐにゃぐにゃしだす。

 「ひゅーたくーん、大阪での自由行動、楽しみにしてるよ」

 「……はい」

 「…ッぷっはは!」

 「おい!なに笑ってんだよ!」

 先ほどのテンションとは明らかに違うその返事が少しばかりおかしく感じた。

 「そこ、静かに」

 運転席のほうから聞き覚えのある声が聞こえた。

 上石神井 伸介。瀬女のいる1年C組の担任だ。

 「それじゃあ今日の予定を確認するから『旅行の手引き』出して」

 上石神井のその言葉を聞いてクラスの全員が黙々とカバンの中へと手を埋める。

 瀬女も同様に持ってきた背負いカバンを開き、中をガサガサとまさぐって底からくしゃくしゃになった旅行の手引きを取り出す。 

 「まぁ文字が読めれれば問題ないか」

 そう小さく呟く。

 「この後、今日泊まるホテルに着くから、着いたらバスの荷台から自分のキャリーケースと荷物を忘れず自分の部屋まで運ぶように。部屋に運んで用意ができたら第一駐車場集合、班ごとにタクシーに乗って自分たちで立てたスケジュール通り動くという流れになる。まぁこっち方面はC組だけだからごちゃごちゃすることもないだろうけど、トラブルに巻き込まれたり、どうすれば良いか分からなくて迷うようなことがあればすぐ俺に連絡して来い、以上。質問がある人はホテルついてから個別に聞いてやるから」

 そう言ってから、上石神井は座席の背もたれを伝いながらゆっくりと瀬女と明佳のいる席に近づき、通路側にいた明佳の横でかがんでから見上げる形で瀬女に一言。

 「向こうで変なのに絡まれたり、嫌なことを言われたらすぐ俺に連絡してこい。俺が、相手をしてやるからな」

 まっすぐな眼差しでそう言うと、来た道を同じようにして帰り運転手のすぐ後ろの席にのっそりと座り込んだ。

 「……かっけぇ」

 後ろの座席から飛兎汰のそんな腑抜けた声が聞こえて来た。

 先生は純血である自分のことをよく気にかけてくれる。いや、先生だけでなくこのクラスの皆もそうだ。今回聖都方面へ行くのがC組だけになったのもこのクラスの皆が本人にばれないよう結託してのものだ。

 私が聖都へ行ったことがないのを皆知っていて、それならこの機会にと明佳や飛兎汰を中心にクラスの大半が当人にバレないように働いたのだという。が、その当人はすでに上石神井からそれらのことを聞き及んでいる。

 概要を聞いた時は自責の念とか言うのに苛まれたけれど、皆のやさしさを無下にもできず、何より皆が自分のことを思って動いてくれたのがうれしかったため何も知らないふりをしている。

 本当に、居心地の良い場所だ。


 飛兎汰


 どうしていつもこんな扱いなんだろう。一体俺が何をしたというんだ。

 「次!あの店行こ!」

 「え!何あれ!行こう行こう!」

 「ちょっと!ひゅーちゃん!遅い早く!」

 こいつらときたら。

 確かに写真の件については申し訳ないと思うが、だからと言って荷物持ちになるいわれはない。

 両手には先ほど行ったアメ村で買った大量の”荷物”。まるで、それなりの重さのダンベルを常時ぶら下げているような感覚だ。そそして、恭介は後ろの方で楽しそうに会話をしている。会話の相手は我ら4班のタクシードライバー、佐々木…なんとかさんだ。大阪の街を案内してくれている。

 「なんで恭介は何もしないんだよ」

 佐々木と楽しそうに談話を繰り広げる恭介にそう言い放つ。

 「いやー、全部お前の自業自得というか」

 「少しくらい持ってくれてもいいだろ」

 「へいへーい、がんばれー」

 あの野郎……それにしても、混んでる。ここは黒門市場というらしい。至る所から漂ってくる香ばしい匂いが食欲を誘惑する。

 「腹減ったぁ…せっかくだしなんか買おうぜ?」

 「え?あぁ…佐々木さんってこの仕事どれくらいしてるんですか?」

 こいつと言う奴は。

 恭介が飛兎汰の発言なんてあたかも存在しなかったような口ぶりで雑談を強行する。

 「私は、今年でざっと30年くらいかな?」

 「へー、ベテランなんですね。ちなみに、ブラッディですか?」

 「…?そうだけど、それがどうしたんだい?」

 「やっぱり”資格”とかって持ってるんですか?」

 まずい。会話が弾みだした。このまま逃げ切るつもりか、いいやそうはさせない。

 「おい恭介、話逸らすなよ」

 「え?ひゅーたなんか言ったっけ?ごめ、佐々木さんとの会話に夢中で聴いてなかったわ」

 嘘つけ!!

 「おや?飛兎汰君、さっきまでいた子たちはどこへ行ったんだい?」

 ふいに佐々木が口を開く。

 そういえば遅いとかどうとか言っていたがそれっきり見ていない。

 「ありゃ、迷子になっちゃったかな?」

 「とりあえず荷物持てよ恭介」

 「え~…」

 「私が持とうか?」

 唐突に佐々木が冗談めかしてそう言ってみせると、「任せろ」とでも言わんばかりの勢いで恭介が飛兎汰の左肩にかかっていた無数のお土産の入った紙袋をはぎ取る。こんな優しいご老人に重荷を持たせるのは流石の性悪恭介でも気が引けたか。

 「ちょ、丁寧に扱えよ、その紙袋も結構金かかるらしいぞ」

 アメ村とその前に行った道頓堀にて、明佳と瀬女により買い漁られた様々なお土産が詰め込まれているその紙袋はどこぞのブランドものの紙袋だそうだ。瀬女に「破るな」と念を押されている。

 そうこうしていると飛兎汰の右ポケットからバイブ音が鳴り響いた。

 どうやら明佳から着信のようだ。

 「あ、明佳?今どこいんだよ。こんな人込みではぐれやがって」

 『ごめーん、佐々木さん目印にしてたんだけど見失っちゃったわ。ついでだし、私達このまま奥の方まで見てくるから先に駐車場戻ってていいよ~』

 「はいよ」

 通話が終わり赤い受話器のマークをタップする。

 「明佳が先駐車場戻ってて~だって。どうします?」

 「そうだね。そろそろ4時半来ちゃうし戻ろうか。君たちは先にタクシーまで戻ってて。私ははぐれちゃった2人を探しに行くから」

 「恭介もタクシー戻るか?」

 「そうするよ、佐々木さん。後のことはお願いします」

 「任せて」

 そういうと佐々木は人の波に消えていった。

 そうして駐車場に戻ってから20分。瀬女と明佳、そして重そうな荷物を抱えた佐々木が駐車場に戻ってきた。

 あいつらはなんて鬼畜なのだろう。そう思って三人と合流し、そのあと午後5時前にホテルに到着。佐々木とお別れをし各自自室へと戻っていった。

 この後は夕食をホテルのバイキングで済まし、その後クラスの集会をホテルの大部屋を借りて行う。それまでこれと言ってすることも無いので、スマホに充電器を差し込んでからバイキングの時間まで仮眠をとることにした。


 バス


 2日目の予定は広島の平和記念公園や資料館の見学へ行って、その後の昼食のお好み焼き。その後は近くにあるテーマパークへ行って、晩飯は料亭で済ませて、今日一日は終わり。

 今日も合わせて5時間以上はバスに揺られることになる。この体は、車だろうがバスだろうがすぐに乗り物酔いを起こす。たまに電車に乗っているときでも引きおこす。そんなひどくか弱い三半規管を何とかするための酔い止めと、気分を紛らわすための炭酸水をバッグのポケットに詰め込み部屋を出る。

 と、その前に部屋に忘れ物をしてないか入念に見渡す。念には念をでせっかく畳んだシーツも広げなおして、中に何か忘れ物をしてないか確認をする。

 「おい恭介、まだ終わらねーの?もうそろそろ集合時間来るんだけど」

 部屋の入り口からそう急かす声が聞こえる。

 「ちょい待ち、忘れ物してないか確認し直してるとこだから。ってかお前も確認しといたほうがいいぞ」

 「お前さっきも確認してただろ、もういいだろ」

 「念には念を、だぞ」

 そう言うと、出入り口にもたれ掛かっら執拗にこちらを急かしていた飛兎汰も面倒くさそうにため息をついてからこちらへ歩み寄ってくる。

 「はぁ~、はいはいわかりましたよ。集合時間まであと5分だからな。しっかり時計見とけよ」

 「ロビーまでとか20秒もいらないだろ、大丈夫3分で終わるって」

 「まじで知らんからな」


 それで、結局、飛兎汰が本当に忘れ物をしていたために色々とごたついて集合時間を1分オーバーして集合場所に到着した。そして上石神井にコテンパンに怒られた。おかげで酔い止めを飲み忘れてしまった。

 最悪だ。

 酔い止めを口に投げ込むと同時にバスが動き出した。恭介が持参している酔い止めは服用して10分後に効果が出るため集合場所の1階ロビーにて服用するつもりだった。つまりこの時点で車酔いは確定している。

 「お前、マジ呪うからな」

 「いや、マジすまん」

 「あれー!ひゅーたくん怒られてるぅー!」

 そう言いながら前の席の間からのぞき込む顔が1つ。

 瀬女は、一言でいうとガサツだ。同学年の男子の間では根強い人気があるが本人は全く気付いていない。おそらく恋愛に興味がない、というより恋そのものを知らないのだろう、かわいそうに。

 「あんたも人のこと言えんでしょうが」

 そう言いながら瀬女の隣に座る女子が瀬女に額にチョップをくらわす。明佳にも瀬女同様男子から絶大な人気がある。何故かは人によって異なるようだけど。

 色々考えていたら気分が悪くなってきた。

 「あー、酔ってきたかも。ちょい寝るわ」

 そういうと恭介は炭酸水を一口含む。弾ける感覚が喉の奥の方でつっかえるような気持ちの悪い感覚を誤魔化してくれて、ちょっとだけ気分が楽になる。今のうちにバッグから取り出したアイマスクを着用して……

 「あれ、恭介酔い止め飲んでないの?私のいる?」

 「いやー、実は俺のせいで恭介酔い止め飲むタイミングなくしちゃって、いや本当にごめん。聖都で好きなの買ってやるから。つか何買ってほしい?」

 「なるほど、だから怒られてたのね、納得」

 「そういえば、恭介っていつも炭酸水飲んでるよね。なんで?」

 「どうせあれだろ、炭酸水ダイエットとかそう言うのだろ。な?恭介」

 こいつらときたら、寝ると言ってアイマスクまで着用したやつに普通堂々と話しかけるか?

 「おい、この姿見て普通話しかけないだろ…」

 「ねぇひゅーちゃん、広島着いたらまた荷物持ちしてくれるよね?」

 「おい聞いてんのかよ」

 「はぁ?またかよ。恭介に持たせろよ」

 「まぁどっちでもいいんだけどね」

 「おい、無視すんなよ」

 こいつらときたら。


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