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MONDO Freestyleヘッドホン買った。
………さっむい。
多分、朝が来た。よく分かる。これは朝だ。足の指先がすごく冷えてて、顔から下半身くらいまでは温かい。少し息苦しいのは、毛布を頭までかぶっているから。この季節は皆同じ事をしていると思う…してるよね?
「ジュンたーん?起きてるー?」
明るくて、歯に衣着せぬ物言いで、いつもさ行の発音が少しだけ気になってしまう女性の声。これが、目覚まし。
布団から顔の上半分を出して、いつも通りの隅っこが黄ばんでいる天井を目に映す。目ヤニが詰まっているのか、瞼が思うように開かない。
このままもう一回夢の中に引きこもりたい。
そもそも、頑張って起きる意味はないじゃないか。こうやって目を閉じて、布団に潜って。大丈夫…このまま、トイレに行きたくて仕方なくなるタイミングまで夢の中に引きこもってしまえば…。
この世界について、何となくだけれど分かるようになってきた。
よく学校の机に突っ伏してしていた妄想。あれよりか内容は鮮明で、寝ている時に見る夢よりかはごちゃごちゃしていない感じ。なんか色々と秩序っぽいものはあるけれど、それをどうやって守るのかはここでしっかり生きないと分からない感じ。
「いつまで寝てんの~、じゅ~んたん」
勿論こっちの世界にも常識はある。複雑で入り組んでいて、そうかと思えば単純明快。誰か、自分と同じ境遇の人にこの世界を説明をしろと言われると、呆れ果てるくらいにはめんどくさい。けれど、あの漫画みたいな、このアニメみたいに、っていう感じでならいくらでも説明できる。
「今日は一緒にお買い物行くって約束だぞ~」
勿論、元いたちゃんとした世界と似通った常識もある。
この世界はそう言う世界。”そういうアニメや漫画みたいな世界”で、大体の説明ができてしまう。ここは、そんな世界だ……多分。
「早く起きないとひどい事しちゃうぞ~」
目をつぶりたくなるくらい残酷だし、とても現実的で嫌味な奴ばかり。そうかと思えば、全力のやさしさを不意に受けたりもする。見たことない光景にもふと懐かしく感じることもある。
あと、食べ物も変わらない。カレーにシチュー、トーストにサンドウィッチ。白ご飯に赤飯。天ぷらから揚げ、ラーメンうどん、ケーキにこんにゃく。自分の好物はちゃんと全部ある。
多分、元の世界と根本は何も変わってない。変わっているところと言えば、魔法みたいな能力を操れる人がいて、喋ることのできる動物がいるくらい。それ以外は、いつも通りの日本。
「ふふ~ん……」
東京も、大阪も、京都も愛知も、北海道も四国も福岡も、しっかりとある。アメリカ中国オーストラリア。ドイツにスペイン、韓国にロシア。自分が知っている国も、そうでない国も、相変わらずそこにある。やっぱり、変わっているのはさっき言った2つだけ。
あと一つ、違うところがあるとすれば、それは…。
「おいしょっと!」
あぁ、寒い、寒い、寒すぎる。
裏起毛のあるふかふかだった服はびしょびしょ。肌にピタリと密着して気持ちが悪い。
まさか、目覚まし代わりに冷水バケツを浴びせられるとは思わなかった。こういうのを悪魔の所業とか言うんだろう。なんにせよ、とにかく寒い。早くシャワーを浴びたい。暖を取りたい。こんなにも不快な目覚めはもう二度とない。
「シャワー終わったよ~、来ていいよ~」
来た。悪魔だ。冷水目覚ましをした張本人だ。
「あれ?入らないの?」
シャワー室から水を滴らせながら顔を覗かせるその女性は、まるでまだ高校性くらいの若々しさを放っていて、顔の耳元から顎の方まで大きな切り傷があって、遠慮がなくて、身長が168センチもある。女性にしては高身長の部類に入るらしい彼女のその目元はシュッとしていて、綺麗な釣り目。
「ミツミ…さん?あの、ちゃんと拭いてから出てくださいよ。廊下びしょびしょ…」
ミツミ。それが彼女の名前。苗字は知らない。歳も知らない。ミツミとはこの始末屋寮内の一室を共有して生活している。何事にもルーズで、あっけらかんとしてて、めんどくさがりで。あと、常識が無い。この世界に来たばかりの自分よりも。
「一応この階、男の人もいるので、その、なんというか、もっと恥ずかし気って言うんですか、そう言うのを持った方が…」
「なに~?気ぃ使ってくれてるの?アハハ、気にしなくていいよぉ可愛いなぁ~」
いまいち会話がかみ合わない。と言うか、どうして彼女はびしょびしょで寒さに凍える子供を放って我先にシャワーを浴びているんだ。おかしいとは思わなかったのか。
あぁ、そうだった。そういえばそうだった。
ミツミと入れ違いで狭い更衣室に入り、戸を閉める。洗面台と、すりガラス調のスライドドア。それだけの空間。スライドさせるとV字に開いて折り畳まれるタイプの、あの扉。その向こう側がシャワー室。全く無駄のない造り。
びちゃびちゃと肌にしつこく張り付いてくる服を不快な思いをしながら必死に脱ぐ。内側の濡れ切った裏起毛が肌に水分を擦りつけながらズルズルと脱げてゆく。水分を吸ってか、信じられないくらいに重くなったその服をシャワー室内で思い切り絞ると、水があふれて弾けて飛散する。ある程度絞って、木の皮で編まれた洗濯籠へ「どりゃくそ」と呟いてやけくそに投げ入れる。
着替えはいつもミツミが入り口付近のかごに入れてくれている。服のセンスはいまいちだが、その日の気温や天気なんかを加味して服を選んでくれているらしく、特に寒くなる日には絶対に裏起毛のあるYシャツを用意してくれる。常識は無いが、配慮はある。
始末屋内では、女性がシャワーを浴びるときは必ず女性同士ペアになって見張りを立てる事。というルールが定められている。つまり、今は外でミツミが見張りをしてくれている。ぼくは、中はともかく外面は女なのでそれに遵守する。
それにしても、いまいち女になるという感覚がつかめない。
人と話しをしていると自分の声が高いように感じる。ずっと裏声で会話しているみたいな。それが普通だと思える時もあれば、不愉快に思うときもある。
それで、どうしてか……生前にああしたいこうしたいと必死に妄想していた体がこうやって目の前にあるのに全然、全く、これっぽっちも興奮できない。別にそう言う性癖だってわけではない。ただひたすらにエロスを感じない。欲情と言うか、なんというか。そもそも、性欲とそれ以外の日常で感じていた”欲”がどんどん抜け落ちて行っているような。
朝昼晩の食事も、食べれはするけど満たされないというか、とっくに満たされているというか。たった30分の睡眠で満足してしまう時もあるし……女の人ってそういうものなのか。そんな単純な話じゃない気がする。
寝たい、食べたいがないと自分が何者か、本当に分からなくなってくる。不思議、というよりかは気味が悪い。
「じゅんた~ん、10分で出てね~」
廊下から聞こえてくるミツミの常識外れの注文に若干イラっとしながらズボンをパンツごとズリ提げて籠の中へ「ふん」と言いながら蹴り入れる。
この世界のことについては分かるようになってきた。けれど、この体のことについては本当に分からない。
だって、痛いときは普通に痛いから。
シャワー室の戸を開いて、まだ湯気の立ち込めるシャワー室へ入る。浴槽は無い。本当にシャワーを浴びるだけの空間。最低限のシャンプーと、ボディソープ。そして鏡。その鏡に映るのは、記憶の中か、瞼の裏に潜んでいるあの子だった。
この顔を初めて見たのは、あの日。山でミミズの解体作業を終えて、クタクタの体を引きずりながら隣町の銭湯へ始末屋の皆と行ったあの日だ。
そこで、初めて見た。
分かってはいた。以前のぼくではないということ。性別も違うこと、髪の毛が長いこと、歳が比較的幼いこと………声が、あの子と同じということ。
ショックだった。
ぼくは、あの日に見つめていたあの子……だった。ぼくの懐に無理やり入り込んで来たあの子が、目の前でぼくのノートをグチャグチャに丸め込んで笑っていたあの子が、鏡に映っていた。鏡からこちらをマジマジと見つめていた。
目の前の景色がグニャグニャしながら遠ざかっていくあの瞬間を今でも覚えている。それくらいショックだった。
ぼくは、もうぼくじゃないって事にその時気付いた。顔も、声も、性別も、名前も。全部借り物だった。ぼくは、以前の自分の面影の一つも残していなかった。ぼくはぼくじゃなくなった。
今はジュンで、あの子だ。
それでも、ぼくはぼくとして20年と少し生きてきた。言葉遣いもナヨナヨはしているけれど男っぽいし、笑い方も汚くてうるさいし、恋愛の対象はいつも女の人だし、着る服とかも男物だし。
今更その全てを変えようとは思わない。生前の自分がしてきたことはいつも通りこっちでもする。口癖も、衣服も、音楽の趣味も、好きなゲームの種類も、ずっとそのまま。性癖を受け継げないのが不憫なだけで、まぁ、それ以外は継続できた。
身体の性別が変わったからって、中身まで変える必要はそもそもない。
そして、こっちの世界がどういう世界で、どういうルールがあって、どんな生き方をするのが普通であるのかがもっと鮮明に分かってきたら、その時は。
シャワーの蛇口を捻ると、少し熱い位の熱湯が勢いよく吹き出し、あっという間にシャワー室に湯気が立ち込めた。
今日の始末屋はお休み。とは言っても、ジュンとミツミを含む7班が休みの日と言う訳で、始末屋そのものは休む暇なく年中無休で動いている。なんなら、リーダーや小田さん達は今日も聖都に行っていたりする。
そして、僕や彼女みたいな新人だけで構成されている7班の仕事は、運転だったり、後片付けだったり、寮内の掃除だったり。まぁ、要するに雑用だ。それ以外の1~6班は、政府やその直轄の部署から出された依頼をこなして報酬をもらって、その報酬で始末屋は成り立っている。
つまり7班は1~6班に食わせてもらっている立場だ。
たまに、そんなへっぽこ7班にも仕事が舞い込んでくることがあるけれど、大体が人手の足りない河川の掃除のボランティアの人員埋めだったりするから、結局何の足しにもならない。
そんな始末屋にも、しっかりとした歴史がる。
小田曰く、「始末屋って江戸時代の頃からあってさ、元は徳川っていうとても偉い人のお抱えの便利屋、まぁ、言うところのなんでも屋さんで、色んな戦で戦死した武士の身元確認とか、戦後の土地の浄化作業とかして需要があったんだけど、明治時代に入って、その徳川さん一強の時代が終わって、戦争が少なくなっちゃって。そんなときでも先代の始末屋のリーダーは次の時代のお偉いさんのおひざ元に上手く据えて貰って、政府の裏の仕事のお手伝いとか、普通に人手が足りない現場仕事を引き受けたりとかしながら解体されないようのらりくらり受け継いできた、まぁそこそこに歴史のある組織なんだ」そうだ。
今もたまに似たような仕事をしていると小田は言っていたけれど、詳しくは教えてくれなかった。
一方、新人の7班はというとほぼ毎日が掃除や洗濯や買い出しで終わる。現地にはよっぽど人手が足りない時くらいにしか呼ばれない。
そんな新人7班にも週一で休みがある。その日は身分を不用意に明かさないのであれば何をしても、どこに行ってもok。今日はミツミと共に近くのショッピングモールへ日用品と洋服を買いに行くことになっている。彼女と二人っきりはなんか心もとないけれど、仕方がない。彼女以外に7班で話せる人がいないのだから、仕方がない。
「じゅんたーん。支度できたー?」
扉の向こうからミツミが呼んでいる。
「あ、あと少しです!」
そう声を張ると、扉の向こうからは「んー」と、喉を震わせたような声で返事が返ってくる。ベットの上に放り捨てるように置かれてあるマフラーを適当に首に巻き、机の上に置いてある小包をポケットに仕舞いこんで戸を開ける。
「あ、終わった?」
ポニーテール姿のミツミが向かい側の壁にもたれ掛かりながら微笑んで、跳ねるようにして立ち上がり、軽く背伸びをしてそのまま廊下を歩きだす。慌てて部屋に鍵をかけ、小包にしまってはその後を付いていく。
歩くたびにきしむ床。かすかなカビ臭さと木材の匂い。誰かの咳払いにどこからか聞こえてくる鳥のさえずり。
この階は七班の人達が住まう階で、この下の階には六班の人たちが住んでいる。この寮の隣にも同じような寮があって、その一階は4班が住む階で、二階は5班。その隣も同じような寮が…とかいう感じで続いている。そして、小田さんや藤田の居る1班の住まいだけは戸建てになっていて、そこに厨房や洗濯機なんかが置いてある。
今日はこの寮の二階と、後は体調不良とかの理由で休んでいる人たち以外、周辺の建物に人はいない。だから、と言う訳でもないけれど、凄く静か。
前を歩くミツミが、廊下の突き当りにある少しつなぎ目の部分が錆びているドアノブを捻って何ということなく大っぴらに押し開けて外へ出る。
「あー、曇ってんなぁ」
そう呟いては完璧に錆び切った茶色く濁る階段を騒々しく降りていく。その後に続いてちんけな音を立てながらジュンが降りる。
建物の死角から出て真っ先に見えるのは、落ち葉が隅に固めて捌けられているそこそこに広い駐車場と、がんばれば1時間くらいで頂上に辿り着けそうな山々。駐車場の周りは鉄柵で囲まれていて、その向こう側は渓谷になっている。頭を出して少し覗けば、白い泡を吹き出しながら流れる澄み切った荒々しい川が一望できる。確か藤田が、オドナ渓谷とか何とかいっていた。奇麗だけれど少しゾッとする。なんといっても周りの雰囲気が、なんというかこう……今は昼間だけれど、それでも身震いしてしまう程には怖い。道路や渓谷以外はずっと薄暗い森が続いていて、物の怪とでもいうのか、そう言うものが確実に出てきそうだ。というか、この世界だと本当に出てきそうだからより一層怖い。自分でも大したことじゃ死なないのは知っているけれど、それとこれとはまた違う話で、僕の場合だと側と中身が伴ってないのだ。
「じゅんたーん?なにつったってんのー?」
その呼び声で我に返って、声のした方を見てみると、ミツミがすぐそばにある自転車置き場から黒いフルフェイスのヘルメットを脇に抱えて顔を覗かせている。
「あ、いや、何でもないです!」
そう言って、ミツミの方へと駆け寄ると、同じタイミングでミツミが自転車置き場からサイドカー付きの黄土色のバイクを押して出てくる。
「あっちゃー、ロゴはげかけてらあ」
そう呟く。
サイドカーの先頭に書かれたロシア語。なんと書かれているのかは分からないけれど、ミツミによると、ウラルとか言うメーカーの激レアモデルらしい。聞いたことは無いが、カッコいい。前の世界にもあったのだろうか。
「はいよ」
そう言って、ミツミがフルフェイスのヘルメットをこちらへ投げ渡し、それをキャッチしては慣れた手つきで被りサイドカーへ乗り込む。ミツミが髪を後ろで括り、ダイバーが着けてそうなゴーグルを装着すると、そのままエンジンを掛ける。
「しっかりつかまってるんだよー」
彼女は、ヘルメットを被らない。
曰く、「このタイプのバイクはヘルメット被んなくていいからねー」らしい。そんなはずがないと思うが、まぁ、いつもの事なので放っておく。なぜなら、「自分は再生能力が有るからヘルメットいらないです。ミツミさんが着けて下さい」と言っても、「まぁまぁ、そう遠慮せずに~」と、いつも通り噛み合うことの無い会話で幕を閉じてしまうから。
え?それはお前の説得が足りてないだけ?……うん、そうだね。
それに、実のところ彼女とはもう何回も一緒に外出をしているし、最初こそ足がすくんだが、今となってはもう何とも思っていない。なんせ、彼女は運転がうまいし、今のところは無事故らしいから。
免許は三年前に取って、このバイクは一年前に亡き父の遺産を継ぎこんで買ったそうだ。相当なゲスのようにも思ったけど、まぁ、もういいのだ。何言っても聞かなそうだから、もうなんでもいいのだ。
激しいモーター音。隣で激しい音をかき鳴らしながら髪をなびかせる女性。そして、カーブするたびに宙に浮くサイドカー。
この浮遊感は凄く楽しい。前に持ち手があるから、そこにしっかりとつかまって。まるでジェットコースターにでも乗っているかのような痛快さ。そして、そのジェットコースターとはまた違った風も感じられるし、サイドカーそのものに思ったよりもスペースがあって、この体だと楽々足を延ばせる。
目的地はあと山3個分くらい先にある町の、結構大型のショッピングモール。そう、おなじみイオンモール。それがこっちにもあるということに驚いた。と言うか、正直休暇中はそこ以外に行く場所がないというか。
上を見上げると木がアーチ状になって、向こうの方まで続いている。
僕が住んでいた田舎にも似たような道がある。夏になると蝉の声があちこちから聞こえるし、秋になると枯れ木とか葉っぱとかイチョウとか、そう言うのが落ちてくるし、冬になれば道路わきに積もった真っ白な雪の道ができる。
多分、ここも同じ。というか、今の所あの聖都とか言う場所以外で前の世界と特に大きく変わっているところを見ていない。いや、世間知らずとかそう言うのかも知れないけれど、でも、ここはやっぱり普通の日本だ。聖都で見たあの血族動物とか言うのが嘘だったみたいな。あのミミズも本当は幻か何かなんじゃないかとか、今はそういう風にしか感じられない。
木のアーチ状の道を抜けて、少し人気がある場所へと出る。山の斜面に建てられた古民家と集落。広々とした黄金色の畑。それを見渡していると、また山間の道路。そしてトンネル。催眠術みたいな感じで奥の方から迫ってくる電灯。そしてまた山間の道路。その繰り返し。やっと開けた場所に出たと思っても、また集落、畑、トンネル。常に隣からは煩いモーターとエンジンが鳴っているのに、眠たくなってくる。
そんなこんなでおよそ40分。やっとバイクが止まったのはこんな辺境の地に建てられた、やけに広いイートインが付属してるファミマ。前面ガラス張りの窓。その向かい側には、大きな山肌と、その足元を覆う畑たち。
「じゅんたん何欲しい?」
ミツミがウラルにもたれかかり、背伸びをしながらそう質問をする。
「じゃあ、お茶とたらこのおにぎりをお願いします」
「おけおけ。そこでちゃんと待ってるんだよー」
そう言って、入り口に立派な門松が置かれたコンビニへとミツミが吸い込まれてゆく。
フルフェイスを脱ぎ、膝の上に置いて、澄んだ空気を味わう。太陽が分厚い雲の向こう側からこちらへ向けて必死に光を届けようとして、少し濁った白い陽光と心地よい風を吹かす。
コンビニのお惣菜コーナーをうろつくミツミが見える。カウンターの方には「ハッピーニューイヤー」と、でかでかと書かれたカレンダーが飾られている。
もうそんなに経ったのか。時の流れはとても早い。と言うか、いつの間にか新年が明けていた。それもそうか。今は前みたいにスマホを持っているわけでもないから、今日が何日で何時だとかはテレビを見ないと分からないし、そのテレビすら見ないから、それはそうなる。じゃあ寮で何をしているのかと言われれば、仕事以外は寮の周辺をうろついたり、川の方まで降りて水遊びだったり。確かに、精神年齢的にどうかとはおもったけれど、身体年齢的には大正解だから………そう言えば、この体の身体年齢は、結局何歳なんだろう。戸籍上は11才ってことになったけど、そこの所はずっとあやふやのままだ。なんでこの世界に来たのかも、なんで死なないのかも、全部自分の事だっていうのに何も分からない。まるで、自分が自分じゃないような居心地の悪さ。
一人しかいないのに、窮屈。
「うーっす。買って来たぞー」
自動ドアからゴーグルを首にかけた状態のミツミが、レジ袋を片手でおもむろに持ち上げながら出てきた。
「はい、柿ピーとクーリッシュ」
「えぇ…」
絶望的に違う。
「……ありがとう…ございます」
「いいってことよ」
ミツミはそう言うと、バイクにまたがってコンビニで買って来たプリングルスを頬張る。
こうやって自然に囲まれながら取る食事は、おそらく何とでも合う。チャーハン、ラーメン、おでんにステーキ。なんなら海鮮丼とか、寿司とか、真反対の海の幸でも十分に合うと思う。もちろん絶望的に違う、柿ピーも。
「じゅんたんはさ」
「はい」
「ここを出たらどうしたい?」
「ここ…って、始末屋のことですか?」
「うん」
将来の話か。学校でも似たようなことを先生に言われたり、そう言う提出物に書き綴って提出したり。
「……ないです」
「仮にでいいからさ」
ここを出てしたい事。お金を懐に詰め込んで、一人になってからしたいこと。
「うーん…」
ピーナッツを手に取って頬張る。
……無い。したいことは何もない。多分、そういう願望は、恵まれた人間が持つものだ。ぼくの価値観と、短い人生をその”まとも”の分類に入れちゃいけないと思うから、ぼくがしたいことは
「……やっぱりないです」
「ふふ、あっそ」
んなッ…
「あ、やっべ。電車間に合わんかも」
ミツミがコンビニの中にある時計を覗き込んでそう言って、中身がまだ残っているであろうプリングルスを無理にズボンのポケットに押し込む。そして、エンジンを吹かしてその音をかき鳴らす。
「もう行くよー」
「はーい」
ふてくされたような声で返事をして、まだ一割も食べていない柿ピーの袋と、一口も手を付けていないクーリッシュをナイロン袋に投げ入れて足元に仕舞って、全く持って気に食わないという顔をフルフェイスで覆い隠す。そうして、持ち手にしがみつく。
バイクのスピードが落ちて、鉄柵の前で完全に停止する。あのコンビニからまだ10分とちょっとで到着したのは、とても和やかな様子の駅。
「うわ、来ちゃった。じゅんたん急いで!」
バイクとはまた違ったモーター音。ガタンガタンと聞きなじみのある旋律。シルバーの車体に黄色いラインの入ったそれが、速度を落としながら駅にピットインする。
「あぁあぁ、ちょま」
バイクのカギを早々に抜き取って全力で駆けてゆくミツミを、ナイロン袋を片手に情けない声を出しながら追いかける。
彼女は思いの他足が速い。足取りも軽やかで、まるで跳ねているかのようなフォルムで走る。だから、それに追い付くのも一苦労。足は速いのに、学校でよく見る腕を逆ハの字にする可愛らしい女性の走り方で走るから感覚がおかしくなって、余計に追いづらかったりする。
普通に通り過ぎたけれど、駅の中にはカフェがある。駅に着いてから時間に余裕があるときはそこで一服する。
「ふい、間に合った」
そう言って、ミツミが駆け足ながらに車内に足を踏み入れる。少し遅れてジュンも暖房の効いた車内へ足早に入る。乗車口と乗車口を繋ぐようにして設置された長い席と、向かい合わせになっているボックス席。出入り口のすぐ隣の空間を埋めるようにしておかれた優先座席。電車の在り方も一切の違いはない。
ミツミはこれと言って迷うことなく空いているボックス席に腰掛け、その向かい側にジュンも座る。
座席も車内もとにかく暖かい。特に足元に暖房が当たっているから、よく冷えた足が良く温められてゆく。ナイロン袋からクーリッシュを取り出して、蓋を開けて唇で挟み、中身が解けるのを気長に待つ。
ミツミがジャンパーのポケットから、まるでもがき苦しむ蛇みたいにぐちゃぐちゃになった白い有線イヤホンを取り出して、粗雑にほどいてはイヤホンを耳に差し込んで、窓際に肘をついて外を眺める。
この席からだとミツミのウラルも、駅の外観もよく見える。
駅舎の屋根には二つの傾いた半円の窪みと眼球のつもりの浮き出た木製の半球が、まるで座席に座る僕たちを睨みつけているかの様にして装飾されている。
ミツミに指摘されるまで、あれが鬼を模しているということに一切気が付かなかった。そういえば駅舎の前にもよく分からない鬼の壁画があった。鬼…の血族動物…?まさかそんな、流石にそんなものがいる訳が……いや、ここならいてもおかしくないか。
なんというか、この駅はまるで秘境みたいな、そんな雰囲気をシミジミと感じさせてくれる。深い山間にポツンとたたずんでいて、なんていえばいいのか、ノスタルジック。そう、そんな感じ。ノスタルジックでレトロチックで、落ち着いている。でも、田舎だから電車は一、二時間に一本。僕が前に使用していた駅と同じ。だから親しみがある。こういうのでいいんだっていう感じ。型に心地よく収まるイメージ。でも、向こうに着いたらよくある都会の駅のゴチャッとした時刻表とか、日によっては駅のホームが人でごった返したりしてうんざりすることがあって、その都度この駅舎が恋しくなる。
そんな駅舎も、車掌のアナウンスとともに電車が出立して少しずつ遠のいていく。レールを踏みしめ、モーター音をこみ上げさせて進みだす。そうやって、山と山の間をうねるようにして進んでいく。
実は、最寄りのイオンへは電車に乗っていくよりもバイクに乗って直接行った方が30分ほど早く着いたりする。お金もかかる、到着も遅くなる。それでも電車を選ぶのは完全にミツミの好み。
ミツミは、おそらく電車が好きと言うより電車の窓から眺める景色が好きなんだと思う。なんせ、電車に乗るといつも外を見つめているから。今もさっき走り抜けてきた駅舎とその向こう側の山の景色を、足を組んで窓際に肘をつき、ただ静かに眺めている。
僕も電車に乗って通学していた時はスマホを極力見ずに外の景色を眺めていた。理由は周りがスマホに夢中になっててずっと俯いているから、自分だけちょっと特別な気分になれるっていうしょうもない理由だったりするけれど、この人は多分違うだろう。ただ純粋にその車窓の外側に夢中になっているんだろう。
彼女も僕と同じ新人の枠で、同室になった当初はまだ入って8か月目くらいだったらしいから、もう少し経ったらちょうど一年になるのか。この電車もそのときから使用しているそうで、つまり一年間この景色を眺めているということになる。
今も、溶けてしまいそうなその顔で窓の向こうにある景色を見つめている。その間に彼女が何を考えているのかとかは分からないし、別に気になるとかでもないけれど、何か事情はありそうに見える。
そんな彼女のことが、少し気になる。
さて、次ここに帰ってくるのは何時間後だろう。
程よく解けたクーリッシュを一口飲み込んで、どうでもいいことを考える。
一時間半。長い道のり。山と山。田んぼに畑に小奇麗な集落。どれもこれも同じなようで、それでも少しユニークだったりする無人駅の数々。そうして、いつのまにやら山と畑だらけの景観は、洋風の家屋が軒並み連ねる住宅地へと移り変わる。空が白いせいか、ここからだと視界の全部が白く見える。真緑と黄金の世界から真っ白い世界。白い外壁に角ばった屋根。白い道路に白いコンビニ。その対比のせいか、すごく漠然としない景色。
時々映る緑にばかり気を取られる。
車掌のアナウンス。速度を弱める車体。席を立つ乗客。停止する車体。
「ジュンたん。ちゃんと着いてくるんだぞー」
電車のドアが開ききるとともにミツミがそう言ってそそくさと歩を進め出した。豊川という駅名のその場所はどこからともなく香り立つ香しい匂いが充満して、そんな構内をスーツ姿の男女やキャリーケースを引きずる青年淑女があっちこっちと列を成したり、それをかわしながら進んだりしている。まるで台風の直撃した荒波のうねりの中心にでも立っているみたいなその場所を、人にぶつからないように注意を払いながら進んでいく。
その間に、すれ違う老若男女からは珍しそうな目でジロジロと見られる。それは、まぁ、いつもの事。
ミツミの後を追いかけ階段を降り、豊川駅を出る。その勢いで、その隣にある稲荷豊川駅という、豊川駅よりも一回り小さな駅に入っていく。そして、停車している赤い車体の電車に乗り込む。
こっちもいい具合に暖房が効いている。空いてる座席はないけれど、寄り掛かれるスペースはまぁまぁある。だから問題ない。
「ってと。リーダーに頼まれてたのって、電池と肉じゃがの具材だけだった?」
「え、あ、えと、そうですね。あとカレーのルゥも無いって言ってました」
「カレーのルゥね、了解」
そう言って、ミツミは入ってきた入口とは反対側の締め切ったドアに寄り掛かる。
ジュンもその隣にある持ち手にもたれ掛かって、車窓の外を眺めているミツミの横顔を見つめる。整ったまつ毛。茶色くてきれいな瞳。その瞳に映る窓の外の景色。下唇の右側についている小さなほくろ。少しかさついている肌。程よく頬を染めるそばかす。ほっぺたにポツンとあるニキビ。彼女がゆっくりと瞬きをして、もう一度、その瞳に外の景色が映し出される。
彼女には、この景色が何色に見えているんだろう。真っ白か、それとも、鮮やかな何色か。彼女にしか分からない色があるのか。彼女にしか知り得ない外の風景があるのか。
車掌が吐息とノイズが十分に交じったアナウンスをする。そして、空いていた戸が音を立てて閉じ切る。モーターがこみ上げるような音をかき鳴らして、車体がゆっくり動き出す。それに呼応するようにして乗客の体が一様に揺れる。レールを踏みしめ、リズムを刻みながら進んでゆく。慣性が体を押さえつけられながら、ゆっくりと。
「じゅんたんはバーモントカレー派?」
商品棚のちょうど真ん中の列。ミツミが膝に手をつき、ズラリと並んだ長方形の箱の列を一つずつ指さしながら選別する。緑にオレンジ、黄色に赤。バーモントに銀座、ジャワにビーフ。僕の好みは__
「グリーンカレー派ですね」
後引く辛さ。ほろりと崩れる鶏肉。よく分からない葉っぱ。ココナッツオイルの甘味。半日もすればトイレに籠って腹をさすりながら少しだけ後悔するあの時間。全てをひっくるめてグリーンカレーだ。
「はは、おこちゃまだ」
「なっ」
ミツミが笑って銀座カレーのルゥを5パックまとめて買い物籠に放り込む。
「何辛にしたんですか?」
「もちろん中辛」
「あー。ね」
逆らって流れてくる人の波を受け流しながらミツミの後を追う。小豆色のパーカー、膝の部分が破れて、白い布が露出したジーパン。ぼろっちい赤いローファー。ふわふわとした足取り。頭のてっぺんから垂れ下がって、左右に揺れるポニーテールとイヤホンの白い線。
「先にごはんたべちゃおっか」
「そうですね」
一言言うと、喉を鳴らして鼻歌を挟み、そうして、ついでにもう一言とでもいうかのように続ける。
「2階行くか、それともフードコートか」
「フードコートがいいです」
流れるような会話。揺れるポニーテールと有線のイヤホン。ミツミが振り向いてニッと笑う。
「もしかして、また韓国料理?」
「まぁ、はい」
「じゅんたん辛いの好きだよね」
「あはは、どうしても食べちゃうと言うか」
店内アナウンスとカラオケバージョンの店内BGM。人の足音と話し声。遠くから聞こえてくる激しいベルの音と雄々しい歓喜の声。女性たちによる息のそろったセールの掛け声。
「じゃあ私はラーメンかなぁ」
エスカレーターに足を乗せ、上へと上がっていくミツミの後ろに着く。ミツミがかすかに体を揺らして、頭を小さく縦に振って、頬を緩めながら口をパクパクさせて、吐息の交じったような声で何かを口ずさんでいる。
「ドォンカムバァッグ、エェニタム、フフフフフフフン」
エスカレーターが二階のフロアを目指して鈍い音を捻りだしながら地道に上がってゆく。
ジリジリと一階のフロアに広がっている光景が消えてゆく。ミツミは、エスカレーターから放り出されたように飛び跳ねて二階のフロアに着地する。
一階ほどの賑わいは無い。エスカレーターを上がってすぐのところにあるGUの店内はいつもよりかは空いている。
前で小刻みに揺れるミツミが方向を変えて、三階へと続くエスカレーターへ足を伸ばす。その後ろへジュンが着いてエスカレーターから見下ろせる二階のフロアの景色へ目を向ける。
「じゅんたん」
不意に名前を呼ばれて前を向く。ミツミが笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。
「えっと、転んじゃいますよ」
そう注意を促すが、ミツミはその表情のままこちらを見つめている。ニッと頬を吊り上げて笑う彼女の表情からは、一体彼女が何を考えているかの検討がまるでつかない。
「音楽、好き?」
「え、えと、まぁ、洋楽とか、好きです」
そう言うと、ミツミは更に嬉しそうに表情を歪め、片耳に差し込んでいたイヤホンをジュンの耳にソッと差し込み「どう?」と一言。その背後にはエスカレーターの終わりと、スリーコインズの看板が見える。
「え、あの、ミツミ…さん?もうすぐ三階に…」
そう言いかけた途端、ミツミに差し込まれたイヤホンからはっちゃけた様な明るいメロディーと、男性の透き通った声。そして力強い女性の声が聞こえてきた。弾けるスネアの音。サックスの割れる音。そして、そのままミツミに手を握られ、思いのままに引っ張られる。
ミツミはイヤホンから流れてくるその曲に合わせて軽やかにステップを踏みながらエスカレーターから三階のフロアへ飛びだす。そうして、店内のBGMと同じくらいの声量で、ジュンの手を両手で握りしめて
「ドォンカァムバック、エェーニタイム、フフフフフフフーン、ディスジィヨーペーバァック、マニガァッバー」
歌って、踊る。引っ張られたり、押し出されたり。そのふわふわとした足取りで溌溂に踊り、それに合わせてよろめきながら歪なステップを踏む。
「うぇ?ちょ、ミツミさん?!」
ミツミは途中から歌うのやめて、「アッハハハハハハ!!!」と爽快に笑い出す。フロアを行き交う人からは変なものを見るような目を向けられる。自分も彼らとおんなじ表情をしていると思う。苦笑いをしながら通り過ぎるカップルに、その場をそそくさと去っていく親子に、近づいてくる警備員。
なんでこんなことに?彼女は突然どうしてしまったのか。これは流石に、死ぬほど恥ずかしい。頼むから正気に戻ってほしい。
小学生の頃、クラスで不本意なことで目立って恥ずかしい思いをしたことがある。今の感覚があの頃の感覚を無理やりにでも呼び起こしそうで、とにかく今は隠れたい。そそくさと人込みの中に隠れてやり過ごしたい。今すぐここから離れたい。
って、そう強く思ってはいるのに、体はほっと温かい。やめてくださいと言って、彼女の手を払い落とすこともできるのに、彼女の手を力強く握りしめる。楽しそうに笑う彼女から、目が離せなくなっている。背景が歪んで、彼女だけがくっきりと浮かんでいる。頭の中をかき鳴らす音楽が、彼女をより引き立たせて、高揚する。
とうとう僕は、おかしくなってしまったのか。
「すみません、他のお客様のご迷惑になりますので、そのようなことは__」
警備員のおじいさんに注意されるまで、僕は、彼女を見つめていた。
湯原文哉と獄介
「犯行予告…ですかい」
「あぁ。次から次に、面倒事が重なりやがるわ」
男は背もたれに体重を掛け、天井を仰ぎ見る。ここの所剃っていないだろう髭が伸びに伸びて、口の周りを覆い隠している。
「強情な魔墓の幹部らとの会合に、聖都の一件の報告書の提出。他には…ネグトルド学派とカンパニー関係者らへの詰問…もとい事情聴取。と、またその報告書。メディアへの介入による情報統制に日本への出入国一時規制。と、聖都の人間を交えての合同捜査本部の再設置に伴う有識者の招集。と、その報告書」
そこまでだらだらと続けては、わざとらしくため息を吐いて体を起こす。
三角柱のネームプレートがデスクで横倒しに置かれ、そこに湯原文哉の文字が綴られている。
「はは、出世すると大変だなぁフミさん。じゃねえか、IRO東京本部長さん?」
「これのどこが出世だ。ただの尻ぬぐいだろうが」
男はその重そうな腰を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
「そう自棄になるでねえよ。東京本部長なんて実質日本局長みたいなもんだろ」
「はは、なんだそりゃ」
男は大げさに笑っては首を軽く捻ってボキボキと鳴らしてはうなじをさする。
「そんで、その犯行予告とやらはなんだ。俺んとこには届いてない情報だが」
「あぁ、まぁ、内容が内容なだけに、お前さんとこに投げようか決めあぐねてんだ」
男が服の裾を正し、ネクタイの位置を整える。
「…なら、俺じゃなくていいだろう?手の空いてる野郎ならいくらでもいるだろうに」
「そう言う訳にもいかなくてな。なんせ”こいつら”にはお前が一番世話になってんじゃねえかと思って」
男は、含みのある言い方で、ジップロックに入れられた一枚の紙を手渡した。
それを手に取り、一文字一文字を恐る恐る読み進めてゆく。そして、それを読み終える間もなく、男は続けてその無精ひげに包まれた口を開く。
「それで、獄介さん。あんたは、仙台へ異動になった」
三回目
「じゃあ、大隈重信」
「知ってるかも」
ミツミがそう答えてハンバーガーにかじりつく。玉ねぎとレタスが零れ落ちて、トレーの上で跳ねて散らばる。
「伊藤博文」
ミツミが咀嚼物を飲み込み、ストローの刺さったコーラを一口飲む。
「ふぅ…聞いたことはあるかな」
おかしいのは、彼女だけではないのかもしれない。
「じゃあ…アインシュタイン」
ミツミが満足そうに息を吐き、机にもたれ掛かる。
「あれでしょ?舌出してるおっさんでしょ?」
あの時、僕は明らかに笑っていた。と思う……どうしてだろう。
「やっぱいるんだな……」
ジュンのその一言にミツミが鼻を鳴らしてかすかに笑う。
「エジソンにテスラ。オッペンハイマーにノーベルに、カラシニコフ。佐々木小次郎に宮本武蔵。史人の名前を覚えるのだけは得意なんだよね。私」
机に頬杖をついて店内を見つめてそう呟く。
「カラシ、ニコフ…?」
「カラシニコフ、知らない?ほら、AK47って銃。あれ作った人。聞いたことない?」
そう言ってミツミがビュンビュンと口ずさみながら人差し指を曲げ、銃のトリガーを引くジェスチャーをして見せる。
「ほえー、ミツミさん物知りですね」
「勿論」
ミツミのその言葉を耳に挟みながら、眼前に出されたアツアツのビビンバに付属のコチュジャンをまぶして、混ぜる。この時間が至福。ビビンバの蒸気に煽られて鼻腔を通り抜けるこのスパイスの風味。箸をくぐらせて口に運ぶ。あぁ、至福だ。
ミツミは、チキンナゲットを一口かじって小さくその顎を動かしている。咀嚼し終えるとドリンクを手に取り、ストローを唇で挟んでコーラを吸い上げる。そうして、口を開く。
「今でこそ純血だのレーザー銃だのが抑止力みたいになってるけど、一昔前までは鉛の弾丸と、”太陽の入った魚”が主流だったんだよ。知ってた?」
咀嚼をしながらミツミの発したその言葉の意味を考える。
「太陽…の魚?」
「そう。飛行機に積んで、空から落とすと空中で光って、その周辺にクレーターを作っちゃうんだ」
あぁ……やっぱり、こっちにもあるんだ。あるってことは、つまり。
「それって…やっぱり、この国に落ちたん…ですよね?」
「…うん。まぁ、そうだね」
どこかミツミの表情が一瞬暗くなった気がする。ドリンクに手をかけ、ストローを加えてドリンクを飲み干すと歯形の付いた潰れたストローが顕わになる。
「……ん?なんで知ってんの?」
「え?なんでって……あ!いや、なんだっけ。あの、あれです。本です。本かテレビで見ました」
「はは、なにそれ」
耳が熱い。
それにしても、そうか。同じ歴史は辿るのか。
「そう言えば、ミツミさんさっき一昔前まではって言ってましたけど、それってつまり、今はそれが使われなくなったって、そういうことで良いんですよね?」
「うん。もう本来の使い方はされてないんじゃないかな」
「本来の使い方…」
それはつまり、戦争の道具……いや、抑止力か。
「あれはねー。抑止力って体で色んな国が持ってたんだけど、意味が無くなっちゃったんだよね」
「意味が……?それはなんで…ですか」
そう聞いた途端にミツミが眉間にシワを寄せ、難しそうな表情で大きく背伸びをしては体を反らす。その態勢で困ったように唸っては少しばかり向かい側にあるyogiboの販売店を眺め、軽くため息を吐いてから口を開く。
「抑止力ってさ、”これをしちゃうとこういう反撃が来るから思いとどまろう”って思わせられるような何かを持とうっていう、難しく言っちゃえば”力の均衡”って考えのことじゃん?でも、過去を振り返ってみればその考えが生まれた数だけ戦争とか暴動とかってのが起こってて、その抑止力が言葉もでないくらい完璧に機能したことなんてほとんどないわけで。でも、当時の国のトップの人たちはその抑止力とかいう空想?フィクション?にしがみついちゃって。で、結局今まで通り……あ、やっべもうこんな時間じゃん」
「…………え、ちょっと」
今まで通り……?
「ほらーじゅんたん、早く食べて」
今まで通り……何が起こった……?
体から血の気が引いていくのが分かる。鳥肌も恐る恐る立ち込めていくのも感じる。彼女はそれをフィクションと言った。今まで通り、歴史が証明してきたように、力の均衡は保たれなかったわけで……つまり、抑止力が機能しなかったってことで…つまり、抑止力の意味が無くなった……それが、抑止力としての体を為さなくなった。
それって……
「早くそれ食べきんないと私が食べちゃうぞー」
どういう意味で……
「……そうか」
「その感じは、知ってたんか」
そう言って、男が内ポケットから取り出したミンティアを一粒だけ口に放り込む。
「俺は勘が効くからな」
「ははは、そうかいそうかい。そんで、その勘はこの予告もお見通しで?」
男が、ミンティアをもう一粒口に含む。
「これは、予想外だったな」
「はっ、そうかい。案外予想できそうなことだと思うんだけどね」
男はため息交じりにそう言うと体の向きを変え、ノソノソとこの一室の隅にある洗面台まで歩み寄る。鏡に映る無精ひげ面の自分を一瞥し、口周りの髭を撫で、眉間を歪める。
「そうか?あいつらはそこまで反感を買う様な連中じゃあねえと思うんだけどなぁ……んで、フミさんはこれをどうすんだ」
男が洗面台の横に置いてある棚から黒いラベルのシェービングクリームを取り出す。
「そうだなぁ」
顔を洗い、水に滴る顔を壁に掛けてあるタオルで拭う。手の平に泡立ったシェービングクリームを出し、それを口の周りから頬全体に薄く引き伸ばしてゆく。
「実は、そいつはこのデスクの上に置かれてたんだ。俺と、俺が呼んだ客しか入れないこの部屋の、そのデスクの上にな」
鼻の下を伸ばし、人差し指を立て、じっくりとクリームをなじませてゆく。
「こう言っちゃあれだが、俺はそれを見て、ほっとしたんだ」
男が顎のラインに沿って剃刀を入れる。白く泡立っていた曲線が淡く艶のある色黒の肌色へと変わっていく。
「その連中ってのは、心底厄介で、便利だが謎が多く、ここを含め、色んなとこの機密情報を握ってる、言わば導火線に火が付いた爆薬、もしくは…そうだな、ガス栓を絞め忘れた調理室、みたいなもんさ。今は中立なんざ語ってるが、都合の悪い組織に寝返られちゃあ事だ―-って、俺等以外の国内各機関の連中も思っているに違いない」
男は剃刀の切っ先を必死に睨み、慎重に肌を削ってゆく。
「あいつらは…確か政府公認じゃなかったか?」
こちらの問いに、男は「あぁ、それな」と軽くうなずいては喉を鳴らす。剃刀が肌を削る音が小刻みにリズムよく聞こえてくる。
「公認とは言っても結局はお墨付き程度。政治的、法的な拘束力も無いようなもんで、まぁ、ただの後援名義をちょい貸ししたってだけさ。彼らが公の場でも仕事しやすいようにってね」
「…なら、いっそこっちがあいつらを専属にしちまえば良いじゃないですか。こっちで新しく部署開いて好待遇で雇ってやれば…」
そう言うと、男がもみあげ付近の髭を入念に剃りながら、口を開く。
「なぁ獄介さん、よう考えてみて下さいよ。今まで中立で、色んな組織の、色んな極秘に触れてきた連中がどっかの組織と手を組みましたよとなりゃあ、その時はそいつらが終わる時ですよ。当たり前のことだが、中立ってのは、傾いた瞬間狙われるんです。俺らが連中を買収すれば、その翌日にはどっかの組織に壊滅させられて、その挙句に情報を抜き取られてしまうやもしんねえじゃないですか。その先は一方通行です。その情報をネタにゆすられるやもしんねえ。公開されて組織が崩壊するやもしんねえ。当然、その逆も然り。俺としちゃあ、そう面倒くさくなる前に……ね」
男が髭を剃り終え、洗面台の蛇口を捻る。
「フミさん……あんた…」
蛇口から流れ出る水を少量手ですくい、顔に浴びせる。壁に掛けてあるタオルを再度手に取り、顔の下半分を拭う。
「あぁ、そうさ。俺らはあいつらにとっての政府じゃないないんでね。想像してる通りさ。そんで、重要なのは絶妙なタイミングだけかな」
「タイミング………なぁ、じゃあ俺の異動ってのは」
「ただひたすらに、あんたに関わってほしくないからさ。少しでも遠くにいて欲しいからさ」
男は濡れたタオルを木の皮で編まれたかごに投げ入れ、シェービングクリームを棚に戻す。
「獄介さん。あんたを見てると、辛いんだ。昔の自分を思い出しちまってな。俺もな、大事な弟を失って暗い時期を過ごしたんだ。あんたはそん時の俺と一緒さ。大切な物失って、俺は無力だとか勘違い起こして、自暴自棄になってる。大阪行かずにこっちに来たってのも島部から聞いた。しんどいんだろう。キツいんだろう?現実と向き合うのが嫌で、さっさとクビだの転勤だのを告げて欲しくて、そのズタボロの体で同郷の俺んとこ来たんだろう?」
男のその言葉を聞いていると、体のどこかがみっともない気持ちでいっぱいになっていく。その感覚に不満が募って、それを発散するようにして口を開く。
「文哉…それ以上言うようなら、覚悟しろ」
今の気持ちをどう言語化すればいいのか、何と言えばこの気味の悪い腹の虫を治められるのか、皆目見当がつかない。
今までのことが不意に思い起こされる。目の前で大事な人を失ったあの瞬間が、守りたいものの為に死力を尽くして、しかし結局何も為せず、遠くでそれが壊れるを眺めるだけだったあの無意味な一瞬が、目の前を覆って瞼の裏にこびり付いていく。
たった一滴だけ零れた涙を、乾ききった掌で拭き取って男を睨む。
「文哉、もういいだろ。俺はセンダイへ行く。もう、ここへ来るつもりもない」
そう吐き捨てておもむろに振り返る。揺れる視界に吐気を催しながらフラフラとドアノブに手を伸ばすと、男に「おい」と呼び止められる。手と足を止めて、その言葉の続きに微かな期待を募らせる。
「……島部が寂しがってたぞ。センダイに行くのはあいつに会ってからでも―-」
「じゃあな」
男が言い終えるのを待たずしてドアノブを捻る。
ミツミさんが聞いている曲はFitz and the Tantrumsの「Moneygrabber」です。
たまに読み返してると誤字とへっぽこ語彙を見つけて、その都度コソコソ修正してます。
アクセス解析って言うのを一昨日に初めて知った。読んでくれてる人がいることに気付いた。
かぐや姫全国上映熱すぎる。




