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メタモルフォシス  作者: シ閏ん
15/17

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「その」「それ」を多用する奴は二流です。

そう、ぼくだね。

 推挙


 あれはいつも私を見下ろしている。例外は一度もない。頭の上を、顔色一つ変えず。悠々と、胸を張って、全てを見下している。どうせこの世の全てを見てきたんだ。あれは、変わらず皆の上で輝いているんだ。そうして、毎日誰かに感謝されるんだ。

 だから、私は太陽が嫌いだ。

 苦しい時間はいつの間にか消費しつくされて、味のするものは全て食べ尽くして、全てに慣れて。気付けば何をしても無味無臭のつまらない情景だけが体の細胞の間を通り抜けて。あらゆるものを見てきたはずなのに、思い出そうとするとここが、頭が痛くなる。そうだ、新しいことは1つもない。

 だから記憶なんてものは嫌いだ。

 何をどうしても、この世界は私を手放そうとしない。両足でどれだけ高く飛んでみても、最新のテクノロジーとやらを使って大気圏を突破してみても。この世界は私を留めようとする。

 だからこんな肉体は嫌いだ。

 目に入ったもの全てを手に入れてみても、気付けば全てを手放すことに必死になっていて、歪な形の欲望は私の影に潜み、私の芯を支える不死身の棒が音を立てて折れるその時を、卑しくもじっと待ち構えている。

 だから影は嫌いで、影もまた私のことを嫌っている。

 いくら裸足で砂利道を歩こうが、両腕両足を断ち切ってその砂利道を這いずろうが、満たされるものも、零れ出るものももう一滴も無い。いつの間にか私は空っぽになっていた。水滴の一つも着いちゃいない。湿気の一つもありはしない。その内器も同じようにして消えていく。残ったのはただただ空っぽで精神的な私だけだ。いらぬと思った瞬間にそれを捨てて、あれを捨てて。私の捨てたものを拾った誰かがそれを上手いこと利用して大成功する。全て手に入れたから全てを失う。何か欲しくなったころには何も手に入れられない。あれもこれも全て妄想に成り果ててしまう。触れられるものは無くなった。精神的な私は、ただ彷徨うだけの塵になり、そうして全てを知って、記憶して、余すことなく拾おうとして、そうしてまたそれらを捨ててきた。私は私を探している。消えないものを必死に探している。誰かを探している。私を受け止めてくれる誰か。そしてそれを繋ぐ何か。


 何も残っていないはずだった。全て捨てた気になっていた。

 器は空のはずだった。傷の一つもつくはずが無かった。

 だから、あの少女は、私のメシアなんだ。


 ____熱い。あぁ、なんだろう。やけどしてしまいそうだ。どうして私はここに居るんだろう。どうしてだろう。家が燃えている。誰の家だろう。懐かしい記憶。知らない誰かの記憶。いや、セナの記憶。この私の記憶。とても大事な記憶。どうして燃えているんだろう。突然肩を掴まれて、死にそうな顔の男が、必死に、私の目を見ながら何かを言っている。この男は誰だろう。彼も、私も、なんで泣いているんだろう。どうして燃えているんだろう、どうして熱いんだろう、どうしてこんなにも不安なんだろう。

 なんで、こんなに悲しいんだろう。この男は……この人は、知っている気がする……火……コーシエン……イルカ……オカア…サン…………………


 不意に目が覚める。真っ先に目に映るのは無機質な天井とくすんだ蛍光灯、少しl黒ずんでいる天井と壁との境目の角っこ。

 ほのかに暖かい。落ち着くフローラルな香り。時計の秒針が時を刻む音が聞こえる。懐かしい。なぜだか、心が安らぐ。モダンな時計は朝の7時58分を示している。

 そういえばここの所、いや、あの日に目が覚めてからずっとだ。朝の8時までには目が覚めてしまう。朝は寒いからできれば昼前まではずっと寝て居たい。でも8時までには目が覚める。

 あぁ、寒い。おそらく窓から外気が入り込んできているのだろう。窓の外は一面の雪景色。

 ここはカナダにあるホワイトホースと言う町の大きな病院…みたいな場所。空気は澄んでいて、雪が日常的に降りしきる。太陽が顔を出すと、今度は緑の大地と雄大な峰々が姿を現す。どの場所から見てもどの角度から覗いてみても変わらず絶景が続く。

 自分一人しかいない部屋。上半身を起こし、軽く背伸びをして電気を付ける。

 ブゥーーーーン………という蛍光灯の音が部屋のどこかから聞こえてくる。自分のベッドと、隣にあるのは鼓動に合わせて波動が動く何やら複雑そうな機械。ガラス張りになっている扉の向こうには、廊下をはさんでオレンジ色の扇形の図形と、その一段階濃いオレンジ色の球体やら歪な多角形やらが交わり合う温かみのある変わった模様の壁。

 結局、彼女、サカグチ セナが一体どんな人であったのかは分からないまま2週間と少しが経過した。彼女の友達や家族がお見舞いに来たらなんと言えば良いのかを寝る間も惜しんで思い悩んではいるけれど、今のところ、誰一人として見舞いに来てくれてはいない。喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、とても複雑な気分だ。

 ずっと一人でいる訳じゃない。私の引き取り人になる予定のローレンスという男がたまにリンゴの皮を剥くためだけに病室まで足を運んでくれる。何故かずっと黙ってはいるけれど、無茶振りを言えばそのまま何も言わず面白い能力を見せてくれる。

 第一印象はザ・寡黙。必要なこと以外はずっと口を閉ざしている。つまらなくなったら若林やオランウータン先生を呼ぶ。彼らも、言えばいつでも与太話をしてくれる。多重人格や夢遊病の未知深さ。過去の記憶を持って産まれてくる転生した人間の話。他には、別に聞いてもいない学生時代の話とか、血族動物がなんで差別されているかとか、現実に生きない人間の愚かさ?とか。鼓膜が痛くなるくらいに聞かせてくれる。

 そういえば、私が記憶を失ってて、セナでもキリでもないっていう事、あのニ人は知ってるかな。試しに今日打ち明けてみるか…いや、あの2人のことだ。もうすでに知っているに違いない。というか、もう「誰ですか」って言っちゃってるし、流石に気付いているか。で、いざ質問してみたら「なんとなんと、これはこれは…」とか、「えぇ、おおよそ私の読み通りにございます」とか、その何ということのなさそうな表情で言うんだろうな。

 

 それにしても暇だ。セナならこんな時どうするのだろう。リハビリは午後からだから、午前中はずっと暇だ。若林やオランウータン先生の話も正直言って飽きてきた。

 散歩でもしようか。ぶらぶらと院内をぶらつこうか。リハビリでも全然歩けているのだから、支障とかは出ないはず。よし、そうしよう。散歩してみよう。ここに来てまだ日は浅いから、知らない施設や棟があるはずで。そういえば中庭もあるらしい。大きな水槽や、植物園。広大な畑も有ると聞く。そうだ、せっかく居座れるのならとことん居座ろう。一時的にセナのことを忘れて、自分勝手な時間を作ってみよう。そうしよう、そうしよう。

 そう思い至って布団を投げ飛ばし、引き戸の扉を開ける。ものの、廊下を吹き抜けるとてつもない寒風が部屋に嬉々として入り込んでくる。

 「っひぃーーーー!」

 忘れていた。外は大雪で、廊下に暖房は無くて、ここはカナダであった。ついでに言うと、今は12月であった。

 仕方ない。あいつを呼ぼう。

 引き戸を締め切り、ごちゃごちゃとした機械の方へ歩みよると、受話器を取り出し声色を変えて、あいつに話しかける。


 コンコンコンと誰かが向こう側から扉を叩く音が聞こえる。

 「どうぞー」

 「失礼いたします。お待たせしました。では、ご希望給われましたジャンパーはこちらに………リハビリへ…という訳には無いようですが、どういうおつもりで…」

 ベッドで悠々自適に腰を下ろしている姿にいつもとは違う雰囲気を覚えたのか、少々懐疑的な口調で聞いてくる。その腕には何かしらのオレンジ色の編み物と、毛布にも似た、何かボリュームのあるものがひっかけてある。

 「いやー、急にこの施設の中を散歩したくなっちゃって…あ、ジャンパーとマフラーありがとうございます」

 若林からそのオレンジ色の編み物と毛布見たようなものをもらい、早々に着込む。

 「散歩…に御座いますか……いやはや、案内人たる看護婦、或いは事務員かをお呼びいたしますが、いかが致しましょう…」

 「あぁー………若林先生じゃダメなの?」

 「私…に御座いますか…如何せん私目は、この施設の案内人足る資格も持ち合わせていませんで、とは言いましても幾年月かはここに身を置いてますから、瀬名様のその提案の御期待に沿えられんと言う訳でも御座いませんが…」

と、何やら弱気な返答が返ってきた。いや、いつも通りの若林に違いはないか。

 「大丈夫ですよ。ちょっとした冒険みたいな感じですから。リハビリ室以外の場所も見てみたいなーっていう」

 「左様…ですか…それでは、丁度良い。朝食は既に済ませておいでで…?」

 若林がその小奇麗な腕に巻きつけられたシルバーの腕時計に視線を送りながらそう問いかける。

 「えと、まだです」

 「おぉ、それでは尚丁度良い。給仕には必要無しと伝いまして、いかがでしょう。私と共に一階のカフェテリアにて朝食と致しましょう。実を言うと、私も朝食を済ませておらぬので、イヤハヤ、ひもじい思いをしておったのでございます」

 と、少々笑顔じみたよく分からない表情で腹をさすって見せる。

 さてはこの人、笑顔が下手だな。

 「わかりました!………?」

 かふぇてりあ…とはなんだろう?


 「んーー……」

 困った。本当に。どれにしようか、どれがおいしそうか。いやどれもおいしそうだし、でも…魚か、肉か。スモークチーズ……と合いそうなのは肉…?いや魚も案外…。

 困った。

 なるほど、かふぇてりあ。既に出された料理を好きなようにトレーに”積んでいく”場所。こんなところに、こんなところが。

 室内は思っていたより暖かい。室温は自分の病室と大して変わらない程度で、マフラーをしていると余計に熱く感じる。店内を見渡すと、結構な数の患者やら職員やらが見受けられる。

 さて、どうするか。早く決めねば次の人に迷惑をかけてしまう。若林は何ということなく列に並んで、何ということなく料理を選んで、何ということなく席に着き、深々と手を合わせては懐から箸を取り出して食し始めている。急がねば。

 今日のメニューは、赤やら紫やら緑やらが忙しなく混ざるサラダと、色とりどりのドレッシング。ほぐされたゆで卵とマヨネーズを混ぜ込んだ名前のよく分からないアレに、カットされたフランスパン、クロワッサン。何やらどろどろとしたソースがまんべんなくかかっているほぐされた鶏肉と、なんか小っちゃい豆の入っている何か。と、ミートスパゲッティや、あっさりとした魚介パスタ、グラタンやシチューも置いてある。他にも興をそそられる料理がちらほら。野菜のチップスなんかも置いてあるけれど、それ以上に脂っこそうなものは置いていなさそう。そして飲み物のおかわりは自由。これを吟味しないでいられようか。いつもの病院食とはまた風変わりな食事。セナから私になってからの初の自由な食事。野菜チップスは入れるとして、クロワッサンと…………………


 色々とてんこ盛りになったトレーを持って席に着くと、トレーの内容を見た若林が片方の眉を上げて少しばかり驚いて見せる。確かに、選り好みすぎたが故にこれと言って迷うことなく、どかどかとトレーに運んでいったせいで大混乱状態だが、まぁ、何とかなるはずだ。何せお腹が空いているのだから仕方ない。

 「その量を……たったのおひとりで………」

 若林は唖然としている。

 「若林先生も食べますか?」

 「え?あ…いえ、親切には及びません。えぇ……」

 どうしてだろう、凄く申し訳ない気分になってきた。食べきれなかったら尚更だ。

 「そう言えば、若林先生はご家族とかいらっしゃるんですか?」

 その不意な質問に、若林は手を止め、咀嚼しているものをゆっくりと飲み込み、喉を鳴らしてその質問にいつも通りの口調で答えた。

 「えぇ、母は故郷の福岡にて、悠々自適に暮らしておりますよ」

 「あぁ、いや、そうじゃなくて、奥さんとか…」

 そう言うと、若林の表情が強張り、席に座り直して姿勢を変え、かしこまった様子で喉を鳴らした。

 「滅相も御座いません。私は研究職の人間でありますが故、それに生涯を費すつもりにありますので、配偶者に巡り合うなぞはもってのほか、此方から巡りあわせを乞うた事なぞも一切ありはしませんよ」

 「はぇ~、もっはいあいでふよ」

 と、自分から質問をしておいて食べ物を頬張るというかなり無礼なことをしながらリアクションをとる。

 自分でも、どうしてこのタイミングで魚介パスタを口に頬ったのか理解できない。必死に咀嚼して飲み込む。

 「先生はどういう感じの女性が好みなんですか」

 「好み…女性の好み…に御座いますか…」

 この感じは、そういうことに疎いタイプの人なのか………なぜだろう、言い知れぬ親近感が……どこからともなく湧いてくる。まるで自分もそうだったかのような……。

 「さて…強いていうなれば、知的な方でしょうか」

 「知的…ってことは頭の良い人かぁ……他にはないんですか?」

 「他…で御座いますか……………フーム……そう……ですね。話題性のある女性…ですね。お恥ずかしい話、私は何分何とも形容し難いつまらない人間にありまして、私自ら話題を繰り出すなどというような億劫な事なぞ……加えて、目移りの激しい性分故に好意を寄せる。と言うことに幾何かの躊躇いを感じてしまうのであります…と、失礼。つまらぬ自分語りを。どうぞ箸を進め下さい」

 「いやいや、大丈夫ですよ。でも、なるほど。つまり先生は恋愛下手ってわけか」

 と歯に衣着せぬ物言いをしてみると、なにやら後頭部にV字型の飛来物が刺さった様な違和感を感じる。

 「恋愛下手……そうやもしれません」

 若林がナプキンで口をこすって、口周りに着いた油をぬぐい取る。

 「先生は彼女さんとか、奥さんとかは欲しくないんですか?」

 「……何分私には、短期的、長期的な用事が詰まっております故、今、中期的な関係の構築云々に現を抜かす余裕なぞ、ありはしませんよ」

 「そっかぁ……」

 結婚が中期的って…離婚前提…

 フォークで魚介パスタを巻き取り、むしゃぶりつく。油っぽさは微妙に感じるが、それであってもさっぱりとしている味付けに、少しばかり辛味を感じる。そして、咀嚼すればするほどに、これでもかと言うくらいに貝の風味と青魚の丁度良い青臭さが鼻腔を駆け抜ける。うむ。普通の魚介パスタ。いや、まてよ。まず魚介パスタとはこんなんだったか。そもそも魚介パスタってなんだ。ミートスパゲティってなんだ。ボロネーゼってなんだ。

 という気持ちの悪い不安にも似た疑問をシチューに浸しておいたクロワッサンと共に飲み込む。

 不意に若林の方へ眼球を向けてみる。

 彼は…同じくジロジロと眼球だけを覗かすようにしてこちらを向いている。何事も無いようにこちらが食べ終わるのを待ち構えているが、それでも、眼球がこちらを向いているというのは嫌と言う程に分かる。

 流石に食事風景が下品すぎたか。と、姿勢を正して静かに小口でかぶりつくも、やはりこちらをジロジロと見てくる。なんだろう?なんというか、しつこい…?その視線は別にいやらしいとか、そういう風ではない………いや、そもそも下品に食す私ではなく、その後ろの方に視線を送っているのか。

 一体何があるのか。気になって、咀嚼をしながら振り返ってみると、大きな机を囲って朝食がてらに世間話をしている女性たちが見える。

 まさか。先ほどまでそう言うのにうつつを抜かすのはどうとか宣っていた分際のこいつが、まさか。

 誰だ、一体誰をチラ見してるんだ。あの笑顔が素敵でシュッとした顔の美人か、それともその隣の席の食欲旺盛で体格でかめの元気そうな女性か、もしくは今サラダを大口で口の中に放り込んだ黒人のパイでか美女か。いや、その向かい側に座っているスマホをイジリながら食事をするアジア顔の女性かも。もしかしたら、その隣の机で食事をしている見るからにあれな関係の男二人組の可能性も……………このかふぇてりあは………思ったよりもグローバル……いや、こういう時はダイバーシティが正解だってオランウータン先生が言っていた。

 なんか眩しいな。


 食事を終えて、かふぇてりあを後にする。

 来た道をたどって、途中でルートを逸れて、どこかへと向かう若林の後をつけてゆく。

 結局、若林が誰を見ていたのかは分からず仕舞い。どうしたのか聞いてみても歯切れの悪い返答が返ってくるだけだったし。いや、歯切れが悪いのはいつもの事だけど、そう言うことじゃない。まだ出会って数日の仲で、もう数週間もしてしまえば私も退院して、あのローレンスと言う男とどこかへ向かう。あと数週間の関係なのだから別にこいつのことが気になるとか、どういう女性がタイプなんだとか、こいつを恋愛対象で見てしまっているんじゃないかとか、そう言うことじゃなくて……まぁこいつにはこいつなりの深~い事情があるのだろうなぁ…とかそう思ってみる。確かに、若干気になってはいる。この訳の分からない男がどんな女を好きになるのかとか。でも、こいつのそういう”ノロケ”に興味を持ってしまった自分が馬鹿みたいで、凄い敗北感がするからこういう言い訳じみたことを言い連ねているだけ。それに、若林という人間がどうしてそこまで恋愛感情とか諸々を毛嫌いしているのかも若干気になる。若干気になると言うだけで、そんなに気なっているわけではない。

 あぁ、もうよそう。そもそもこいつが本当に女性に興味があるかもまだ分からないのだから。


 若林の足が、傷や汚れ一つ無い絹のような扉を前にしてピタリと止まる。

 「…?あの……?」

 「いやはや……」

 含みを持った頷き。若林が額の汗を拭う。

 扉の横にはやんわりとした赤色で『keep out』の文字の書かれた白い看板が掛けられている。

 「ここは…?」

 若林がつばを飲み込む。

 「この部屋は…ある時まで『Children』などと揶揄されてきました、血族史において、その一部始終を忘るることを禁じられた者達の住まう場所に御座います。」

 「ちる……?」

 頭の中がモヤモヤとする。まただ。なぜか知っているつもりでいる。何故知っているんだろう。そして、ただ知っているだけなのも不愉快な気持ちだ。

 「……其の事の顛末は、我々の納得し得る形とは近からぬものとなりました。」

 若林はそう言うと、目を閉じ、眉間を苦しそうに歪ませては深呼吸と共に目を開き、口を開く。

 「否にも応にも、現実は非情で御座いました。あの一件によってか、将又天のお定めになった運命に因ってか、因らずか。安寧は続かぬことが有無を言わさぬ形で決定致してしまいました。」

 若林がいつも通りの分からないような分かるような日本語で話し出した。言葉の意味は分かるが、何を言いたいのかはまるで分からない。

 「瀬女様。この扉の先にあるものは……我々の”業”で御座います。それはどうする事にも行かぬ繊細なものであり、単純極まれる、厄介の極まるところを知らぬ事柄に御座います。それでありながら、確実に、遠い未来に、我々とこの惑星の宿敵となる者達でもあるのです。皆がそうであり、私もそうであるように、傍観を決めた愚か者達をどうか許して差し上げて欲しい。そして、どうか、貴方だけは、この者たちを見捨てないでいただきたい。」

 つまり、どういうことだ。何が言いたいんだ。というかこの扉には入るのか、入らないのか。それで、結局この向こうにいるのは何なのか。今はそれだけが知りたい。

 「はぁ……あの、それで、向こうには何がいるんですか?」

 頭を捻ってそう聞いてみると、当の若林は何かに気付いたような、それでいて腑に落ちたような。そんな表情をこちらに向ける。口を少し開けて、真っ白な前歯の先っぽをちらつかせ、そうかと思えば口を閉じて軽くうなずく。

「そうか………キリも、瀬女様も、あなた様も、そうなのか……あぁ、私の傲慢め、怠惰め、強欲めが」

 若林が何もない真っ白な大理石っぽい床を見つめて、左手を腰に据え、右手の人差し指を立て、その床に向かって人をしかりつけるかのようにして指を振ってはそうぼそりと呟く。

 「あ、あの…先生?」

 「あぁ、いえ、何ということもありません。あなた様がお眠りになられていた四年の月日の間に、筋がはち切れんほどの出来事が重なりましたが故に、彼らが今この奥で横たわる所以の端緒の説明も碌に致しておらんかったので、至らず尽くさずが過ぎてしまいました」

 …………ん?


 「Rehabilitation/Physical therapy room」

 そう書かれた看板がすりガラス調の扉の上に掛けられている。向こう側がピクセル状に曖昧に映るその扉をスライドさせて中に入ると、だだっ広い空間の真ん中を通る赤いじゅうたんが真っ先に目に入る。壁の隅の方には、どうやって積み重ねているのか分からない赤と緑のバランスボールに、整理された軽そうなダンベルと、何に使うのかこの先も分からなそうな、持ち手の付いた天井すれすれまである背の高い器具と、ランニングマシンの列。そして至る所にあるスロープに簡易的なベッド。

 室内ではそれなりの人数が医師らしき付添人の元リハビリに励んでいる。勿論私もポニーテールの良く似合うブロンズヘアーのジェシーと言う若い女性と一緒にこの中に混じってリハビリをしている。

 ジェシーは英語が全く分からない私に気を使ってくれてか、「スロウ」とか「キープ」とかの”分かる英語”を多用してサポートしてくれている。

 ……ん?じゅっちゅうはっく……?いや、そんな事はどうでも良いんだ。今気になっているのはそんなどうでもいい事でも、結局ちるどれんが何だったのかとか、そう言うことでもない。まさか、4年も寝ていたなんて。信じられない。いや、前の記憶とかは全く戻らないけど、でも、衝撃的だ。4年間寝ていた。つまり、若林やオランウータン先生の言う「キリ」とか言う第二の人格が4年間…かどうかは分からないけど、それくらいの間この体を乗っ取っていたっていうことで。

 あぁ、どうしよう。今のこの気持ちは、どう言い表せばいいだろう……焦り…いや、懺悔だ。もっと早く起きていたらセナの大事な時間をそこまで奪うことも無かった…って。

 つまり私は、もう成人しているってことになる。16歳でボウハツして、それから四年……20歳………きっと、セナはこの4年の間にやるべきことがたくさんあったはずなんだ。きっと、恋人とかもできていたんだ。色んな出会いがあったはずなんだ。

 バランスボールの上で、足を床すれすれのところで浮かせて、両手を広げて、必死にバランスを取りながら考える。今の自分に何ができるか、セナにどう償うべきか。

 「ユゥブォックダウェコード!ダツグェー!」

 ジェシーが視界の端っこでストップウォッチ片手に何やらはしゃいでいるが、いや、そうじゃない。私の今の感情は記録更新とかで浮かれ騒ぐとか、そう言うのじゃない。

 「……ゥァツゥロン?」

 考えれば考える程信じられない。4年、よねんか。確かに、私にしてみれば他人事だし、私があれこれと言う必要はないけど、でも、セナは…瀬女は16歳の少女で、高校生で、友達もいて、家族もいて……じゃあ…4年は………長いな……よねんか。

 「はぁ…」

 どうしてもっと早く言ってくれなかったんだろう。もっと早く言ってくれていれば、いや、どっちみち結果は変わらないか。それにしても、なんであのタイミングで………違う。そうだ。あの時の若林の表情。あの部屋の前でのあの独り言とか、あの腑に落ちたり落ちなかったりみたいな表情。もしかして、あの時まで私が記憶を失っていることに気付いていなかった…とか?

 「ァーーーァンム………アイスィ……?」

 もしそうだったら、オランウータン先生もそのことに気付いていないってこと…?でも、私は若林に「誰ですか」ってしっかり言って……そうか、私を本物の瀬女だと思ってたんだ。キリと人格が変わって、瀬女に戻ったと思ったんだ。それで、きっとキリに『私の記憶は瀬女と共有されている』って言われていたんだ。それならオランウータン先生の変な独り言にも筋が通るし、そこまで気にしてなかったけど、若林の「信じてもいいのだろうか」って言葉にもつながる。

 「セナ…?ユゥ……スリーピン……?」

 おいおい、私は天才か?名探偵になれんじゃねえかなぁこれ……ん?あの時のオランウータン先生の発言、よくよく考えてみれば色々とおかしいような………だって瀬女は4年も寝てて、いつ目を覚ますのかも分からないはずで。凄く長い4年間。なのに、オランウータン先生は私が目覚めたその日、私の目の前に座って、起きていることをさも予測していたかのように話しかけてきた。私が寝たふりをしていてもすぐに気付いた。最初はオランウータン特有の勘とかそう言うのかと思っていたけれど、今になってみるとすごく変だ。4年の内のたった一日。そして分単位に刻み込んだタイミング。こんなの、はっきり言って気味が悪い。

 でも、ただ一つだけ考えられるのは……その直前まで人格がキリで、今から瀬女に変わるねって言って変わって………あれ…?

 

 じゃあ、私って……本当に……だれなんだろう……?


 「ヘィセナ?アァユオウケィ?」

 ジェシーが視界のど真ん中に映る。そう言えば、バランスボールに乗っかっているのを忘れていた。

 「うわあぁあぁあぁ!!」

 バランスが大きく崩れて、足が前の方に押し出される。そうしてジェシーの顔面に不本意な蹴りをお見舞いし、そのまま背後の壁に頭をぶつけてボールからずり落ちる。  

 あぁ、凄く痛い。


汝。


 …………瀬女……そうだ、瀬女。セナ。母に貰った名前。母。海が好きだった母。あれは、あれは…。海。大磯の砂浜。季節外れで、人が一人もいない、広い砂浜。青。空も、海も、真っ青。さざ波の音。波と波がぶつかり合う音。砂に足を取られて転ぶ私と、それを見て笑う母。お母さん。名前は、ノノメ。ノノメ。

 少し歩いていると、何かが、波打ち際で体をうねらせている。背びれが見える。サメ?違くて、あれは、イルカ。表面はテカテカつるつるで、つぶらな瞳。急いで浜辺の管理人さんを呼んで、そしたら、いつの間にか地元の記者に囲まれて、インタビューを受けた。母は、とても楽しそうにインタビューに答えて。帰りの車の中でずっと、ずっと、その話を楽しそうに語っていた。

 明るくて、たまにすごく怖くて。でも、底なしに優しかった。あの時、私が殺した、大好きなお母さん。

 お父さんは……顔、見たこと無いな。でもなんで…?確か、名前は…フジ……うぅ……。

 これは、誰だろう。お父さんと、お母さんと、誰かと、誰かと、誰かと………オジ…サン…?


 夢の余韻が残ってる。さっきまで見ていた夢。どんな夢だっけ。見たことある人と、知らない人がたくさん出てくる夢。さっきまで明るかった視界が、いつの間にか暗くて何もなくなって。

 あぁ、もう朝か。

 体に覆いかぶさっている布団をはねのけて、上半身を起こしてカーテンを引っ張る。

 眩しい。

 窓の外は、心地よい快晴。昨日降りしきって積もった雪が太陽の光を反射して、それは、もう、とにかく眩しい。積雪の一粒一粒がチカチカと煌めいて、星空みたいに明かりを灯している。真っ白。純白。清廉。

 「起きたか」

 「ひっ」

 引きつったような声を出して、突然の声掛けに思わず振り向く。そこには、緑色のリンゴをサバイバルナイフで器用に剥いている色白の男が座っていた。髪の毛は一部を除いて真っ白。服は、全く似つかわしくない黒の半袖Tシャツ。腕はしっかりしていて結構ごつい。青色の血管が良く見えて、薄い色の毛が生えている。

 でも、それよりも気になるのがその服のデザインだ。腹部にはギザギザのフォントで「DAMN M O N K Y」という文字と、その背後で親指を突き立てて自らをアピールしているサングラスをかけたチンパンジーのロゴが大きく白色でプリントされている。全くセンスを感じない。なんというか、ダサい。高い鼻と深い堀、淡い色の唇にシュッとした目元という、いかにもモデルにいそうな良質な顔と、ムキムキ且つ190cmは優に超すであろう高身長のコンボ。そこから醸し出されるオーラ。その全てがTシャツ一枚によって見るも無残な姿に。

 「あ…えぇ……ローレンス…さん。おはよう、ございます」

 「どうだ。気分は、良いのか。」

 男は、瀬女と顔を一度たりとも合わせることも無くリンゴの果肉と皮の接着面をえぐるナイフの切っ先を見つめながらそう質問する。

 「えと、はい。順調です。あと少しでリハビリも終わりますし」

 そう言うと、男はいつも通りの味気ない口調で「そうか」と一言。

 男の名前はローレンス。彼についての良くない噂を、院内でいくつも聞いた。

 悪党。邪知暴虐。変態殺人鬼。テロリスト。国際指名手配犯。時には彼をアーティストなんて言う人もいる。なぜかは分からない。分かりたくもない。なんせ、これから一緒に行動することになる、私の身元引受人だから。おそらく、これから長い間お世話になる人だから。

 確かに、気にならないことが一つもないわけじゃない。どうして私の身元引受人になってくれるのか。とか、ここを出てどこに行くんだ、とか。こいつはこいつで自分のことを一切語らないし、その周りも語ろうとしないし、というか、ここに務めているナースや職員は、噂は垂れ流すくせに、その詳細を聞いても頑なに答えてくれないし。

 なんというか、こいつが悪い奴で、私のその暴発した特異能力とやらを悪用しようと企んでいるとか、そういう考え方もできなくはないけど。だとしても、今の私がそれをどうこうできるわけでも無いから、もうどうにでもなれだ。

 それにしても……悪者…こいつが、悪者?うーん………?

 私が入院してからのおよそ3週間の間に、この男と話した時間は、体感で2時間も無いと思う。たった2時間。そのほとんどがこっちからの質問で、その会話の全てが味気の無い「そうか」で締めくくられる。だから、この男の素性も気性も分からない。もしかしたら女かもしれない。底抜けに優しいかもしれない。それでも、やっぱり気になる。この男の悪評の理由は知りたくないけど、この男の素性は知りたい。どういう性格で、どんな趣味があって、好きな食べ物が何かまで。やたらと意外なものが好きそうな感じ。

 「どんなタイプの女性が好みですか」

 不意にそんな踏み込んだ質問をしてみる。

 「…………女は、好きじゃないんだ」

 …………!!もしや男が

 「そもそも、人は好きになれなくてな…」

 あぁ…

 「じゃあ、好きな動物は何ですか」

 「………ネコ」

 ネコ……。

 「好きなスイーツは?」

 「………パフェ…?」

 「好きな食べ物は」

 「………サンラータン」

 ………?それは、なに?

 駄目だ。思ったより普通だ。いや、最後のなんちゃらタンは面白いのかもしれないけど、分からないから意味が無い。少し方向性を変えてみるか。

 「あー、えと、じゃあ、ここを出た後の目的地は?」

 「………………どこか、行きたい場所は、あるのか」

  質問を質問で返してくるタイプか

 「行きたい場所…ですか」

 そんなの

 「ない…ですね」

 そう言って、首を傾げて苦笑いをして見せると、いつもの如く味気ない「そうか」が返ってくる。そう、いつもの如く。

 「それで、結局どこに……?」

 もう一度そう質問をしてみる。ローレンスが俯きながら丸裸になったリンゴを一口サイズに切り分けている。

 「………まだ、言えないな」

 ほう。

 「じゃあ、私を連れ出す理由は?」

 切り分けたリンゴを皿の上に置いて、その内の一切れを口の中に頬って、咀嚼する。シャリシャリと音を立てて、何ということなく頬張る。ローレンスがそれを飲み込むまで静かに待つ。じっと。

 「…………お前の父親に、頼まれたんだ」

 そう言うと、男は席を立ち、手に持つナイフを革のカバーに差し込み尻ポケットに仕舞って部屋を去る。

 「父……親……」

 静かな音を立てて戸が閉まる。余韻が部屋中に飽和して、うっすらと引き伸ばされるようにして消える。


 魚、野菜、肉、スープ、米、パン。青、緑、紫、赤、白、赤、白。今日の献立は魚介がメイン。なんとかタラの練り物とカレイの切り身。アジの天ぷら。ぱえりあとグラタン。エビ。他には燻製のチーズに分厚いハム。でっけぇトマトと玉ねぎのソース。定番のシチュー。3分の1に切りわけられたコーン。ホットミルク。今日はこれで。

 つい最近知ったことだけれど、これらには金を払う必要があったとか。そして、今まで私が食べた分の金は全て若林の懐から捻出されていたとか。まぁ、別に気にするほどのことでもないか。

 カフェテリアは見慣れた人ばかり。いつもの席でいちゃつくゲイのカップル。なにやら楽しそうに会話をしている、やけにサラダの盛られた皿を囲む四人組の女性たち。肉ばかりを皿に盛ってノートパソコンに向かい合う堀の深いおっさんに、一人で早々に朝食を済ませてかふぇてりあを後にするジェシー。

 この光景とももうお別れか。結局、英語なんて分からないからジェシー以外の誰一人ともちゃんとした話をしていないけれど、見慣れた人たちが相も変わらずそこにいるのは思った以上に心が落ち着くというか、安心するというか。たったの一週間ぽっち通い詰めただけだけれど、あの病室以外の帰る場所みたいな。

 そうか。”帰る場所”。

 セナにもそんな場所があったんだろう。彼女は、いつか帰ってくるのだろうか。

 窓側のカウンター席に座って、若林に貰ったジャージを背もたれに掛ける。

 ホットミルクを啜って、フォークを片手に白身魚の身を崩す。ほろりと崩れた身と身の合間を汁が伝って皿の上に薄く広がる。はみ出た小骨をつまみだして、身をフォークですくって頬張る。

 窓の外は快晴。凄く遠くに聳え立っている、あのどこまでも高い山のてっぺんまで見えそうな程によく澄んでいる。木々が少しだけなびいて、鮮やかな色をした鳥が目の前を横切る。

 分厚いハムに燻製チーズを乗っけて、小さくかじって、頬張る。座る態勢を変えて、胡坐をかいて、外を眺めながら肘をつく。そうして、口に含んだものを咀嚼する。

 いつも通り。起きたらご飯を食べて、食べ終わったら部屋に戻って、リハビリの時間まで待って、リハビリ部屋に行って、それが終わったら部屋に戻って、若林に借りた全て英語のミステリー小説の続きを必死に翻訳しながら読んで、またここに来てご飯を食べて、部屋に戻って、リハビリの時間まで待ってリハビリ部屋に行って、暇だから若林の部屋に行って他愛もない会話をして自室に戻って。それで、一日が終わる。基本的には外出は禁止。だけれど、若林やオランウータン先生同伴なら例外的に許された。近くの農園へ若林の車に乗って出かけて、そこの農家とハイタッチしてみたり、地元のハンターの仕事を見学して、狩ったシカやウサギの肉で作った料理をごちそうになったり。

 優しさに、ふんだんに浸かった。だから、暇だと思えるような生活ではなかった。どっちかと言うと、少しだけ楽しいと思えるような時間だった。

 ホットミルクを啜る。アジのフライをかじって、咀嚼する。

 けれど、どんなに有意義な時間を過ごそうとも、頭の隅には私の事や瀬女のことがチラついて仕方ない。

 目が覚めて、真っ先にあのオランウータンが目に映って、説明を受けて、ここはそう言う世界であると説明されて、それでも分からない。私と、もう一人の私と、それから、キリという人格と。セナからしてみれば、私もキリと同じ、”私と言う人格”なのかもしれない。

 途方もない不安と疑問。それが、視界の端からずっと覗いているような。

 血族。ブラッディ。水や、火、念力や空間認識能力を使用できて、少しだけ力を分け与えることもできる。

 純血。血族の中でも、私のように髪の毛の一部が白くなって、昔の人から何度も受け継いできた、特異能力という特別な力を使える人たちのこと。

 無血族。ノーマン。血族じゃない人たち。能力が無いから、昔から、ずっと弱い立場にいる人たち。

 血族動物。人以外の血族。虫や魚が血族として生まれることは無くて、生まれてもすぐに死んでしまう。だから、地球上にいる血族動物のほとんどが哺乳類。そしてよく事件を起こしている。

 ……………。

 全部、私が、いつの間にか知っていた事。

 最初は困惑した。なんで知っているのか、不思議で、不快で、仕方が無かった。今になって見ればよく分かる。どれもこれも彼女の記憶で、彼女の私物なんだ。

 IRO。血族連合。聖都市ウィッチグレイブ。日本。関東。カナガワ。ヒラツカ。サカグチセナ。サカグチゴクスケ。

ヒュータ。

 「はぁ…」

 ため息をつきながら、アジのフライをもう一度かじる。

 もう、どうでもいいで済ませられる地点を当に過ぎてしまったんだと思う。私の頭の中にある彼女の記憶の全部がかけがえのない物であるように思えてしまって、なんかもう、他人事でないような。彼女の記憶を、彼女が帰ってくるまで守ってあげないといけない。みたいな、身勝手で妄想めいた使命感を背負っちゃってるような感じが、ずっと抜けない。

 きっと、誰かに相談をしても、そんな必要はない。彼女が戻ってくるまで君は君のままでいていいんだ。って言われるんだろう。分かってはいるけれど、一度そういう妄想を抱くと、こびりついて、錆び付いて、義務…みたいなのになってしまいそう。

 「義務…か」

 若林が口癖のように言っていた。「義務と言うのは、誰かが何者かの思想をむやみやたらに主張して発生するのですから」って。言っている意味はふんわりとしか分からないけど、今の私もそうなのかもしれない。彼女の記憶を、彼女が帰ってくるまで守ってあげないといけない。寝ている間に、そう誰かにささやかれたのかもしれない。

 「はぁ…」

 もう一度ため息をついて、グラタンの中にあるエビをフォークで突き刺して、口まで運ぶ。

 「…おいひっ」

 誰にも聞こえない程度にそう呟く。


確定申告めんどくちゃい

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