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メタモルフォシス  作者: シ閏ん
13/17

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本物の若林鏡太郎に会ってみたいね。

ネグトルドの砦


 「生きて良くなることがあれば、死んで良くなることもある。その裏には、死んで悪くなることがあれば、生きていると悪くなることがあるというモノで、君が今をやっと生きているのは、君がそのどっちかであるのかを私が知らないからか、はたまた君は既に知り得ているのかどうかは知らないが、あなたがそこにチョコナンと寝そべり寝こいているのは、限りなく私のおかげで、彼のおかげかな。ンー、ンー……ほら、寝たふりをしてないで、もう起きているんだろう?」

 ……バレた。

 なんだろう?この人のアクセント。声が籠って、変な話し方。

 「具合はどうだか。どこか痛いところがあるんなら隠したりなんてなさらず。にィ……ェエトォ…」

 目をそっと開く。何か見知らぬものが一瞬だけ映ると、眩むような白が目の前を埋める。ずっと、ずっと真っ白な世界。そんな世界を眺めていると、その何も無い世界の中心に突如として朧げな穴が開く。輪郭がぼやけてはっきりとしないその穴は、まるで火の粉に充てられた古紙のように徐々に広がっていって、彩を取り戻していく。

 見えてきたのは天井と、風に煽られて大きく舞い上がるカーテン、そして壁に掛けられた時計。軽く息を吸いこむと、視界の下部から何かが浮き上がる。

 今の私の脳みそは、まるで産まれたてかのような程に何も知らないし、分からない。何をしているのか。何をしたいのか。何をしていたのか。

 眉間をひそめて頭を軽く動かす。後頭部がフカフカの何かに埋もれているのだけは分かる。そうして頭を動かした先にあるのは、窓とその向こう側。全く見覚えのない自然の広がる大地。遠くに聳えている白い粉がまぶされたようなあの山は、多分富士山なんかよりも高そうで……あれ?フジ、フジ……?

 「良い景色ダロウ…素敵ダロウ…ここは病院で、そうは言っても小難しいことばっかり究めている研究所でもあるのデ…君みたいなのがコバエみたく集まってェ……あ、無礼カ…?あぁ…どうも、所長のリール サンダーソンだ」

 体を起こしながら窓側とは反対側へ体を捻る。

 「あの、ここって…っひ!」

 変な声をだして体をビクつかせる。

 「…イヤハヤ…驚かせてしまったようデ……ンン…すまないナ…見ての通りの『オランウータン』だ。動物園とかナントカで見たことがあるダロウ?アノ…綱渡りなんかで観客を賑わせているアレさ…アレ…?なんだい、その奇怪なモノでもスンと見つけてしまったような顔は…ンン…」

 「……え…とぉ?…」

 「君はね、暴発したんだ」

 「…………?」

 何が。

 「特異能力がね」

 ボウハツ……?トクイ……?そもそも私は……

 「それも特異の特異。異質中の異質」

 「あ…あの…私は……あれ?」

 声が震える。上手く発音ができない。

 「どうだい…?痛むところがあるかい…?何か、関節に気味の悪い違和感なんかヤ……舌が痺れる感覚なんかは無いカ……ね?」

 言い知れぬ不安感。そして違和感。背筋を走る悪寒、否応にも噴き出る手汗。記憶が曖昧なのに、以前の自分をまるで知っているかのような。

 私は、誰だろう。

 「あ、ええと……特に…?」

 「あハハ、安心だ。幾ばくか、その体の検査をしてから家に帰れる……かどうかは君次第なのだけど、先ずは、健康そのもので安心だ……アハハ。それにしても解離性同一症とな?多重人格とな?イヤハヤ…夢遊病…?これがか?アッ、アハハ、アハ、ハ……じゃあなんだ、おかえりとでも言って差し上げるのが礼儀だったりする…ノカ?ア、アハハ、ハ、ハハ。なんと、なんと有意義な幾年か。これで小うるさい血族史学者共を黙らせ困らせできるなぁ……ンフフ。ハハ。今度彼女に会ったらサンダーソンがよろしくと__」

 ダメだ、これ以上は聴いてられない。

 「ちょ、ちょっと待って!!…ください。え?あの…多重…え?待って下さい、私って…え?!」

 「おや、なんと」

 サンダーソンと名乗る白衣姿のオランウータンは、丸椅子に深く腰を下ろし、そのどこまでも暗雲立ち込めていそうな小さな瞳を精一杯開き、何かに驚いたような、まるで数奇な発見でもしたような表情でこちらをじっと見つめる。

 「ンン……驚いた…とは言わないマデモ、若林君の言った通りカ……しかしそれは……ンンム…つまるところ、賭けは私の負けか……あぁ、失礼千万……寝ている間は何も感じなかったかい?」

 「え?あ、ええと、寝て……あの…はい。えっと、何も…というか…というか、目が覚めたらここにいたので…」

 多重人格………多重…人格…ってあれだよね。自分と全くの他人の人格が―みたいな…私が多重人格…?あぁ、イライラしてきた。

 「ウムウム。そうかそうか。記憶は共有されていなかったというのか。桐に嘘をつかれていたのか……ンー、ンンン?それは…いやまあ、オカシイ気もせん……流石、若林君はなんでもお見通しか。彼こそが次期所長に相応しいと、私はしつこく言ってるんだ。だけんども……彼はいっつも返事を保留にして試験がどうこうと……ンン」

 一体何の話をしているのか、全然ついていけない。

 「あの…ここは、どこなんですか?何があったんですか?私は…何が…」

 天井の隅っこに一瞬だけ視線を向け、激しく脈打つ心臓を鼓動を聞いて、手汗を布団で拭いながら返事を待つ。

 「アァ……すまない、語り過ぎたようだ。私のついついの悪癖だ。ここは、ホワイトホースという自然の美しい町で、そこにあるゥ………ええと……なんだか…血族種……あ!…いや違うな…それは台湾の方か…えーと、確か…聖ホワイトホース血族種…医療開発国際センターだ!ははは、長っ長しいだろう?ははは、所長は私だからね、聖ホワイトホース医療センターにでも改めちゃおうかなと思っているんだが……アァ、聖というのは聖都ウィッチグレイブと仲が良いですよってな訳の、つまるところ缶バッチみたいなもんなんだ。提携とも言うのか、傘下というのか、お金を多少なりとも工面していただいているだけとでもいうのか……うん。アハ、アハハハ。ち、ちなみにカナダにはね。あともう1ヶ所くらい同じような場所があってね。確か聖…えーと、ウーム……ンー。全く、もっと覚えやすい名前を付けて欲しいよね……ウン…」

 「…………え?」

 訳が分からない。

 「……………………アハ…」

 「…あの……え?」

 どういうことだ。

 「……さて、さきほど言ったけれど」

 ……え?なにこいつ?なんだこいつ?

 「君、坂口 瀬女は、16と言う例外すぎる若さで『Timed outburst of S-Ability』つまりは、特異能力の時限的暴発を引き起こしたんだけども……時限的暴発、大衆の言うところである『暴発』が今もまだまだ起こり得るというのは、IROや血族連合さんならが必死扱いてひた隠してきたことであって、基本的に、それを引き起こしても能力者本人においては傷の一つも……つまりは無傷であり、死ぬのはその周りにいる奴だけなんだけど……アァ、大丈夫だよ。君のお友達は皆ピンピンしているよ……そうだね。そのことについて、今は全てを話終えてからもう一度話すとして、それで、時限的な暴発を起こした者は皆大概の場合において無傷なんだけれども、君は同じと言えば同じなんだけども偏屈なところから見て例外でね。外的よりも心的損傷が大きかったのかな、解離性同一症なるものに引っかかったのさ。言うところの多重人格とか言うやつデ……ンン…君の場合は夢中遊行……ただの俗説として切り捨てるにはもったいないカ……まぁそうとでも申してあげるべきか。確か、一千四百余年くらい前にもおんなじことがあったようでね。私の友達に、ほぼニートに成り果てつつある高渕 十九美ってそっち方面に詳しい堕落しきった輩がいるんだけどね。すごく興奮して君を見させてと強く出てね。あぁ、心配はご無用千万。彼は私と違って、唯の35歳の、まあそれはそれは哀れな経歴の持ち主云々な人間で……ウン。まぁ、そのことを古い友人で……ウウ…ンン…ここに居座る、今は大学の医学部長なんてのをセッセと熟し果せている若林 鏡太郎君に話したら、その彼もがイカレタように、まるで堕落しきった十九美君みたくに興奮しちゃって。彼らに全くの接点を持ち合わせ得ないのが魔訶不可思議で、奇妙奇天烈で……ンン」

 ただポカンと聞いていた。色々聞きそびれたような気もするし、そもそも途中から聞いてすらいないし。というか、急に流暢に話し出すからこっちのリズムが乱されて最初から最後の方まで上手く呑み込めなかった。

 とりあえず、私の名前だけは分かった。

 リール サンダーソンを名乗るオランウータンが続けて口を開く。

 「やはり、私は言いフラサナイを覚える必要があるよね…ウン。フフ。こうして君に一切合切を打ち明けようとて、君がそのすべてをゴクリと飲んで、来た人皆に見聞伝えるなんてそんな空想めいたことは思っちゃいるまいけれど…ウン。それで、そうだね。その後の面倒くさい”一切合切のこと”はぁ……」

 そこまで言うと体をゆっくりと捻って辺りを見渡す。日の光がオレンジ色の毛に少しばかり反射する。

 「ウーン……ンン…おや、おやおやおや?彼はどこへ行ってしまったんだ?ずっと畏まって居続けているものかと……いやはや、君がまだ寝ている間は、そこにガチャコンと突っ立っていたんだ。本当だ……」

 「えっと、誰が…」

 そう言いかけたところでサンダーソンの曇っていた表情が途端に晴れる。

 「あぁ!!ハハハ!!あそこにいるじゃないか!!」

 オレンジ色の腕と黒く艶のある人差し指を窓の方へ伸ばし、そのどこが頬かも分からない顔を気持ち悪く歪ませて嬉しそうにそう言う。

 そして、その指が示す方へと顔を向けると、白髪で、いや、その一部は黒く、背の高い、まるで頭に黒い稲光でも浴びたかのような男がこちらに背を向け、山々を眺めるようにして突っ立っていた。


 リール サンダーソンを名乗るそのオランウータンはただ一言「呼んでくるよ」と言い残して部屋を後にする。そして、入れ替わるようにして、今度は堅苦しい服装を身に纏い、縁が針金くらいに細い眼鏡を鼻にかけた、若々しくもあって、年季の入ったようにも見える男が入ってきた。顔は面長で色白で、見るからに優しそう見た目をしている。

 その男を一瞬遠い目で眺めて、ハッとして、少しだけ焦った。入れ代わり立ち代わりで何の紹介もされていない、素性も知らない男が何の気なしに部屋に入ってきたからだ。この男が一体誰なのか、全く予想ができないのだ。

 男は、少々急いた様子で先ほどまであのオランウータン博士の座していた丸椅子にノソッと座り甲高い音を軋ませて、手に持つバインダーに挟めてある用紙をペラペラと捲って、喉を鳴らしこちらを向いてから姿勢を正すようにして再度座り直した。

 「あぁ……えぇ…御免…下さい。これはどうも。えぇ……繰り返しは避けたいので、どうぞ……」

 男はそう言って、英語でツラツラと綴られた名刺をさぞ当たり前のような素振りで手渡してくる。戸惑いながらも、それを手に取って、なんて書いているのかも分からない肩書を流し見て、中央にでかでかと書かれた、恐らくこの人の本名らしいアルファベットを見る。

 『Kyotaro Wakabayashi』

 わかばやし、きょうたろう。これがこの人の名前…でいいのか………で、誰だよ。

 「えっと…?誰、ですか?」

 「………あ」

 男はそう言ってから体を硬直させ、その茶色な瞳孔をバインダーに挟まれている用紙の元へと徐に降ろしていく。そうして、こう言う。

 「…つまりは、私のことは存じ上げない……そう受け取って差し支えないのですね」

 「はい」

 ぶっきらぼうにそう返事をすると、わかばやしは軽く首を傾げ、いくらか咳をしてから喉を鳴らす。

 「……信じてもいいのだろうか」

 「……え?いや、ほんとに知らないですよ?」

 どうしてか、この男は私のことを疑っているようだ……というか、私がこいつを知っている前提で話を始めようとしていたのか。私は本当にこいつを知らない。信じてもいいのだろうか…じゃねえよ。信じてくれよ。

 男はこちらを強張った表情で見つめている。見つめてはいるけれど、多分私のことは見えて居なさそう。この感じは、多分、何かしら考えこんでるんだろう。目は合ってるけど焦点が合っていない。

 そんなわかばやしの様子をマジマジと見つめていると、その瞳孔が突然ギョロと動いて、同時に眉間と瞼にシワが寄る。そうかと思うと、つい先ほどの優しそうな面長で色白の紳士の表情へ戻る。そうしてこう言う。

 「では、改めまして。私は若林 鏡太郎と申します。私目の立場は、先ほどまでこの場にいた霊長類と差して異なるものでは御座いませんが……いやはやもっとも、見解、態度においては必ずしも一致しては……ゴホッ……かすりもしますまいが……さて、君が唯今置かれている状況について、どこから話すべきかは少々判断に迷うところ……というのも、人間というものは、事実そのものよりも、それをどの順序で知らされるかによってまったく異なる理解に至ることが多いもので、例えば、あなた様はたった今目覚め、この瞬間に回復したのか。はたまた、何か言い知れぬ自然的、あるいは不自然が起こす連続的な事象のたった一断片に過ぎないのか。と見るかによって、以後の見解や意味合いは全く異なる方向に導かれてしまうもので……いやはや、これというのもあなた様はある種の精神疾患を患っておいでまして、厄介極まるところを知らぬ、足場も不安定且つ一寸先も見渡せぬ未開拓の領域を顕現されまして……ゴホッ……失敬…然るに、その凡そが把握しきれているのかなどと問い質されたとて……えぇ、お恥ずかしい話で御座いますが、その幾つかは君の意見のご随意のまま、というようにさせて頂きます。そして、その精神疾患と申すのもまた、未だ幾何かの不明瞭な点がありつつも、これより近い未来には、懸命のままにあなた様の知り得たいものを確実に解き明かして参りますので、どうか我々に身を委ねて……などとは流石に申しますまいが、以降、事の真相についてのご報告を、あの窓の外にてお見受けなられます、只今木陰でごゆるりと久方ぶりの平和に興じておられる彼の”不死身のローレンス”様より承りましては、細心の程を心がけてのご報告とさせていただきます。兼ねて、瀬女様のご友人、ご家族、ご教諭より現場を遠目に観測されておらりましたご周囲の面々より聴取致しました、発端と真相。つまるところ、あなた様ご自身の身に何が顕現させられ、結果それがもたらしたる事象の徹頭徹尾。更には、その事象の再発に備得る為として留意すべき点のいくつかを踏まえましてはこの若林が、正しく針で糸を縫うような至極丁寧なご説明を施させていただきたく……」

 ……あ、終わった?

 「…………?」

 …………え?

 「?」

 ダメだ。誰かが文字起こししてくれない限りこの男が何を言っているのか、そもそもなんでここに来たのかすらも分からない。で、結局お前は誰だ。名前と身分以外の情報を寄こしなさい。というか、こうなるくらいならオランウータン先生にいてもらっていたほうがよっぽどマシだった。

 「あの…もっと…その…ですね?私みたいなのにも分かるように言って欲しいなぁ……なんて……」

 少し濁った笑顔でそうお願いをしてみると、若林は少しばかり眉をひそめ、こちらの顔を覗き込むような角度まで姿勢を下げては必死に目を合わせてくる。そうかと思うと、急いで座り直し、バインダーに挟めてある用紙を慌ててパラパラとめくりだし、唸る様に喉を数秒鳴らす。

 「何か不明千万に果せた点が…まさか、キリか…!」

 と、まるでふざけた返事が飛んでくる。

 何か、勝手に一人で盛り上がっているようなその口調に無性に腹が立つ。しっかりと説明責任を果たせ。以上だ。

 「というよりですね…あの…若林ぃ…先生…?の日本語がその…難解と言いますか…」

 と、日本語話者の誰もが分かるように伝えたつもりが、当の若林は言葉の節々を端折って伝えた訳でもないのに眉の片方をわざとらしく釣り上げては素っ頓狂な顔をして見せてしまう。

 「あー…いや、何でもないです。続けて下さい」

 「……左様で、ございますか。いや、左様と言うには流石に少々安直で御座いましたか。いやはや…お恥ずかしい。実際のところ、我々はあなたの状態を”理解した”などとは、とても言えぬのでございますよ。さて……アァ、いや、さてと言うにしても、いきなり核心へ踏み込むのも乱暴で御座いますか………では、一つだけ確認しておかねばならぬことが御座います。と申しますのもですね、あなた様がこの当院にご入院を果たされました当初、我々はその精神異常をきたすあなた様の全容を把握せんと試みたのですが……これがどうにも……ンン…失礼、ええ、まるで歯車がたった一つだけ噛み合わぬ機械のようで…その最たるものこそ『キリ』を自称する、あなたを乗っ取ってみせた正体不明の少女の人格でございます。俗な言い方をして見せますと、あなた様は夢中遊行状態、他に名作るのであれば、重度の二重人格と呼ばれる類のものなのですが……いやしかし、あの言葉も随分と粗雑で御座いまして、それいらは『ネゴト』や『ネトボケ』などとはどうにも性質が違う。どうやら、不可思議少女『キリ』と、あなた様との間には、これまた奇妙奇天烈、接点らしい接点が、これっぽっちも見当たらないので御座います。いつからその身体に寄生したのか、如何にしてあなた様に関与したのか、そもそも、本当に”入り込んだ”のか。その関係性たるや、正しく赤の他人なのでございます……ンン、他人と言うのも妙な話でしてね、他人であるならば、何故そこに居るのかという話になるのですが……いや、しかし、居るものは居るのでございます……そして、お恥ずかしながら、今この瞬間に至るまで、我々の手元にあるのはどれもこれも”説”に過ぎないものばかりでございます。言ってみれば、少女キリの謎を、尾に説を付ける形でしか言い表せぬ推測の上に積まれた砂の楼閣のようなものでして……ですから、どうかお聞き届け願いたいのです。もしよろしければ……瀬女様。あの暴発の直前、その時、あなた様の頭の中にあったもの、居たものを可能な限り思い出してはいただけませんでしょうか」

 ……つまりあれか。気絶する直前に何か覚えていることがあったら教えろって、つまりそう言うことか。一体何があったのか、こうもぼっちりぼっちり暴露されては呆れを超してイラっとする。説明責任を果たせ。もう口に出して言ってしまおうか。というか、記憶が云々で騒ぐつもりだったのに、その気力もどこぞへ吹き飛んでいる。

 ……さて、どうすればいいのやら。暴発直前の記憶…と言われてもどれもこれも知らないし、知らないものはどうしようも無いし。

 とりあえずオランウータン先生と、この若林の話から整理しよう……私の名前はサカグチ セナで、16歳の純血……ジュンケツ……?なんでこれは知っているんだろう。あぁもう、面倒くさい。それで、なぜかは知らないが暴発を起こして気を失って。その間に別の人格がこの体を乗っ取って…確か、オランウータン先生が昔似たような話がどうたらこうたら言っていたような……

 「あの…いまの私と似たようなことが昔あったって聞いたんですけど…」

 と、若林からの質疑を無視して別の応答をかます。

 「……えぇ、勿論存在…したというには過言が過ぎるかもしれませんが、と申しますのも、これは彼のかぐや姫の御伽噺のように、出所不明で著者も不明なお話で御座います。その内容も、愁帆という名のとある純血の少女にとりついた第二の存在により、少女愁帆の特異能力の制限を強制すると言ったものに御座いまして……ゴホッ…ンン……失礼、実を言いますとあなた様が…いえ、私目がここで伝うるより、その資料を寄こして見せ給う方がよっぽど意義があるでしょう」

 若林は表情を変えることなくこちらの話を聞き、その質疑に難なく答えて見せる。

 「その手前に、この先のご予定とでも言いましょうか。この後の退院までの経過と致しましては、瀬名様の様子を今よりおよそ一月の猶予を存分に使い観察しまして、問題ヲ認メズと判断し得た場合には、瀬女様に置かれましてもここに寝そべり掻くことにも及ばず、その後に控えております診断の諸々を経て、全快、退院となりましては法律上、道徳上の万全を期して故郷へお送り返させて頂きます。と、イケない。忘れてしまうところでした。えぇ、差し支えのござらぬようでしたらこの若林めがご質問に返答賜ればと存じます。どうか…」

 と、若林はそこまで言うと喉を鳴らして返答を待ち受ける。

 ”質問”とはなんだったか……あぁ、暴発直前の。でもそんなことを言われても分からないし………………あれ?いや、違う。これ、この記憶……

 覚えてるんだ……あるんだ、気を失う寸前の記憶……濃霧の中に差し込む日の光みたいな、それをかき分けながら手を伸ばしてようやく掴めてしまう、途切れ途切れで、取り残された、可哀そうで、曖昧な記憶。

 「あの……」

 「………何か?」

 「………何でもないです……おっきな川の土手…走って、走って……女の子……途中で会った、柑奈ちゃんって子も一緒に走って……それで…大きなミミズ……真っ黒こげで…グロい……大きなミミズ……おっきな建物が見えて……そしたら、目の前の道路が割れてて……そこから、手が出てて……っ!!」

 その先を思い出そうとした瞬間に意識が遠のいて視界が輪郭を崩して真っ白になろうとする。それに対して抵抗するように必死に頭を抱えて深く息を吐く。

 この記憶が知っていることと、今の自分が知っていることの辻褄が合わない。かみ合わせも悪い。理解もしがたい。それでもって知らない感情が紛れ込んでいる。

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。あるべき場所に無ければならない記憶が出しゃばってくるせいでこんがらがる。そもそも、この記憶が他者の物であるように思えてしまって気味が悪い。いや、確実に他者の記憶だ。セナ、ハナガキ、カガ、キョウスケ、ヒュータ、アスカ、サカグチ、ゴクスケ、アヅマ、アラカス、ドウトンボリ、カミシャクジイ、カン………あぁ、これ以上は”ダメ”なんだ。

 頭の中にいる彼ら彼女らが誰で、どうして知っているのかも分からない。誰の記憶で、それで、私は誰だ。とことん訳が分からない。あぁ、嫌になってきた。霧だと思っていたのは、毒ガスみたいな有害なものだったのかも。中をかき分けて明瞭な記憶に触れると、体中がそれを悪寒と言う名の応急措置によって拒んでくる。

 「これは、これは。軽度の記憶障害…とはいかないまでも、どうやら、事件前後の記憶の一切が一塊に溶け合っているしまっているようです。もっとも、こうした混濁は時間の経過が癒してくれるのが常でして……えぇ、普通であれば………つまるところですね、いやはやそう言う簡単な話ではないのですが、その直後に第二人格に目される『キリ』が、あなた様の脳内からつま先に至る全てを支配してみせ、顕現し果せた、という次第に…」

 若林はそこまで言うと、喉を鳴らし、視線を逸らし、眉をひそめて何か思い悩んだような表情を見せる。

 「えと、そう…だと思います。その後のことは何も分からなくって、気づいたらここにいるって感じなので……役に立てなくて…ごめんなさい……それで…その……」

 そう言って申し訳なさげに若林の顔を覗き込むと、蛇みたいに細い目と目が合った。若林は瀬女の顔をマジマジと見つめてから「あぁ…」と声を漏らす。それが何を意味するのかはまるっきり分からない

 「えぇ、なんと言うことはありません。瀬女様に置かれますは、その夢中遊行の発端が何であるか、今、やっと”確実なもの”となりました。いやしかし、私は所詮法医学者の一端に過ぎません故、これ以上の追及を行う権利なぞは到底…」

 そこまで言うと、若林は俯いて押し黙り、鼻にかけていた小さな眼鏡を外して、胸ポケットから取り出した布でゆっくりと、撫でるようにレンズをこすりだした。

 「……関係性としては、あなた様のご友人に当たります加賀 飛兎汰様より、その一切合切をお聞きしております。少年は、あなたに顕現してみせたキリと、文字通り初めての接触を交わしております故……その口ぶりたるや随分と現実味に満ちておりましたから……ンン……一体全体、あなた様に何が起こり、凡そその起因が何であったのかを……加えて、あなた様が気になさっておられました御伽噺「愁帆伝」につきましても、別室にて我々の会話の始終を逐一見聞きしております、看護師より調達の最中であると思いますので、後々お目通しも叶うかと思います……では、現時点で判明しております、その節々を細心はらってご報告させて頂きます。曰く__」



 日も沈み、西側の空はオレンジ色に彩られ、東側の空は薄く伸びている雲の影が広大なディープブルーの空間を覆う。そこをヘリや無人機なんかがウロウロしている。

 今、目の前にいるこの男たちは、警察だか検察だかのコウアンとか言う、所謂IROの職員らしい。

 ベンチに腰掛け、あの時目の前で何が起きたのか、その直前で瀬女に変わった様子はなかったかと質問攻めにされている。そのせいで親に連絡したり、上石神井先生のとこに行ったりする暇すらも与えられない。いつになれば解放されるのだろう。いつになったら、家に帰れるんだろう。

 「加賀 飛兎汰君…で合ってるっスか!!」

 コウアンの男達の向こう側から声を掛けらえる。「はい」と男たちの立つ隙間を覗くと、黒いキャップを被った背の低いスーツ姿の女性が、おろおろとしながら男たちの間に割り込もうと必死に体を入れている。

 「あ、良かったっす!……ちょ!…あの!…」

 「あぁ?誰だ……」

 コウアンの男が眉間にシワを寄せて険しい表情を女性に向ける。

 「お前、獄介んとこの…子供が迷ってんのかと思ったじゃないか」

 その男の一言にコウアンの男たちが一瞬口元を緩める。しかし女性はその一言に屈することなく体を割り込ませながら必死に話を続ける。

 「君に会いたいって人がいるっス!ちょ…あ…!」

 「はいはい順番を守りましょうね」

 男はイラつきを含んだ子供をあやす様な口調でそう言っては、女の無い胸に手をあてて押しのける。女はその体格差が故かなりの勢いで飛ばされ、地面に尻もちをついて転んだ。よく見ると半泣きになっている。こいつら最低だ。

 「おいおっさん!そんなことすんならもう話さねえぞ!」

 そう言ってみると男たちは呆れた表情をしてめんどくさそうにため息をついた。

 「あのなぁ、こっちもまじめにやってんだ!!さっきも言ったが、お前がそれ以上話さねえってんなら署まで連れていく。それが嫌だってんてここで話を聞いてんだ。お前はここに残りたいんだろ?じゃあ話せ。ほら、大人を待たせるな」

 言わせておけば…………あぁ、弱い自分に腹が立つ。

 「……うっす」

 その後10分の間、今日に限らずこの3日間の瀬女の様子を聞かれた。仲良し四人組の誰よりも先に学校に行って待機したこと。バスの中での様子。大阪での様子。皆で広島風のお好み焼きを食べたこと。聖都に着いてからの言動。博物館の前の通りで恭介、明佳とはぐれたこと。達という男と出会い、唯谷井資料館と言う異質な空間へ立ち入ったこと。ミミズと戦ったこと。達が血相を変え姿を消したこと。途中であった迷子の少女。瀬女の暴発。白髪の男との遭遇。

 そして、その男の背後から姿を現した恭介、明佳との再会。

 ただ、これだけはどうしても言えなかった。先生にも、警察にも、このコウアンの男にも、誰にも。あの男の正体を知った途端に、あの二人がこの事件に深く関係している可能性が出たその瞬間に、俺は何も言えなくなった。明佳と恭介が何を考えてあの男と一緒にいたのか。あんな状態の瀬女を置いて、あいつらがどこに行ったのか。

 

 こちらの話が終わったと見るや、コウアンの男たちは目配せを行って立ち去ろうとする姿勢を見せる。少々小柄な男はヨレヨレのスーツの内ポケットからスマホを取り出しどこかへ連絡を取り、自分の横で縁石に座りノートパソコンのキーボードをひたすら叩いていた細身の男はノートパソコンを閉じ、立ち上がっては軽く会釈をしてどこかへ歩いていき、目の前にいる大柄な男はズボンのポケットから車のカギを取り出しては何も言わず細身の男の後ろをついていく。それを見て、なんとか一声振り絞る。

 「なぁ」

 ただ、その言葉に続く言葉は見つからなかった。そして、その一声に先ほどまで質問攻めにしていた大柄の男だけが足を止めた。

 俺は、哀れなヤツだ。友達が、ずっと一緒にいた3人が色んな理由で崩れて、消えた。再開した上石神井先生にも哀れな目でマジマジと見られた。その時と全く同じ視線が、目の前にいるコウアンの男からも向けられている。多分、戻ったらクラスの奴らにもこういう目で見られるんだろう。

 コウアンの男は、軽く鼻を啜っては先を行く小柄な男に向かって声を張る。

 「吉田。先に乗っててくれ。少しだけ話す」

 鍵を小柄な男へ向けて投げ渡し、深いため息を吐くと、そのまますぐそこの縁石に腰掛ける。男は腰掛けたまま前を向き、沈黙する。男の視線の先へ目線を合わせると、一部がペシャンコに潰れた聖都の南側がよく見えた。

 「なんだか…………職務に私情を挟むな。ただ国の為に働け……って、俺は部下にそうとだけ教えて来た。俺も、そう教えられて来たからだ」

 男は、まるで愚痴を吐いているかのような口調で話し出した。そんな男の姿を見て、少し寂しさを覚えた。どうしてかは分からなかった。

 「ただ、こうとも教えた。お前の信じるモノに従って、忠実に行動しろって。……はは、えーとな。これは、俺の大好きなばあちゃんの言葉さ」

 「……………」

 「……で、ばあちゃんは今、あの瓦礫の中にいる」

 男がそう言って、山の麓にある酷くつぶれた場所を指さした。

 コウアンの男は、尚も話をつづけた。

 「……それでも、俺は部下を裏切れない。こうしてぱりっぱりのスーツを着て、国の為に動かなくちゃならない」

 今、何故か、後悔している。この男に対して、何も間違ったことは言っていない。こいつはか弱い女の人を突き飛ばしてひどいことを言った。後悔する必要はない。

 「なぁ、飛兎汰…であってたか?」

 「…あぁ」

 「…俺は、この国と、国民を守る。飛兎汰みたいな奴を、俺みたいな奴にしないために仕事をする。だから、心配すんな。任せてくれ」


 男の乗る車を黙って見送る。ただ陰鬱として心がモヤモヤする。辛いのはお前だけじゃない。あの男は、そんなありきたりな一言を一切発さなかった。

 ふと、視界の端に丸い小さな眼鏡を鼻にかけ、モジャモジャの、手入れをしているんだかしていないんだかよく分からない髭を生やし、でもって服はダンディーに着こなす、どこか懐かしさを覚える面長の男が縁石に腰を下ろして座っているのが見えた。

 男は、こちらと目が合った途端にそそくさと近寄ってきては軽く挨拶をして「席を取ってあります故、どうですか、奢りますのでカフェにでも」と、なぜか及び腰で話しかけてきた。先ほどの女性はどうしたのか聞いてみると、この男が帰したらしい。どうやら女性が会わせようとしていた人物が彼なのだと。

 その男に言われるがまま、こんな時でも活発に営業をしているカフェへと案内された。

 男が予約した席に座るや否や、メモ帳と鉛筆を片手に持ち、ウエイターの女性にレモンティと自分用にパフェとココアを注文する。しかし、始まったのは男の嫌気を催すような自己紹介で。

 「どうも……ンン…日本は東京…武蔵野に構えます、聖帝京医科大学准教授の若林鏡太郎と申します」から始まり、あーだこーだと難解な日本語を連ねては「と、申しますは、すなわち…」と、この一度も殴られたことのなさそうな顔に飛び蹴りを食らわせたくなる様な復唱を繰り返すこの男は、どうやら事件や事故の原因なんかを医学的な面から解決、サポートする、法医学という分野の第一人者なんだそうだ。

 「え、いや、もっと分かる日本語で話してくれよ。何言ってんのか…」

 「いやはや、これは、中々至りませんで、心底恐縮の極みに尽きます。どうかご容赦して、この悉くを白日の下に晒されます事とが、真相究明の先端を見つけ得る事とに繋がりますので…」

 「えぇ、ちょ、すんません、ほんと勘弁して…」

 軍の関係者にマスコミときて、警視庁にIROにプラス法医学者?本当に勘弁してくれ。友達の安否を心配する時間もくれやしない。それにこの男の極端に分かり辛い日本語。ご容赦してくれはこっちのセリフだ。

 「あぁもう、どっから話せば良いっすか」

 厭々と頭を掻きながら、そう投げやりに言い放つ。

 「瀬女様におけます、その心身の逸脱を観測し得たと判断できる場面より続けて頂ければ…」

 「あーはいはい。心身の逸脱……」

  心身の逸脱ってことは、コウアンのおっさんに聞かれたのと同じ内容か。

 「確かそん時は、迷子になってた女の子の柑奈ちゃんって子を連れて、そこの川沿いを走ってて、んで、目の前にでかい裂けめを見つけて、そこから、多分生き埋めになった人の手が出てて…」

 そこまで話すと、若林はメモ帳に書き綴っていた手を止め、眉をひそめてこちらを伺うようにして見つめだす。

 「構うことはありません。どうぞ、続けて下さい…」

 「あ、はい。で、その亀裂ん中覗いたら、砂利とか土とかで埋め尽くされてて、多分もう死んでるんだろうとは思ったんすけど、必死に掘り進めて。そしたら急に吹っ飛ばされて、で、そうしたらセナチ…瀬女の感じが急に変わってて…って、この説明で伝わります?」

 そう聞いてみると、表情を緩ませて小さなえくぼを作っては、先ほどと同じ調子で返答をする。

 「えぇ、支障を来さズと言ったところで。と、先ずお一つ、質問の程をさせて頂きたい所でございますが、その是非を…」

 「…え?あぁ、どうぞ」

 「曰く、”多分もう死んでいるのだろうと思ったが”云々につきまして、何故それを内に秘めながらも、掘り進めるなる決断に至り果せたのかに疑問を呈しましては、その真意をと」

 つまり、なんで死んでいるのが分かってて掘ろうと思ったのかってことか。確かに、なんでだろう……?えーっと………確か、何か、誰かに諭された様な気が……あぁそうだ。

 「一緒にいた、その柑奈ちゃんって子が、その手を見るなり”あそこ!あれ!”って、今までにないくらいに騒いできて、その子、ずっと冷静だったんすけどその時急にって感じで…」

 そう言った途端、若林は喉を鳴らし、斜め下の何もない所を怪訝な表情を浮かべながら数秒見つめては、こちらに向き直り、眉を顰める。

 「その子は、今、何処に?」

 「……………」

 若林のその質問には答えられなかった。いや答えるならただ一言、「分からない」だ。瀬女の一件に気を取られて、気づけばどこぞへ消えていた。住所も、両親の名前も、出身の小学校すらも分からない。分かるのは顔と、出身が石川県ということ、あと名前と年齢くらい。

 よくよく考えてみればかなり妙だ。人や動物の死体を見ても怖気付いたり泣き出したりすることもなく。短時間ではあったもののその表情が変わったところも見ていない。

 「話の腰を折ってしまいましたか。申し訳ありません。では、続けて下さい……」

 「あ、はい。えと、確かセナチンが急変したとこからですよね。それで、そん時のセナチンは、なんかすごい事になってて、まず、腹になんか細長い十字の、白いモヤっとしたのが、こんな感じで突き刺さってて」

 と、必死の身振りで説明を再開する。

 「んで、頭の上には、同じ感じの白いモヤッとしたのがすげえ高さまで伸びてて…あと、性格も全く違ってました。いつものセナチンは、なんか女っぽく無いっつうか、ちょい気の抜けた性格だったんすけど、なんか、あん時はすげえ……年上の…その、なんつうか…………エロいお姉さん…みたいな性格になってて…その…無理やりキス…とかもされました……それで…えっと…」

 若林が時折こちらの様子を伺いながら鉛筆をスラスラと走らせる。と、飛兎汰と若林の間にある丸机にお盆がドンと置かれて机が震える。お盆の上には、艶とハリのあるミカンの粒が散りばめられたパフェと、チョコの風味が香り立つココア。そしてフォークとストローが律義にそろえて置いてある。

 「はいお待たせ。ココアと瀬戸内みかんパフェのお客さん?」

 「あ、俺っス。あざっす」

 「で、あんたがレモンティね」

 いかにも元気を振りまくのが好きそうな中年のおばさんウエーターがその二品と一品をお盆から机へと移す。

 「…にしてもおばさん、よくこんな状況で店開けますよね。まじ、尊敬っす」

 そう言ってみると、その中年ウエーターは満面の笑みでこちらを向いて軽くうなずきながら口を開いて白い歯を見せる。

 「あっはは、尊敬?そうかいそうかい、あっはは。いやぁねえ、こういう時にやる事なんて限られちゃって、やれることを適当にでも探さないとすぐへたっちまいそうでねぇ…と、済まないね、あっちの客さん待たせてるんだ。もう行くよ」

 ウエーターが向かい合って座る女性のペアの方を指さし、お盆を脇に挟んで早々に立ち去った。

 「ういっす」

 パフェをフォークで頬張りながらそう返事をする。若林の方を見てみると、マグカップを無音で啜りながらグシャと潰れた町の方を、机に片肘を付いて眺めている。

 「……どうかしたんですか?」

 「いえ、お気遣いには及びません」

 すぐさまそんな返事が返ってくる。もしかしたらこいつも、ここに家族がいたのだろうか。

 「ところで、死のアーティストとも称され、彼の”不死身”の異名を提げ、国際指名手配犯につきましてはネグトルド学派の長にあられますローレンス様にお会いしたというのは、誠にあられますか…?」

 若林が町の方を向いたまま、先ほどとなんら変わらぬ態度でそう質問をする。

 「……あぁ」

 この話をするたびに憂鬱になる。

 「加えて、旅の道中で逸れたとお思いになっていたご友人にあらせられます、花垣明佳様と赤曽根恭介様が、そのローレンス様に付いて入らしたと…」

 「………え?」

 突然心臓を鷲掴みにされた様な感覚。思考が止まって、頭の中が真っ新になっていく。

 「そして、そのお二方がその後、行方を眩ませた、と。いやはや、一体何が今日の斯様な御運命に立ち到らせたのか。何の因果か」

 「………いや、なんで…知って…?」

 「いやはや、因果も何も、これいらは一貫して起こる不自然に混ぜられた又不自然な輪転のたったの一端。因果に組み込むまでもなく、ただ目の前で起こった不思議のソレだ……ゴホッ……ごめん下さい、何か…どうしましたか」

 本当に、殴ってやろうか。

 「なんで…二人の事、知ってんですか?」

 恐る恐るそう聞いてみると、「……ふぅむ」と一言言って黙りこくる。

 二人と会ったあの時から今まで、誰にも話していない内容なのに、こいつも現場にいたのか。いや、それならこんなめんどくさい会話をする必要はないはずだ。じゃあ、なんで…?

 「……話題を巻き戻しまして……当の瀬名様におかれますは、その逸脱の兆しの一片を予感させられます行動、あるいは言動を、本日の内に、少しでも見、聞き致しましたでしょうか」

 こいつ…!

 「おい!!お前は質問するばっかでなんで答えねんだよ!!」

 机をバンと叩いて若林に食って掛かる。男は、相変わらずその殴られたことのなさそうな顔のまま、こちらの瞳の、その奥の方までをマジマジと覗いている。

 「ちょっと?もめ事は御免だよ?」

 すぐ隣からそう言われて声のした方へ顔を向ければ、先ほどのウェイターが盆を抱えて立っていた。

 「あ、すい、ませんでした。気を付けます……」

 そう言って、掴んでいた若林の胸倉から手を離して椅子に腰かける。ウェイターがため息を吐いてその姿を厨房の奥へ消すと同時に、若林が口を開いた。

 「今は、言えないのです」

 たった一言そう言っては、席に座り直して襟を整えた。その言葉の意味が理解できないまま、またココアを軽く啜って、何事も無かった風に若林がした質問に答える。

 「……いつものセナチンがしなさそうなことを、今日してたかってことっすね…いや、特に無かったっす。いつも通りでした」

 「では、昨日以降ではどうでしょう」

 「昨日も一昨日もずっといつものセナチ…瀬女だった」

 「フーム………これでは一切合切不明千万。真相究明の一端も見えてきやしない……唯一お残りになられました、その目撃者たるあなた様でも、その糸くず一つ拾えておられぬので…こちらとて、得たい真実の一つも見えて来ず………フーム……」

 そう唸りを交えて言ってはレモンティーを小さく啜る。そうして、レモンティーの入ったカップと鉛筆とを持ち替え、開いたメモ帳の紙面にペン先をトン、トンと小突いては、鼻からため息をついて、メモ帳をタンと閉じる。

 「一つ、ご提案が御座います。どうでしょう……私共が勤めますは聖帝京医科大学にて、その始終を見届けるというのは……と言いますのも、発端…と決めつけますのは烏滸がましいに御座います、瀬女様を、当大学にてその全容が把握し終えるまでお預かりする運びとなっております。つきましては、貴方様にこの大いなる真相究明の目撃者となって頂きたいのです。その責務を全うしろとは、口が裂けようとも言いますまいが……」

 分かりやすく言うと、つまり瀬女に何があって、これからどうなって、どういう結末を迎えるのか。その一部始終を見るために東京へ来い、と言うことか。確かに家からなら毎日でも通える。が、その提案には…乗るべきか。決心はまだ揺れ動いている真っ最中で。いや、そもそも決心の火種が今、やっと温かくなりだしたくらいで、その提案に対して応答するという次元にすら立てていない。

 どうしたらいいのか…

 「母ちゃんと先生には…もう言ってたりするのか…?」

 「えぇ……えぇ……左様に御座います。勿論あなた様の母親にあらせられます、加賀月美様と平塚西高等学校は1年c組担任の上石神井伸介様、同じく平塚西高等学校は校長にあらせられます、田中優平様各位とのご連絡を賜りましては、既に今回の一件を誤解のほどを生まぬ細心の説明を施しまして、本件の提案をご憂慮して頂くか否かへの確認も、とりあえずの所は頂いたところに御座います。踏まえて、私が席を置きます聖帝京医科大学ではあなた様を歓迎する準備の程も既に整いつつあります。勿論、我が大学校での高等教育の学びの場を設けるにたる設備も重々に備えております。ますれば、残るはあなた様のご決断のみでございます。時間を与えぬつもりには御座いません……まさか、そのような滅相ない事などは申しますまい。どうかごゆるりと、本決断を下す際に生じますあなた様への身辺の急激な変化とそれを如何にあしらいまするかにつきまして、その端緒の程をご家族、ご友人共々深くご考慮していただければと存じ上げます。他、詳しいお話は、あなた様のご決断為されました、”その時”まで保留と致しまして、もしやそのようにご決断為されました場合には、先ほどお渡し致しましたその名刺を懐から取り出しましてはそちらの番号におかけ下さい…では、私はこれにてとさせて頂きます……」

 その聞き飽きるほどに聞いたいまいち通じてこない日本語を言い放ち、若林が勘定を置いて立ち上がる。

 決心の火は、まだ燃えない。母さんや、友達や、学校のことを心配する必要は、この男が無くしてくれた。それでも今すぐに「はい、行きます」だなんて、簡単に言える程器が大きいわけじゃない。

 「…はい……ありがとう…ございます…」

 既に席を立ち、飛兎汰のすぐ横を通り過ぎてゆく若林に向けてそう呟く。

 これからどうすべきなのか。先を見通すなんて、そんな事が出来たらどれだけ良いか。




らぶみー!らぶみー!

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