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metamorphosis  作者: シ閏
1/14

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 人は、言います。


 『妄想とは、所謂目覚める人が見る夢である。』


 ふとした瞬間に目を覚ます。見覚えの無い天井が見える。知らない感覚に意識が覚醒する。霞みきった視界が次第に晴れて、鮮明になる。そこで、何かしらに酔った脳みそがまず気付く。ここはどこだ。そうして、私は何をした。


 こんな状況で、貴方も、おそらくは私も深々と考えるのでしょう。


 どうしてここに居るのか。先ほどまでどこにいたのか。ここはどこか。私の名前はなんだ。何の臭いだ。何の感触で、一体何の味がしているんだ。

 どことも知れない己の懐に曖昧で礼儀を知らない情報が輪郭を崩して乱れて入り込む。

 身に覚えの無い天井と、まるで、熊蜂が節操なく頭上を飛び回っているかのように錯覚させる蛍光灯の音。病院の待合スペースで頻繁に嗅いだあのこそばゆい薬品の匂い。まるでゴムのような上あご、歯茎。固いマットに寝心地の悪いシーツ。五感が忙しなく働いているくせに現実味の無い浮遊感。

 一体何が起きているんだ。一体私はどうしてしまったのか。

 ここは、どこだ……と。



 こんにちは。将又、こんばんは。もしくは、おはようございます。

 今朝は心地の良い快晴でしたね。薄暗くて凍えてばかりな毎日も、いつしかその透き通るような青が雲の合間から覗くようになってからは徐々に姿を消していき、その代わりに柔らかな陽光が可愛らしいつぼみと共に仄かな暖かさを連れて来てくれる。それにつられて、私の固結びだった心も少しづつ解けていく。

 楽しみですね。春が来る、このたった一言だけで私のこの高揚感を満たすのには十分過ぎるほどに、私も、貴方も、鳥も、虫も、犬も、鼬も熊も。みんな、みんながその季節を待ち侘びているのです………。

 ………………………。

 ………。

 さて、貴方や私の様に、人とは五感、特に視覚を用いて観測したもので、それが現実かそうでないかを判断します。色、形、動き、慣れ。身に覚えのあるモノ、もしくは有り得る事柄なんかは目で見て判断し、納得し、認識するでしょう?

 とて、見たから、はたまた聞いたから、嗅いだから、触ったから、味がしたから。だからそれは現実であると、例えば友人や家族の誰かがそう言ったとして、貴方にとっての”真偽”はその時点においては存在しません。なぜなら、貴方の形で観測をしていないからです。


 「……まだ、大丈夫か」


 そんな貴方が、先に言った状態で目を覚ました時、どう思うでしょうか。それを現実だと、本当に思うのでしょうか。五感は全て現実であると言っているのにどうもおかしい。見たことの無い天井に寝転んだことの無いような、もしくはあったような固いマットレスとカサついたシーツ。どうしてここに居るのか。これは、果たして現実なのだろうか。全てが曖昧だ。まさか、まだ夢を見ているのではないだろうか。そういえば私は誰だろうか、と。


 「キクハタは…次の、次の駅だから、まだ寝れるかな」


 そうして、貴方はベッドを降りて歩き出すのでしょう。

 壁に触れ、床に足をつけ、その冷たさと直接伝わる感触により自分が素足であることに気付き、足を前に差し出してみると、何か得体の知れないモノに不意に袖を引っ張られる。どうやら体に透明な管がつながっているようで、その言い知れぬ不安感に駆られ、周りを見渡し、頬をつねる。そうしてこれは現実であると確認する。

 この、”貴方の五感がおおよそ満足したタイミング”こそが、貴方の内に秘めたる「真偽のゲート」です。


 「夜更かしなんか、するんじゃなかった」


 真偽のゲートは、貴方にとっての現実です。このゲートをくぐったその先からはあなたの選択に委ねられることとなり、それが「真」であるのか、「偽」であるのかはその後の、貴方の施した思い思いの観測により決定します。

 そして結果、貴方がどうして病室らしい場所にいたのかということが、どこからか出現した、貴方の担当医を名乗る白衣姿の男性により「脳梗塞によるものである」という形で突きつけられたのなら、それを貴方とその周囲の真とすればよいのです。

 決して、真偽のゲートをくぐる前に選択をしてはいけません。

 それが現実であると確証し、真であるという裏付けを成すためには、貴方自身がその身をもって観測をする必要があります。つまり、観測して初めてそれが現実であると言えるのです。


 「ここ、ちょっと寒いな」


 そして、貴方にとっては、今の段階においてこの理論すらも真偽のゲートをくぐらない暴論に変わりないはずです。

 しかし、もしも貴方がこの暴論に納得できたのなら、貴方は真偽のゲートと、それまでの道順を偏った角度からのみ眺めることのできるまた違う地点にいることになります。その地点を一般に妄想と呼び、そこからはどれ程進んでも、真偽のゲートをくぐることは決してないのです。

 妄想とは、簡単に言ってしまうと勘違いです。これこれであるという決めつけから、そうであると勝手に解釈して、自己解決をする。それが勘違いであり、妄想です。

 貴方を含む人間は皆な、妄想の中に生まれます。そこから手探りで真偽のゲートを探しだし、真と偽を得るのです。そして、それを死ぬまで繰り返します。

 貴方はいまテレビを見ています。五感の内、視覚聴覚は満足していても、それ以外での観測を怠ってしまっています。それでもこれを現実であると言い張り、疑おうとしません。そこに映し出されている映像があなたの幻視でも、それがあなたの真となってしまうのです。

 貴方に好きな異性がいるとします。貴方のクラスでは随一の美少女であり、もしくは清廉な男性であるとしましょう。まだ話したことはありませんが、彼、もしくは彼女と同じ空間にいるだけで、視覚と聴覚は十分に満足しています。時々嗅覚も満足するのでしょう。この場合、貴方の中であの人は存在するし、あの人を好きな自分もまた確実に存在しています。

 ただ、この状態の貴方は他での観測を怠ってしまっています。何かを欠いた状態で満足してしまっています。それは、ある視点から見れば現実であり、まだ観測できていない部分からしてみれば中途半端で隙の無い、残念な妄想でもあります。人は、満足した途端にその存在の観測を怠り、完全な現実ではなく中途半端な妄想か、欠けた現実で区切ろうとしてしまいます。そうして現実は妄想に堕ち、妄想もまた現実に堕ちるのです。

 「現実と妄想は表裏一体。貴方は誰かの妄想の対象であるかもしれない。」

 この世には妄想が満ち溢れています。貴方の隣にある壁、貴方が手に持つスマホ、捲ろうとしている小説や漫画のページ。全ては妄想たり得る証拠があり、それでもって独自の観測をしてしまえば、それは現実となります。

 所謂「唯我論」なるものと大して変わりはしないのですが、ここにおいてはあなたの観測によりそれを容易く否定することのできる、もしくは貴方における己の解釈とやらを見つけ出す唯一の方法であり手がかりでもあるのです。


 「……あれ、次がキクハタ?」


 かつて人類は、妄想だったものを観測し現実へと変えてきました。空を飛ぶことを夢見た少年がおり、その少年による独自の観測を以てその後飛行機を創り上げ、現実のものにしました。とある科学者は己で唱えたブラックホールの存在を妄言に過ぎないものとしましたが、その後、その存在は明らかな観測を以て証明されました。しかしこれは、ある視点だけで見ると、結局のところ妄想と吐き捨てられるだけの俗物へとなり果て、それと同時に「絶対的な現実の側面を持ち合わせる、確実にそこにある何か」ともなるのです。

 何においても、経験や成功という名の観測が出来なければそれが現実であるという根拠は著しく低くなってしまいます。しかしながら、その確実な観測を以てしても妄想と言う悪霊は見逃してしまっていたわずかな隙間に手をつっこんで、無理に抉じ開け、私みたようにそれを容易に否定します。

 己の解釈を持参して貴方の中に聳え立っている真偽のゲートを目指そうとも偏った一直線上を進んでいる限りは終わりの無い妄想です。それは無限にあり続けるのです。簡単に作り出せて、どこまでも分岐して、星の数よりも多くある。程度は知れているはずなのに、その意味はどんなふうにでも捉えれて、どこまでも奥深い。そこはディープブルーで、真っ黒で、実は真っ白であったりもするのでしょう。

 さて、肉体を持つ私にはさっぱりな話です。



              生きている言い訳に過ぎない


 ガタガタ、ガタン。

 線路を踏みつけるその一小節が、まるで鼓動のように規則正しく繰り返されては徐々に加速していき、それと同時に、モーターは甲高い音をこみ上げさせながら静かに唸る。そして、「次は~」から始まる、車掌による吐息交じりのアナウンスが遠くなりかけていた脳みそを軽く刺激する。

 眠りから覚め、向かい側の窓から空を見上げれば、白6とグレー3、青1くらいの割合で歪に入り混じった空が一望できて、その景色が視界の外側へと勢いよく吸い込まれていく。そんな窓に反射して映るのは自分のすぐ横の座席で深く腰掛け、首をほぼ直角にしてスマホの画面にかじりつく女子高生と、自分たちの個性を黒や白、グレーやアーミーグリーン、ベージュなんかで塗りつぶす、全員が似たような半袖と長ズボンを身に纏った同じ高校か隣の高校の人たち。

 車体が緩急をつけて速度を落としていく。その様子をモーター音と重力だけで感じ取る。

 「間もなく、キクハタ、キクハタに停まります。降りられます際はお忘れ物の無いよう座席、座席下を__」

 車掌のその言葉を聞いて立ち上がり、誰よりも先に出入口へ向かう。車体が駅へピットインする前にリュックサックのサイドポケットからワイヤレスイヤホンを取り出して耳に押し込む。

 ポケットから弄りだしたスマホを持って画面を開き、映し出されたテンキーへ『100916』と叩いてロックを解除し、すかさず音楽アプリを開いてシャッフル再生を示す矢印が交差したアイコンに親指を重ねる。目の前の扉がスライドすると同時に、今のこの天気と気圧にピッタリな陰鬱とした曲が大音量で鳴り、鼓膜を揺らす。

 財布に入れた定期券を車窓から顔を伺わせる車掌へサッと見せ、くたびれた木製の無人駅構内を通り抜けて、閑静な住宅街を黙って進む。

 

 こうやって、ぼくを土曜日に出席させるから学校は嫌いだ。寒気がするくらい嫌いだ。最後に学校へ行きたいなんて思ったのはいつだろう。覚えてないや。

 そもそも、全国学力なんちゃらテストなんて貴重な休日裂いてまでやりたくないし、したいなんて思ったことも無いし。

 まぁ、別に、だからって家が恋しいわけでもないし。

 

 教室へ踏み込むと既に大半の生徒が席について勉強をしていた。同じようにぼくも自分の席へついた。教室の後ろの方では口の悪い仲良しグループが嬉しそうにいつも通りの奇声を発していた。それを軽く流し見てから空っぽのバッグを開いて眉間にシワを寄せて、「あ」と一言だけ呟いた。そして、頭の中でこうとだけ呟いた。

 筆箱ない。

 そう言えば、昨日自室のデスクで週末の課題を解いている最中に落書きがはかどって、確かそのまま宿題も落書きも放って寝たんだった。

 「シャーペン、貸そうか?HBだけど」

 察しの良い隣の席に座る名前も知らない女子が気を利かせてそう言った。

 「いいよ。別に」

 そうとだけ言って、あとは寝た。 


 

 小学生の頃にたった一度だけ恋をした。

 なんで好きになったのかなんてほとんど覚えていない。たしか、その子が周りの子達と違って特別に思えたからだったとか、けっこう曖昧な理由だったはず。

 その子は、休み時間に友達とも遊ばず、一人でひたすら国語のノートに落書きをしていたぼくに向けて、「そんなのして何が楽しいの」と言って、ノートと向かい合わせのぼくの視界に無理やり割り込んできた。

 ぼくが無視して落書きを続けたら、その子は突然ノートのページを破いてグチャグチャに丸め込んだ。

 その一部始終を無言で見つめて、「そんなのして何が楽しいの」とぼくが言うと、その子は「さぁ」と一言だけ言って、ぼくの隣の席に座った。そして「絵のかき方教えて」と言った。「なんで」と聞いたら「楽しそうだったから」と答えて、「じゃあ、なんで破ったの?」と聞いたら「覚えてない」と返ってきた。

 とにかく訳が分からなくて関わらないようにしていたけれど、その日以降、彼女のその意味不明なつき纏いは加速していった。

 「絵を見せて」「何描いてるの」「結構上手いよね」。隣の席からずっと聞こえて来て、少しうるさくて面倒くさいと思って、それで、ほんのちょっと嬉しくて楽しかった。

 多分、この子以外に話し相手もいなかったから浮かれてたんじゃないかな。

 そうして、いつの間にか自分からその子の席に向かうようにもなって、遊ぶ約束もするようになって、たしか、その頃くらいにその子を好きになった。

 多分、それが彼女を好きになった理由だ。


 それから、あの子はあっさり死んだ。

 ぼくが彼女の家へ遊びに行った次の週くらいに小児がんだと医者に診断されて、それからあっけなく死んでった。段々弱っていく彼女をこの目で見た。白くなって、痩せこけて、生きてるのに動いてなくて。そんな一部始終を脳裏に焼き付けた。

 その子のお葬式に参加して、白い花に囲まれた彼女の写真を見て、ぼくはひたすら怖くなった。そうして、瞼の裏に恐ろしいものがこびり付いた。彼女と無関係なものが勝手に彼女に結びついていった。近所の公園で遊ぶ子供、落書き、椅子、めんどくさい、国語、好き、白い花、死。


 ぼくは、全てを忘れる為に、過度に妄想に耽った。

 暇さえあれば妄想の世界へ潜っていった。潜ったというよりは、逃げた。唯一の逃げ道で、心の底から落ち着ける場所だった。

 その場所は、ぼくにだけ都合よくて、ぼくのことを肯定してくれて、彼女はいなくて、甘やかしてくれて、慰めてくれて、優しかった。

 でも、それも家の玄関を開けた瞬間に消え去った。


 少しだけ寄り道してから帰宅した。そうしたら、「もう八時だぞ。もっと早く帰ってこい」とテレビと向かい合って座る父に言われて、その隣でポテチをつまんでいる母には「まだ反抗期なの」と茶化された。

 多分、独り立ちできるまで一生これが続いてるんだろうと思った。

 そう言えば、「おかえり」とか、「今日はみんなで外食しよう」とか、「新発売のコンビニスイーツをみんなで買いに行こう」とか、「学校はどうだった?」とか。そんな”上手くいっている家庭”の何気ない会話、全然聞いてないな。

 いつものモヤモヤをぶら提げて二階の自室へ行く。白い扉を押し開け中へ入ると、すぐ目の前に筆箱の置かれたデスク、その横には引き出し。その向かい側にベッド、すぐ隣にタンス。フローリングの床にはこれと言ったマットやじゅうたんも敷いていない。

 その部屋は、中学生にはとてもありがちな無個性で質素な部屋だったと思う。なにをするにしても形から入るぼくはそういうところから普通で味気ない人間になろうと取り繕った。いつからそうしようと思ったかは知らない。けれど、普通の生活、普通の両親、普通の感覚、普通の情緒、普通の人間関係を心の底から欲していて、瞼のうらにこびり付いたものを取っ払うために、気付かないうちからそれを意識していたんだと思う。そうでないと、こんなどこまでも奥深く後味の悪い毎日を何となく生きていくことなんて出来ないから。

 

 高2になってすぐ両親が死んだ。

 交通事故だった。

 警察のおじさんはあまり死因を語らなかったけれど、母の知人が誰に聞いたかもしれない死因を近所中へ言いふらしているからどんな経緯で死んだのかも事細かく知っていた。

 車内でいつものように夫婦喧嘩をしていて、それがヒートアップして父が母に殴りかかり、それが原因でハンドルを握っていた母が操作を誤り車が横転。反対車線から来た大型のトラックに追突され電柱に衝突。そのままトラックに押しつぶされたのだそうだ。こう言っちゃ悪いけれど、それが母の知人の嘘だろうとなんだろうと、彼ららしい詰まらない最後だった。

 好きでもなんでもない。ただ、いつもリビングにいただけの両親だった。だというのに、葬式では涙をこらえるのに必死だった。何が悲しくて、何が悔しくて、何が恋しいのかも分からない。なぜ涙を耐えるのか、どうして我慢しているのか。この先どうしたらいいのかも知らない。何を目標に生きたらいいのか、誰の背中を見たらいいのかもあやふやなまま。ぼくはてっきり彼らみたいなつまらない大人になるものだと思っていたから、ここからどうやって生きていけばいいのかさっぱり分からない。

 そんな頃には、ぼくが築いた妄想の世界は今の現実よりも豊かでリアルで残酷なものになっていた。

 逃げて、忘れることに必死になった。

 学校の教室で、周りの学生から向けられる悲哀の眼差しも、遠慮した口調で話しかけられた時も、ぼくみたいな根暗と友達になろうと果敢に話しかけてくれたクラスメートも。彼らの取る一挙手一投足がぼくの情緒とトラウマを刺激して、蘇らせた。そして、その都度妄想で逃げた。

 でも、そんな妄想の世界にぼくは存在しなかった。

 「ぼくが理想とするぼく以外の名無しの誰か」を主人公として、彼かもしくは彼女が不思議で歪で複雑な世界を旅して生きていた。

 いつの間にか手段と目的は逆転して、それが逃げ道でも何でもなくなっていた。そうやって、ただひたすら非現実にのめり込んだ。そして、そんな世界をぼくはただ突っ立って傍観していた。そんな綺麗な世界にぼくは邪魔で仕方がなかった。

 でも、いつしかそんな妄想につき纏われた。黒板に放物線を描きながら極小値がどうの接線がどうのと教師が言っている合間も壮大な現実逃避は続き、結果赤点を連発し、成績表には1や2と言った数が連なった。悲惨な現実が、ぼくをことあるごとに正気に戻した。そうやって学校で酷い成績を残したところで叱ってくれる親はいない。いるのは、甘やかしてくれる祖父母か、両親を失い殻に閉じこもる可哀そうな子供へどう叱っていいのか悩む担任だけだった。

 「留年だけはしないようにね」

 そのたった一言だけをぼくに言って、そいつはただの担任に戻った。そして、その言葉通りに最低限の単位だけを取り、高校を卒業した。けれど、たった一つの夢も目標も無かったぼくは進学という手段を早々に切り捨て、アルバイトを掛け持ちして日々を生きた。ずっと肯定し続けた己の臆病さを心底恨む、なんてことは決してしなかった。何か大きな決断を迫られでもしたときには、リスクなんてものが少しでもあるのなら、このすさんだ心が少しでも傷つくようなことがあるならと自分に言い聞かせ、常に現状維持を選んだ。ぼくにとっての最適解はずっとそれだと思っていたからだ。

 けれど、その臆病さが役に立つなんてことは無かった。


 22歳になった翌日に風邪をひいた。飯が喉を通らなくなった。声も出にくくなった。咳も酷くなった。薬を飲んで大人しく寝たらすぐに良くなったのでまたすぐバイトへ復帰した。それからほどなくして同じ症状を更に悪化した状態で発症した。また薬を飲んで大人しくしていたら治ると思って、それからだいたい一ヶ月その地獄の中で生きた。日に日に悪化する症状。これは風邪じゃないと、その時にようやく気付いた。毎年の定期健診以外では滅多に行かない近くの診療所で話を聞くと食道がんの可能性があると言われた。

 大きな病院へ行って検査を受けると、診療所で言われたとおり食道がんだと診断された。すでに他の臓器へ転移しているとも言われた。三年生きられたら良い方だ、とも言われた。もっと早期に見つかっていれば治療も可能だった。とは言わなかった。


 結局、彼女と同じ結末を辿ることになった。そして、彼らと同じつまらない気分でもあった。けれど、これでようやく現実から逃げる必要がなくなった。ただ抗うこともできず、朽ちて灰になる運命だけが残った。

  良かった。



 ぼくにとって、音楽は忘却装置だ。

 嫌な事があればイヤホンを取り出して、音楽を聴いて、忘れて、目を瞑った。脳みそを掻きむしってくれる音楽が特に大好きだった。いつか、瞼の裏にこびり付いたしつこいカビまできれいにしてくれるんじゃないかとか思った。

 なのに、今はダメだった。好んで聞いたEDMやTECHNO、US RAPやHIPHOP、HARD COREにHOOD TRAP。そして、PHONKみたような、転調が多かったり高周波や極端な低周波が頻繁に鳴ったり、なんにしても様相が全体的に激しい曲は聞いたら気を失うくらいに危ない状態だからダメだと医者や看護師に言われた。

 そうやって、あれはするな、これはするなと制限が付け加えられていくたび「おまえはつまらないからさっさと死ねよ」って、耳元で囁かれた。

 こんな時でもぼくは常に一人だった。体が十分に動かせない祖父母が電話を掛けてくるか手紙を送ってくれるだけで、それ以外の誰も見舞いに来るどころか気に掛けてくれさえしなかった。そもそも、それ以外の誰もぼくの元にはいなかった。

 孤独死は、文字通り誰にも看取られることなくたった独りで亡くなる事を指すけれど、これも孤独死に相違ない様に思えた。このままたった独りで山場を迎え、誰とも知らない看護師か医師が死んだ時間を確認してなんかしらの用紙にツラツラと書き込んで、それでぼくの人生は終わり。

 たった一瞬だけ騒がしくなって、たった一瞬で静かになるこの病室の情景がありありと想像できた。

 サイコホラーやスリラー映画なんかで悪党の手下や兵士なんかが演出の為だけに派手に死んだり惨く死んだりするけれど、ぼくには何の役割もないから、この死に方は、あれよりも酷くてグロテスクな最後に思えた。



 いつだったかはよく覚えていないし、分からない。小学生だったか、中学生だったか。国語の時間で辞書を使う時間があった。

 教科書を読み、聞いたことのない単語を辞書で引き、本来はその意味をノートに書き写すはずだったが、面倒くさがって教科書に直接メモしていった。ただ、すぐにその作業もつまらなく感じて、辞書をパラパラと適当にめくっては面白い単語を探すことに専念しだした。


 そこで「酔生夢死」という、いかにも洒落た単語を見つけた。意味は「ただ生きているだけの人生。つまらない一生」だった。

 たった今、それを思い出した。



 ある日、文字通りぼく以外の誰もいなかった病室に患者が来た。斜め向かい側のベッドへ腰を下ろしたその患者は、見た感じ中学生くらいの少年だった。

 一瞬、過去のトラウマが脳裏を掠めた。それに対して、頼むから静かにしてくれ。今は止めてくれと願いを込めて、鬱陶しい頭を殴った。

 カーテンで覆われ見えなくなった少年の元へは、日を跨ぐたびに両親や友人が駆けつけ労いと励ましの言葉を送っては去っていった。こちらが少年の名前を一言一句間違うことなく覚えられてしまうほど、少年の元への人の波は収まらなかった。

 ある日、少年の母親らしい人物が少年へ誕生日プレゼントを贈った。ぼくはただその会話をボーっと聞いていた。どうやら、プレゼントの中身はスマートフォンらしかった。

 「これでいつでも友達とお話しできるし、音楽も聴けるね」

 そう言って、ほどなくして母親らしい人物が少年の元を去った。少年がブツブツと何かを呟いたかと思えば、突然騒がしい少年以外の声が病室へ響いた。

 「ちょ!静かに!ここ病室なの!」

 少年が慌てた口調で抑え気味にそう話しかけてはその騒がしい声の主と愉快に会話を始めた。その一部始終を、ぼくは変わらずボーっと聞いていた。

 翌日、日も昇りかけの早朝からどこからともなく鼻歌が聞こえて来た。妙に聞きなじみがあったから、天井を見上げたまま後先も考えず、今まで噤んでいた口を開いてこう言った。

 「それって、Q?」

 少年の鼻歌は聞こえなくなっていた。その沈黙を聞いて返事をあきらめようとしたとき、カーテンの向かい側から

 「知ってるの?」

 と返事がきた。

 「うん。ぼくも、ボカロが好きなんだ。最近は聴いてないんだけど」

 「他にどんな曲知ってますか?」

 カーテン越しに食い気味の質問が飛んで来た。

 「そうだなぁ。朧月って知ってる?」

 「知ってます!」

 間髪入れずに返答がきた。

 そんな会話が、採血に来た看護師を挟んでも尚続いて、朝食の最中まで続いた。いつの間にか開ききったカーテン。そして、興味津々の少年が口に食ベ物を含み、いっぱいいっぱいになった口で質問をして、ぼくがそれに淡々と答えた。

 「やっぱり、少女Aですか?再生数も5000万回いきましたし」

 「少女Aも好きだけど、ぼくはうたをうたう人って曲が一番好きだな」

 おそらく、この少年以上にぼくの心は浮足立っていたはずだ。例え相手が自分より年下で未成年だろうと、生身の人とここまで趣味の話で盛り上がったんだ。こんな感覚、何年ぶりだろうか。いや、そもそもここまで趣味があう人と会話をしたことなんてなかったはずだ。

 急いでスマホを開き、イヤホンを耳にはめて曲を聴きだした少年の姿をまじまじと見つめて、そんなことを思った。

 昼食後の自由時間に少年と散歩をしながら趣味以外の話もした。

 少年の家がここから遠い事。早く学校に戻って部活に復帰する事。クラスの女子が気になっている事。数学が苦手だという事。赤裸々に話してはこちらにアドバイスを求めて来た。人生の先輩として、何か参考になりそうなことを言おうとしても、浅く薄味な人生を送った身から出てくるものもまた薄味なものだった。

 夕食後、トイレから病室へ帰ると、少年の母が少年と楽しそうに会話をしていた。邪魔をしないよう、少年と軽く目配せをしてから自分のベッドへ腰かけ、カーテンを閉め、横になった。

 2人が話す内容はいつも通り和気藹々としていた。ただ、今まで抱いたことも無かった他人の会話を盗み聞くものではないという感覚が不意に芽生えて、そして、少し高揚した気分を落ち着かせたくて、久々に耳にイヤホンをはめて、音楽を聴いて、それから生まれて初めて逃げじゃない妄想をした。そして、そのまま眠りについた。


 叫び声に目が覚めた。

 少年の名前が、彼が、女性の癇癪の交じったような声で繰り返し叫ばれていた。

 ぼくは、目を開けたまま動けなくなった。金縛りにあったような感覚で、全身を悪寒が包み込んだ。

 何が起こったか、察したからだ。

 「ジュン!!ジュン!!起きて!!いやあああっ!!」

 その悲痛な叫びが病室から病院全体に響いた。しばらくすると数名の足音が廊下から響いて、病室の戸が勢いよく開いた。

 「先生!ジュン…ジュンが、震えて、動かなくなって……」

 段々と生気が抜けていくその声を、カーテン越しから、シーツを強く握って、唇を噛んで、嗚咽をこらえて聞くしかできなかった。

 彼は、ジュンはあっけなく死んだ。

 彼だけじゃない。あの時。あの病室で2人が死んだ。2人が死んで、1人が動かなくなった。


 半年が経った。

 いつからか、思考が上手くまとまらなくなって、体も思うように動かなくなった。左足に関してはビクともしない。何か、強い重力のようなものに押しつぶされているような感覚がして、呼吸がまともに出来ているのかすらも分からなかった。

 ただ目ん玉をゴロゴロと動かして、浮き沈みを繰り返す掛け布団と無機質な天井を眺めるのが日課になった。眩しくてキンキンと小うるさいものが頭の周りをうろついて、まるで、あの世の入り口のすぐそこまで足を踏み入れたような気分だった。

 もう少しで人生が終わる。それだけしか考えられなくなった。彼と、彼女と、同じ運命をたどることになった。

とても、怖かった。良かったなんて、早く死にたいなんて、微塵も思えなかった。

 暇さえあればすかさず行った現実逃避は、いつからかそんな現実に圧倒されて、容易にできるものでもなくなった。

 ぼくの妄想が、非現実が、現実に負けたのだ。

 ぼくの妄想が、ぼくの世界が、現実に負けた。そんなことを考えるたびに気分が落ち込んだ。その度に、飾り立てるように「さっさと逝ってしまえば楽なのに」と呟いた。

 死ぬ瞬間は本当に気持ちいいのか、死ぬとぼくはどうなるのか。考える事が出来なくなって、何もない空間に飛ばされるんじゃないか。天国と地獄は本当にあるのか。もしあったとして、ぼくはどちらへ行くのか。天国か、地獄か…

 どうせ死ぬのなら………違うか。もう死んだんだ。ぼくは、あの時、この場所で。 

 好きなことも、妄想も、ゲームも、音楽も。何も、どれも、これも。邪悪な存在にこの身から引きはがされて、最後までひたすら輝こうとした彼は、その邪悪な存在に無残にも殺された。同時に、ぼくもまた彼とともに殺された。

 ただ、彼は最後まで輝こうとした。彼の好きな彼でいた。それで、ぼくはまだ一滴の光すら零せていない。まだ、泥沼の中にいる。

 彼のようにも、彼女のようにもなりたくない。でも、彼の様に、彼女のように生きていたなら。

 聞いたら気絶してしまう様な様相の激しい曲が、頭を掻きむしる様なあの曲が、ぼくを輝かせてくれて、そうしてそのままあの世に行ってしまえたら。

 最後くらいは最高にカッコいい曲を聞きながら、気持ちを爆破させて、半分気絶して、そのまま派手に輝いて死んでやりたかった。クソみたいな現実を別の派手でどうしようもない現実で上塗ってやれたら。

 そうだ。そうしてやるんだ。自殺の行方が地獄だろうが何だろうが関係ない。

 一滴でも光れるなら、それで死ぬんなら、それは自由だ。



 Phonkは、HIPHOPから派生して生まれたダークな雰囲気とどこかゾッとしてしまうような濃い深みが特徴の音楽であり、それは未だ捨てられないぼくのこの痛々しい中二心を何度も燻ぶってきた最高の音楽であり、ぼくにとってのフェンタニルであり、薬膳料理だ。だから、これを大音量で聴くことはぼくをどこまでも気持ちよくしてしまう。天国へ連れて行ってしまう。

 そしてそのまま、気持ちの良いまま、ここから落ちて、地獄へ落ちる。


 スマホを手に持ち、暗い画面をタップするとテンキーが映し出される。そこへ「100916」と打ち込みホーム画面を開く。横へスワイプし緑色の音楽アプリを開く。そこから「お気に入りの曲」を再生する。

 「これじゃない、これじゃない」

 そうブツブツ呟いてスキップを繰り返す。

 「これじゃない、これも違う」

 スキップを繰り返す。ひたすらにスキップを繰り返し、今、自分が心から震える一曲を探す。今死ねる、最高に気持ちの良い曲があるはずだから。

 「あぁ、これか」

 今、心の底から求めていた曲に導かれて、スマホの音量を上げる。

 ゴシックの権化とも言えるその曲が周囲を揺らし、鼓膜を震わせる。重力が体を攫って、激しく冷たい風が、襟と、袖と、裾をはためかせる。

 そうして、鈍い音が音楽を掻き消す。



……………


………


…う……?


……だ…からない?……


……だろう。…く聞いておけ?い……てやるからよ。


いいか?


 …内は……だ。「特…異………、あ……きな…にあ……ずの……と…われたブ……クホ……が存…し…、そ……にも………が存在し……とす…のなら、勿…脳内にも…たよう…ものがあるのだろう。

 脳内の………。

 存…するのか、そうじゃ…いのか。別の視…からよく見…ば、それは、紛れもなく存在する。

 そして、それはもちろん、妄想でもある。


             『………とは、常識の及ばない領域。』



 どうだ、少しは分かるようになってきただろ?脳みその中身はブラックボックスだからよ。


……。


……………。


………………………………。


………………………………………………。



 静寂。何も聞こえない。ノイズが、遠くの方から聞こえてくる。この感じは、聞いたことがあるような。無いような。


 「ザザ」


 ノイズ。遠くで絶えず呻いているノイズ。少しずつこちらに近づいてきているような。


 「ザ、ズズズ」


 柔らかい。心地いい。少しだけ遠くの方から聞こえてくる。


 「カサカサ。ザザ。あ…?ガ、サササ。」


 今の声は……子供…?確かに「あ」って、そう聞こえた。この声は、あの子の声だ。


 「…………?」


 心地良い木漏れ日の音。風。川の泡き。聞きなじみの無い自然の音。どこからか響いてくる鳥のさえずり。

 暗い。眩しい、暗い。瞼の向こう側で何かが揺れ動いて、温かい光を隠したり、当てたり。

 暖かい。いや、少し寒い。体が軽い。湿っている空気。グチャグチャの、じめっとした感触。何かが肌に刺さる。体に何かがまとわりついている。さらさらな、糸みたいな。

 初めて聞く少女の声。息遣い。咳払い。布、いや、布みたいな肌。シルクみたいな奇麗な肌。奇麗に切りそろえらえた爪。澄み切った視界。


 ここは……天国?……なんで。


誰も見ていないかもしれませんが、ストックしているすべての原稿を完璧な状態にして、全てをここに晒上げてからさようならのつもりです。

日本語も所々変かもしれませんが、ご容赦ください。

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