春の始まりと新キャプテンの責任
桜がほころぶ校門をくぐった瞬間、柔らかな風がレオの髪を揺らした。
高校三年──最後の一年が始まる。
フェンシングバッグを肩に掛け、部室へ向かう足取りは軽いようでいて、胸の奥には妙な重みがあった。
扉を開けると、すでに後輩たちが道場で剣を交えている。軽やかな足運び、打ち込みの音。そこに漂う空気は、もう彼らが“下級生”ではないことを物語っていた。
「おはようございます、キャプテン!」
二年の小山田が、剣を構えたまま笑顔で声をかける。
一年の北園も、勢いよく礼をしてくるが、その目は「早く試合してください」と言わんばかりにギラついていた。
(頼もしいけど……もう俺が背負う側なんだな)
レオは道場の中央に立ち、練習メニューの指示を出す。
小山田の構えに崩れがないのを見て「そこ、肘をもう少し締めろ」と短く助言。
北園の荒削りな突きを受け止めて「力任せじゃない、間合いを読め」と冷静に指摘する。
後輩たちの成長は素直に嬉しい。だが、同時に胸の奥がざわつく。
強くなる彼らの背中を見るたび、自分が負けるわけにはいかないという思いが強くなる。
キャプテンとして、先頭に立ち続けなければ──。
「先輩も、もう最後の年ですね」
休憩中、小山田の何気ない一言が胸に刺さった。
「……そうだな。負けられないな、俺も」
レオは笑顔で返したが、その声色はどこか硬かった。
練習が終わり、後輩たちが帰ったあと。
レオはひとり道場に残り、剣を握った。
足さばき、構え、突き──淡々とした動作に、汗が滲む。
夜の道場は静かで、自分の呼吸と剣先の軌跡だけが響く。
(後輩たちが強くなるほど……負けられない)
突き出した剣先が、空気を裂く音がした。
最後の一年、そしてキャプテンとしての覚悟が、その音に刻まれていくようだった。
夕方の部室は、練習を終えた部員たちのざわめきで満ちていた。
シューズを脱ぎながら、一年の北園がスマホを掲げる。
「先輩、これ見ました? 伏見さん、強化選手候補に入ってますよ!」
「マジかよ、もう大学入ったばっかじゃん」
二年の小山田が感心したように声を上げる。
「やっぱすげーなぁ、あの人」
画面には、大学のユニフォームを着た伏見蓮が映っていた。
鋭い視線、まっすぐな剣先。あの時と何も変わらない──いや、むしろさらに研ぎ澄まされている。
(やっぱり……あいつは進んでる)
レオは何気ない顔で道場の隅に防具を片付けた。
後輩たちは「やっぱ伏見先輩って化け物ですよね」と盛り上がっている。
でも、その輪にレオは入らない。ただ静かに、心の奥が熱くなるのを感じていた。
練習が終わり、皆が帰ったあと。
道場にはレオひとり。
額から汗が落ちるのも構わず、何度も突きを繰り返す。
木霊する剣の音が、自分への問いかけに聞こえる。
(あいつに、もう一度──)
(いや、次は……勝つ)
レオは剣先を静かに下ろし、深く息を吐いた。
“再戦”の二文字が、胸の奥で強く光る。
それは、ただの目標じゃない。約束のようなものだった。
放課後の道場に、木の香りと防具の擦れる音が満ちる。
レオは剣を収めると、そのまま顧問の呼び出しを受けて職員室へ向かった。
顧問の佐伯は、長身で寡黙な男だ。
机に置かれたレポートを一瞥し、レオに静かに言葉を投げかける。
「勝ちたいなら──チーム全体を鍛えろ。お前だけが強くても、団体戦は勝てない」
短い言葉に、レオは胸の奥を射抜かれた気がした。
これまでは、自分が勝てばいいと無意識に思っていたのかもしれない。
キャプテンとしての視点。チームをどう導くか。重さが肩に乗るのをはっきりと感じた。
***
道場に戻ると、二年の小山田と一年の北園が模擬試合をしていた。
小山田は守りのバランスが取れ、無駄がない。北園は勢いよく仕掛けるが、荒削りだ。
「よし、次は俺とやろうか」
レオが声をかけると、北園が目を輝かせた。
「キャプテン、本気でお願いしますよ!」
開始の合図と同時に、北園は全力で突っ込んでくる。
レオは鋭い剣さばきで受け止め、冷静に反撃。
一瞬でポイントを奪うと、北園が悔しそうに叫んだ。
「もっと本気で相手してくださいよ!」
その言葉に、レオは思わず笑った。
けれど、内心では別の感情が湧いていた。
(そうだな……後輩たちに“背中”を見せないと)
小山田が試合を見守りながらぽつりと言う。
「自分も……次のキャプテンになれるように、頑張らないとな」
道場に流れる空気は穏やかで、それでいて張りつめている。
仲間たちは確かに成長している。その事実が、レオの胸に新しい責任を刻み込んだ。
夜風が少し冷たい春の帰り道。部活を終えたレオが玄関を開けると、ふわりと味噌汁の香りが漂った。
ダイニングには母が夕食の皿を並べており、父は新聞を畳んでちょうど腰を上げるところだった。
「おかえり、レオ。今日も遅かったのね」
母の声はいつもどおり柔らかい。
「練習が長引いただけだよ」
「試合ばかりで大変ね……ちゃんと食べてるの?」
気遣う母に、父が口を挟んだ。
「今が一番楽しい時期だろう。苦しいくらいがちょうどいい」
剣道三段の父らしい、豪快な笑みだった。
食後、父がふいに言った。
「ちょっと来い。手合わせでもしてやる」
***
庭先で、木刀を構えた父とレオが向かい合う。
月明かりが二人の影を長く伸ばしている。
「いくぞ」
木刀が軽く打ち合う音が響き、互いに間合いを探る。
父の一撃は鋭い。だがレオは体さばきでかわし、すぐに返す。
「ほう、だいぶ剣先がぶれなくなったな」
稽古を終えると、父は木刀を下ろして言った。
「覚えておけ、レオ。お前の剣は“型”じゃない。“心”だ。剣に宿るものを信じろ」
レオは思わず息を呑んだ。
(心の剣……俺の戦い方は、それでいいのかもしれない)
父は深く追及せず、ただにやりと笑う。
レオの胸に、その一言が深く刻まれた。
それは後に“守る剣”という信念へと繋がる、静かな伏線だった。
夕暮れの道場に、練習を終えた余熱だけが残っていた。
部員たちが帰った後も、レオは一人で竹刀袋を肩にかけ、ゆっくりと校舎の屋上に向かう。
春の風が吹き抜ける。西の空には桜色がまだ残っていて、茜に溶けていく雲がゆっくりと流れていた。
レオはフェンシング用のグローブを外し、汗で少し湿った掌を風に晒す。
(今年が最後だ)
(もう迷わない)
指先をきゅっと握りしめる。胸の奥に熱いものがこみ上げる。
(俺の剣は……俺だけのものじゃない)
後輩たちの真剣な眼差し。顧問の厳しい言葉。父の声。
そして、遠いどこかで剣を振るう伏見蓮の背中。
全てが重なり合い、レオの中にひとつの答えを描いていく。
視線を空に向ける。
赤く染まる雲の向こうに、まだ見ぬ戦いの舞台があるような気がした。
「――行くぞ」
その目は迷いなく、まっすぐに未来を射抜いていた。
屋上の柵に吹きつける春風が、静かな誓いを運び去る。
次の章で待つのは、再び訪れる試練。
レオの強い視線で、場面は暗転した。




