(2)未知との遭遇
リティーナは、古びた石畳の上を素早く歩いていく。
柔らかい日差しの中、町の人々はせわしなく行き交い、どこからか教会の鐘が聞こえてくる。
しかし、そんな穏やかな風景は、今のリティーナには全く見えていない。
――この世界に、本当に自分より強い存在がいるのか。
それは、リティーナが幼い頃からずっと抱いていた疑問だ。
今回の火遊びも、魔王として勇者を排除するために来たのではない。
リティーナ自身の本能的な興味を確かめるために、ノアズ王国まで来たのだ。
リティーナは、教会へ入った後、勇者との面会を要求する人々に混じり、順番が来るまでしばらく待った。
目測だと、少なくとも三十人の人間が並んでいる。
神父の説明によれば、勇者と面会できる時間は、一人あたり3分しかないと言う。
面会が始まったら、無駄な会話をしている暇はないようだ。
◆◆◆
二時間ほど待った後、ようやく勇者が居る部屋へ案内された。
質素な室内に佇むのは、黒髪黒目の線が細い男――。
目を離したら次の瞬間には相貌を忘れてしまいそうな、実に華の無い青年だった。
リティーナはその凡庸な容姿に少し驚きながら、明るく声をかける。
「こんにちは、勇者様!」
「こんにちは、えーっと…君の名前は?」
「私はリティと申します。どうぞ、そのまま、リティとお呼びください」
お互いに人当たりの良い笑みを浮かべながら挨拶し、ゆっくりと着席する。
「リティさん――うん、リティか。…リティは何の相談がしたくて来たのかな」
「あの…私、勇者様と模擬戦がしたくて」
「えっ、俺と模擬戦?君みたいな可愛い子が?」
「はい。私は自分より強い相手を探しているのです。
勇者様の噂を聞き、居ても立っても居られず、こうして王都まで来ました!」
勇者は困ったような顔でリティーナの体と顔を見る。
貧弱そうな見た目の美少女にいきなり模擬戦を申し込まれれば、困惑もするだろう。
リティーナは己の容姿を活かし、上目遣いでさらに頼み込んだ。
「どうしても、勇者様と戦ってみたいんです。お願いします…どうか…勇者様」
「まあ良いけど…、模擬戦となると、ここじゃさすがに無理だなぁ。
二日後の昼、教会近くにある訓練場まで来てくれれば相手できるよ」
「本当ですか!?嬉しいです…!ありがとうございます!」
「…うーん。まあ、どういたしまして…?」
あまりにもわざとらしい喜び方に、勇者が一瞬だけ目を瞬いた。
銀髪を揺らす風変わりな美少女――魔王・リティーナは、ひどく満足気に笑いながら勇者を見つめる。
◆◆◆
二日後の昼、リティーナは約束通り訓練場で勇者と会い、少しだけ言葉を交わしていた。
「時間を割いていただきありがとうございます、勇者様!」
「ああ、気にしないで。ちょうど暇だったからね」
「では――早速こちらの木剣で打ちあいましょう。
…手加減なんてしないでくださいね。よろしくお願いします!」
「うん、もちろん。よろしく」
軽い挨拶が終わった後、互いに古びた木剣を握り、少し離れた位置へ立つ。
二人が立ち位置を決めて相対すると、誰も居ない訓練場に、程よい緊張感が漂う。
「さて、今から模擬戦開始ということでよろしいですか?」
「ああ。いつでも来て良いよ」
リティーナは勇者の返事が終わると同時に、勇者の胴を狙って斬りかかった。
強化魔法と風魔法を重ねがけした斬撃は、木剣といえど当たれば骨折するほど重い一撃に変わる。
並の人間では太刀筋すら目視できない速さだ。
――しかし、その瞬間、リティーナの世界は静止する。
「おっ…と」
「!?」
予想できなかった動きに、リティーナは思わず目を見開く。
勇者は、なんと、リティーナが振るった剣先を指二本で受け止めていた。
「なっ、なにそ…」
素で叫びかけたリティーナを、すぐに勇者の重たい拳が襲う。
目で捉えることすらできない神速の拳は、リティーナの腹を打ち、一瞬で戦闘不能にした。
意識を手放すリティーナが最後に見たのは、勇者の心配そうな瞳だけだった。
◆◆◆
深い眠りから目覚めたリティーナは、真っ白な天井を見て困惑した後、寝かされていたベッドから跳ね起きる。
慌てて周りを見渡せば、知らない部屋と、相変わらず地味な勇者が目に入った。
――どうやら、教会の治療室に運ばれたようだ。
「…って、えっ!?あれ!?何これ?私、え…」
「あ、起きた?」
ベッドの傍らに座る勇者は、困ったような顔でリティーナへ声をかける。
「もしかして、斬撃の後に、何されたか分かってない?」
「はい…」
「一応、指で剣先を止めてから軽く殴っただけなんだけど」
「いや、え…?殴った?私を?」
「うん。腹パンしてごめん。
…素手なら木剣で殴るよりは痛くないかなと思って」
「はら…ぱん?」
「あっ…こっちの世界には無い言葉なのか。
んーと、何でもないよ!とにかく、お腹を殴ってごめんね」
リティーナは、思わず上着を胸の下までまくり上げた。
たしかに、リティーナの腹部には殴られた痕跡がある。
申し訳なさそうに謝っていた勇者も、嘘をついているとは思えない。
「ちょっ、急に何!?もしかして気絶した時に頭打っちゃった?大丈夫?」
「そ、そんな…この私が、殴られたことにすら気づけなかったの…?」
呆然とした表情で話すリティーナに対し、勇者は重ねて頭を下げた。
「頼まれたからとは言え、女の子相手にやりすぎだったかな…。ごめん」
「いえ…」
黙りこみながら、リティーナは再び自分の腹部を見つめる。
どんな敵と戦っても傷一つ付かなかった体に、初めて、殴られた痕跡がついていた。
素手でこの威力なら、聖剣を使えばどれだけの強さになるのか。
冷や汗がリティーナの額を伝う。
「つまり、私は…負けた…ということ、ですよね?」
「まあそうなるかな…殴った後気絶したから、慌てて休憩室まで連れて来たんだけど」
「これが…敗北…」
リティーナはこの日、初めて敗北し、同時に絶望という感情を覚えた。
自分がいずれ倒さなくてはいけない人類の希望――"勇者"の恐ろしさと強さを、身をもって知ったからだ。
◆◆◆
放心状態のままなんとか魔国ベルアーデへ帰ったリティーナは、勇者と戦った日からすっかり自信を無くしていた。
動きすらろくに見えず、ただ殴られただけで気絶するなど、リティーナの実力から考えればありえない事態だ。
こんな醜態は、忠実な側近であるアルレにしか話せない。
「…全く、なんなのよあの化け物は!あんなの絶対人間じゃないわ!」
「魔王様、本当なのですか?転生勇者が魔王様より強いというのは…」
「私が嘘をついたことなんて一回も無いでしょ!?」
「ほっほっほ。ご冗談でしょう、魔王様」
「とにかく…私が言いたいのは、もっとあいつについて調べる必要があるってことなの!」
リティーナは、いままで圧倒的強者として生きてきただけに、才能の差がどれだけ残酷なのかよく知っていた。
何も知らない弱者であれば、まだ無謀な対抗意識を燃やせたのかもしれない。
でも、リティーナの本能が告げている。
絶対に、リティーナではあの勇者を倒せない。
一回殴られただけで分かるほどの異質さを思い出し、リティーナの顔は真っ青になった。
「あんな化け物に目をつけられたらこの国は終わりよ…何とかしないと」
「ふむ…。近頃、人間の国では戦を望む声が大きくなっていると聞きます。
勇者の強さが本物ならば、何か対策を講じなければ」
「どうしたら見逃してもらえるのかしら…」
リティーナが頬杖をつき、か細い声で呟いた瞬間、アルレの目がきらりと光る。
これは、側近がなにか狡賢いことを考えた時の表情だ。
「…魔王様は、平和的解決をお望みですか?」
「当然よ、私はこの国の偉大なる女王なんだから!」
「それなら一つだけ、良い案がございます」
「何?言ってみなさい」
アルレは中指で眼鏡を押し上げながら、真剣にリティーナと見つめ合った。
「色仕掛けで勇者を落としましょう」
「え?」
「色仕掛け、で、勇者を、落としましょう」
「ええええ!?」
「見目麗しき魔王様が化け物勇者と結ばれれば一件落着。
この国も安泰というものです」
「なっ…なっ…なんで私が!誰があんな化け物と!!」
リティーナの顔が怒りで赤く染まっても、アトレはすまし顔で言葉を重ねる。
「化け物だからこそ、です。戦で勝てない相手とは、親交を結ぶべきでしょう。
人間の国では、政略結婚によって自国を守っている王族が多いと聞きますよ?
魔王様も見習ってみてはいかがですか?」
「ぐっ…た、たしかに…でも人間は魔族に偏見を持ってるでしょ!
婚姻なんて無理に決まってる」
「ただの美少女として勇者に近づき、惚れさせてしまえば良いのです。
相手が惚れたら、魔王であることを明かしましょう」
「うぅ、正気とは思えない提案だわ…!」
「魔王様でも勝てないほどの猛者が味方になれば、周辺国との諍いだって少しは収まるはずです。
失敗しても損はありませんし、もし成功すれば僥倖の極みと言えますね。
血を流さずに勝つ方法はこれしかないと思います。
妙案ではございませんか?」
「それはそうだけど…」
リティーナは真っ白な肌を赤く染めたまま、机に突っ伏した。
「なんで…こんなことになるのよ…っ!」