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世界の終わりの隣で、君とラーメン

作者: のっち

「明日の午前2時33分、日本標準時。小惑星DA-1998は、地球に衝突します」


テレビの中で、誰かがそう言った。正確な時刻、軌道計算、衝突エネルギーの想定値、世界各国の対応——すべてが現実として、画面に整然と並べられていた。


家の中は静かだった。


冷蔵庫の中には買い置きの牛乳と卵。ラップをかけたカレーがひと皿。テレビの下には埃をかぶったリモコンが転がっている。外からはサイレンの音と、怒鳴り声、泣き声が時折届く。


世界は今日も、どこかで壊れている。


俺はそっと、テレビの電源を切った。



「最後に、どこ行きたい?」と聞かれたら、何て答えるだろうか。


テーマパーク? 海外旅行? 家族との再会? 恋人との時間?


でも、俺が選んだのは、潰れかけのラーメン屋だった。


北口商店街の端っこ。今やシャッター街になりかけたその並びに、「一番星食堂」はあった。看板は褪せ、ガラスの引き戸はすりガラス越しにしか店内が見えない。


それでも昔は、人が並んでいた。昼休み、放課後、部活帰り。学生たちの胃袋と、少しの寂しさを満たしてくれる味だった。


何年も前にこの街を離れてから、俺はあの店に一度も足を運んでいない。


でも、どうしてだろう。世界の終わりを知った瞬間、俺の頭に浮かんだのは、あの店のラーメンだった。


湯気と、スープと、店主の無愛想な顔。


……それと、もうひとつ。


あの店で、隣に座っていた、あの子の笑顔。



シャッターは半分降りていたが、引き戸を押すと「ギイ」と軋む音を立てて開いた。


中は薄暗く、カウンターの上には掃除途中の雑巾が置かれている。厨房に人の気配はない。椅子はすべて逆さにしてテーブルに乗せられ、まるで店自体が眠っているようだった。


「……閉店準備中か」


当たり前だ。明日には世界が終わるというのに、ラーメン屋を開けている理由なんてない。


それでも、俺はカウンター席のひとつに腰を下ろした。椅子は少しガタついていて、その感覚が懐かしかった。


ポケットからタバコを取り出し、火をつける。煙がくすぶるように鼻を抜けていく。


「……吸えるようになったんだ」


その声に、心臓が跳ねた。


振り返ると、そこに彼女がいた。


十年前と、まったく同じ姿ではなかった。でも、目元の柔らかさと、声の質感と、少しだけ曲がった前髪の癖。


間違いようがなかった。


「——瑞希」


彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。


「……久しぶり。まさか、ここで再会するなんて思ってなかった」


俺は、言葉を失った。


彼女は制服姿ではなかった。けれど、どこか面影を残したまま、大人びた表情で立っていた。


「なにしてたの?」


「……思い出してた。最後に食べたラーメンの味、忘れたくなくて」


瑞希はゆっくりと厨房の中に入り、勝手知った様子で棚を開け始めた。


「……店主さん、もういないの?」


「うん。昨日、急に病院に行くって言って。『もう最後だから、自由にやれ』って鍵を預かった」


「それで、君が?」


「うん。私も、なんか……ここに来たくなって」


言葉を失っていたのは、たぶん俺だけじゃなかった。



「ラーメン、作るよ。食べたいんでしょ?」


「えっ、でも……」


「覚えてるよ。あなた、ここの味、好きだったじゃん」


瑞希はそう言って、鍋に湯を張り、ガス台に火をつけた。


厨房から聞こえる水の音、器がぶつかる音、換気扇の唸り。


全部が、まるで時間を巻き戻すようだった。


「……俺、覚えてるよ。中学三年の終わり、お前が『このラーメン、きっとどこかでまた食べたくなる味だね』って言ったこと」


「そんなこと、言ったっけ?」


「言ったよ。俺、ずっと忘れられなかった」


彼女は静かに笑った。


そして、丼を一つ、温め始めた。


カウンター越しに立つ彼女の姿を、俺は何も言えずに見ていた。


世界が終わるというのに——こんなに胸がざわつくのは、どうしてなんだろう。



湯が沸騰する音と共に、店内に湯気が立ち込める。換気扇はかすかに唸りながら、蒸気と匂いを外に逃がしていく。瑞希が麺を一玉、軽やかな手つきで茹で釜に放ると、それだけでこの空間が“生きている”ような錯覚が生まれた。


彼女の所作は思いのほか自然だった。


「……前にバイトしてたとか?」


「ううん。違うよ。見てただけ」


「見てただけで、その動きできるか?」


「昔から、観察得意なの。ほら、あなたがスープ残すとき、いつもレンゲの先っぽだけ使ってたとか」


「……覚えてたのか、それ」


「忘れようとしてたけど、ね」


瑞希はスープの鍋に火をつけ、寸胴から白濁した豚骨スープを慎重にすくった。湯気の立ち上る姿が、彼女の頬を少し赤く染める。


「どうして、ここに戻ってきたの?」


「わからない。ただ……最後に何か食べたかった。それも、懐かしい味が良かった」


「君の家族は?」


「先に、実家に戻った。静かなとこで過ごしたいって」


「……怖くないのか」


「怖いよ。でも、きっと、食べることが怖さを忘れさせてくれると思って」


その言葉に、少しだけ救われる気がした。彼女は昔から、どこか肝が据わっていた。周囲が騒いでいても、ひとり平気な顔でノートを取り続けていた、あの頃の彼女のままだった。


「……あのとき、俺……何も言えなかった」


「うん。わかってたよ」


「卒業式の日、呼び出したくせに、何も話せなかった。ラーメン食べて、それっきりだった」


「そうだったね」


「ずっと後悔してた」


「でも、それで良かったのかも。あれが、私たちの“味”だったんだよ」


彼女の微笑みは、少し寂しさを含んでいた。


「もうすぐできるよ。……味、覚えてるといいね」


彼女が丼に麺をあけ、スープを注ぎ、チャーシューとネギ、煮卵を丁寧に盛りつける。


それはまるで、最後の儀式のようだった。


「——お待たせしました。笹塚くんの、いつものやつ」


カウンター越しに差し出された一杯。

その湯気の向こうで、彼女が小さく笑った。


箸を手に取り、一口すする。


熱い。

そして、優しい。


「……変わらない。まったく」


「でしょ?」


「でも、あの頃と違うのは……」


「私が作ったってとこ?」


「それもあるけど……味が、少し沁みるようになった」


彼女は照れくさそうに肩をすくめた。


「……ラーメンって、すごいよね」


「ん?」


「どうして、こんなときに食べたくなるんだろう。別に高級でもないし、家庭料理でもないのに」


「ラーメンは、なんていうか……“途中”の料理だから、じゃないか?」


「途中?」


「豪華でも質素でもなくて、特別でも日常でもなくて。人生の“通過点”みたいな味がする」


「……深い」


「そんなことない。俺たちの距離と一緒だよ」


瑞希はしばらく黙っていた。


やがて、ぽつりと漏らした。


「——また会えるかな」


「明日がなければ、また会えない。けど、今なら会える」


「……じゃあ、今、会えてよかった」


器の底が見える頃、時計の針は午後11時を回っていた。


「そろそろ、帰る?」


「……やだ」


「え?」


「ここにいたい。君と最後のラーメン食べて、夜明けを待ちたい」


カウンターの奥、厨房の照明が少しだけ揺れていた。

外は、誰もいない。


ふたりだけのラーメン屋。

この小さな灯りが、まだあたたかく輝いていた。



午前0時を回る頃には、街の音がすっかり消えていた。


車のエンジンも、人の怒声も、救急車のサイレンさえも途絶えて、店の中は奇妙なほど静かだった。外に広がるのは、終わりを待つためだけの時間。


カウンターの上には、ふたりの空になったどんぶり。

残されたスープの膜が、静かに光を反射していた。


「もう一杯、作ろっか?」


瑞希が言った。


「え?」


「別に、誰にも怒られないし。明日なんてないんだし」


「……確かに」


ふたりで立ち上がり、厨房に入る。今度は、俺が鍋を洗い、彼女が水を張り、共同作業のようにラーメンの仕込みを始めた。


「……あの頃さ、話そうとしてたこと、あるんだ」


俺は水を流しながら言った。


「卒業式のとき?」


「うん」


「なんとなく、察してた」


「けど、言えなかった。お前が遠くに行くの知ってて、怖くなって」


「うん」


「……好きだった」


水音が、止んだ。


瑞希は黙ったまま、麺の袋を開ける手を止めていた。


「今言うの、遅すぎるのかもしれないけど。明日が来ないなら、今日しかないから」


「——私も」


「え?」


「私も、ずっと。あなたが何も言わなかったから、こっちも言えなかった。でも、ずっと好きだったよ」


鍋の湯が、グラグラと沸騰し始めていた。


「なんか、変だね」


「何が?」


「世界が終わる前に、やっと伝えられるなんて」


「でも、間に合った」


「……うん、間に合った」


ふたりで並んで麺を茹でる。

チャーシューを切り、ネギを刻む。

ラーメンができるまでの数分間に、過去の全部が詰まっているように思えた。


やがて、できあがった二杯のラーメンをテーブルに運び、対面で座った。


「乾杯、しようか」


「なんで?」


「最後の晩餐だから」


缶ビールをひとつずつ開ける。

缶のぶつかる小さな音。


「——ありがとう」


「こっちこそ」


ビールを少しだけ飲んで、ふたりで箸をとる。


ラーメンはさっきと同じ味だった。

でも、隣にいる人が違うと、まったく別の料理みたいに感じた。


「もし、世界が終わらなかったら、どうしてた?」


「きっと、またこうして食べてた」


「私は……言えないまま終わってたかも」


「そしたら、また後悔してたな」


「うん。でも、もういいや」


彼女の笑顔を、俺はずっと忘れないと思った。


やがて、時計が1時50分を指す。


「あと……40分ちょっとか」


「早いね」


「でも、長かった。今日という一日は、ずっと」


「うん、そうだね」


空になったどんぶりを見つめながら、俺たちは沈黙した。


けれど、それは気まずさではなく、静かな満足だった。


「……君に会えてよかった」


「私も。ちゃんと味、思い出せたよ」


「そっか。じゃあ、もう悔いないか」


「うん」


時計の針は、ゆっくりと進む。

ふたりはただそこに座り、互いの顔を見て、手を重ねた。


手のひらの温度が、どんぶりの湯気よりもあたたかかった。


やがて、電気がふっと落ちた。

街全体が、沈黙するように。


世界の終わりが近づいている。


でも、そのときふたりは、確かに“ここにいた”。



時計の針が、2時29分を指していた。


窓の外は、まるで時間が止まったかのように静かで、世界中が息を潜めて何かを待っているようだった。遠くで猫の鳴き声が一度だけ聞こえた。あとは、本当に、何もない。


「……あと、四分か」


俺がぽつりとつぶやくと、瑞希は微笑んでうなずいた。


「ねえ」


「うん?」


「最後に、お願いしてもいい?」


「なに?」


「手、握ってて」


「もちろん」


もうすでに重ねられていた手を、強く握り直す。


「……ありがとう。こんなときに、ここに来てくれて」


「俺のほうこそ。お前がいてくれて、よかった」


「ねえ、ラーメン……おいしかったね」


「うん。最高だった」


カウンターの隅で、時計が静かに“午前2時30分”を示す。


それからの三分間が、どこまでも長かった。


瑞希が、ふと何かを思い出したように言った。


「……もし、もう一度生まれ変われるなら」


「うん」


「今度は、ちゃんと約束しようよ」


「約束?」


「世界が終わらなくても、ラーメン一緒に食べに行こうって」


「……ああ、いいね。今度は、もうちょっとちゃんと告白してさ」


「それ、覚えててよ?」


「絶対に」


ふたりで見つめ合った。


最後の言葉を、交わすように。


「好きだった」

「好きだったよ」


午前2時33分。


小さな振動が、店全体を震わせた。


ふっと、窓の向こうが白くなった。


地響きのような低い音。まばゆい光。


誰かの名前を呼ぶ暇もなく、でも、確かに誰かの温度を感じたまま——


——すべてが、静かに、包み込まれていった。



翌朝、世界には太陽が昇った。


衝突は回避されたと、ニュースが報じた。地球の大気に突入した隕石は、途中で崩壊し、破片は無人地帯へと散ったという。


街には人が戻り、店のシャッターがまた開き始める。


だが、「一番星食堂」はそこにもうなかった。


看板は外され、窓には“貸店舗”の紙が貼られている。


ただ一つだけ、カウンターの奥の壁に、あの夜の名残が残されていた。


——空になったラーメンどんぶりが、ふたつ。


手を重ねるように、並んでいた。

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