世界の終わりの隣で、君とラーメン
「明日の午前2時33分、日本標準時。小惑星DA-1998は、地球に衝突します」
テレビの中で、誰かがそう言った。正確な時刻、軌道計算、衝突エネルギーの想定値、世界各国の対応——すべてが現実として、画面に整然と並べられていた。
家の中は静かだった。
冷蔵庫の中には買い置きの牛乳と卵。ラップをかけたカレーがひと皿。テレビの下には埃をかぶったリモコンが転がっている。外からはサイレンの音と、怒鳴り声、泣き声が時折届く。
世界は今日も、どこかで壊れている。
俺はそっと、テレビの電源を切った。
*
「最後に、どこ行きたい?」と聞かれたら、何て答えるだろうか。
テーマパーク? 海外旅行? 家族との再会? 恋人との時間?
でも、俺が選んだのは、潰れかけのラーメン屋だった。
北口商店街の端っこ。今やシャッター街になりかけたその並びに、「一番星食堂」はあった。看板は褪せ、ガラスの引き戸はすりガラス越しにしか店内が見えない。
それでも昔は、人が並んでいた。昼休み、放課後、部活帰り。学生たちの胃袋と、少しの寂しさを満たしてくれる味だった。
何年も前にこの街を離れてから、俺はあの店に一度も足を運んでいない。
でも、どうしてだろう。世界の終わりを知った瞬間、俺の頭に浮かんだのは、あの店のラーメンだった。
湯気と、スープと、店主の無愛想な顔。
……それと、もうひとつ。
あの店で、隣に座っていた、あの子の笑顔。
*
シャッターは半分降りていたが、引き戸を押すと「ギイ」と軋む音を立てて開いた。
中は薄暗く、カウンターの上には掃除途中の雑巾が置かれている。厨房に人の気配はない。椅子はすべて逆さにしてテーブルに乗せられ、まるで店自体が眠っているようだった。
「……閉店準備中か」
当たり前だ。明日には世界が終わるというのに、ラーメン屋を開けている理由なんてない。
それでも、俺はカウンター席のひとつに腰を下ろした。椅子は少しガタついていて、その感覚が懐かしかった。
ポケットからタバコを取り出し、火をつける。煙がくすぶるように鼻を抜けていく。
「……吸えるようになったんだ」
その声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、そこに彼女がいた。
十年前と、まったく同じ姿ではなかった。でも、目元の柔らかさと、声の質感と、少しだけ曲がった前髪の癖。
間違いようがなかった。
「——瑞希」
彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「……久しぶり。まさか、ここで再会するなんて思ってなかった」
俺は、言葉を失った。
彼女は制服姿ではなかった。けれど、どこか面影を残したまま、大人びた表情で立っていた。
「なにしてたの?」
「……思い出してた。最後に食べたラーメンの味、忘れたくなくて」
瑞希はゆっくりと厨房の中に入り、勝手知った様子で棚を開け始めた。
「……店主さん、もういないの?」
「うん。昨日、急に病院に行くって言って。『もう最後だから、自由にやれ』って鍵を預かった」
「それで、君が?」
「うん。私も、なんか……ここに来たくなって」
言葉を失っていたのは、たぶん俺だけじゃなかった。
*
「ラーメン、作るよ。食べたいんでしょ?」
「えっ、でも……」
「覚えてるよ。あなた、ここの味、好きだったじゃん」
瑞希はそう言って、鍋に湯を張り、ガス台に火をつけた。
厨房から聞こえる水の音、器がぶつかる音、換気扇の唸り。
全部が、まるで時間を巻き戻すようだった。
「……俺、覚えてるよ。中学三年の終わり、お前が『このラーメン、きっとどこかでまた食べたくなる味だね』って言ったこと」
「そんなこと、言ったっけ?」
「言ったよ。俺、ずっと忘れられなかった」
彼女は静かに笑った。
そして、丼を一つ、温め始めた。
カウンター越しに立つ彼女の姿を、俺は何も言えずに見ていた。
世界が終わるというのに——こんなに胸がざわつくのは、どうしてなんだろう。
*
湯が沸騰する音と共に、店内に湯気が立ち込める。換気扇はかすかに唸りながら、蒸気と匂いを外に逃がしていく。瑞希が麺を一玉、軽やかな手つきで茹で釜に放ると、それだけでこの空間が“生きている”ような錯覚が生まれた。
彼女の所作は思いのほか自然だった。
「……前にバイトしてたとか?」
「ううん。違うよ。見てただけ」
「見てただけで、その動きできるか?」
「昔から、観察得意なの。ほら、あなたがスープ残すとき、いつもレンゲの先っぽだけ使ってたとか」
「……覚えてたのか、それ」
「忘れようとしてたけど、ね」
瑞希はスープの鍋に火をつけ、寸胴から白濁した豚骨スープを慎重にすくった。湯気の立ち上る姿が、彼女の頬を少し赤く染める。
「どうして、ここに戻ってきたの?」
「わからない。ただ……最後に何か食べたかった。それも、懐かしい味が良かった」
「君の家族は?」
「先に、実家に戻った。静かなとこで過ごしたいって」
「……怖くないのか」
「怖いよ。でも、きっと、食べることが怖さを忘れさせてくれると思って」
その言葉に、少しだけ救われる気がした。彼女は昔から、どこか肝が据わっていた。周囲が騒いでいても、ひとり平気な顔でノートを取り続けていた、あの頃の彼女のままだった。
「……あのとき、俺……何も言えなかった」
「うん。わかってたよ」
「卒業式の日、呼び出したくせに、何も話せなかった。ラーメン食べて、それっきりだった」
「そうだったね」
「ずっと後悔してた」
「でも、それで良かったのかも。あれが、私たちの“味”だったんだよ」
彼女の微笑みは、少し寂しさを含んでいた。
「もうすぐできるよ。……味、覚えてるといいね」
彼女が丼に麺をあけ、スープを注ぎ、チャーシューとネギ、煮卵を丁寧に盛りつける。
それはまるで、最後の儀式のようだった。
「——お待たせしました。笹塚くんの、いつものやつ」
カウンター越しに差し出された一杯。
その湯気の向こうで、彼女が小さく笑った。
箸を手に取り、一口すする。
熱い。
そして、優しい。
「……変わらない。まったく」
「でしょ?」
「でも、あの頃と違うのは……」
「私が作ったってとこ?」
「それもあるけど……味が、少し沁みるようになった」
彼女は照れくさそうに肩をすくめた。
「……ラーメンって、すごいよね」
「ん?」
「どうして、こんなときに食べたくなるんだろう。別に高級でもないし、家庭料理でもないのに」
「ラーメンは、なんていうか……“途中”の料理だから、じゃないか?」
「途中?」
「豪華でも質素でもなくて、特別でも日常でもなくて。人生の“通過点”みたいな味がする」
「……深い」
「そんなことない。俺たちの距離と一緒だよ」
瑞希はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと漏らした。
「——また会えるかな」
「明日がなければ、また会えない。けど、今なら会える」
「……じゃあ、今、会えてよかった」
器の底が見える頃、時計の針は午後11時を回っていた。
「そろそろ、帰る?」
「……やだ」
「え?」
「ここにいたい。君と最後のラーメン食べて、夜明けを待ちたい」
カウンターの奥、厨房の照明が少しだけ揺れていた。
外は、誰もいない。
ふたりだけのラーメン屋。
この小さな灯りが、まだあたたかく輝いていた。
*
午前0時を回る頃には、街の音がすっかり消えていた。
車のエンジンも、人の怒声も、救急車のサイレンさえも途絶えて、店の中は奇妙なほど静かだった。外に広がるのは、終わりを待つためだけの時間。
カウンターの上には、ふたりの空になったどんぶり。
残されたスープの膜が、静かに光を反射していた。
「もう一杯、作ろっか?」
瑞希が言った。
「え?」
「別に、誰にも怒られないし。明日なんてないんだし」
「……確かに」
ふたりで立ち上がり、厨房に入る。今度は、俺が鍋を洗い、彼女が水を張り、共同作業のようにラーメンの仕込みを始めた。
「……あの頃さ、話そうとしてたこと、あるんだ」
俺は水を流しながら言った。
「卒業式のとき?」
「うん」
「なんとなく、察してた」
「けど、言えなかった。お前が遠くに行くの知ってて、怖くなって」
「うん」
「……好きだった」
水音が、止んだ。
瑞希は黙ったまま、麺の袋を開ける手を止めていた。
「今言うの、遅すぎるのかもしれないけど。明日が来ないなら、今日しかないから」
「——私も」
「え?」
「私も、ずっと。あなたが何も言わなかったから、こっちも言えなかった。でも、ずっと好きだったよ」
鍋の湯が、グラグラと沸騰し始めていた。
「なんか、変だね」
「何が?」
「世界が終わる前に、やっと伝えられるなんて」
「でも、間に合った」
「……うん、間に合った」
ふたりで並んで麺を茹でる。
チャーシューを切り、ネギを刻む。
ラーメンができるまでの数分間に、過去の全部が詰まっているように思えた。
やがて、できあがった二杯のラーメンをテーブルに運び、対面で座った。
「乾杯、しようか」
「なんで?」
「最後の晩餐だから」
缶ビールをひとつずつ開ける。
缶のぶつかる小さな音。
「——ありがとう」
「こっちこそ」
ビールを少しだけ飲んで、ふたりで箸をとる。
ラーメンはさっきと同じ味だった。
でも、隣にいる人が違うと、まったく別の料理みたいに感じた。
「もし、世界が終わらなかったら、どうしてた?」
「きっと、またこうして食べてた」
「私は……言えないまま終わってたかも」
「そしたら、また後悔してたな」
「うん。でも、もういいや」
彼女の笑顔を、俺はずっと忘れないと思った。
やがて、時計が1時50分を指す。
「あと……40分ちょっとか」
「早いね」
「でも、長かった。今日という一日は、ずっと」
「うん、そうだね」
空になったどんぶりを見つめながら、俺たちは沈黙した。
けれど、それは気まずさではなく、静かな満足だった。
「……君に会えてよかった」
「私も。ちゃんと味、思い出せたよ」
「そっか。じゃあ、もう悔いないか」
「うん」
時計の針は、ゆっくりと進む。
ふたりはただそこに座り、互いの顔を見て、手を重ねた。
手のひらの温度が、どんぶりの湯気よりもあたたかかった。
やがて、電気がふっと落ちた。
街全体が、沈黙するように。
世界の終わりが近づいている。
でも、そのときふたりは、確かに“ここにいた”。
*
時計の針が、2時29分を指していた。
窓の外は、まるで時間が止まったかのように静かで、世界中が息を潜めて何かを待っているようだった。遠くで猫の鳴き声が一度だけ聞こえた。あとは、本当に、何もない。
「……あと、四分か」
俺がぽつりとつぶやくと、瑞希は微笑んでうなずいた。
「ねえ」
「うん?」
「最後に、お願いしてもいい?」
「なに?」
「手、握ってて」
「もちろん」
もうすでに重ねられていた手を、強く握り直す。
「……ありがとう。こんなときに、ここに来てくれて」
「俺のほうこそ。お前がいてくれて、よかった」
「ねえ、ラーメン……おいしかったね」
「うん。最高だった」
カウンターの隅で、時計が静かに“午前2時30分”を示す。
それからの三分間が、どこまでも長かった。
瑞希が、ふと何かを思い出したように言った。
「……もし、もう一度生まれ変われるなら」
「うん」
「今度は、ちゃんと約束しようよ」
「約束?」
「世界が終わらなくても、ラーメン一緒に食べに行こうって」
「……ああ、いいね。今度は、もうちょっとちゃんと告白してさ」
「それ、覚えててよ?」
「絶対に」
ふたりで見つめ合った。
最後の言葉を、交わすように。
「好きだった」
「好きだったよ」
午前2時33分。
小さな振動が、店全体を震わせた。
ふっと、窓の向こうが白くなった。
地響きのような低い音。まばゆい光。
誰かの名前を呼ぶ暇もなく、でも、確かに誰かの温度を感じたまま——
——すべてが、静かに、包み込まれていった。
*
翌朝、世界には太陽が昇った。
衝突は回避されたと、ニュースが報じた。地球の大気に突入した隕石は、途中で崩壊し、破片は無人地帯へと散ったという。
街には人が戻り、店のシャッターがまた開き始める。
だが、「一番星食堂」はそこにもうなかった。
看板は外され、窓には“貸店舗”の紙が貼られている。
ただ一つだけ、カウンターの奥の壁に、あの夜の名残が残されていた。
——空になったラーメンどんぶりが、ふたつ。
手を重ねるように、並んでいた。