醜い私を捨てたこと、“私は”許します。
応接室の中にいるのはオースティン公爵家の娘であるソニアとその兄のブラッド、それからソニアの婚約者であるオーガストだった。
オーガストは、兄のブラッドを一瞥してから、さほど気にしていない様子でソニアをまっすぐに見つめている。
その覚悟の決まった瞳にソニアは、静かにこの後の展開を予想していた。
「そろそろ本格的に挙式について考える頃になったが……私は君に言わなければならないことがある」
「……はい」
「婚約を解消したい。私は、もう十分、君に対しての恩義は尽くしただろう? もう開放してほしいんだ」
彼は腿の上に肘をついて手を組み深刻そうに告げる。
重苦しい雰囲気を醸し出しているが、ソニアはいつかこんな日が来るのではないかと思っていたのだ。
「いくら君が、私とともにいた時にその傷を負ったのだとしても、私がその咎まで背負って一生君を支えていかなければならない道理などないだろう?」
ちらりとソニアの目……というか顔についている歴戦の猛者のような一文字の傷を見てそれから目をすぐに逸らす。
……共にいた時というか、あなたをかばったことによって受けた傷だと私は記憶していますが……。
彼の出身であるダグラス侯爵家は貴族の中でも派手に立ち回り、多くの事業や投資に対し積極的に動く性質をしている。
あくどいことをしているかどうかはさておき、そういう性質上、敵が多くその跡取りであるオーガストは常に狙われてきた。
だからこその結婚であり、だからこそ彼にはソニアしかいないだろうと多くの人は言った。
しかし、それもまた正しい事実ではない。
彼は、知られていないと思っているのか将又とぼけているだけなのかわからないが、すでに良い相手がいるということは社交界ではしれた話だ。
「なにより、侯爵夫人が傷モノというのは外聞も悪い、君ならわかってくれるだろう? これまで、さんざんいい思いをさせてやったじゃないか」
言い募る彼に、ソニアは良い思いとは一体何かと考えた。
たしかにいくらかのプレゼントのやり取りや、楽しい思い出のいくつかも存在している。しかしプレゼントにはきちんとしたお返しもしたし、思い出は二人とも楽しんでいたと記憶している。
だからこそそういう発言にはつながらないと思うのだ。
小さく首をかしげると、彼はしびれを切らしたように続けて言った。
「俺の婚約者として優遇されて、そんな顔なのに虐げられもせず友人たちとも楽しく過ごせただろ? それに誇らしかったはずだ、爵位継承者の婚約者として」
「そう、ですか」
「なんだよその、歯切れの悪い言葉。事実だろ? だからもう、良いだろ。君は君の人生を歩むし、俺は俺で自分の望むように道を歩く」
「……」
「お互いに幸せになろう。俺はこのまま君と幸せになることはできないんだ。もう俺自身が幸せになることを許してくれ」
まるでソニアが悪者のような言い回しに、物はいいようだと実感した。
ふと視線を下げると、隣に座っている兄の膝に置かれている拳が見えて、強く握っている様子に、彼が酷く気分を害していることがうかがえた。
……たしかに、気持ちのいいものではありませんね。
私は、オーガストをかばってこの傷を負いました。
それは変えようのない事実で、それでもどうしても私とでは幸せになれないと悩んで、苦しんでそして誠実に離婚をすることになるぐらいならと、話を切り出したのなら話は違います。
しかし、事実はこうです。
あなたは、たくさんの浮気もしていたし、それを知ったうえで私はなにも言いませんでした。
それをいいことに、遊んだ女性たちには後腐れがないように婚約者がいることを引き合いに出したりもしていたそうですね。
そして結婚したくないほどに私の顔を忌避していて、開放してくれなどと口にする。
その様子は決して見ていて嬉しいことではありません。
ブラッドお兄さまが腹を立てるのもわかるし、ソニアも同じ気持ちだった。
「……なぁ、頼む。ソニア」
懇願するような声に、腹の奥がぐらぐらと煮立っているような心地になった。
けれども、ソニアは一つ瞬きをして自分の傷をそっと指で撫でた。
襲撃者にナイフで切られたその傷は毒が塗ってあり綺麗に水の魔法では治すことが出来なかった。
凸凹していて、醜いけれどももう長年顔についているので特になんとも思っていない。
むしろなんとなく撫でる癖によって少しだけ平静を取り戻せる。
そしてやっと言った。
「わかりました。”私”は許します」
「ほ、本当か! やっぱり君は物わかりがよくて助かる! ありがとう!」
彼はソニアのたった一言でぱっと表情を明るくしてハンサムでさわやかな笑顔を浮かべて、瞳を輝かせる。
その様子を見ていてもぐらぐらと煮立っている怒りはすうっと収まっていくだけで、彼の思う通りにしてやろうという気持ちになる。
隣から自らを落ち着けるように、ゆっくりと細いため息をつく兄の息づかいが聞こえてきたが、それについてだけは考えないようにしたいと思う。
ブラッドが言いたいことは、言われなくてもわかっているし、結局後で言われることになると思うが、ソニアは知っているのだ。
世界は広くて、ソニアの見ている世界など酷く小さくちっぽけなものだ。
ソニアだけが許しただけで喜んでいるこの男も、大きな力に抗うことはできないだろうし、ソニアがここで躍起になって彼を罰そうと考えることはおこがましい。
世界は必ずめぐるものだ。だからこそ、力のあるソニアは自分自身がそれを使いすぎないようにセーブする必要がある。
でなければ何か取り返しがつかないことを起こしてしまいかねないと思うからであった。
婚約解消についての話をまとめ、多少の慰謝料をもらい受けることになり、書類の作成はまた後日ということにしてオーガストは機嫌よく帰っていた。
しかしそれとは対照的にブラッドの機嫌は地の底につくほど悪く、丁寧にオーガストをエントランスまで見送ったソニアの手を取って振り向かせ、彼は責めるような目線をおくった。
「……」
「怒っているのですか」
「当たり前だろ」
身長の高い彼を見上げてソニアは申し訳ない気持ちになった。
ソニア自身はこうして自分の気持ちをいなすことに慣れているし、望んでやっていることだ、特に苦痛でもない。
けれども、彼が怒るのだってまた筋の通っていることであり、彼はソニアを溺愛しているといっても過言ではないほどの情を向けてくれている。
オースティン公爵や公爵夫人の代わりに、オーガストとの話し合いに付き添ってくれた。
そのうえでソニアの気持ちを尊重して、その場で彼に怒りを向けることなくきちんと堪えていてくれたのだ。
この人にはいつもソニアは頭が上がらない。
「ごめんなさい。けれど、私は……許すけれど……ブラッドお兄さまも許してあげるべきだなんていいません……私は」
誰の考えも、行動もさえぎるつもりはないのだ。それほどおこがましい事をするつもりはない。
けれども不快に思ったのならばと謝罪をして、彼の胸に手を添えて必死に見上げる。
すると彼は、ぐっと目を細めて苦しそうにソニアを見つめ、一歩近づいてそっと腕を回して抱き寄せた。
兄の胸元にすっぽりと収まると安心するような心地と同時に胸がどきどきとして心がキュウッと苦しくなる。
「違う。責めたいわけじゃないし、もちろん俺は許さない。それをソニアが強制してくるはずもないってわかってる」
上から降ってくる言葉は優しくて、彼がソニアの頭に頬を乗せてぎゅうっと大切そうに抱きしめていることが感触でわかる。
こうして欠かさず愛情表現をしてくれるところは、ブラッドのいい所であるが、実のところソニアはこうして歳を重ねて大人に近づくとそれが一概にいいこととは言えなくて悩んでいる。
「ただ……わかるぞ、ソニアがどうしてあんなこと言ったのか。なぁ」
言葉の途中で体を話されて、両肩に手を添えられる。兄はすでに怒っている様子はなくソニアに諭すように言った。
「君はたしかに、そういうふうに自分の気持ちを表に出すことを喜ばれない身分にあるが、人間なんだ。なにをしたって許される、俺は君が”そう”だからって特別、気持ちを抑えるべきだって思ってない」
「……」
「……聖女だって、当たり前のことを当たり前に怒っていいし、悲しんだり当たったりしてもいい、オーガストは正真正銘クズだろう。ああ、腹立たしい。俺のソニアを傷つけやがって」
「……」
「いいか? なにも女神さまだって、我慢させるために君を寵愛しているんじゃない、ただ助けたかったんだって俺は思う」
ブラッドの言葉に頷く、その言葉はソニアが考えていることから少しずれている。
なんせソニアは別に、そういうふうに言われてきたから……『因果の女神の寵愛を受けている聖女』だから感情を押し殺し、取り乱さないようにしているわけではないのだ。
けれども、その考えを誰かに強要するつもりはない。
ただ、この世はソニアの知らないことも多くソニアはちっぽけで何も分かっていないだから、何も言わないだけなのだ。
たとえば私が許しても神様が許さないでしょう……だとか。
許すことなど到底できない、それほどまでに酷いことをした……だとか。
そういうことは言えずに、ただ素直であるしかない。実直であるしかない。それは大きな流れに身を任せているようでそれはある種楽ですらある。
「今こうしてここにいるのは君だけだ、君の人生だろ。もっと豊かに生きてもいいんじゃないか」
それでも、そういうふうになって生きることを兄は望む。彼の言葉はいつだってシンプルでソニアの指標になってくれる。
そこまで言ってくれる彼に、ソニアの固い決意は揺らいで、それもそうかと思う。
これはピンチでもあるけれどもチャンスでもある。ここで何かが変わらなければソニアはずっとこれからもこのままだ。
兄の胸に再度飛び込んで小さく頷いた。
顔をあげると彼は静かにソニアを見下ろして、それからソニアの顔の傷をゆっくりお親指で摩った。長年存在しているそれをそんなふうに痛ましそうに見つめる人間などブラッド以外には知らない。
彼はいつだってソニアのことを優しく抱きしめてくれるのだ。
ソニアの薄い腹の上には煌々と光る聖痕があり、因果の女神の寵愛を受けていることを示している。
そのしるしを浴室の姿見で見つめながら昔のことを思い出した。
因果の聖女、その出現は歴史から見ても少なく、そしてどういう恩恵を受けているかについてはあまりにも不確定だった。
ただ名前から多くの人が発想するように、因果と言えば原因と結果のサイクルだ。
何かが起こったからその結果があるというように、女神さまの加護で、不道徳なことをした人間には天罰が下ったり、よくないことが起こったりするそういうものではないか、というのが聖女を統括している教会の見解だった。
だからこそ、ぎりぎりあくどいことをしていない、ダグラス侯爵家は息子を守るためにソニアとの婚姻を望んだ。
なぜかと言えば、ソニアと縁を持っているダグラス侯爵家の人間を仇なそうとすれば自分もただでは済まないだろうと容易に想像がつくからだ。
現に、婚約前の顔合わせでは、襲撃があったけれどもそれ以来ぱったりと襲撃者は襲ってこなくなったらしい。
それだけでも女神の恩恵、すばらしい事象だという人間もいる、しかし実際のところはそんなに素晴らしくわかりやすいものではない……とソニアは思っている。
湯船につかってまったりとしつつも自分のちっぽけさを知ったエピソードを思い出した。
ある時、街で平民の子供が過激ないじめられているところを見て、幼いソニアは正義感に任せて助けたことがあった。自分の立場もあまりよくわかっていない頃の話だ。
後日、いじめられていた彼や彼の両親からはお礼の手紙と助けた子供の作ったという可愛らしい木彫りが届いて、きっと女神さまの加護もあってこういう結果になったのだと思った。
けれども話はそれだけでは終わらずに、同じように街に顔を出した時、薄汚い子供たちがいて、多くの大人は彼らを無視して時には脅かして遊んでいた。
何事かと思えば、聖女の怒りを買ったとして彼らだけ村八分のような状態にされていて、目も当てられないような憔悴っぷりだった。
それを見て思ったことは、いったい女神さまの与える因果とは何だろうという疑問だった。
考えても考えても、何が加護なのか正しいものなのかわからない。
どう動いてもさらに起こる過ぎた出来事に、次第にソニアは踏み出せないようになった。わからないのならば動くべきではないと悟ったというか……学んだのだ。
今でもその気持ちは続いている。
なにもわからないちっぽけなソニアは行動を起こすべきではない、けれども兄の言葉が頭の中で反芻されて、難しい気持ちになって気がついたらのぼせていたのだった。
それから婚約解消をして数週間後、兄に呼ばれて彼の執務室へと向かった。そして兄は難しい顔をしてソニアに言った。
「今日は二つ! 報告がある、どっちから聞きたい?」
兄は喜びを隠しきれないといった様子でソニアに笑みを向ける。しかしどちらからと聞かれてもそんなもの急に答えが出るはずもない。
普通に良い事と悪い事の二つがあるどっちからと聞かれたならば悪い方から聞こうという気になるのだが、今のところ報告のどちらの情報もないのでソニアはうっかりしている兄に笑みを浮かべて返す。
「ブラッドお兄さまの言いたい順番で聞きたいです」
「…………じゃあ、オーガストのことからだな」
「彼の話ですか」
「ああ!」
自分から口にしておいて、兄は急に人相が悪くなり、機嫌も急降下だ。返事をした声に苛立ちがにじんでいて、ソニアは少し笑ってしまいそうだった。
「…………」
「…………?」
けれども声に出すのは控えて、小さく笑みを浮かべるだけにとどめる。しかし兄は難しい表情になって言い方に困っているような様子だった。
それからしばらくして小さく息を吸って、落ち着けるように吐き出してから、低い声で平坦に言った。
「先日何者かに襲われたらしい、その時に毒を顔にかけられ、命に別状はないが、酷い傷跡が残るらしい」
まるで本に書いてあるような感情のない事実だけを述べる言葉であり、ブラッドの気持ちが察せられた。
あれほど憤っていたとしても、兄は人の不幸を望むような人間ではない、怒っている相手でも笑うことなどない。そういう優しい人なのだ。
「……そうですか。それで、もう一つのことはなんでしょう」
続きを促すと彼は一つ咳ばらいをして、ソニアが執務室にやってきたときと同じように、堪えられないとばかりに笑みを浮かべて机に手をついて立ち上がり眉を下げて笑った。
「やっと、大陸を巡礼している癒しの聖女から依頼を受けてくれると連絡があった!! なんでも近くを通った時に婚約破棄の話題を聞いたらしい」
机越しにソニアに手を広げてブラッドはソニアを抱き寄せた。相変わらず愛情表現の激しい行動だが今日ばかりはそれも頷ける。
……酷く多忙で古傷を癒すために来てくださるのは、ずっと先になると言っていたのに……。
癒しの女神の聖女はどんな傷でも治すことが出来る素晴らしい力を持った聖女だ。
力の使い方も、自分がどうしたらいいかさえも分からないソニアとは違ってとても立派な同世代の聖女。
そんな彼女がソニアの為にやって来てくれるだなんてなんだか申し訳ないけれどもそれでも嬉しくて、ダメもとで依頼をかけてみようと言ってくれたブラッドにお礼を言った。
「ブラッドお兄さまのおかげです。依頼をしてみようと言ってくださらなかったらこういう結果にはならなかったと思います」
「ただ運が良かっただけだ。でも、よかった。君の顔の傷もこれでもう見なくてもいい」
机越しに体を引き寄せられて体勢がつらかったけれど兄の声が耳元でして、心底嬉しそうな様子に、ソニアは抱きしめられながら思った。
……いい方向に起こったことと、人を傷つける方向に起こったこと、私は何もしていなくとも結局二つの答えが出ました。
どちらも偶然とも、因果の巡った結果ともいえるもので……結局、そうなんですね。
「……」
「早速お祝いしよう! なにが食べたい? なにが欲しい?」
「……」
ぱっと体を離して問いかけてくる彼に、ソニアは答えることが出来ずに胸いっぱいに息を吸い込んだ。
ソニアが何をしてもしなくても、周りの状況によっても物事は変わって、世界はちっぽけなソニア以外のたくさんのことで動いている。
オーガストをソニアは許したけれども、誰かは許さず行動に出たのかもしれないし、女神さまはソニアが許しても、彼の不義理を許さなかったのかもしれない。
それとも女神さまも許していて、許したソニアをほめてくれたのか、だから救いを差し伸べられたのか。もしくは、不憫な聖女の話を聞いた癒しの聖女の気まぐれか、答えなど誰にも分らない。
動いても動かなくても、因果はめぐって結末はそこにある。
ならばと自分の気持ちを落ち着けるようにソニアは、小さく息を吐きだした。
目の前にいるブラッドは首をかしげて、どうかしたのかとソニアのことを見つめている。
……ならば、私はこんなに喜んでくれる人をもう二度と傷つけたくない。
私が傷つけばこの人も傷つくし、この人は”私”といることをなんの苦にも思わないし、恐れも抱かない。
「ブラッドお兄さま」
「なんだ?」
「私……」
因果の聖女などという、共に暮らすには厄介すぎる女を真に愛してくれている。
だからこそ、今、おこがましいとは思いつつも変えようと思う。
踏み出そうと思う。
ソニアが、自分の力を恐れて理解が出来ないと思ったのにはもう一つ理由があった。
それはこの、ブラッド・オースティンとの出会いがあったからだった。
オースティン家の子供は本来一人しかいない。ソニアはただの分家筋の子爵家出身だ。
ブラッドとは聖女としてきちんと聖痕が発現するまでの間、歳の誓い親戚筋として稀に交流を持っていた。
そこには父や母のぜひ公爵夫人にというささやかな野望があったのは否めない。
けれどもそんな野望を気にもせずに彼は良くしてくれて、さらには聖女として登録を受けて、父や母に売り払われ教会へとゆくしかないというときにはそんなことは不憫すぎると両親に掛け合って養子に取ってくれた。
そういう曲がったことが嫌いで、まっすぐに善良な人、傷ついたら悲しんでまっとうに愛して、怒ってもいいのだと諭してくれるソニアの兄。
ソニアは何もしていないというのに、こんなにいい人に出会って大切にされて、身に覚えがなさ過ぎて、因果なんてどこにもないだろうと思ってしまうぐらいだった。
「っ、私、顔の傷が治ったら、したいことがあります」
「なんだ、わがままか? なんでも言っていいぞ? 今日の俺は機嫌がいいから」
「手をつないで外に出たいです」
「ああ、久しぶりに街に買い物でも行くか」
「夜通しあなたのそばにいたい」
「何なら一緒に寝てやろうか? 昔みたいに」
しかし、必死に言う言葉も、妹としての甘えとして受け取られてうまく行為が伝わらない。
そのもどかしさにぶんぶんと頭を振って、それから、羞恥心をどうにか抑え込んで、感情を吐露するように言った。
「い、一緒にお風呂に入って、抱き合って眠りたいのです! こ、ここまで言えばわかりますか!」
「……」
「口づけをしてみたいとも、言ってお、おきます!」
必死に言うと噛んでしまって、途端に顔が熱くなって涙が瞳に滲んだ。
今までずっとずっと受け身で生きてきた。周りの出来事に抗わず、ずっと誰かに翻弄されるままだった。
けれどもそんな日々はもう終わりだ、こうして婚約を解消して彼に手を伸ばせるときなどもう二度と来ないだろう。
もう二度とないチャンス、これはオーガストがああして話を切り出してくれたからこそ手に入れられたものだ。怒りもあったけれども許せたのにはそういう理由があったのだ。
絶対に手にすることが出来ないと思っていたブラッドを望むことが出来る。
それはソニアにとって二度とない幸運だ。
この行動がどんな結末をもたらそうとも、ソニアはきっともう後戻りしない。
だから、どうか受け入れて欲しいと彼を見つめた。
ブラッドはしばらく黙って、一つ二つと瞬きをしてから「いいぞ?」と首をかしげてあたり前のように言った。
「というか、昔に言ったこと覚えてたんだな。ソニア、あの時のことだろ? もう少し君が大人だったら、嫁に取るって選択肢もあったのにって、ほら、君は小さすぎだったから、流石に問答無用で俺の嫁にするのも可哀想だって言ったこと」
「……」
「俺にも婚約者はないし、結婚するか。よしよし、お兄さまに任せておいてくれ」
平然と言い放つ彼に、逆にソニアの方が目を見開いて驚いてしまう。
はるか昔にそんな会話をしたことなど覚えていない。それで養子という選択肢だったという話も知らなかった。
ただソニアは兄然としてくれて優しい愛情で包み込んでくれている彼に、こんな感情を向けるのはおかしいだとか、困ったことだと思っていたし、言えば関係が終わり崩れることを覚悟していた。
そのうえでの行動だったのに、あまりにも平然と受け入れられて、兄のつもりでありつつも結婚もしてくれるらしい。
ブラッドの持つ愛情が巨大すぎて、ソニアは言葉を失ったまま、ソニアのそばに来る兄を見つめていた。
「顔が熱いな。そんなに緊張して、ソニアは小心者だな」
軽快に笑うブラッドはソニアの頬を撫でて、従者に結婚の申請書について準備の仕事を任せる。
何の気なしに頬に触れる彼の手が心地よくて、けれども混乱していて、とにかくまた抱き寄せられて、回らない頭で考えた。
額にキスをされて、目を細める。
この結末はいったいどこから始まった因果なのだろう。
オーガストと婚約解消をしたところから因果は始まっていたのだろうか、それとも、もっと前から? もしくはソニアが行動を起こしたから?
どれもこれも説明がついているとは思えない結末とブラッドの懐の大きさに、結局ソニアは途方もない気持ちになって、考えすぎるのはやめることにしたのだった。
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