第7話 家康の闇と世界の闇
慶長20年の4月。
そもそも征夷大将軍として江戸や駿府に座しているはずの家康が、ここ那古野に居る事が今の情勢を如実に物語っている。
表向きは息子の結婚を祝う為に来たとしているが、その実は。
半年にも満たない、先の大阪での豊臣勢との戦が和議となり、一応の鎮静化を見た。
ただ、勝利した家康は豊臣側にかなりの不利な処置条件を強いた事で火種は燻っていたと言えよう。
また、豊臣勢には行き場を失った浪人などがそのまま居座り、豊臣としてもそれを黙認していた。
そして、和議の約束を破り、不穏な動きをしているとの報を聞きつけ、こうして家康は出張ってきたというのが真実だ。
「しかし、なぜ豊臣の者達はここまで抵抗しているのだ?」
「そこはワシの、事の進め方が強引であった事もあるだろう。それに、ワシとしても野心は捨てられぬ故、それに反する者が居るのは必然でもありますな。」
「とはいえ、だ。だからと言って戦を起こし悪戯に人を消耗するというのは愚行ではないのか?」
「武蔵様から見れば、そのように写るのでしょうな。だがしかし……」
「まぁ、そこは儂としても懸念していた事ではあるのだが、此度の騒動、それだけではないのであろう?」
「まさにそここそが、最大の問題でもある……」
信長の死、そして秀吉の死、そして家康の台頭。
この流れを客観視してみれば、お家騒動も含め覇権の奪い合いが起こるのは必然なのかも知れない。
あの時、ジュピアとの死闘で実際に戦った人間というのはそれこそ極僅かな軍勢だけなのだ。
最前線で戦ったのは武蔵を始めとした“人にあらざる者”だったからだ。
その場に居た武将達は、人間同士の争いに虚しさを覚えた者が多かったが、その場に居ない者にはその実感はない。
その後の歴史が物語るように、武将同士の覇権争いは留まることを知らない勢いであった。
しかし。
そこには到底人間の発想、思惑とは思えない事柄も事実としてあった。
それが古の物の怪によるもの、という見方もあったが、そもそも物の怪がそんな人間同士の諍いに加担する事は無い。
事実、それらは人目を忍んで各地へとその身を隠したのだから。
「結局は、だ。奴は完全に消滅した訳ではなく、再び人に紛れて、という事か。」
「淀の方の変貌ぶりにその片鱗が伺える気がするのです。もっとも、それはワシだけが思った事ではある。」
「淀の方?」
「秀吉公の正室だったお方です。今豊臣が幕府に逆らっているのは、ひとえに淀殿の思惑ありきだから、なのです。」
「そう…なのか。」
「先の冬の戦にて結んだ和議を反故と言えるほどに放置したのも、淀殿の指示によるものだと聞いている。
それはまるで、自ら豊臣家を滅ぼし、戦乱の世を続ける為、にも見える。」
一度は天下を取った豊臣家、それを徳川に攫われたとあっては豊臣としても面白くは無いのだろう。
ただ、それにしても栄枯盛衰、いや盛者必衰ともいえるだろうか、その理は理解してはいても納得のいく物でもない。
まして権力という魔物に魅入られては、それも当然なのだろう。
「かくいうワシとしても、思いは同じと言えるでしょう。
野心や野望、権力欲は信長公以上に抱いていると自覚はしておるのです。」
「まぁ、それが人間ではあるからな。儂にはどうこう言う事もできぬがな。」
家康が抱く野望、それはある意味相反する者同士の融合でもあると言える。
徳川家の世襲による日本の統一と維持、そして戦を無くし太平の世を築き維持する。
力によって力を抑え、和によって和を維持する。
それは、ただ野心によっては成し得ない事、しかし、日和っていても成し得ない事。
これは、力を得た家康だからこそできる事かも知れないし、だからこそ家康も心を鬼にして事に臨んでいるのだろう。
「もしかすると、ワシにもジュピアの欠片が入ってきているのかも知れませんな。」
「まぁ、そうであれば家康、今ここにお主は立っておらんだろうさ。」
「それならば良いのですが。」
そんなやり取りを見て、伊織は思う。
これが、人間の持つ二面性なんだろう、と。
先般抱いた、人の世はこれで良いのだろうか、という疑問に対する一つの答え。
恐らくは間違いで、恐らくは正解なのかも知れない、と。
「家康様……」
「伊織殿、そなたの疑問は判り申す。しかし天下人たる者、時には悪鬼、いや魔王のような決断や振舞いも必要なのです。特に人間においては。」
「それが正しい事、なのでしょうか……」
「その正誤の判断は、恐らく誰も下せぬものかと。ですが伊織殿、その疑問は常に持ち続ける事こそが大事なのではないかな?」
「……はい。」
納得のいく話ではない、と伊織は思う。
がしかし、これが人の世、とも理解できる。
父である武蔵、いや、スサノオがなぜ地上界に時折こうして立つのか、そこに答えに繋がる鍵があるのかも知れない。
伊織は、この時世の不条理というものを初めて知ったのだ。
「伊織。」
「エイルさん?」
「貴方の疑問は、天上界の者も持っている疑問。だから、悩まないで。」
「エイルさん……」
「その答えはきっと、誰かが導き出す。でもその時この世界がどうなっているかは誰にも解らないかも。」
「でも、答えを見つける事だけはすべき、だと思うんだ……」
「そうだな。お主はそれができる存在なのかも知れぬな。」
恐らくは、それは途方もない時間がかかるモノだと、伊織も思う。
何せ数千年の時を過ごしてきた武蔵でさも、その兄天照や蛭児でさえも、その鍵すら見つけられずにいるのだ。
恐らくは、今後万年に至っても、答えは出ないかも知れないと、武蔵も伊織も感じてはいる。
ただ、答えは無いにしても、現実は理解できるし今目の前にある。
今はそれに対してどうするのか、を優先的に考え行動すべきだ、という結論に至るのは必然なのだろう。
「難しい話ではありますな。さて、武蔵様。」
「うん?」
「ワシは明日、京へと上ります。同行されますかな?」
「もちろんだ。儂、いや、特に伊織にはこの世界をくまなく見知りして欲しい。」
「わかり申した。ただ、その先は戦になる。そこは武蔵様、そなたに任せましょう。」
「うむ。伊織、良いか?」
「はい、父上。」
その時の伊織の瞳は、一切の曇りが無かったようだと武蔵は思った。
何となく、だが。
伊織は、自分達よりも辛く長い時間をかけて人の世をどうにかするのではないか、という気がした。
そして、それは伊織自身の意志によって現実の物となる事は、この時誰も知る由もないのだ。
ただこの時伊織は、少しエイルの表情が悲し気なものに曇ったように見えたのだった。