第2話 闇迫る日出る国
鍛錬も一休みとなり、住居にて昼餉を終え寛いでいる最中だった。
武蔵の元に、のっぴきならぬ一報が舞い込んできたようだ。
「そう…か。やはり……」
「すまぬなスサノオよ。ワシが行ければよかったのだがな。」
「まぁ、お主はもはや地上界へは還れぬのだろうし、仕方がないであろう。
いずれにしろ兄者達からも命令が下るであろうし、な。」
報せを持ってきたのは、かつて地上界にて“ヤマタノオロチ”と称され、一説では武蔵、いや、スサノオに退治されたとの伝承が残っているらしい。
その実は、スサノオとヤマタノオロチは何度もケンカはしたものの親友同士でもあった。
「そう言えばだが八岐、お主の娘はまだあの地に居るのであろう?」
「そうだな。逢えないのは寂しいが、あの子は衆のまとめ役として頑張っている事だろう。それだけで充分だ。」
「そうか…」
「父上、その話って……」
「うむ、これはな。」
八岐が持ってきた報せ、それは先日鍛錬の際に聞いた事らしかった。
武蔵が地上界を去って早30有余年。
地上界、いわゆる人間の世界における日本は今、再び戦国時代真っただ中の混沌とした情勢と同じ状況に陥っている。
その戦国時代の中期に、武蔵は一時地上界で過ごした時期があったのだ。
織衣を失い、伊織を養子としたのはその時であり、その後当時懇意にしていた織田信長の元を去ったのだ。
その時、戦国の世に紛れ人間の悪意を糧としていた存在が居た。
人間には理解できない存在。
織衣を犠牲にし、双子の我が子をも失いながら辛くも消滅させたその存在が再び現れたという報せだった。
混乱極まる戦国の世、それがその存在を引き寄せたのだろう。
信長が思い描いた希望、いや、野望はその存在をこの日本に呼んだのかも知れない。
ばかりか、その野望はいささか信長本人の思惑から逸れたと言って良い。
信長が提唱した天下布武、それは太平の世を築く礎となるはずだったのだ。
しかし、その存在はもとより人間本来の業によるものなのだろう、糾える縄は綻びが生じ、欲によりいがみ合う事が常となってしまった。
兄弟同然である信長の家臣、藤吉郎と竹千代、その二人も結果として仲違いするまでになっていた。
「だが、儂が出向いた所でアレのみを排除する事は難しいのではないか?」
「そこはワシも何とも言えぬが、なぁ…」
「父上、アレとは何?」
「お主にはまだきちんと話ていなかったな。アレとは…」
戦国の世に紛れ人間の悪意を糧としていた存在。
およそ人間には想像もつかない、悪意の塊であり悪意を糧とし、悪意を膨らませやすい人間を蹂躙する存在。
そして、執拗に女神と称されている存在を食らう為に狙っていた強欲の塊。
それは“ジュピア”と呼ばれ、あの時武蔵と大陸の神々と称される者との共闘により殲滅したはずだった。
結局、それはまだ残滓があった、と言う事なのだろう。
いや、再び現れたのかも知れない。
あの存在は、その元凶は人間が持つ悪意そのものだという説もある。
それだけ人間の業は深く、地上界は混沌としている証でもある。
「それはな、儂をもってしても退治するには厳しい存在だったのだ。」
「父上が苦戦する程の存在……」
「ワルキューレと呼ばれる者達の助力無しでは到底殲滅しえなかった。おまけに織衣にも害が及び、八島と大年も狙われた。」
「ヤシマとオオトシは逃げおおせたのではないのですか?」
「そう聞いてはいるがな。儂も織衣も、兄者達でさえその行方は解らぬ。ただ、生きている事だけは確かであろう、とだけ聞いたのだ。」
伊織は、実の所その存在の事は実感できないでいる。
何せ、その時はまだ赤子であったし、武蔵の養子となって数か月という短い月日を経てこの世界へと来たのだから。
今の地上界、日本の状況でさえ実感はわかない。
ただ、そんな悪意が当たり前の混沌とした地上界で自分は産まれた、という事だけは理解できていた。
その善し悪しは判断がつかない、しかし、それが何を意味するかを考えるきっかけにはなったと自分でも思っているようだ。
「父上、人の世というのは、未来永劫変わらぬのでしょうか。」
「なぜ、そう考える?」
「何故かはわかりません。でも、それで良いと、それが自然だとは思えないのです。」
「お主であれば、そう思うのも当然なのかも知れぬな。が、しかし、だ。」
「なぁ伊織君、君がそう考えるのはわかるが、今はその人の世を根底から捻じ曲げる存在を殲滅する事が急務なんだよ。」
「オロチさん……」
「その存在を排除せねば、人の世の安寧などその礎すら築けないと言えようぞ?」
「そうだな…それ故、儂は出向かねばなるまい。」
「な、なら!父上!」
「……言うな伊織。いや、言わずとも、だな。」
「は、はい!」
そんなやり取りを、優しく、それでいて悲しく見つめる織衣。
織衣には何となくだが、こうなる事を理解していた節がある。
いずれこの子は世界の命運を背負って過酷な時間を過ごすのではないか、という予感だ。
その事は武蔵にも伝えてはいた。
それ故に武蔵は伊織を鍛え、自身が持てる知識や剣術の全てを教えているのだ。
「八岐、儂は伊織と共に、再びあの世界へと出向く。」
「すまぬ、スサノオよ……」
「織衣、出立の準備ができ次第発つ。すまないな……」
「いいえムサシ様、それがあなた、ですもの。」
「ミキノスケの事も押し付けてしまう事になるな。」
「ふふふ、それもまた私の役目ですのも、ね?」
その後、準備を終えた武蔵と伊織は地上界へと旅立つことになった。
見送りには武蔵、いや、スサノオの兄である蛭児も来ていた。
「手間を掛けさせてしまうな、スサノオ。」
「兄者、それは良いのだ。長兄との約束でもあるし。で、長兄は?」
「あー、まぁ、忙しいってのもあるが、お前に会いづらいってのもあるかもな。」
「何をかいわんや、だ。儂はもはや何も思う所は無いと言うのに……」
「まぁ、な。ただ、どっちかっつうとお前よりもウルズに、かもな。」
「あー、それなら何となくは理解できるが、な。」
武蔵の兄、蛭児と天照。
大昔に武蔵と天照は兄弟喧嘩をして天照は武蔵を放逐した事が有る。
その理由は諸説あるらしいが、その実はウルズとの仲にあった。
この世界を事実上統べる管理者の一人である天照は、端的に武蔵とウルズの接触を危険視していたからだ。
結果としてそれは現実のものとなり、とある存在を呼び寄せたばかりか、ウルズを殺め、武蔵とウルズの双子、八島と大年を失う事になった。
それ故に、一応の和解はしたものの、蟠りは残っている、と言う事なのだろう。
家族思いの強い天照ゆえ、なのだと武蔵もそこは理解していたのだ。
ただその一連の出来事は、遠い遠い未来の安寧への布石となったという事実を、今現在の武蔵や天照には理解できないのは仕方がない事である。
「伊織もだいぶ立派になったしな、お前にとっちゃ里帰りでもあるだろ?」
「そうですね蛭児叔父。でも、俺はそんなに地上界の記憶ってないからなぁ…」
「あはは、まぁ、思う存分見分してくるといい。場合によっちゃ、ここには戻ってこないかもな。」
「おいおい、変な言霊をかけるなよ兄者。」
「すまんすまん。ただな、兄者も言っていたが、伊織は……まぁ、いいか。とにかく頑張れよ。」
「??……はい。」
「さて、では行ってくる。」
「母上、蛭児叔父、オロチさん、行ってきます!」
こうして武蔵と伊織は、天上界と呼ばれる世界を発ち、地上界へと旅立ったのだった。