第19話 東進、結城街道
大阪を発ってから3日目の夕刻近く。
中山道最大の難所、碓氷峠を越えた所で休憩となった。
「伊織、足……」
「あー、食いついてるね。ちょっと気持ち悪い絵面だなぁ……」
伊織の足には山ビルがびっしりと張り付いていた。
エイルも同じである。
あれだけ速く走って峠を抜けたと言うのに、いつの間にかこうして食いついているというのは不思議な感覚だ。
山の忍者、と言われるのも何となくだけど理解できると伊織も思う。
もっとも、伊織やエイル、武蔵に張り付いた山ビルは吸着するだけで血を頂く事はできない。
なぜなら、伊織達の皮膚を喰い破れないからだ。
ライフルの弾丸さえ防いでしまうほどだ。山ビルや蚊、あるいは蜂など何ともないのだろう。
白蘭が持っていた線香で山ビルを落とす。
半蔵達も同様で山ビルを線香で落とすが、しっかりと食いつかれたようで血が滴っている。
「さて、血も足りなくなりそうですな。ここいらでメシにしましょう。」
そう言って半蔵と佐助は、塩漬けにした肉の塊を取り出した。
碓氷峠の入り口近くで襲ってきたツキノワグマを仕留めた時の肉だ。
これ以外のモノは地元の人に譲って、肝と肉だけを切り取って持っていたのだが、結構な重量だったと思う。
隠密行動という事でもないからか、少し開けた場所で熊肉を焼いて食事とした。
単純に串刺しにした肉を火で炙って塩をまぶしたものだが、少し強い獣臭はあるものの肉そのものは濃厚で旨かった。
小腹を満たし一行は東へと進んでゆく。
もう殆ど平坦な平野部を進むため、その速度はこれまでよりもかなり早かった。
とはいえ高崎、伊勢崎、足利、佐野と進み小山まで来た所で、時刻はすでに日付を跨いでいた。
目的地はもうすぐなのだが、ここまでの疲れもあったのだろう、小山の宿で休む事になったようだ。
この時代、こんな時間に訪ねてくる旅人を受け入れてくれる宿など無い。
無いのだが、この木賃宿はすんなりと一行を迎え、それどころか夜食まで提供してくれた。
「この宿、何かわかりますかな伊織殿。」
「ここ、もしかして忍衆が営んでいる宿なんじゃ?」
「ははは、流石ですな。ここは忍びを抜けた、いわゆる抜け忍がやっている宿でしてな。某のような忍び御用達の宿なのです。」
「へぇー……あ、じゃあ、潜んでいる人が居ないのもそれで、と言う事ですか。」
「鋭いですな。ここは潜める場所がない、そういう造りになっているのです。もっとも、必要が無い、というのが本当の所ですが。」
言われて伊織は改めて宿の部屋を眺めてみた。
天井は微妙に高く、部屋を隔てる壁に木材が見えない。
続き部屋になってはいるが、それを隔てる襖は透明なギヤマン(ガラス)で、閉めていても双方が見えるようになっている。
この時代、相当高価なギヤマンをこうして使っているのは、他に例がないんだそうだ。
「はー……へぇー……」
言葉もなく、好奇な目で室内を眺める伊織。
こうした建築物に特に興味は無かったのだが、何となくこうした建造物の事も知りたいと思った様だ。
翌朝。
一行は宿を発ち、奥州街道から東に逸れ、水戸へと続く街道、結城街道を東進した。
小山からは走る事もなく、ゆったりと結城街道を遊山とばかりに歩いている。
当然、白蘭もおんぶの必要がなくなったので自力で歩いているのだが、なぜかその表情は寂しそうではあった。
鬼怒川の手前には結城城の城下町があり、朝というのにそこそこ賑わっている。
ここは織物が盛んで後に“結城紬”として有名になるのだが、高級で高価な物ゆえにこの時はまだそれほど名は広まっていない。
しかし、その織物は見る者が見とれてしまうほどの見事な反物となって、軒を連ねる呉服屋に陳列されている。
と。
伊織とエイルは、一軒の反物屋で思わず足を止め一本の反物に見入っていた。
藍色に染められた絹で織られた平織の布。
織物特有の縦横の糸目が目立たず、かといって固められた風でもなく、しなやかな感じもするが強固な感じもする。
そんな不思議な反物を、じっと見ている伊織に店主が語りかけてくる。
「旅の方、なかなかの目利きでございますな。この反物が気になりますか?」
好々爺とした感じの、やり手とも業突張りとも見えない、年嵩の店主。
やんわりとした笑顔は嫌な感じもせず、店の主人としての威厳もそう感じられない。
他の呉服屋が賑わっているにもかかわらず、この店は何故か人が少なく、それ故にこの反物が目に入ったのだが、それにしてもこの店は繁盛しているようには見えなかった。
店の前には“四月一日屋”という屋号か書かれた幟がある。
「あ、い、いえ…そうですね、少し、気になります…」
「お目が高い。なるほど半蔵様のお連れ様でしたか。」
「久しいですな、四月一日殿。」
「お主だったか、久しいな。」
「おお!それに武蔵様まで!」
どうやらこの店主は知り合いらしい。
聞けばこの店主、四月一日藤右衛門と言うらしく、一時は戦で武功を立てた程の兵で忍衆にも加わったほどだったらしい。
甲斐の国の出だが、実家の蚕の養殖と絹づくりを継ぎ、20年程前にここ結城へと進出したそうだ。
伊織はなるほどここでは割と新参者故に、他の店程客が付いていないのだろうと思った。
がしかし、実際はそうではなかったようで、主な顧客は近隣の大名や名のある武士なので、店頭での小売りはそれほど力を入れていないんだそうだ。
殿様商売のようにも思えるが、店の構えや接客態度を見ると、そんな感じは一切しない。
そこに微妙な違和感を覚えたのは仕方がないのだろう。
後で半蔵から聞いた話なのだが、この店では古着を仕立て直して格安で売る別店舗も持っているんだそうだ。
伊織達が見入っていた反物。
無造作に店頭に並んでいたそれは、値札を見ると他の反物の数十倍の値が付けられている。
地元藩士どころか大名でさえ手が出せない値段だ。
「藤右衛門、この反物、売る気がないのか?」
「ふふふ、半蔵様。そのような事を言ってはいけませんな。これを売る気など、はなから有る訳がございません。」
「変わらぬなお主も。とはいえ、これは見事な布だな。」
「この絹織物はここ結城で紡がれた逸品です。これが切れ端なのですが、見ていて下され。」
そう言うと店主は、サンプル品なのかこの反物の切れ端を持ち、どこからか取り出したクナイで布を切り裂こうとした。
が、布はクナイを通す事もなく、綻びすら無かった。
「ほう……」
「え?すげー……」
「帷子?」
伊織とエイルが驚くのも無理はなかった。
絹織物がそんな頑丈なわけがないからだ。
がしかし、事実として布は何ともなく、クナイがナマクラなのかとも思ったが、見ると手裏剣のように刃が鋭く研がれている。
そもそもクナイは大工道具を改造した万能道具で、忍術では主にナイフ代わりに使用する道具だ。
そのクナイがこれほど切り味鋭く綺麗に研がれている事から、この主人も相当の手練れだという事がわかる。
そしてそのクナイと使い手が突こうとしても綻び一つ無いこの絹が、普通ではない事を如実に表していると言えよう。
「実はですな、この反物は普通に着物を作る為の者ではありません。」
「というと?」
「ふむ、あなたは見た所武蔵様の身内の方ですな。」
「観察眼も健在だな藤右衛門、この子は伊織、儂の子だ。」
「おお、伊織様でしたか!話では聞いておりましたが、そうでしたか。ならば、おい!静や!」
藤右衛門が言うには、この反物は繭の段階で普通ではなかったそうで、繭から糸にする時もかなり往生したという。
おおよそ考えられる絹とは別物のような糸で、その糸を反物に織る時でさえ相当な技術と手間を要したという。
「半蔵殿は羽黒へ向かうのですな?」
「うむ、そうだな。」
「では、この反物で伊織様と、えーとそちらのご婦人に衣装を仕立てましょう。出来上がりましたら羽黒のあそこへお届けします。」
「あ、いや、藤右衛門よ、儂らにはそんな金子は……」
「お代は頂きません。この絹は私共の魂そのものです。それに相応しいお方が目の前にいるのですから献上するのは当然です。」
「お館様、お呼びでしょうか?」
「静や、この方達の採寸をしておくれ。金剛反を使うから、それ用でな。」
「はい、かしこまりました。ではお二方、こちらへ。」
そう促されて、伊織とエイルは奥の小さな間へと案内され、数十分後に出てきた。
聞けば、静とやらは目で見ただけで採寸できる特殊な才能をもっているらしい。
とはいえ、作る衣装が特別とあればやはりきちんと測るんだとかで、計量紐できっちりと採寸した。
そんな一幕もあった結城を発ち、鬼怒川を渡し舟で渡り、下館、門井、上野原、青柳と結城街道を東進し、夕刻前には羽黒へと到着した。
羽黒山越えに備えての宿場町、羽黒。
奥州街道から水戸までの中間地点でもあり、わりと賑わっている宿場町だ。
「さて。もうすぐ目的地です。ここから南へ行った所が、これからの本拠地となります。」
「ふむう、長閑でいい所だな。半蔵の父君がここに、か?」
「はい。あの山、加波山の麓の猿田という村に居を構えております。」
「猿田、か。もしや佐助の?」
「いえ、某は無関係です。実はあそこには猿田彦様を祀る神社がありまして、それが由来かと。」
「ほほう、猿田彦をか。」
結城街道から逸れ加茂部村を抜け、加波山に通じる一本道を南下していく一行。
既に陽は落ちかけ、薄暮の中稲が植えられたばかりの田んぼの道を進むと、何時しか加波山の麓の村に着いた。
山への入り口だからなのだろうか、しばらく緩やかに上る坂道を進んでいくと、一際開けた場所に一軒の館が姿を現した。
農村の農家にしては大きく、しかし造りはそれ程頑丈そうでもなく、何となく不思議な家だった。
「さあ、着きましたぞ。」
半蔵がそう言うと、一行めがけて数名の集団が襲い掛かって来た。
主に目標は半蔵のようで、武蔵や伊織、エイルには向かってこない。
こないのだが……
その集団に居た一人の老人だけが、武蔵達、いや、エイルと白蘭の目の前でじっと二人を見ていた。
「ま、参りました!」
その声に半蔵の方を見ると、襲い掛かって来た集団は半蔵に頭をどつかれたのだろう、頭を押さえてそう言った。
「まだまだ半人前じゃないか。それで某に挑むなど自殺行為だ。まったく。」
「ふむ、腕は鈍っておらんようじゃの。」
「じゃの、ではないぞ父上。手荒い歓迎は良いが、駒を間違えるとおおごとになるではないか。」
「まー、そうは言ってもな、この地の有能な若者は皆村を出て行ってしまうからな。ところで。」
その老人は武蔵達に向き直り告げる。
「お久しぶりでございますな、武蔵様。そしてこちらの者が?」
「久しいな半蔵。うむ、我が子伊織だ。そしてそちらのご婦人はエイル殿。伊織の……妻だ。」
「!!ち、父上!?」
「……妻……」
「ほッほッほッ、なるほど、そう言う事でしたか、いや、無礼を働いてしまいましたね、許して下され。」
半蔵の父。
つまりは先代の“服部半蔵”であり、その名は正成と言う。
後世に広く知られている服部半蔵は彼の事であり、今は名を捨てここで静かに暮らしている。
とはいえ、彼ほどの者が名を捨てたとはいえ知られていない訳がなく、従ってこの地であろうと静かに暮らせる訳もなく、未だにその身は忙しいようである。
ちなみにかなりの好色家でもあり、エイルと白蘭を見ていたのは単に見惚れていただけだったと、後に本人から言われた。
武蔵がエイルを伊織の妻、としたのも、言ってみれば予防線のようなものである。
「さぁ、長旅でお疲れでしょう。どうぞ中に入って楽にしてくだされ。今宵は猪肉がたんまりあります故。」
そう促されて、伊織達はその館へと入り、絶品の猪鍋で歓待されたのだった。