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 約束の日。

 磯松父娘は、ひんやりとした恵比寿屋の土間に立った。

 磯松は紋服の羽織袴、娘のおとしは結いたての桃割に古着の振袖。これはふたりの舞台衣装である。

 栗色に光沢を帯びた薬箪笥の前で帳簿を繰っていた番頭が目ざとく見つけ、

「大番頭の治助と申します。お話は承っております。奥に用意いたしましたので」

 下げた頭のよく撫でつけた鬢が珍しいほど赤茶けた色をしている。

 土間には薄荷の清涼な香りが満ちていた。薄荷は薬種問屋恵比寿屋の特許、痰切り薬ズボウトウの主成分で、これはさまざまな薬草を水飴に練りこんだ、今でいう喉飴である。

 この年、江戸では風邪が大流行したこともあって、今しも恵比寿屋の店先は、この喉薬を求める客でごったがえしていた。

 奥の南蛮風の客間では、お美祢が今や遅しと待ちかねていた。

 阿蘭陀商人らと商談するときにでも使うのだろうか、どっしりとした紫檀の卓と対になった腰掛には複雑な蔦模様が彫りこまれ、象嵌をほどこした煙草盆や並べたギヤマンの杯が薄暗い室内でも光を放っている。

 磯松はそれだけでも圧倒される思いがした。

 磯松の首くくりは小屋掛けの見世物だから、おおざっぱなものである。いつもは書割にくくりつけた松の大枝に荒縄を掛け、首のあたるところにだけ、擦れないよう晒しを巻いて使っている。

 磯松は座敷を見回し、言われるまま、天女の透かし彫りのある欄間に縄を掛けることにした。

 万一の場合にそなえ、大番頭の治助も座敷の片隅に控えている。

 磯松は、おとしがいつものように小刀を帯にはさむのをしっかり確認した。

 こうして緊張しながらも、磯松は、口上まで含め、いつもの芸をいよいよ披露することになった――

 さて、その晩のことである。

 ことが滞りなく済むと、恵比寿屋の妻女も涙をこぼし満足の態で、せめて供養にと酒宴の支度がなされた。

 遅くなるので娘のおとしは早々に先に帰し、妻女と番頭の治助がしきりに磯松をもてなした。

 お美祢が、

「彦太郎はどうでした? なにか言っておりませなんだか? あちらで寂しがっていたのでは……」

 と、膝を詰めるようにして問いかける。

 磯松はいつもに似ず、目も伏せがちに言葉を選びながら、たった今、あの世とやらで見てきたものを訥々と話した。

 自分は嘘を言っているわけではないと磯松は思った。少なくとも全部が嘘だったわけではない。

 恵比寿屋の女房は、

「そうですか、機嫌よくしておりましたか。せめてあの子の声だけでも聞きたかった……」

 と、潤みがちの目を細めた。

 番頭にすすめられるまま酒盃を重ね、磯松が恵比寿屋の屋敷を辞したのは、日もとっぷりと暮れた頃であった。

 駕籠で送らせるというのをことわって、下がり藤の家紋の付いた提灯を借り、磯松はひとり、酔いにふらつく足で帰路についた。

 人通りはとうに絶え、暗い夜道がまっすず続いている。

 犬の遠吠えが尾を引いて消えた。

 磯松はときどき懐に手を入れて、いただいたばかりの金子の包みを確かめた。厚みからして思ったより過分に頂戴したに違いない。

 もとより死んだ子に会えるわけなどないのだが、恵比寿屋の女房は磯松をすっかり信じこんでいる。いずれまたお声がかかるだろう。もちろん自分は喜んで参上する。

 なんとでも言ってやればいいのだ。どうせ、あの世を見た者などいやしない。これなら、まだまだ……。思わず磯松の口元がほころんだ。

 本通りは大八車のわだちだらけで、提灯の灯りばかりでは足元が危ないほどだ。

 なに、道に迷うことがあるものか。

 けれど、思ったよりふらつくのは酔いのせいばかりではないような気もする。

 首を左右に倒すと、骨が妙な音をたてた。

――今日は長く吊りすぎたか?

 思い返すと、汗ばんだ肌に鳥肌が立った。

 あの瞬間、首がくびれて、鴨居のきしむ音がした。そこまでは常と変わらぬ。

 いつもなら、それから先は意識が途切れ、次に気づくのは舞台に落ちたときである。それが今日は、いつまでたっても意識が消えず、かといって床に足もつかなかった。

 ぶら下がったまま磯松はいつの間にか、天井に近い戸頃から吹き抜けに、座敷を見下ろしている自分に気づいたのである。

 鴨居から人形のように手足をぶら下げている自分が見えた。ぶらぶらと前後に揺れる体を、おとしが細い腕で懸命に支えている。

 それを驚愕の表情で見上げる御新造のお美祢と、握りこぶしを膝に置く大番頭の赤茶けた髷が見えた。

 鴨居にぶら下がった磯松の体が揺れるのは強風のせいだった。こんなことは始めてだ。

 座敷の中だというのに、面をそむけたくなるほどの熱風がどこからか吹いてくる。子供の名を呼ぼうと口を開けると、砂混じりの熱い風が猛烈に口中に吹き込み困難をきわめた。

 熱砂の吹き荒れる中、やっとの思いで目を細く開くと、夜が明け染めたほど淡い光の向うに白い砂浜が見えた。乾いた砂山が起伏を描き、地平線まで続いている。それが覗きからくりに似て奇妙な遠近感があった。あれが彼岸というものであろうか?

 仏画や説法に聞く極楽や地獄とまるで違う。もしや一瞬意識を失ったとき、短い夢でも見たのだろうか? しかし、あんなところで子供の姿を探すもなにもあったものではない。それでも懸命に彦太郎の名を二、三度も呼んだような気がする。

 そのうち、吹きすさぶ砂嵐で息が詰まり、おそらくそのまま昏倒したのであろう。気がついたときは、おとしに介抱されていた。

 思い出しているうちに、磯松の酔いも醒めてしまった。

 ふときがつくと、口中に砂がざらつく。飲みすぎたせいか、やたらと喉が渇いた。

 磯松は道端に威勢よくつばを吐き、提灯を突き出して夜道の先を急いだ。

 提灯の灯りがまたたくと、両側の土塀や家々の軒をくまどる影がひらめき、あたりが別世界のように様変わりする。

 黒土蔵の続く通りを曲がると、あとは長屋のある住吉町まで一本道である。

 月のない晩で、どの家もとうに寝静まり、あたりは隅を流したように真っ暗だ。手にした提灯の灯りだけが薄ら赤く、羽虫が数匹、火を慕ってちらちらと飛び回る。

 でこぼこな足元に注意しながら、つきまとう藪蚊を片手で払い払い、磯松はふと違和感を覚え立ち止まった。

 片方の袂をひっぱって傾けると、八つ口からさらさらと白い砂がこぼれ落ちる。

 酔いもすっかり醒め、背筋のあたりがぞくぞくと冷え始めた。磯松はおどおどと辺りを見回した。

 どこかでぴしゃぴしゃと水音がする。

――野犬が水でも飲んでいるのか?

 江戸の野良犬は皆狂犬である。明け方など群れをなして危険きわまりない。女子供を襲うことも間々ある。

 磯松は提灯をかざした。

 灯りがわずかに届く数間ほど先。行き止まりに天水桶がある。

 そのふちにしがむ格好で子供がいた。それがどうやら水をすすっているらしい。

 天水桶のふちに、頑是無い子供の手がとどくはずがないのだが、その辺は暗くてよく見えない。

 どこか近所から、寝ぼけて起き出してきたものか? 親はいったい何をしているのだ。

 それでも相手は子供と知って、磯松はほっと声をかけた。

「これ、坊、そんな水を飲んではいけない」

 子供は聞こえぬふりで、暗い天水桶に顔を突っ込んでいる。

 近づくにつれ、その虻蜂蜻蛉の頭が赤茶けているのに気がついた。子供の兵児帯にさした赤い風車がからからと音たててまわった。



(了)




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