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 文政二(一八一九)年の秋口、両国広小路に首くくりの見世物がかかった。

 演者は磯松という五十格好のいい年をした男で、十二、三の女の子が介添えをした。娘だという。

 見世物自体はさして芸もなく、口上を述べた磯松が、書割にこしらえた松の大枝に縄を掛け、首をくくるだけのことである。

 だらりと父親がぶら下がると、頃合を見はからって、娘が手にした小刀の鞘をはらい、縄を切って落とす。

 それでけっこう物好きな見物を集め、なかなかの当りをとっていた。

 小屋は(こも)や垂れ幕で囲っただけの簡素な見世物小屋である。木戸銭は二十四文で、当時歌舞伎の仕切り席で一六二文というから比べ物にならないが、銘酒一合飲んだくらいのかかりである。庶民にはそれくらいの娯楽だったのであろう。

 興行はすでに三十日におよんでいた。

 さて、この見世物の見せ場といえば、もちろん首吊りなのだが、その瞬間に沸き起こる見物のパニックが、もうひとつの見ものであった。

 磯松の体が宙に浮くや、見物席は一瞬静まり返り、続いて悲鳴、怒号が小屋を揺るがすごとく響きわたり、失神する者なども出るありさまである。

 わざわざこれを見るために二回三回と通う者がいる。

 その中に瓦版屋の音治がいた。

「それが、な、こう踏み台を蹴倒すと」

 音治は手をぱたりと落とし、首をうなだれて見せる。

 昼間のこの時間、居酒屋ちゃぶ屋はまだ閑散として、音治のほか客はない。

 奥の流しで、主人の源蔵が晩に出す煮物の下ごしらえをしているらしく、包丁を使う規則正しい音が聞こえるばかりだ。

「いやだ、音さん」

 向かいに腰掛けたお美代が、盆を胸に抱くようにして黄色い声をあげた。

 卓には、今しがた音治がすませた遅い昼餉の丼と箸が乱暴に転がっている。

 瓦版屋はそうきちんきちんと世間様の自分時に食事を摂るわけにもいかない。

 音治は流行の縞柄の襟元を直し、聞き手のお美代が卓の上に身をのり出すのを待って、声を落とした。

「磯松は、日に三度舞台に立つんだ」

 じらすように間を置いて、

「日に三度」

と、ささやき、

「――首をくくるんだぜ」

 言って、女の反応をうかがった。

 そこへちょうどお店者らしいふたり連れが入ってくると、

「いらっしゃい」

 お美代ははじかれたように立ち上がった。

 音治は冷めた茶の残りを一息に飲み干し、飯代を音たてて卓に転がすと腰を上げた。

 あわてて見送りに来たお美代の細く白い首筋に唇を寄せて、

「それで今から、その磯松に会いに行くんだ」

 と、音治は薄い唇でささやいた。



 首くくりの磯松は屈託のない男で、音治の質問にも臆せず、あっけらかんと答えた。

「皆さん、まずそうお聞きになりますが、なに、存外気持ちのよいものでしてな」

 その声が、ひどくしゃがれているのが気になった。喉首を絞めると、あのように声が変わるものだろうか。

 見世物小屋の舞台裏では息が詰まりましょうと、外に縁台を置き、磯松の娘が麦湯を出した。

 このおとしという娘はほとんど口も聞かず、父の隣につくねんと小さな背中を見せて座っている。こんな小娘に命をあずけて不安ではないのだろうか。

 音治の心を読み取ったか、

「この娘はこう見えてもなかなかしっかりしておりましてな。もう丸一年、あちこちで演じておりますが、仕損じたことはありません。もっとも仕損じていたら、私もこうしてはいられないわけで」

 と、磯松は屈託がない。

「首を吊った瞬間は、血がわっと頭に上りますが、その後は肩の力も抜けて楽になります。肩こりなどにもよいようでございますよ」

 瓦版に書き立てられれば、けっこうな宣伝になる。磯松は愛想よく応じた。

 見世物小屋の正面にはずらりと立て看板が並んでいて、川面をわたる涼風に袂を吹かれながら、そろそろ夕方の見物が集まり始める時分であった。

 小屋ごとに演目が決まっていて、大力大女の小屋の隣では軽業三兄弟。その向かいでは熊男に蛇女、今評判の首くくりといった按配である。看板の毒々しい色彩が、筵や葦簀(よしず)張りの殺風景な小屋掛けに生彩をそえていた。

「せんだっては、丸大さんの幽園会という集まりに招ばれましてな。やはり、いろいろと訊かれました」

「ほう」

 丸大といえば、今を盛んの歌舞伎狂言立作者、四世鶴屋南北のことである。幽霊を出したり棺桶を見せたり、伝統の歌舞伎道の向うを張って見物の度肝を抜いている。その南北が、見世物小屋の首くくりに何を聞くというのだろう。次の生世話の趣向にでも使うつもりか? ならば、大道芸の首くくりも結構な出世である。

 音治が手控えに書き取っていると、表で辻打ちの鳴り物が響き始めた。木戸で客寄せする見世物師の口上が、独特の節と共に声高く聞こえてくる。

「さあさあ、お代は見てのお帰りだ。亜刺比亜アラビア国、墨加メカの産。駱駝なる珍獣は、高さ九尺長さ三間。その姿、馬に似て馬にあらず、その頭、羊に似て羊にあらず。毛並みは赤牛に似て牛にあらず。背に肉峯ありて鞍のごとし。今を逃したらもう見られない。さあ、始まるよ始まるよ」

 こういった口上は風物詩でもあり、嘘だろうと何だろうと、それを聞くのを楽しみに来る人も多い。大勢の人がにぎやかに行きかう間を縫って、川の方から獣臭い風が流れてきた。

すると、それに紛らすように、磯松はやや声をひそめ、あたりを見回してから言った。

「実は先日、恵比寿屋さんの御新造に招ばれましてな。あそこの御子が最近亡くなられたのはご存知か?」

 音治はうなずいた。

 自分がついこの間、瓦版にした記事である。まだ四十九日も済んでいまい。

 恵比寿屋は日本橋にある薬種問屋で、大奥から御用達を受けるなど、手堅く商売を営んでいる老舗である。

 主人の恵比寿屋久衛門が、いい年をして浅草観音の水茶屋娘に一目ぼれ。江戸美人評判記で主役をとった、ふたまわりも年の違う娘である。いっしょになったときは、やっかみ半分、前代未聞の玉の輿やら、開闢以来の冷や水やらと、江戸中の瓦版に書きたてられた。

 その恵比寿屋の唯一の悩みといえば、長く子宝に恵まれなかったことである。恋女房だから妾に手を出す気にもなれぬまま、こうなっては子飼いの番頭に後を任せるよりあるまいと、恵比寿屋久衛門も考えていたその矢先であった。連れ添って八年もして、やっと玉のような男の子を授かった。

 ところが、喜んだのもつかの間、神経質なほど大事に育てていたものを、魔がさすときはあるもので、この一粒種の彦太郎を弱冠五歳で死なせてしまった。

 ある日、家人が目を離したすきに、子供は勝手土間の井戸に落ち、溺れ死んだのである。

「どうしてもあきらめられません」

 恵比寿屋の妻お美祢(みね)は、やつれてとがった頬を涙で濡らし、磯松を前に真顔でこう尋ねたというのである。

「首くくりの芸を見せるそうですが、あれはほんとうに死んでいるのですか? ならば首をくくっている間、あなたは冥界をのぞいておいでなのでしょうか?」

 人払いをした恵比寿屋の奥座敷はひっそりと、丸行燈の灯りがまたたき、蚊遣りの煙が渦巻いていた。主人の恵比寿屋久衛門は寄合いにでも出かけたか、座敷に近づく者もない。

 磯松の返事を待たず、お美祢は薄藤色の着物の膝をのり出した。

「主人は死んだものは仕方ない、もうあきらめろと申します」

 初七日も済まぬうちに、主人の久衛門は自ら命じて勝手の井戸を埋めてしまい、二度と彦太郎の名は口にするなと家中に命じた。

「けれど……」

 それでもあきらめきれず、お美祢は人づてに怪しい巫女を頼んでは失望し、果ては遠く陸奥まで使いをやって口寄せのいたこを頼んだこともあるが、これも結局方言が強かったので間に通辞役が入るなどして、うまくはいかなかった。

「主人に見つかると私は叱られます。それでも……」

 お美祢のむせび泣く声だけが、虫の音のように長く尾を引いた。

 やがて、やっとのことで気を取り直すと、

「ぜひなんとか、あの世とやらで、死んだ子を探していただきたいのです。そしてこれを」

 袂から取り出したのは赤い風車である。

「子供が気に入っていたのを、お棺に入れてやればよかったと後で悔やみまして……」

 蚊遣りの白い煙が、座敷から開け放った縁側へ、風も無いのに静かに流れていく。

「夜な夜な枕元にせがんでまいります」

 うなだれたお美祢の細い肩がふるえた。

 磯松も、頼みが頼みなのでおどろいた。

 恵比寿屋の妻女は、たとえ子供に会えなかったとしても、磯松には、見世物小屋で稼ぐ一日の上がり以上のものを約束するという。

「来月早々、主人は仲間と連れだって富士講へ出かけます。どうか、その折に」

 お美祢が頭を下げると、磯松は反射的に首をちぢこめた。

 はたしてそんなことができるものだろうか。心もとなくもなかったが、なんといっても人助けである。それに駄目でもともと、試してみる価値はあると磯松は思った。

 実を言えば、胸算用もあれば、ちょいとした目算もあった。

「それで、その頼みとやらを引き受けたんですかい?」

 音治は手控えに走らせていた筆を止め、目だけ上げて訊いた。

「はあ」

 磯松はぬるくなった麦湯に目を落とす。

「ただ、人探しをするのだから、今度は少し長めに吊ってみようと思っております」



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