6. 聖堂にて
◆
火直市は、周囲を山と海に囲まれた自然豊かな地方都市である。
南を穏やかな内海に面した港湾都市。西から北側にかけて迫る大きな山脈により、東西に細長く伸びた地形は、景観、文化、都市としての機能、それぞれにさまざまな顔をもっている。
西部に、田畑と古い街並みをたたえ、
北に、連峰からつづく深い山と森、南の臨海地区には交通や都市としての機能を擁し、
東には大都市圏へと通じるパイプライン、幹線道路のまわりにはいまも活きている工業施設のほか、もう使われなくなった廃工場は往時の名残を感じさせる。
そのやや内側、北にそびえる山の麓に明坂と呼ばれる地区がある。
都市部から少し離れ、流行や娯楽といった喧騒とは無縁のこの地域は、西部とはまた違った意味で歴史を帯びた街として知られる。
その代表が、坂の頂上にある赤い屋根の教会だ。
この地区はもともと、移住してきた外国人が寄り集いつくられた街だと聞く。
観光地というにはやや物寂しく、
住宅地と呼ぶには、まとう神秘の色が濃すぎる。
いつしか若者も離れ、時代から取り残されるように、閑かな丘の上に住むのは信心深いご老人ばかりになった。
その通りを歩く、ひとりの年若い少年の姿がある。
時刻は深夜2時を少し過ぎた頃。
暗闇を縫うようにして歩く白い人影。
外見からして十代後半。背は低く、黒髪に黒瞳。顔立ちは中性的で高校生にしては若干幼さを残している。
ただ、表情は大人びている。纏う雰囲気もどこか冷めている。情熱を失ったことを大人になったと形容するなら、彼はまわりの人間よりも幾分それに近いのかもしれない。
「…………」
深夜の通りに人影は途絶えている。
車のない交差点、明かりのない家々、外国人墓地の横を通り過ぎ、きつく、長い坂道をのぼる。
坂の途中で振りむけば、眼下にとおく町の灯りがみえる。
繁華街。建ち並ぶビルディング。都市は眠ることを忘れてしまったようだ。きらめく夜景はこの街のシンボルでもある。
その光景を振り返ることもせず、少年は進んでゆく。
少年の目に、いつのまにか目的の建物が見えてきていた。
坂の頂上に鎮座する赤色の屋根。
清潔感のある白塗りの壁と、高くそびえる大鐘楼。
建物の真正面に輝くのは銀の十字架。
「……ん」
ふと、建物の内側に灯りがついていることに気がついた。
いくら敬虔な信徒にしたって、この時間、礼拝に来るようなもの好きはいない。
「……まあ、話がはやくて助かる……か」
こぼれたつぶやきは、どことなく疲労をにじませている。
が、ふたたび目を開けた彼は疲れた素振りなど微塵も見せず、扉に手をかけた。
キィという音とともに扉が開き、異国の優美な景色が彼の前に広がる。
規則正しく並べられた茶色の洋椅子。
外側にはぐるりと取り囲むようにはめ込まれたステンドガラス。
中央の路は赤い絨毯が敷かれ、奥には祭壇が置かれている。
建物を支える柱にはランタンが吊るされ、普段であればオレンジ色の光が館内を明るく照らしだすようになっている。だが、いま、灯りはない。あるのは、祭壇のうえの燭台の火のみ。
うちに足を踏み入れた瞬間、異国の建物に特有の香りがふわりと漂った。
少年はすこしだけ息を詰め、その道を静かな足取りで進んでいく。
やがて、暗闇のなかにひとりのシルエットが浮かび上がってきた。燭台の灯りに照らされ、黒い修道服がちらつく。
男は、まるでいま少年に気づいたかのように、しずかに振り向いた。
「───やあ。こんな夜更けに訪れるなんて、いったい何の用向きでしょう」
若い神父だ。灰色がかった髪はきれいに整えられ、柔和な顔立ちに似合う黒ぶちの眼鏡をしている。背は平均よりたかく、見た目は華奢だが鍛えられた体つき。こんな場所にいなければアスリートにも見間違えられただろう。
一見して好青年といった風貌だが、そんな性格じゃないことくらい少年はよくわかっている。
事実、こうしてわかりきった質問を投げてくるくらいには。
意地が悪いというか遊び心があるといえばよいのか。密接なかかわりを持つようになってじき二年が経つが、そのあたりの区別を少年はいまだにつけられていなかった。
「仕事だよ。借りていたものを返しに来たのと、ついでに報告をいくつか」
「はぁ……勤勉は美徳ですが、度も過ぎると考えものですね。その様子では家にも帰られていないのでしょう?」
「いまどきの高校生らしくていいんじゃない? 少しは俗世に染まれって、あんたの言だろ」
「非行に走れといった覚えはありませんが。こんな遅くに仕事道具を返しにくることも、俗世に染まったとは言わないとおもいますが」
まあいいでしょう、と大目に見ることにしたらしい。
それでもこれは言わないといけないと感じたのか、目を細くしてこう告げる。
「正憲さんが怒っていらっしゃいましたよ」
「……」
少年は無言。ほんとうに悪いとおもったことには何も返せなくなるのが、彼の素直なところだ。
自分との扱いの差に苦笑を浮かべつつ、しかたない、とばかりに神父はため息をひとつ。
「まあ説教は奥で。どうぞお入りなさい」
右手をかかげて奥への扉を指さす。
祭壇の横にそなえられた木製の扉。その向こうは彼らの生活空間だ。聖職者の領域とおもえば、どことなく神秘がただよう気もする。
そんなことは気にせず、少年は足をむけた。海にしろ空にしろ、領内侵犯ももう慣れっこだ。いまさら怖気づくなんてことはない。
だがその途中、足をとめた。
目ざとく神父が気づいて、声をかける。
「おや、めずらしい。念のため聞きますけど、入信の希望がおありで?」
「ないよ。ないものに縋るなんてめでたいアタマはしてない。けど、信仰と祈りは別物だろ? 救われるものがあるなら、祈るくらいするさ」
む、とおしだまる神父。
暴言につまったのではなく、純粋に感心しているらしい。
そのまま数秒ほど、少年は黙って目を閉じていた。
◇
「───で、そのまま消滅まで確認した。被害に遭ったほうは、見たとこ大きな怪我もなかったし、簡単な処置だけして交番前に置いてきた」
「置いてきた、って……しきくん、キミねぇ」
「……べつに、好きでそうしたわけじゃない。この格好じゃ、他人に見られるわけにもいかないし、ひとふたり担いで公共機関に駆け込むなんてできないだろ」
部屋にはふたりの影がある。
客間より書斎といった風貌の部屋だ。中央に机がひとつとソファがふたつ。周囲には本棚が置かれている。
少年はソファに腰かけ、それを反対から見下ろすように神父は立っている。
「その子たちも幸運でしたね。襲われて命があるとは」
「……よくない」
ほっと息をついた神父と対象に、少年の声は低い。
当然、神父もそのあたりの事情は織り込み済みだ。対抗するように……というより、たしなめるように口調を固くする。
「あのですね。きみの潔癖は知っているつもりですが、過ぎた欲は身を滅ぼしますよ。そもそも情報も集めずあれらと対峙することが、どれほど異端で危険なことかは散々説明したでしょう? 自信がついたのはいいことですが、高く飛ぶことばかりにかまけているといつか足をすくわれますよ?」
「……」
返す言葉はない。
少年も、自身が立っている場所のことをよく理解している。
断崖に張られた綱渡り。下は底の見えない無窮の闇。半歩でも、踏み間違えば、真っ逆さまのがけっぷち。
足をすくわれれば、命がないことをわかっている。
「じゃあなんだ、手も差し伸べず、落ちるヤツは見捨てて渡れる橋だけ渡れっていうのか」
「見極める時間くらい用立ててはどうかと言っているのです。キミが斃れれば、救えるものも救えないでしょう。もっとご自分を大切に扱わなくては」
「十分あつかってる。あつかったうえで、うごいてるんだ。五体満足でいるうちは、助けられるものを助けるべきだろ」
「───いい加減、彼我の命の重さを弁えるべきだとボクはおもいますけどね」
それでも意思を曲げるつもりはないらしい。
黙りこくったままの少年を見つめて、神父はあきらめたように息をついた。
「はぁ。あいかわらず、根っこの部分はいつまでも変わってくれないなぁこの弟子は。知ってますか? さいきん正憲さんのボクを見る目が違った意味で険しくなってきていることを。なら直接叱ればいいのに、不行届だって怒られるのボクなんですよ?」
「その話はいいよ、もう。それよりこれ、返す」
「おっと、これはどうも。サシェにコイン、と───たしかに。使っていて何か不備はありませんでしたか」
「……香油のほう、効きがわるいとおもう。魔除けとしては機能したけど、肝心の霧のかかりが浅くて、困った」
「あれれ、おかしいな。けっこう強めにかけておいたはずですけど───ああ、もう切れかけてますね。流石に一週間は保たないか……」
「……それ、ちゃんと吸えてるんだろうな。蓋を開けたら“ばっちり残ってました”なんてオチ、やめてほしいんだけど」
「もちろん、それは保証しますとも。主の名に誓って、友に粗悪品をつかませることなんてしません。聖火の方だって光量は十分だったでしょう?」
しぶしぶといった顔でうなずいた。
初めは袋のほうだけ拝借するつもりだったのに、“これも持っていきなさい”なんて手渡された代物だった。結果として役に立ったのだから、文句も言えない。
「正体、わかってたんだな」
「まあ勘のようなものですね。いわく、夜雀という怪異は四国から近畿にかけて伝わる妖怪の一種。夜の山道にあらわれ、そこを往き過ぎる人に憑くとされます。一部では送り狼と同様、守り神としての側面を持つとされますが───基本は悪霊の類、不吉を呼びこむというのがベーシックですね。おもしろいのは、鳥の妖とされるこの怪異ですが───」
「講釈もいらない。もう殺したんだ、いまさら豆知識なんて聞いたってしょうがないだろ」
少年はそっけなく首を振る。
殺した。
そう形容することが、少年にとっての誠意であることを神父は知っている。
あまりに傲慢で、浅はか。
胸中に起こる心情を、神父は瞬きひとつで飲み下す。
「で、大本のほうは?」
「スカ、ですね。シスター・モカにも協力してもらい、探ってもらっていますが……これだけ精査しても異常がないということは、おそらく結界の外に陣取っているのでしょう。内側ならいざ知らず、外側のこととなると途端に弱くなりますからねぇ、火直の大結界は」
「いや、居ないってことがわかるだけでも助かる。こっちはこっちで仕事に専念できるんだ、し───」
いまのは失言だったのか。少年はきまり悪そうに口をつぐんだ。
師が、それを見逃すはずもなく。
「もっと頼ってくれたって、いいんですよ?」
「……うるさい」
いたずらっぽい視線を切るよう、沈むように座り込んだ。
途端に、棚上げしていた疲労がもどってくる。
彼も人間だ。昨夜から寝る間も惜しんで徘徊していれば、気力も尽きる。
油断したからか、ふと、気になっていたことを口にした。
「すずめ」
「はい?」
「あれは、なにか……ひとを襲うのに、規則性みたいなものがあったのかな」
宙を見つめながら、なにげなく言の葉に乗せた疑問。
いまかたちにしたのは、考えないようにしていたからだろう。
それを知りつつも、師は冷徹に答える。
「“憑かれる”は転じて“疲れる”にもとられます。なにも概念的な話ではなく、疲労は心を翳らせる。身体的よりも、精神的なものの方が生気には影響しやすいでしょうね。あれらはそういうのに敏感ですから、濁ったオドに反応して襲った……というのは、傾向としてあるかもしれません。
───まあ、ほとんどは見境なく、目の前にあるエサに飛びついたというのが理由になりそうですが。知性があるといっても根は獣ですから。犠牲になった者は、単に、運がなかっただけでしょう」
そう。結局のところ、それに尽きる。
運がなかっただけ。ほとんどの死に理由は無い。
ときどきわからなくなる。
自分のしていることは、ほんとうに意味があるのかと。
怪異による死も、事故による死も、根本のところでは変わらない。
それを覆すことは、ほんとうは、
神様みたいに傲慢なことなんじゃないだろうか───。
「───しきくん」
乖離しかけた意識を、神父の声が現実に引き戻した。
「ちゃんと寝ていますか? 御役目とはいえ、休めるときに休んでいないと身体をこわしますよ」
「───ああ、わかってるよ。わかってる……つもり、だけど」
嘆息とともに目を閉じる。
たしかに、最近こんを詰めすぎかもしれない。だがそれも仕方のないことで、師も、宮司も、あちらにかかり切りな以上、突発的な対処に動けるのは自分しかいない。稼働範囲が一挙に三倍にふえたのだ、身体はもちろん、心だっていい加減、音をあげる頃合いだろう。本音をいっていいのであれば、自分も温かな布団にくるまって休息を取りたいところだけど───。
それでも、やっぱり。
そのうらに、人知れず死にゆくものの嘆きと悲鳴があるなら、
それを聞きながすことだけは、絶対にイヤだ。
「……学校がなかったら、少しはラクなんだけどな」
「む。聞き捨てならないセリフですね。ボクはともかく、柊和さんや灯華さんが聞けばなにを言われることやら」
「わかってる。だから、ただの独り言」
お役目と人間性の天秤。つまりは、なにを生の中心に置くかという話だ。
少年と周囲とでは、かける分銅の重さがそれぞれ異なっているということ。
「選択はキミの自由ですけれど。ボクも高校までは卒業しておくべきだとおもいますよ。人生に彩りというものがあるなら、青春期のそれはひときわ強いものですから。色彩が豊かで鮮やかなほど、その後の生が褪せることもないでしょう。いまにしかできない経験、そこでしかない出逢いというものは必ずありますからね」
「……」
この手の話はドロ沼だ。なので、口をつぐんだ。
───他人の命と天秤にかけても、なお重たいものなのかな。
そんな感傷は、自己の生をかるく見積もったうえで成り立つ話。目の前にいる人種となんて、死んでも論じるつもりはない。
「───ん。もう、こんな時間か」
よし、と少年は立ちあがる。
必要な話はすべてし終えた。
これ以上、この場にとどまる必要もない。
「おや、帰られるのですか」
「引き留めんなよ。一時間でも、寝ないよりはましだ」
「む、でしたらここを使うといい。奥に仮眠室がありますから。朝まではだれも来ませんよ?」
「……いや、遠慮しとく。親しみすぎるのもよくないだろうし」
疲れた顔で右手をふる。
ほんとうに真面目ですね、と苦笑する神父。
「ボクらの関係上、いまさら癒着もなにもないと思いますが」
「立場じゃなくて心情的な問題。独立するってそういうことだろ?」
「くう、そう言われるとなんだか寂しいなあ。巣立ちを見守る親とはこういう気持ちなのでしょうか」
「───」
おや、か。
……ほんとうに、この神父は。
「───積載オーバーだよ。これ以上、だれかを背負うなんてできそうにない」
返答も聞かずに立ち上がった。
そのまま出口へと向かう。
今度こそ、呼び止める声はなかった。