5. 不時着
・・・
“───優しく勇敢な夫を持てたことを、誇りにおもいます”
けっきょくのところ、わたしが怒っていたのは周囲の大人になんかじゃなく。
逝ってしまった父もふくめて、この世のぜんぶに怒り狂っていたんだとおもう。
“どうして、ちがうっていわないの?”
“あの子たちがいなければ、お父さんは死ななかったかもしれないのに───”
悲しむフリをした大人たちも。
たしなめる母も、受け入れたかのような兄も。
子どもを助けに飛び込んだ、バカな父親も。
恨んで、恨んで、うらみきっていた。
だから、神さまがバチを当てたのかもしれない。
ただしくない人は、育ちのわるい果実みたいに、ぷちりと間引かれるのが現実だから。
いやだと泣き叫ぶ、わたしはまちがっていて。
しずかに受け入れる、みんながただしくて。
それでも、わたしはただしいんだとおもいたくて。
だけど、そのただしさを貫く強さだってなくて。
冷静に、大人のふりをして、あきらめることにして、見ないようにして───。
この世界でたった一人、わたしだけが血のかよった人間のつもりでいた。
けど、そうじゃなくて。
わたしだけが、ちがう星の住人だったのだ。
“りりくのじゅんびが できたよ”
ちいさなこどもが、わたしをよびにきてくれた。
だけど、わたしはむごんでくびをふる。
“いかなくて いいの? ここにいたって ひとりぼっちだよ”
うん、とも、ううん、とも、いえないまま。
わたしはだまってしたをみつめる。
するとこまったかおをして、こどもはいってしまった。
“ ほんせんは さいしゅうびんです
このほしには もう もどってきません
みんなで てをふって さいごの おわかれをしましょう”
けむりをはいて、ロケットがうちあがる。
ロケットのまどから、てをふる、みんなのえがおがみえる。
みんなからてをふられる、わたしはたったひとり、
このほしにとりのこされたまま。
父の写真を両手にかかえて、最後のロケットを見送る。
・・・
目が覚めると、病院のベッドの上だった。
どうして、なにがあってそうなったのかまったくわからないけれど。
わたしと先輩は原因不明の意識喪失につき、市の総合病院に運びこまれたらしい。
あとから聞いた話によると、なんでも自分と先輩は昏睡状態のまま、近くの交番の前に横たわっていたそうだ。
派出所の扉に寄りかかるように置かれた二人の少女。それを見回りから帰ってきた警察官が発見し、『女の子がふたり、死んでいます!』なんて半狂乱な通報をしたのが昨夜のこと。
すぐに救急車が呼ばれ、持っていた生徒手帳やらなにから身元を特定、家族に連絡がいき、深夜にひびくサイレンの音はご近所の注目をあつめ、あれよあれよと言う間に事態は拡大。
はた迷惑な二人の搬送劇は、深夜の病院を巻き込んで大波乱を起こしたわけだが、検査の結果は“いたって健康”とのことだった。
ところどころ擦過傷が見られるものの、目立った怪我や異常はなし。
“しいていうなら年長の娘さん、睡眠不足だね”。
心肺停止とはなんだったのか。眠りこける少女たちをよそに、深夜の街を騒がせた怪事件はそっと軟着陸をとげた。
ただ、二人はどうしてあの場で眠っていたのか。
なにがあってそうなったのかについては、わからずじまいだった。
なにせ、校門をでた後の記憶がまるっと、ない。
昇降口から見上げた夕陽も、校庭のざわめきも、先輩とならんで校門から一歩、外にでたことも覚えている。けどそれからのことはページを切り取られたみたいに、すっぽり頭から抜けおちてしまっていた。
“どうして石淵公園前の派出所にいたんですか?”
“えっ……わたし、公園にいたんですか?”
“───昨夜、二人でなにをしていたかおぼえていますか?”
“……わたし、先輩といっしょにいたんですか?”
そんな質疑応答……いや、応答してないな……応酬がつづけば、だれだって馬鹿らしくなってしまう。
確たる結論も出ないまま、『貧血でも起こしたのかしらねぇ』なんて看護婦さんの言に、いったん落ち着くこととなった。
ちなみに。わたしが起きたときの第一声は「せんぱいは、どこ?」だったらしい。
身から出たサビだ。恥ずかしいにもほどがある。
この事実はなにがあっても隠し通す、もしくは無視する、あるいは加工・変形をかさねて原型をなくす……などして、先輩の耳にはとどかないようにするつもりであるが───
当の本人はというと、わたしのとなりのベッドで幸せそうな顔をしてぐうすか寝ていたりする。
「ま、でも頭とか打ってなくてよかったよ。これ以上バカになったら困るもんな」
「……兄貴に言われたくない」
病室にて。
念のため、一日だけ検査入院となったわたしのベッド脇では、大学生の兄が危なっかしい手つきでリンゴを向いてくれている。
どんどんすり減っていく可食部をぼうっとながめながら、ぽつりとつぶやいた。
「あのさ」
「ん? なに」
「……わたし、母さんが泣いたとこ……初めてみた」
「まあな」
わんわんと、それこそ人目もはばからないで大泣きに泣いた母の像は、わたしが知るものとはあまりにかけ離れていて、対処にこまった。
わたしのなかではもっと気丈というか、言葉を選ばずいうと、血も涙もない、という印象だったからだ。
起き抜けのあたまで“わたしも人の子だったんだなぁ”なんてしみじみ思うくらい、意外性のある出来事だったのである。
「大切にしている娘がなかなか帰ってこないとおもえば、警察から電話で『原因不明の昏睡状態で病院に搬送しています』なんて言われるし。まあ、いろいろ限界だったんでしょうよ。心中察するというか……おまえも、これに懲りたらあんま負担かけるようなことすんなよな」
「…………」
言い返せる言葉もなく、口をつぐむ。
その横で兄はようやくリンゴをむきおえたらしい。ブサイクなうさぎが並ぶ皿を渋い顔で見つめ、葛藤するように瞳を閉じ、けっきょくあきらめたようにベッドわきの机においた。
「そんで? ほんとになんにもおぼえてないの?」
「ううん、なんにもっていうと語弊がある気もするけど……」
じっさい、確かなことはなにも残っていないのだった。
記憶にぽっかり穴があいて、虚には霞がかかっている。
なにか、とても怖ろしいことがあって、とても不思議なことがあった気もするけど。
「……だめだ、おもいだそうとすると、余計に遠ざかってく気がするぅ……」
「……んーまあ、いいとするか。おまえも先輩さんもなにもなかったって言うし。平穏無地ってやつだな」
「……へいおんぶじ、ね」
「……わかってら」
わかってなかったらしく、目をそらしている。
平常運転だな、とおもうわたしもなかなかなのであった。
「なんにしたって平和でなにより。うん、それに尽きるな。もしかしたら、天国の父さんがまもってくれてたのかもしんないな」
「───」
おだやかな声音。おもわず、息をのんだ。
兄の口から、父のことを聞くのは、いつぶりだろうか。
慎重に、ようすをうかがう。
兄はとくべつ変わった様子もなく、いつもどおりだ。自分が何か言ったなんて気づかないみたいに、じっさい気づいてないみたいに、病室の時計を気にしている。
少し、カチンときた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「あ───いや、えっと……」
いきおい、声をかけてしまったけど。まだ準備はできていなかった。
何を聞こう。何を話すにもきっと、言葉たらずになってしまう。
だって、もうないかもしれない。父のことを話せる機会なんて、これが最後かも。
話したくても、話せる空気なんかじゃなかったし。
話せば、聞きたくない答えが返ってきそうで。
それが怖くて、いつも言葉になんてできなかった。
……わたしはたぶん、けっこう長い時間、考え込んでいたとおもう。
けど、兄はずっとだまって、わたしが言葉にするのを待ってくれている。
けっきょく、いちばん気になっていることを聞こうとおもった。
「───父さんが死んだのは、ただしいことだったのかな?」
兄はじっとこちらを見つめた。考えるというより、こちらの心を汲もうとするみたいに。
その目をぐっと見つめ返す。なぜだか意地みたいになっていた。なにを我慢しているのかは、わからないけど。
兄は口を開いた。そして閉じた。開いて、また閉じ。
さいごに、あきらめたように息をはいて話しはじめた。
「基本的にさ、人間ってのはいつか死ぬもんだ」
うでを膝に乗せ、両手をあわせてぐーぱーしている。
それが彼の考え込むときの癖だと、わたしは知っている。
「やりたいように、悔いのないように生き切ることなんて、たぶんそうない。どっかで未練は残るし、あのときああしてたら、なんて後悔は、それこそいくつだってあるんだとおもう。そういう意味でいえば、消防士っていう人を助けるための職について、子どもを二人……まあ路頭に迷わない程度には育て切って、目の前で助けを呼ぶだれかを見捨てられずに現場につっこんで、逝った……ってのは、及第点というか、まあ父さんらしい最期だなとおもう。
───だから、正しいか正しくないかはともかくとして。父さんは、後悔してないんじゃないかな」
遺される側にとっては、辛く耐え難い別れであったとしても。
力なくわらう。
それは自然で、何度もしてきた表情なんだろうとおもった。
「勘違いすんなよ? どうせいつか死ぬんだからかっこよく死ねてラッキー、ってわけじゃない。けど、少なくとも、父さんにとっては納得のいく最期だったんだとおもう。死んだ人のことをやいの言えるのは生者の特権だけどさ、職務も天寿も全うして安らかに眠ってるところを、わざわざ掘りだしてやることもないんじゃないかな」
「……天寿じゃ、ないでしょ」
「天寿だよ。天寿でいいんだ、父さんなんだから」
それは言い聞かせるような響きを含んでいた。
他人にではなく、おそらく、自分に。
「……そっか」
「そうだよ」
いいようにとらえることも生者の特権だ、と兄はわらった。
いくら飲み下せなくたって、俺たちには明日が来るんだから。
兄も考えていたんだろうか。
父の死のことを。
あの日、父が死んで、子どもは助かって。
受け止めきれない別れを、なんとか受け入れるためにがんばって。
ひとりで、だれにもいわずに。だれもかなしませないように。
ひとりでうずくまっていた星の、反対側には。
おなじように。ひとりでロケットを見上げる、兄がいたんだろうか。
「───なんか、さ……やっと、地球にもどってきたみたい」
「なんだそれ」
くつくつと笑う声。
その、人よりも低くしずかな兄の笑い声を聞いているうちに、涙がこぼれていることに気がついた。
しずかな、それでいて温かい涙。
声もださずに泣いたのなんて、それこそ初めてかもしれない。
まぶしさを感じて、窓のそとをみた。
雲の切れ間から太陽がみえている。おだやかな昼下がり。すこし開けた窓からはいってくる初夏の風で、ふわふわとカーテンがゆれている。
それを見ているうちに、ごそごそと、となりのベッドで身動きをする気配がした。
やっと、許せる気がした。
わたしたちを遺して逝った父のことも。
わすれたように日々を生きる家族のことも。
その最期を誇りにおもう、自分自身のことも。