4. 夜に溶ける - 2
・・・
きょうはやけに遠回りだな。
なんて感想は、十分もしないうちに消え去った。
「先輩……さすがに、こっちは……」
ただしい帰路から外れてどんどん道を折れ曲がっていく。その背中を追いながら、わたしもいいかげん、ふつふつと湧いてくる悪寒をそろそろ持て余しそうになっていた。
先輩がまっすぐに帰り路をえらばないことは、たまにある。
わたしとの時間をもっと引き延ばしたいから、なんて言っていたけれど、真意はよくわからない。受験のこととか部活のこととか、いろいろ大変みたいだし。
寄り道はキライだけど、たまの息抜きだとおもえば、付き合ってやるのもやぶさかではないとおもっていた。
けど、きょうはちがう。
そもそも、交差点を戻りはじめてから話という話がなかった。
それこそ憑かれたように歩き続けている。
こちらの声はきこえてないみたいに。わたしという存在はいないみたいに。
「もうやめましょう。わたしがわるかった、言いすぎました……謝りますから、いい加減無視しないでください」
「いいから、いいから」
「よくないですって。あんまり寄り道しすぎると遅くなるじゃないですか。ほら、もう……お願いですから、帰りましょうよ……」
「いいから、いいかラ」
実際、もうすでに暗くなっていた。
校門を出てから一時間は経ったんじゃないだろうか。日は沈みきっているし、位置から考えてわたしたちの家までもまだずいぶん遠い。
いっそ、一人で帰ってやろうかともおもった。
“もういいです、付き合ってられません。わたし、ひとりで帰りますからね”
そういって背を向けた。立ち止まって、目をつむった。
すると、遠ざかるように足音が小さくなった。おどろいて目を開けると、先輩はわたしを置いて一人で歩いて行ってしまう。
放っておくわけにもいかず、背中を追った。それがずっと、こうしていまもつづいている。
まわりを田んぼに囲まれた一本道をすすむ。
夜は暗い。この辺りはとくに。街灯もまばらで、やがてその距離も大きくなっていく。
夏の入り口だというのに、虫も、カエルも、なにもきこえない。
チィ、チィ、チィ
ああでも、鳥の鳴く声がする。
山のほうから。なにかに、怯えるように。
やがて、開けた場所についた。
それは、入り口だった。
最近有名な、ほら、なんだっけ。
うわさの、隣接された、自然公園の入り口。
ああ、でもそれが、いま、いったい何の意味があるんだっていうんだろう。
真っ白に、まっしろになっていくあたまのわたしに、おかまいなしに、せんぱいは、そのなかへ、ひとりで、独りで入っていこうとする。
「───せん、ぱいっっっ!!」
「───っ。あ、れ……みどり、ちゃん?」
ほとんど叫ぶようなわたしの声は、ようやく先輩の耳朶にまで届いてくれたらしい。先輩はたったいま昼寝から起きたみたいに、呑気に、きょろきょろとあたりを見回してなんかいる。
「どこ、わたし……なんで、ここに──」
「いいです。なんでも。とにかくいまは、ここから離れましょう」
勘なんてものは信じない。ぜったいに信じない。
第六感とか、幽霊とか、この世にないものは、ないに決まってるんだから。
けど、ここに居続けることがよくないことだけはわかっていた。
「あれ……なんだろ、あはは、白昼夢でもみちゃってたのかな……わたし、受験とか、ストレスで……疲れてて……」
「……ちゃんとしてください。ちゃんと、寝てください」
だんだんと意識もはっきりしてきたようで、先輩の言葉に理性がもどってきている。
少し安心して、振り返った。
わたしたちの数メートル先に、青い光が浮かんでいる。
「──────え」
脈絡もなく感情がこぼれた。
よくみれば、それは小鳥だった。
大きさは、そう、ちょうどスズメくらい。
青白い燐光を帯びて、チィチィと、鳴いている。
でも、鳥は光ったりしない。
「あれ、かな。どこかで、蛍光塗料に引っかかった、みたいな」
自分で言ったのに、そうじゃないことはわかっていた。
だって、あれはそういう光じゃない。
生きてるみたいに、強弱がある。つよくなったり、よわくなったり。なんとなく、心臓みたいだとおもった。
───深海魚って、光でエサを釣るんだっけ。
そんな考えが、ふと浮かぶ。
反射的に、先輩の服をつかむ。
チィ
なにか、変な音が、傍らで、した。
呆然と、先輩の顔を見上げる。
黒いシミが頬についていた。
黒いシミが、膨れあがった。
「きゃあああああああああっっ!!!」
奇声があがる。
膝から崩れ落ちる先輩の、顔に、首に、髪に、わらわらと、ぐちゃぐちゃと、黒いモヤが、影が、液体が、たかってたかってたかってたかって───。
「なに、なにこれ、やだ、いやだ、いやだいやだやだ───」
のこりは言葉にならない叫びになる。
「───せ、せん、ぱいっ!」
いそいで先輩にすり寄った。真っ黒にのまれていく先輩の、かお───肩をささえて、反対の手で黒い物体を取り除こうとする。
(影が、真っ黒な影が、せんぱいの顔に……!)
手のひらでこそげ取るようにしても、いっこうにとれない。
影は、靄みたいに反発がない。
それはそうだ。影はさわれない。
けれど確かに、皮膚を這いずる感触はあるなんて。
「──────ッ」
「ま、って、それ、やめてくださいっ、せんぱいっ……!!」
急に、顔に、せんぱいは両手の爪をたてた。
おもいっきり、躊躇なんてなく、力任せに、引く。ゆびに赤色がにじむ。黒い影を割って血が垂れる。まるで中身のこぼれた果実のよう。わらわらと影が群がる。喜ぶみたいに身体をくねらせる。ああ、これがほしかったんだなんて場違いな感想がもれる。……なのに、せんぱいはまた果肉をこぼそうとする。
「だめっ! ダメですって! せんぱ───」
どっ、と衝撃が胸に刺さって、体が浮く感覚がした。
先輩に突き飛ばされたのだと気がつくまで、数秒かかった。
「──────ァァァ───!!!」
「……くっ、ううぅぅ……っ!」
それでも先輩に縋りつく。押さえつけようとした右腕がひっ掻かれて裂けた。必死に腰に取りつく。またふっとばされる。
先輩の膂力は、死の間際のそれだった。
火事場の馬鹿力。手負いの獣。
命に手をかけられたものが、抵抗するために振り絞るさいごのあがき。
(だ、めだ……わたしじゃ、せんぱいをとめられない……)
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
半狂乱になってあたりをみわたす。ひと、人、他人はいないか。
この状況を打破できるひと。せんぱいを助けてくれるひと。つよくて、やさしくて、かみさまみたいな力をもった、そんな───。
───にげ、よう。
唐突に、そんなことをおもった。
だって、わたしにはどうすることもできない。
どうしてやることもできない。
これがなにかわからない。
わからないから助けてやれない。
助けたくてもどうしようもない。
だれか、これをしってるひとを呼ばなくちゃ。
呼ぶために逃げなくちゃ。
だいいちバカみたいだ。
なんでこんなことをしなくちゃいけないのか。
なんでこんな目にあわなくちゃいけないのか。
わたしがなにをしたっていうんだ。
わたしがしなくちゃいけないりゆうがどこにあるんだ。
ここにきたのはせんぱいじゃないか。
きたがったのはせんぱいじゃないか。
ならここに置いて、
ひとりで置いていって、
ひとりぼっちの先輩を置いて、
ここから逃げだすことに、いったい、だれが悪いって言えるんだろう───?
りょうあしが、ふるえる。
ひざにてをついて、立ちあがる。
おとを、音を、たてないようにして、立ち上がる。
「───ァァ───ァァァ────……」
目の前には、壊れたスプリンクラーみたいに絶叫をまき散らしつづける、だれか。
その向こうに、きもちわるくひかる、青い球体。
やってられない。
それが最後の引き金になって。
わたしは、振り返ることもせず、
公園の出口にむかって、一目散にかけだし
「…………みど、り……ちゃ……ん…………?」
───ねえ、どうして。
世界はこんなにも、優しくないんだろう。
真っ黒に、つぶれた貌のだれか。
その、弱々しい声が聞こえた瞬間、気づけば先輩を抱きしめていた。
「だい……じょうぶ、です……せん、ぱい……わたし、ここに、います」
せんぱいの頭を両腕で包みこむようにしながら、バカだなあ、なんておもった。
助けることなんてできないのに。
逃げることの方が、きっとただしいのに。
それでも、この人をここに置いていくなんてできなかった。
置いていけば、死んでしまうとおもった。
死んでしまうのは、せんぱいが死んでしまうのは、だってそれは、
涙が出そうになるくらい、いやでしょう───?
「せん、ぱい……っ!」
恐怖で声が裏返る。温度を感じない手で先輩を抱え込む。ざわ、と、触った部分から徐々に、首筋を伝って、ナニカが這い寄ってくる。
ああイヤだ、怖い、怖い、こわい……!
「やだ、やだ、は、はは、はははあ」
くるう。こんなのはくるってしまう。
ねじが。はぐるまが。あたまが。のうみそが。
とけて、このよるにとけて、こぼれて、きえてしまう。
とけたあたまのわたしは、くるったように、ねがうしかない。
だれか、おねがいします、かみさま、
たすけてほしいけど、いいです、
たすけられるなら、このひとを、たすけてやってください、
だって、この人は、関係ないでしょう───?
おねがいです、おねがいします、
罰でもなんでも、うけるから、
この人を、この人のことを、だれかまもって────、
───
──────
─────────…………、
『────つよいな、きみは』
声を、聞いた気がした。
「……ぁ」
ふわり、と体が浮く感覚がして。
すぐに、地面に下ろされた。
だんだんと、ぼやけた視界が光を取り戻していく。
音が、世界にもどってくる。
かたわらにはずっと、温かな感触がある。
「だ──れ……?」
いつのまにか、だれかが立っている。
だれか、わからない。
男の子、だろうか。髪がみじかくて、黒くて、白い、服、あれは夏ふく、制服だろうか……じゃあ、同じくらいの年で、高校せいで───
「あ、れ……なに、この……」
さっきから、なにか、変だとおもった。
変な、ニオイ。お花みたいな。そうだ、これはきっと、ローズマリー……!
もちあげた手には、巾着ぶくろがにぎられていた。こんなもの、もってたっけ。それになんだか、きゅうに、ねむけが、つよく───。
(せん、ぱいを……もって、おかない、と……)
あたたかい。だから、たぶんだいじょうぶだ。
ねむたい、って、いってたし。せっかくだから、いっしょに、ねてしまおう。
……そのまえに、緑色のひかりをみたきがした。
どうしてか、わからないけど。
青色よりも、そっちのほうが、あたたかいきがした。
※次話 23:00投稿予定