3. 夜に溶ける - 1
◆
「お、意外とまだ明るいな」
玄関口からひょっこり顔をだし、先輩はそんなことをつぶやいた。
昇降口から見上げた空はオレンジ色。陽は山の向こうに傾きかけているけど、まだ当分は顔をだしていそうだ。
部活がおわって時刻はもうすぐ18時。
下校時刻に間に合うよう他の部活も店仕舞いをしている。まだあわただしくしている校庭を背に、みどりと先輩は並んで校門を出た。
「帰ったら中間の対策かぁ……なんか最近、ずっと勉強のことばっか考えてる気がするなぁ」
「やっぱり、大変なんですか?」
「たいへん、っていうか、うんざりって感じだね。これが向こう一年つづくんだとおもうと……ああ無理、貧血おこす」
くらり、と倒れこむフリをする先輩。それを白い目で見ながらも、みどりは一応先輩に半歩近づいている。
三年生の受験へのストレスは大変らしい。普段はあれだけ陽気な彼女も、こうして愚痴をこぼすことがふえた。
「みどりちゃんは、テストはらくしょーってかんじ?」
「中学ではそこそこをキープしてましたけど。高校は初めてなのでまだわからないです。覚える範囲も難易度も、一年前までとは全然ちがいますし」
「そっか───まあ、雰囲気の違いだってあるかもしれないね。中学の勉強って“テストをがんばります!”って感じだけど、高校になると大学受験がいやでも目についてくるわけだし。“ここで落とした点数が、将来にダイレクトで響いてきます”みたいな、ワケわかんない重みがあったりするもんね」
うんうん、とその道の先駆者は神妙な顔をしている。
「そういえば先輩は大学、どちらを受けるんですか?」
「んー、第一志望は県内の公立、近くてそれなりの私立をちらほらと……あとは市内の看護学校も視野に入れてるかな。このご時世、手に職つけておけばあぶれる心配もないってわけさ」
案外に遊びのない答えが返ってきた。てっきり“近くて簡単そうならどこでもオッケー!”なんていうオチも想定していたみどりだったのに。
しっかりかんがえてるんだな、などと目をまるくする彼女に、先輩は苦笑をうかべる。
「こいつ、さては失礼なことを考えておったな? まーったく、いまは入りたてで実感ないとおもうけど、先の話だとおもっていると足元すくわれるぜ? 三年間って、長いようで実は短いからね」
光陰矢の如し、というけれど。
その光がつよく眩いものであるほど、時間は疾く、過ぎ去っていってしまう。それは線香花火の輝きにも似ている。つぼみが地に落ちてからはじめて、ああ、あの時間はかけがえのないものだったと、気づくのだ。
“だから、せめて目一杯味わわないとね”なんて、先輩はウインクをよこした。
軽い口調だったけれど、簡単に流してはいけないような響きがあった気がする。
みどりはなにか返そうと口をひらいて───ふと、その耳元が光った気がした。
「あれ……せんぱい」
暗闇に目をこらす。ちょうど髪が邪魔になってよく見えない。
街灯の下を通ったとき、やっとその正体にきづいた。
「ピアス……ですか?」
「あはは、正解」
朗らかに笑ってはいるが、校則で禁止されていたはずだ。
黙り込んだみどりの意を汲んでか、
「ちょっと冒険したくなっちゃった」
そっと目を伏せて。先輩はそうつぶやいた。
……しょうじき、思うところがないでもないが、“よくわからない”というのがみどりの率直な意見だった。
ネックレスとかヘアピンとか、身に着けるだけのアクセサリーならまだしも、自分の体に穴をあけるというのは……どうなんだろう。おしゃれよりも、痛そうだな、というのが真っ先に浮かんでしまう。
なので、初めて目にした先輩の女の子っぽい部分にも、“きれいですね”とも言えないし、叱ろうという気にも、なかなかなれない。
そもそも他人にあれこれ言えるほどおしゃれに興味がない、というのもある。
置いていかれているという自覚もあって、みどりは、そういうものか、と聞き流すので精一杯だった。
なのに、先輩は食い下がった。
「やっぱり、みどりちゃんは怒るかな」
「……え?」
おどろいてそちらを見る。先輩はまだ気まずそうに下を向いたままだった。
……なんだか、朝にも見た光景な気がする。
違うのは、この光景を目にしたってなにもうれしくなんかないことだろう。
「……いえ、べつに。そもそもルールを守ることになんて、執着してないですから」
本心だ、とみどりはおもう。
ただしさになんて意味はない。
“規則正しく、ていねいに。ルールを守るのは他人との約束を守れるようになるためだから。目のまえのひとつひとつを軽んじるようになっては、いけないよ”
そういっていた父は、もういない。
善人として生きた、父は死んだ。
子ども二人を助けて、一人で。
周りの大人はそれを“誇らしい”だの“勇敢”だのともてはやして、その死がただしかったかのような口ぶりをしている。
“───優しく勇敢な夫を持てたことを、誇らしくおもいます───”
クソくらえだと、おもう。
子供が助かって、大人が死ねば、それは正義だ。
だというなら、遺された人の涙は、ただしくないって言うんだろうか───。
「そっか、なんだか意外だ。みどりちゃんって、そういうのはキライだとおもってた」
白熱しかけたみどりの思考を、またも先輩の言葉が白紙にもどす。
え、と顔をあげた彼女の目を見て、先輩はどこか悲しそうにわらった。
「自分はただしくなきゃ、って思ってるような気がして。そういうのを真面目っていうのかもしれないけど、じっさいの行動に移せるひとはなかなかいないから。つよいなーっておもう反面、たまに心配にもなるのです」
ひとりはとても疲れるから、と独り言のようにつぶやく。
「……そんなふうに、見えてたんですか」
「もちろんイヤな意味でじゃないよ。尊敬するし、人として好きだとも思う。けどやっぱり、人間はたまに疲れちゃう生き物だからね。ガス欠になったり、がんばりすぎてパンクしちゃったらどうしよー、っておもってたんだけど……いがいと、そうでもない?」
「───当たり前じゃないですか。長いものには巻かれるし、場の空気もしっかり読むタイプです。どうでもいいことで他人から恨みを買うなんて、それこそバカらしい話ですから」
「そっかぁ」
安心したよ、とうなずく先輩。
そういう、なんの含みもなく温かな表情をされるのは初めてで、なんだか、ムズムズする。
動揺を悟られないよう、みどりはそっぽを向いて毒を吐いた。
「せんぱいが、ちゃんとしないからです。自覚があるなら少しは真面目になってください」
「いいや、私はみどりちゃんの前では一生をかけてふざけたおす。私にはその覚悟がある」
「……すごく迷惑なんですけど。なんでですか」
「後輩とのふれあいは何より大事だからね。そうしないと、どう接していいのかわかんないんだもん」
「やっぱり距離感つかみ損ねてるんじゃないですか」
「うわぁぁ、正論はやめてぇぇ」
悲鳴をあげながらもけらけらと笑っている。器用な人だとおもう。どうしてコミュニケーション方面に活きないのか、理解に苦しむ。
……けど、やっぱり。
先輩に気付かれないよう、みどりはこっそり眉をしかめた。
となりを歩いていれば、いやでも気になる。たったいま非干渉を掲げたばかり、こういう個人の趣味の問題には、なるべく立ち入るつもりはなかったのだけれど───。
「それ、やっぱりやめたほうがいいとおもいます。暗いと目立ちますよ」
「ありゃ。やっぱりルールはまもらなくちゃダメ、ってことか───」
むう、と眉間にしわを寄せて耳元を気にする先輩。
みどりは無言で首肯して、
“それに、先輩には似合わないですから”
なんてつづくセリフは、やっぱり言わないことにした。
言ったって、どうせ勘違いされて抱き着かれるんだろうし。へたに刺激するくらいなら、いつもみたいに素っ気ないふりをしておくにかぎる。
(光陰は、矢のごとし……だもんね)
心のなかでつぶやき、ひとりうなずく。
大切にするという行為は茶の道にも通ずる。ならまあ、この時間に対しての言い訳にもなるだろう。
そんなことを口にするのは流石に気が引ける……というか、みどりのプライドにもとる。
できれば顔も見られたくなかったので、背けるようにして、反対側を向いてあるくことにした。
なので。
先輩のふいな変化にも、みどりは気づくことができなかった。
「───あれ」
ふと、我に返る。いつのまにか隣を歩いていたはずの姿が、消えている。
振り返ると、電信柱の陰に、ぼうっとした顔で先輩が立ち止まっていた。
と、おもったのも束の間。
「───……いこっか」
「……え? ……せんぱい?」
ふらふらと、来た道を戻るようにして歩きだす。
その姿はなんだか力がなくて、まるで、この一瞬の間に生気を失ったような、
───あるいハ、影ヲ喪ったようナ、
そんな感慨を、みどりは抱いた。
(え、なに……急に……)
とつぜんのことに、みどりは目を白黒させて停止する。
わけがわからない。いや、先輩がわけわからないのはいつものことだけど、こんな気味の悪いことをするのは初めてだ。
なにか、試されているのか。それとも───。
「ちょっと、待ってくださいよ、せんぱい!」
結局、その背中を追いかけることにした。
よくある、先輩のおふざけがまたはじまったのだと独り合点して。