2. 異星人
・・・
六年前に、父が死んだ。
火の不始末だったらしい。
消防士だった父が現場に到着したとき、火の手はすでに家全体にまわっていた。
年季の入った木造住宅。一目で手遅れだとわかるくらい、それはもう派手に燃えていたらしい。
けど、そこはお人よしの父らしいというか。
父は屋内に取り残されたという二名の救助のため、まわりの反対を押し切って無理やり突入し、
結果として幼い子供たちを助け、本人は一酸化炭素中毒であっけなく死んだ。
通夜の席には、血縁者、父の同僚、友人、助け出された子どもの家族まで、多くの人が参列した。
黒い喪服の大人たち。列をなし、次から次へと会場に入っていくのを、兄と手をつないで見ていたことをおぼえている。
ハンカチを取りだして目に当てたり、目を真っ赤に泣き腫らしていたり、励ますような笑顔を浮かべたり。
葬列の人の顔は様々だ。けれどそのぜんぶが、厳かな悲しみをたたえていたとおもう。
『おお、きみら勝造さんのお子さんか』
なかには、まだ小学生だったわたしを励まそうとしてくれたのかもしれない。消防官として働いた父の勇姿やエピソードを聞かせてくれる人だっていた。
だれよりも勇敢で。だれよりも情に篤い。
父はヒーローだったと。だれにも真似できない、消防官として誇らしい最期だったのだと。
納棺の際、気丈な母は涙を見せることなく、こう言った。
『優しく勇敢な夫を持てたことを、誇りにおもいます』
────そうじゃ、ないだろう。
その言葉はきっと、ちがうとおもうんだ。
◇
みどりの通う火直西高校は、その名のとおり市の西端、郊外の山際の地区にある。
人々の暮らす生活圏のぎりぎり端っこ、街と自然とのボーダーラインを担うかのごとく、周囲に広がる田園風景に溶けこむようにしてたたずむ古びた校舎。
歴史はそこそこで学力はほどほど。“文武両道”なんて行動指針をかかげているわりには“文”の比率がひくく、“部”のウエイトがたかい。
そのせいか集まってくる生徒たちも部活重視の者が多く、なかなか伸びない学力が教師陣にとっての小さな悩みのタネになっている。
いまどき、ずいぶんのんびりしてるというか。
いい意味で俗世離れした校風と建ち姿が気に入って、それと自宅からの距離も幸いして、みどりはこの高校をえらんだ。
成績からすればもっと上を目指せるだろうに。中学の担任はそう言っていたが、みどりはそれを拒んだ。
学力が低い、というのは、学力を求めない、ということと同義だろう。
“うえへ、もっとうえへ”。学歴やら結果やらを求めてやまない世間の風潮。そしてなにより、もっとも身近な存在である親からの重圧。
不安よりも、重いという感情がまっさきに浮かんだ。
他人から求められることが、いやで仕方なかったのだとおもう。
「はい、それじゃあ次のページをひらいて───」
朝の一件から打って変わって、みどりの一日はいつもどおりに過ぎていった。
数学、古典、地理、歴史……課された授業を順調に消化していく。
中学から上がりたての彼女にとって、高校の授業についていくのは簡単なことではなかった。扱う公式も、覚えるべき知識の量も、一年前までとはくらべるべくもない。
しかもゴールデンウイークを過ぎてからこっち、目前にまでせまった中間テストという壁にむけて授業の熱がじりじりとあがっているようだった。おもに気炎をあげているのは教壇に立つ先生なのだけれど、律儀なのか単純なのか、引っ張られるようにしてみどりも授業に臨んでいる。
しょうじき、これが将来なんの役に立つのかだってわかってはいないが、取りこぼしたものが将来にどう影響するのかをおもうと、わざわざ手を抜くこともできない。
なので、他のことにうつつを抜かしている暇なんてないのだった。
彼女のひとつ前の席ではクラスメイトの男の子がうつらうつらとしている。上下にゆれる坊主頭を横目に、黒板の文字を必死に板書していく。
そうして授業に集中しているうちに、朝の記憶はうすれて消え去っていった。
「はい、それじゃあ、きりーつ、礼」
あっというまに、放課後になった。
バラバラに教室から抜けていく人の波にのって、みどりも部室へと足を向ける。
人波といってもつかの間のことで、一階の下駄箱へ向かう群れとは反対に、別棟への渡り廊下をめざす彼女のまわりにはいっさい人の気配がない。
立地でいうと、西高はおおきく三つの建物で構成される。
一般教室のはいった教室棟、そこから南東向きに体育館。なお、校門とグラウンドも同じく南向きに配置されている。
部活で主に使用されるのは上記の二つで、つまり、北向きに建てられた特別棟にはあまり生徒は立ち寄ってこないのである。
もっとも遠く離れた北西の端っこなんかには、とくに。
(あいかわらず、暗くて人気のない……)
放課後のざわめきから遠ざかりつつ、みどりは知らず早足になっている。
うす暗く、物音もしない廊下は、そのうち学校の怪談の舞台にもなりそうだ。
もう慣れた通路とはいえ、苦手なものは苦手。こんなに部活があって、なんで、と嘆きたくもなる。
聞くところによれば、西高の入部率は九割をこえているらしい。
その大半がグラウンドや体育館を本拠地にしている運動系の部活だが、吹奏楽部にブラスバンド部、ボードゲーム部にボランティア部など、メジャーなところからマイナーなところまで、文科系の部活にも事欠かないのが本校の強みである。
ちなみに、みどりの入った部活は茶道部だ。
部員は彼女をふくめてたったの二人。
活動は週に二回というゆるさであり、活動目標も『茶の道を究める』なんていう意識が高いのか低いのかわからないものだったりする。
(なにかの大会にでる、なんて目標があれば少しは部員もふえるだろうに……そもそも、大会があるのかも知らないけど)
みどり自身、高校に入るまで茶の道とは縁もゆかりもなかった身である。
経験も知識も、おまけにモチベもなかったみどりが、どうしてこの部活に入ったのか。
その理由は、ひとえに熱烈な勧誘を受けたから、という答えに尽きる。
“茶道部は、きみを待っていましたっ……!”
“そこのお嬢さん、ちょっと一杯、寄ってかない?”
“あのぉ……えっとぉ……ごめんなさい、もしよければ少しだけ体験していきませんかぁ……?”
(あれは……うん。かなり、すごかった)
校門のまえでひとり百面相をしていた先輩の姿をおもいだす。
脇目もふらず、人目もはばからず、一心に新入生へと声をかける先輩の姿は、滑稽さを越えて狂気だった。
それがかえって客足を遠ざける要因となっていることにも気づかない様子だった。
なにしろ、部に所属する唯一の生徒であった彼女は三年生。今年だれも入らなければ廃部が決定してしまう。
もともと大きな目標があって入ったわけではないけれど、彼女にとってはかけがえのない青春の場だ。卒業すれば関係のなくなることだとしても、思い出の場が無くなるとなれば、やっぱり寂しい。
そんなわけで。校内掲示板にポスターを貼っただけの一年前から熱量を吸いとったように、今年は恥も外聞も捨てて勧誘に乗りだしたというわけであった。
心を動かされた、といえば、それはうそになる。
もともと人気のある部活でもなかったわけだし。みどりが入っても、また三年後には廃部の憂き目に立たされることだろう。そもそも一年前にこうなるだろうことはわかっていたのではないか。なら、もっと前々から策をこうじておくべきだったろうに。
……それでも、結局のところ、みどりはこうして茶道部に入った。
他人から求められることは嫌いだったはずなのに。両手をつかまえられた瞬間でさえ、振り切って逃げる気満々だったはずなのに。
───目を見てしまったのがいけなかったんだ。
先輩の目があまりに切実な輝きを帯びていたから。
わたしひとりが入ったところでなんの解決にもならないだろうけど。
だれも入らないなら、わたしひとりくらいは入ってあげないと、なんておもってしまったんだろう。
「こんにちは」
ドアのまえでため息をひとつ。ノックをして部屋に入る。
せまい廊下の先にこじんまりとした四畳半の和室。ふみ込んだ瞬間、特有のイグサの匂いがたつ。祖父母の家をおもいだすからか、それとも単に好みの問題なのか、みどりはこの青臭い匂いが好きだった。
そのまま部屋の奥まで進み、背負っていたカバンをおろす。
と、背後に、ヘンタイの気配を感じた。
「み~ど~り~ちゃーーーん!!」
脂肪の暴力。
とっさに変な単語を浮かべつつ、前につんのめりそうな体を必死に踏みとどめる。
あはは、と頭のあたりで陽気な笑い声。犯人はいうまでもない。
「おもい。せんぱい、おもいです」
「ちょっ、よりによってそのワード!? もう少しこう、配慮というか、手心というかさぁ……」
「おもいものはおもいです。ちょっと太ったんじゃないですか。具体的には2キロくらい」
「ありそうな数値いうのやめてぇ!!」
悲鳴とともに後頭部の圧が消える。前にまわされた両腕もほどかれた。
そのまま振り向きざまにアッパーをお見舞いしたいところだが、報復なんていちいちやっていたらキリがないのでやめておく。
「こんにちは、納富先輩。今日もムダに元気ですね」
「やー、それが数あるうちの長所のひとつですから。笑顔のステキな女の子は日本の宝って、よく言うでしょ?」
初耳だ。ひょっとしてそのスローガンを口にしているのは先輩だけなんじゃないだろうか。
無言で、疑問と非難をこめて先輩を見つめる。目前の女子はみどりの視線に気づき、照れたように笑顔を咲かせた。
なにも考えていないような能天気さ。水をいっぱいもらって育ったひまわりみたいな陽気さ。背は、平均くらいのみどりより頭ひとつ分おおきい。
のどかという名前にぴったりな、みどりの交流のある唯一の先輩である。
「いつもおもうんですけど、どこに隠れてるんですか?」
「隠れるというより、気づかれないことに全力を注いでる感じかな。こう、つかずはなれずさとられずといいますか。みどりちゃん、渡り廊下のあたりから目に見えて余裕がなくなるんだよね~」
ちょきちょきと両手をうごかしながら“してやったり”みたいな顔をしている。
ふつうに声をかけろ。
「ずいぶんと意地悪に育ったんですね。たった一人の後輩を大事にしようともせず、イタズラを仕掛けては悦に浸る、鬼畜愉快犯だったとは」
「ラブだよね、ラブ。かわいい子には抱擁をさせろっていうか、獅子は我が子を愛するあまり絞め落とす、っていうか。きっと、大好きのきもちがとどまるところをしらないとこうなるんだろうね」
「……こいつ」
反射的にこぶしを握りしめていた。
ひくひくと唇をふるわせるみどりに気づかず、先輩は真剣に考えている様子。
どんな悪口も効かないのは、ある種、理想のメンタル像ではあるだろうが、肥大化しすぎた自信と態度はもうそれ自体が毒性生物なんじゃないだろうか。
いまのところ被害に遭うのはみどり一人だけなぶん、散布するタイプじゃないのが救いであり、厄介な点でもあるが。
「いい加減こりてください。うしろからの急な抱き着き、不意の腕組み、ほっぺたにキス未遂……確実にセクハラで訴えられますからね」
「うん、あの未遂事件のあとのみどりちゃんはコワかったなー、なにもしゃべってくれないし。ですがパスカルは言いました、“人は考える葦である”と。人は日々かんがえ、まなび、成長する生き物。当然、そのあたりはわきまえるようになったワタクシなのです。ちゃんとデッドラインはこえない範囲で、健全かつ一般的なふれあいをしてるつもりだけど」
それに、ほんとうにイヤなら拒否するはずでしょう、なんていたずらっぽい目をする三年生。
「いやというより、うざったいです。先輩のそれって内弁慶っぽさがにじみでてるんですよ。ふだんは距離つめられない人間の、詰めれるときに詰めちゃおう、みたいな強引さと配慮のなさが浮き彫りっていうか」
「ぐぉぉぉ内角コースエグめぇぇ、的確に急所を突く、この……でもなんでだろう、さいきんみどりちゃんの罵倒に快感をおぼえはじめている自分がいるんだよね……」
首をかしげる先輩。そっと距離をとるみどり。
話の雲行きもあやしくなってきたし、たぶんこのままだと一生つづくので、早々に打ち切ることにした。
「───ほら、バカ言ってないではやく部活はじめましょう。時間は有限です。それこそ受験生にとっては値千金でしょう?」
「むう、おっしゃるとおり……けどだからこそ! 私的にはもっとみどりちゃんとスキンシップをとりたいなー、なんて所存なのですが───」
「次からは手がでます」
「よーし、残念だけどやめておきましょう! いいかげん、嫌われてもイヤだしね」
ようやく観念したようだ。
先輩はそう言って、押入れから道具を出し始めた。
本格的な茶道部の活動では、その道の先生をお呼びして手順や作法を教わる。
みどりたちにも顧問の先生とほかに専門家の人がいて、外部講師として教えを受けている。けれど、来てもらえるのはせいぜい月に一度くらい。
なので、平日は先輩とふたりきり。先輩がお茶を点て、みどりが客としてもてなしをうけつつ、先輩の手際を見学し、覚える。
「……」
「……」
先ほどまでの喧騒から一転、部屋はしんと静かになる。
一番大事なのは礼儀ともてなす心、とみどりは初めに教えられた。
茶道は日本の伝統芸能。美学に根差した芸道である以上、見栄えは大事だ。うつくしく整えられた手ぎわは、さぞ目を引くだろう。
けれどなにより、まず向き合うべきは相手の心なんだよ、と。
「───お菓子をどうぞ」
「……」
お辞儀を、しないといけないのに。所作に見惚れてつい忘れそうになる。
無駄なく、洗練された手つき。ひとつひとつの所作に集中と心遣いがかよっている。
さっきまでのおちゃらけたひととは、別人みたいだ。孤独ながらも、この人が真摯に向き合った二年という歳月が培ったのだとおもう。
しゃかしゃかしゃか。
茶筅の音がしずかに立つ。
障子を透かすやわらかな日の光。
部屋にはふたりぶんの呼吸。校内の喧騒はとおくて、淡い。
まるで、世界にたった二人きり取り残されたみたいだ。
これは、みどりが高校生になって初めて気づいたことなのだけれど。
静寂は、ときに心地良いものらしい。




