第九話 お邪魔します
店を出た二人は、自転車置き場に向かっていた。一人はやたら機嫌が良く、もう一人は不可解そうな表情をして。
(なんで突然、千世川はあんな風に笑ったんだ?普段俺に対してはさして笑わないのに。そんなに旅館の料理が褒められたのが嬉しかったのか。つまりあれは営業スマイル……)
先を行く小弓は今にも鼻歌でも歌い出しそうな調子である。歩は解せぬ、とばかりにこめかみを圧している。
(ああでも、千世川ってあんな風に教室や旅館で笑ってたか?あまり見てないから知らないが、たまに見かけるあの笑顔ともなんか違ったような……)
自分たちの自転車の置いてある所まで来て、彼女は
「今日は付き合ってくれてありがとうございます」とお礼を言った。
歩は「いや、もとは俺がやらかしたことだし……この後もご両親に顔を見せなくちゃいけないからな」
「そのことなんですが」小弓はかごに袋を置いた。
「両親とも仕事が忙しいので、今帰ったとして必ず家にいるわけではありません。この間は母も父も、家にいましたが。基本的に、特に母は、家にいる時間が長くないので」
「親父さんはどういう仕事をしているんだ?」
「経営管理ですね、主に」
わたしもそこに関しては詳しく知りませんが、と付け足される。
「そうか、じゃあ少し家の前で待っていろと」
「前って」何を言ってるんだこの人は、といった目で小弓は彼を睨む。「わたしがあなたを家の外で待たせる女に見えましたか?」
「いや、でも……」
「何を気にしているのか、もう早緑さんが気を遣いすぎる人だということが最近わかってきたのでいいですけど」
がしゃん、と自転車のストッパーが外された。
「わたしは旅館の娘です」
きっぱりと言った彼女の目には嘘偽りとかそういう邪なものが一切なくて、歩は思わず見つめ返した。そしてちょっと笑った。
「ありがとう。じゃあ、家に上がらせてもらう」
「お邪魔、しまーす」
旅館のすぐ隣、千世川家の玄関に足を踏み入れた時、歩は人の気配がないことに首を傾げた。真っ暗だし、物音一つ無い。
小弓が電気をつけると、(ははぁ、やっぱり広いな)と歩はひと目見て思った。
まっすぐな廊下は、突き当りまで二、三部屋はあるようだし、おそらくその奥にも、さらに二階建てだから上にも部屋があるはずだ。
「千世川って三人家族だったよな?」
三人にしては大きくないか?そうでもないのか?
まともな一戸建てに住んだ記憶がほとんどない歩にとって、家のスケールというものの掴み方がよくわからなかった。
「そうですね。昔はけっこうな大所帯でやっていたみたいですから……」
「なるほど」
(やっぱり三人にしては大きいのか、これは)
小弓はスタスタと廊下の奥に進む。一度振り返って、玄関を上がろうかいまだに逡巡している歩に呆れたように声をかけた。
「早く来てください。家の中でって言いましたけど、玄関先で待てということではないです」
「……わかった」
(やむを得ない。学校でなんと聞かれた所で、「千世川の家に上がった」などと言うわけにはいかないな……こればっかりは……)
小弓は一つ、大きくため息をついた。
「早緑さん。この間夕食を断ったのも、わたしとあなたが夕食を共にしたという事実を作らないためでしたよね」
「……ああ、そうだが」
「気を遣いすぎ、と言いたいところですが、たしかにそんなことが学校で広まるのもわたしは嫌です。だから、お互い居候の件を隠しているわけですし、嘘をついていいんじゃないでしょうか?」
「嘘?」
「はい、嘘です」小弓は微笑した。「そんなことはしていない、あくまで買い物しか一緒にはしていない。そう言えばいいんです」
「いや、でも……いいのか?」
「あなたが気を遣いすぎるせいで、わたしがあなたを玄関先で待たせたなんて両親に思われたらどうしてくれるんですか?」
うぐっと言葉が出てこなかった。
(たしかにそうなれば元も子もない……)
諦めた歩は足を重たそうに上げて靴を脱ぎ、小弓の消えた廊下の角へ急いだ。