第八話 旅館の飯が旨い
「おっそぼろも買うのか」
肉コーナーで、歩は呟いた。
「そぼろじゃありません。ただの挽き肉です」
「何が違うんだ?」
「挽き肉を砂糖や醤油で炒めた後のものがそぼろです」
(……なんだか料理に関する無知を知らされたような)
挽き肉と言われてふと、歩は昨日の晩御飯を思い出した。
「そうだ。そういえば、昨日の晩御飯にハンバーグを出してくれたんだよ。あれ美味かったな」
「……えっ?」
なぜだか小弓は驚いたような目で歩を振り返り、その顔を凝視してきた。
歩は(あれ?なんかおかしなこと言ったか?)と不思議に思った。しかし、小弓は料理を習っているが実際に客に出しているわけではないらしいと女将さんが話していたのを思い出した。
たぶん、客に出されている料理を逐一把握しているわけではないのだろうと歩は考えて、説明した。
「いや、あの旅館の食事って大体和食だろ?けど三日に一食くらいで夕食に洋食が入ってくることがあるんだ。それで昨日はハンバーグ。この間はコロッケだったが、これも美味かった。魚もいいが、ああいう風に洋食もちゃんと出してくれるってありがたいな」
小弓はそれを聞いて形の良い眉をひそめ、「おかしいですね」と言った。
「おかしいって?美味かったぞ」
「いえ。基本的にうちの旅館は、和食しか出さないことになってます」
「えっ、そうなのか」
「はい。ここは港町。新鮮な魚をご用意できますから」
「……だとすると、あれは俺にわざわざ作ってくださってるのか。長期滞在してるから」
小弓は俯き気味で考え込んでいる風だった。
「そうですね。というかハンバーグ、コロッケって……」
「どうした?」
突然彼女は思いついたようにパッと顔を上げた。その顔は驚きに満ちていて、みるみるうちに頰が桜色に染まっていった。
「お母さん、まさか……」
(お母さん?)
何が起こったかよくわかっていない歩を突如振り返り、小弓はずいと一歩歩み寄った。歩は思わず仰け反りそうになる。
「おっおい、千世川。何があった──」
「早緑さん」
ピシャっと困惑の言葉が断ち切られた。
歩は意外なものを見る目で小弓を見た。半ば興奮か羞恥か、あるいは怒りで頰が染まり、目は真剣にこちらを睨んでいる。身を乗り出し迫ってきそうな様子に、歩はたじたじとなっていた。
「早緑さん、もう一度聞かせてもらっていいですか」
お、おうと生返事する歩にじーっと強い眼差しを向けながら、小弓は質問を出した。
「……さっきの言葉は本心でしたか?」
「……どの言葉?」
一発で伝わらなかったことにムッとしているのが歩には伝わった。
「ハンバーグとコロッケの話です。あれが美味しかったと言ってましたが……」
「えっ?ああ……いや、あれはたしかに美味かった。あんなにジューシーなハンバーグなんて初めてだし、コロッケもホクホクしててよかった。衣もサクサクしてたし、昔いた町で老舗のコロッケ屋で食べたものを思い出した。さすが旅館だよ。専門の和食じゃなくても──ってあれ?」
思い出しつつそこまで話すと、歩はふと言葉を切った。途中で目を逸らした小弓の様子がどこかおかしい。なんだか肩が細かく震えている。俯く顔は前髪に隠れて見えない。小さな呟きが漏れたが、歩にはよく聞こえなかった。
「おい、千世川?」
「……いえ。わかりました。」
そう言うと、小弓はくるっと後ろを向いてしまった。そのまま彼女は少しためらい気味に尋ねた。
「早緑さんって、その……いろんな街に行ったんですよね」
突然何の話だと思いつつ、歩は「そうだな。親父の仕事の関係で連れ回されたが」と答えた。
「そこでいろんなものを食べてきたんですね?先程のコロッケとか……」
「ああ、親父の財布がそう太ってもいなかったから、たまにだけどな。ハンバーグ屋も一度だけだが行ったことはあるし……」
若干食い気味に、小弓は訊いた。「そっ、それで──昨日のハンバーグとはどんな感じでしたか?」
「どんなって……そりゃあ旅館のハンバーグが、いくらハンバーグ専門店相手だからって負けてるはずがないだろ?旅館にだってプロがいたみたいだし」
正直な感想だった。
そしてどうやら、その返事は小弓のお気に召したらしい。
ちょっと振り返ったその顔は、今まで目にしたことがないくらい嬉しそうな彼女の笑顔だった。ほんのり色づいた頰、輝いた瞳、緩んだ口元。
小弓と視線が絡まって、歩は目を大きく開いた。
「そうですか。美味しかったんですね……」
何がなんだかわからないにもかかわらず、歩は彼女の顔から目が離せず、声が出なかった。