第三話 終わった。
歩は頭をフル回転させて考えた。
(夕食を一緒に?よし、断ろう……とは思うが、待て待て。お母さんからのお誘いって)
小弓の母、旅館「たまのうら」の女将のことを思い出す。優しそうな人柄が滲み出る、いい雰囲気の人だ。
そんな人からのお誘いなら、通常ならすぐに受けるけれど。
(千世川小弓と夕食を共にした。そんな事実を作ってはいけない。その事実がいつか俺の平穏を乱すことになりかねない。そして彼女に迷惑をかけかねない)
歩は普段やらないだけに不自然極まりなく見えてしまう、精一杯の笑顔を作ってみせた。そして早口に、
「すまないが、今日は課題が忙しくて(プリント一枚だ)。残念だがまたいつかの機会(来なくていい)にお願いするよ(するつもりはない)。何かお手伝いできることがあったら手伝うと伝えておいてくれないか?(娘さんに関わらない分野でお願いします)」
言外に本音を唱えつつ、その勢いに圧倒されている小弓に言った。そして今度こそ本当に踵を返し、足早に自分の部屋へと向かっていった。
小弓は呆気にとられてその後ろ姿を見送っていた。
「どうしたよ、早緑。朝っぱらから机に突っ伏して」
翌朝、隣の席の──某が声をかけてきた。
「ああ、──。いや。すっかり忘れてたなと思って」
「なんだ今の声にならない声。もしかして俺の名前を忘れたのか?」
「いや、お前の名前は関係ないんだ」
ガーン、とショックを受けたような顔をしている隣の席の男子を無視して、また机に突っ伏す。
(ああ、忘れてた。すっかり忘れてたんだ。俺、彼女と同じクラスだったんだ)
何が不味いかって、もちろん昨日の挙動不審の件である。間違いなくあれが虚偽の発言であることには気づいているはずだ。つまり今の歩は彼女にとって、嘘をついてまで彼女の母親の誘いを断った恥知らずでしかないのだ。
そう考えると、歩は余計に気まずく感じた。べつに彼女から嫌われたって構わないが、そんな嫌われ方はちょっと気に食わない。
(千世川。俺も申し訳ないと思ってるんだ。だからさ、──だからというのでもないけど──)
歩は心のなかで叫び声を上げた。
(そんなに俺の方を見ないでくれ!)
小弓は朝教室に入るなり、まずざっと教室を見渡した。そしてカチッと歩と目が合ったが、歩はさっと目を逸らした。それからクラスメイトに会話を振られてからもずっと、ちらりちらりと歩の方に視線を遣っていた。
これは耐えられないとさっきからうつ伏せているのは、それが原因だ。
(ていうか、俺があえて避けてるの知ってるよな?そんなに昨日のこと恨んでるのか?)
「おーい、早緑ー。上成だよー。上成翔真ー。」
……そして頭上から聞こえるのは、隣の席の某──じゃなくてうわなりとかいう男の声。ああもう。こっちは冷や汗流してるっていうのに。
「上成だよ、覚えたかーい」
(さて、どうしようかこの状況。さっき時計をみた感じだと、ホームルームまであと十分ほど。なんとか彼女にチラ見をやめてもらわなくては。さもないと、彼女自身に変な噂が立ちかねないし)
「うわな……あっすみません」
(俺の慎ましやかな生活が──)
「早緑さん。起きてください」
男子に特に人気の高い、透き通った綺麗な声。すごく聞き覚えのある声。
歩はそろりと顔を上げた。
予想通り、彼女と視線が結ばれた。
(──終わった)