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第十九話 優しい人だから

「違う。俺はお前を怖がってなんかいないし、相談というのは千世川と関係がないことで」

「嘘です」


 小弓の声が大きくなる。「早緑さん。それは嘘です」

 バッと小弓が歩を振り向く。歩は彼女の目を見た瞬間、小弓が泣きそうになっているのではないかと錯覚した。……濡れた髪の毛が貼り付いた頬は赤く、その瞳がまっすぐに歩を映している。いつも綺麗な彼女の顔はどこか痛々しくて、悲しそうだった。


「教えてください、早緑さん。本当は、わたしが何かあなたを傷つけてしまったのではないですか?昨日の夜、あんなことをあなたに話させてしまったから──」

「千世川」

 今度は歩が声を張り上げて小弓を制止した。思ったより大きな声が出てしまったことに歩自身驚いて、少し声量を落として続けた。

「千世川、お前がそんな勘違いをするくらいなら話してしまおうと思う」


 ──どこまでも、優しい人だと歩は思った。

 小弓は、昨晩歩が「一人で幸せになりたい」などと言ったことが自分のせいだと考えしまったのだ。そんなはずはないのに。歩がただ自分から、話してしまっただけなのに。


「俺が今日、上成に相談したのは──」


 歩は、話した。小弓に「関わりたくない」と言ったことが彼女の気を害していないか心配になったこと。それを、自分の様子を気にかけてくれた上成に相談しようとしたこと。そして、自分の居候の件も話してしまったこと。上成の方言の話は省いた。

 小弓は黙って最後まで聞いていた。

 歩が話し終えたところで、ようやく口を開いた。

「そうだったのですね……」

「変だよな、こんなこと」歩は、自嘲気味に笑った。「関わりたくないと言いながら、千世川の気持ちにびくびく怯えてたわけだ。こんな臆病者、滅多にいないだろうな」


 ばしゃりと歩の片足が水たまりを踏む。裾と靴を濡らして、通り過ぎた。


「こんな俺でも憐れんでくれるのはたしかに嬉しいが、そんな必要はないんだ」


 ──随分古くなった橋を渡る。西へ向かう旧街道はそろそろ夕日が落ちて、薄暗くなろうとしていた。白い雨雲がだんだんと灰色になって、地上へ重くのしかかってくるようだった。


「銭湯の彼は」橋の向こう側へたどり着いた時、小弓はおもむろに言葉を発した。「きっと、あなたを憐れんではいないと思います。のぼせたあなたを本気で心配しているようでした。経緯は知りませんが、可哀想だ気の毒だと思ったからではなく、どこか危なっかしいあなたを見て守ってやろうと思ったから話しかけてきたのではないでしょうか」

 

 脇の用水路でトポンという音が立った。

 小弓は続ける。


「わたしだって、そうです。もしもあなたがただの卑屈な人間でしたなら、買い物を頼みはしません。まして、自分の不幸を周りに知らしめて誰かに構ってもらいたさそうにしたり、わたしとの関係を言いふらしたりする輩ならなおさら、わたしも嫌気が差すだけです。そんな人には、両親や旅館の人たちに相談することくらいしか、わたしはしなかったと思います」


 小弓は一度、大きく息を吸った。


「けれどあなたは違います。自分の不運な立場を誰かに言おうとはしませんし、たった一人で全部飲み込んでしまおうとしています。わたしたちにはなるべく迷惑をかけないようにと。偶然とはいえ買い物を手伝ってくださったこともです。早緑さんは、優しい人なんです」


 小弓は傘から外へ手を差し出した。雨がポツリポツリとその掌へこぼれ落ちて二つ、小さな水たまりをつくる。そして少しだけ傘を仰向けに持ち上げてみせて、雨がだいぶ弱まったことを歩に教えた。


「それから」と小弓は傘を元のように二人の頭上へ戻して、穏やかに歩を見つめた。「あなたが、わたしを傷つけていないかと心配していたのは、たしかにあなたの臆病のせいかもしれません。わたしに嫌われる、憎まれるのが怖いと恐れて」


 二人の傘に一滴、電線から落ちた大きな雨粒が弾けて傘を揺らす。

「ですがおそらく、──あなたがそんな心配をしたのは、あなたが少しでもわたしのことを、大切に思ってくれているからだと思います。わたしに嫌われたくないと──そんな風に思ってくださったなら、わたしはむしろ嬉しいです。そんな存在だとあなたが考えてくださったことが」


 歩の目が大きく開かれた。

「俺は──」

 何かを言いたい。彼女に伝えたい。そう思って口を開くも、パクパクと二度開閉したきり何も言葉は出てこなかった。

 そんな歩に優しい目を遣って、小弓は微笑んだ。

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