第十三話 せめてこの三年間を
「千世川……」
歩はその場に立ちどまったまま、小弓が傍まで来るのを待っていた。
「早緑さん、すみません。すぐそことはいえ夜道ですし、草木で足元が悪いですから」
「戻る時、千世川こそ危ないだろ。来てくれなくてもよかったのに」
そう歩が言うと、小弓はぴたりと足を止めた。言葉が出ないのか、歩をただ見つめている。
「どうした?」
何か足元にあるのか、と問う歩に、彼女は顔を伏せた。彼には見えないように、静かに唇をきゅっと閉じる。
小弓が微動だにしなくなったのを不思議に思って、歩は彼女に近づこうとした。
だが二歩目を進もうとしたところで、飛び出た石に爪先が引っかかってよろめいた。うわっと声を上げたが、片足でなんとか踏ん張った。
「いやー、危ない危ない」歩は笑いながら体を起こした。「な、千世川は部屋に戻ってくれ。ライトがあっても転ぶかもしれない。危ないから──」
「危ないのはあなたもでしょう?」
小弓の声は、わずかにだが震えている。今の一部始終に、彼女は思わず顔を上げて駆け寄ろうとした。だが体を支えて笑う彼を見て、その足はふたたび止まった。
歩は、全然見覚えのない彼女の様子をただ不思議そうに眺めていた。
小弓は努めて冷静に、思い募っていたことを吐き出した。
「あなたはどうしても、わたしや周りの人と関わりたくないのですね」
ハッと目を見開いた歩だったが、すぐには言葉が出なかった。夜の暗がりで、二人の間に沈黙が下りた。
軽く息をついて、歩が声を出した。
「俺は関わりたくない──たしかにそうだ」
逸らされた目は靄のかかった空に向いた。彼は身体から緊張を抜いて、だらりと立ち尽くした。
「今まで、移動の多い生活を送ってきた。聞いたかもしれないが、転校続きでろくな友人もできなかったし、いい思い出も作れなかった。むしろ、わりと酷い扱いをされた。余所者だとか、邪魔者だとか──。だから考えたんだ」
ゆっくりと小弓に視線を戻し、少し微笑んでみせた。
「せめてこの三年間だけでも。高校にいる間はこの町にいられることになったから。せめてこの三年間だけでも、この町で静かな生活がしたいって。友人ができなくてもいい。一人きりでも、幸せな一人になりたいって」
──草むらの虫が鳴いている。
冷えてきた風が遊び、傍の木の枝をかすめて葉音を立てる。
それ以外は誰一人の声もない。そんな世界。
さざめくその中にいるのは、彼がただ一人だけ。
寂しい言葉ばかり胸に抱えて立っていて。
「ああそうだ、毎週の買い物についてだが」彼は思い出したように付け加えた。「今日の感じだと、誤解も解けただろ。悪かったな、ご馳走にまであずかってしまって来週からは──」
歩もこれだけは、言い淀んだ。
彼としてはあまり買い物で関わりたくはないのだろうが、放棄すればすなわち、小弓に大変な思いをさせることになる。
(……こんなところでも気を遣うんですね)
本気で関わりたくないくせに。
声には出さないけれど、小弓は心の中で彼を詰った。詰ったけれど、もっと深いところでは、哀しかった。
顔に笑みを貼り付けて彼に向けた。たぶん暗くてよく見えないだろうと思いつつ。
「あなたに罪悪感を感じさせるわけにはいきません。来週からも、買い物だけは手伝っていただきます」
了解、と言う彼の顔はきっと残念そうに歪んでいる。小弓はそうに違いないと思った。
だから真っ暗な地面を照らしながら、歩のもとへ近寄ったとき、小弓は彼の顔を見なかった。彼自身なぜだかよくわからない、小さな安心を見つけてほっとしたその顔を。
(せめてこの三年間だけでも、ですか)
彼の隣を歩きながら、小弓はひそかに願った。
(せめてこの三年間からはずっと、あなたが幸せになれたらと思います。三年間だけではなく。それに、一人で幸せになるのではなく、人との関係を見つけて──)




