第十一話 痛い
「いただきます」
(やっぱり美味しいな)
歩は白米を噛みながら、その心地よい感想に浸った。
ハンバーグを口に含むとさらに味わいが深くなる。よく火の通った挽き肉はまだ出来立てで熱く、ほくほくと口が動いた。
「……昨日のハンバーグと同じ味だ」
「それはそうよ」
呟いた彼に、琴代が応えた。「だってそのハンバーグも昨日のも、小弓が作ったんだもの」
歩も推察していたことであっただけに、彼もさして驚いた樣子は見せなかった。
「そうでしたか……どうりで」
歩は小弓に目を向けて、思わず苦笑いを浮かべた。目が合った彼女は少し気まずそうに、頰を染める。
「悪かったですね。ずっとそわそわしてて」
「いや。そんなに心配しなくても美味いんだが」
「……ありがとうございます」
小弓は安堵を露わにほっと息をついた。彼が料理を口に運ぶたびに小弓は緊張で固まっていたのだ。
「やはり嬉しいものですね。人から自分の料理を褒められるのは」
ふわりと微笑む彼女は、幸せそうに見えた。琴代も「でしょう?」と笑ってから、歩の方に向き直った。
「ごめんね、歩くん」
「えっと、なんですか?」
「勝手に歩くんの夕食に小弓の料理を出していたから」
(それは、……むしろ娘さんに謝るべきでは……)
「いえ、俺は本当に美味いと思って食べてましたから」
そう言うと、小弓はまた「ありがとうございます」と呟いた。
「……でも、旅館の娘さんならてっきり、和食ばかり作るものだと思っていたんですが……」
歩はふと思ったことを口にする。
「たしかにそうね」
琴代は同意する。「だけどね。最近は色んなお客さんが来るの。洋食がないことを残念がる方まで」
「だから、娘さんには洋食を?」
「もちろん和食も教えてるけどね。ただ、……この辺りの地元の方はみんな、魚料理は得意だから」
(そうか。港町だから)
歩は近所に料理亭が並んでいたのを思い出した。それはどれも、魚料理や和食ばかりがメインメニューらしかった。
(それで、和食だけでなく幅広いメニューが出せるようにするために……)
小弓が茶碗を取りながら母親に向かって言った。
「高校生になってから夕食の当番になり、ここのところ三日に一度わたしに多めに作るよう言ってきたのは、彼に味見させるためだったんですか……」
「どう?褒められたら自信がつくでしょ」
小弓はニコニコしている母親を見て少し頰を膨らませた。「わたしに何か言ってくれても……」
歩は微笑んだ。
「今日はありがとうね、歩くん。うちの買い物に付き合ってくれて」
「あっはい、こちらこそ美味しかったです」
(そうだ、そういえば)
玄関先で琴代にお礼を言われて歩は不意に思い出した。自分が買い物に付き合った理由を。
歩は一度、小弓をちらりと振り返った。もう微笑んでこそいないけれど、嬉しそうな顔に見えた。
(きっと俺が彼女のことを嫌っているわけではないことは理解してくれたはず。だから、俺がまた来週からも平日に買い物を付き合う必要はなくなったんだ)
そんなことを考えながら、歩は靴に足を入れようとした。
ガッ
(……痛い)
歩はとっさに右手の指先を左手で握った。土間に降りた瞬間、靴箱の角にぶつけたのだ。
「大丈夫?」
「大丈夫ですか?」
けっこう鈍い音が派手にしただけに、慌てて二人が寄って心配してくれた。
歩は一瞬歪めた顔をもとに戻し、精一杯笑顔を作った。「いや、大丈夫です」
(……なんであんなに痛かったんだろう)
玄関を出てから、先ほど当てた爪先を眺める。しかし、五月の晩七時の空はもう暗くて、よっぽど目を凝らしても腫れた樣子は見えなかった。
とっぷりと暮れた空に残光はなく、足元は真夜中のような暗がりだった。先を見れば、旅館の大きな影が怪物のようにのっそり立っていた。
同じ敷地内にあるとはいえ、少し離れている。
月のない夜空は曇りがかって薄ぼんやりとしていた。
ザッザッと歩くたった一人の足音に、どこかでジーと鳴る虫がいる。要するに、一人に違いなかった。
(本当に、なんであんなに痛かったんだ)
歩は右手を軽く押さえた。今はまったく痛まない。多分腫れてはいないのだろう。だがあの時は、自分でもびっくりするくらいの痛みがあった。
歩はなんとはなしに立ち止まった。
その時、後ろで引き戸がガラガラと開いた。
同時に旅館に向かって光の道が飛んでいったのを歩は呆けたように眺めた。
「早緑さん!暗いのにライト一つなしだと危ないです」
振り返ると、懐中電灯を手に小走りでやって来る小弓の姿が目に映った。




