第一話 旅館に引っ越してきた高校一年生
「あ」
しまった。
実に間が悪いというか運が悪いというか……。
できるだけ会うのを避けていた女子に会ってしまった。正確には、あちらはこちらのことに気づいていない様子。何食わぬ顔して通り過ぎるか別の道を選ぶかすれば、何事にも気が付かなかったかのように取り繕うこともできるはずだけれど。
しかし問題なのは、彼女を避けるためにあえて選んだ道で彼女を見つけてしまったということだ。皮肉すぎる。
一体どこで間違ってしまったんだ……歩はぼんやりとつい二十分ほど前まで遡る。
「……どうかしましたか?」
場所は高校の駐輪場。放課後になってさあ帰ろうとやってきたのに。
「……いや」
歩が自転車に手をかけている数歩先で、一人の女子生徒が同じように自転車に手をかけていた。入口に近いのは彼女の方。歩の後から入ってきたんだろう。
屋根に日が隠れた薄暗がりの中に立つその女子を見て、歩はひそかに直帰の望みを諦めていた。
たしかにその女子は見目麗しい。わずかに差し込む春の日が、滑らかに腰まで伸びている栗色の髪を照らし上げる。均整の取れた身体は華奢で小柄、その立ち姿に儚さを思わせる。そして、誰が見ても文句なしの、綺麗で愛らしい顔。白桃のように僅かな赤みを湛えた頰に、小さな唇。瞳は澄んで、まっすぐに俺を見つめていた。
そんな女の子とその場に二人きりとなると、何も事情のない男ならまず嬉しい。手放しに喜ぶはずだ。そして彼女も、人当たりがよさそうに振る舞う。
しかし彼の場合だと。
「あ、じゃあお先にどうぞ」
「わかった」小さく頷いて、彼女は自転車に跨り駐輪場を出ていく。歩はその小さくなっていく背中が校門から消えてからため息をつき、ようやく自転車に乗った。
──千世川小弓。同級生でクラスメイト。
地元で名のある旅館の一人娘で、土日は和服を着ている女子高生。その容姿と気立ての良さから、学校でも旅館でも、評判が高い。ただし彼女自身があまり表に出ようとすることはない。学校では一度クラス委員に推薦されていたが辞退した。旅館でも、基本は従業員に接客を任せていて、料理を修行中らしい。ゆくゆくは、旅館を受け継いで経営する立場になるのだろうが。
一方の歩は、その旅館に先月から寝泊まりしている居候なのだ。色々な事情があった。母を幼くして亡くし、父親がなんとか生計を立ててきたけれど、勤めていた会社は倒産の危機に遭い、父親はあえなく解雇されてしまった。それから転々と地方を歩いていたが、ついに息子を親戚の家に預けて高校三年間を送らせる決断をした。その親戚の家こそが、千世川家の旅館なのである。
歩は決めた。できるだけ小弓から離れていよう、と。言ってみれば散々な人生を送ってきた歩にとって、彼女はあまりに遠い存在だったし、なにより関わりがあることを外に知られるのは迷惑だろうと思ったから。
そうすれば、歩もこれまでとは違って、穏やかな学校生活を送ることができるはずだから──。
こういう日には、帰り道を変更することにしている。と言ってもまだ今日が初めてだが。
普段は川沿いにシャーッと自転車を走らせればすぐに旅館に着くのだが、街中を走る迂回ルートもある。しかしだいぶ走る距離が違うから、好き好んでそっちを選びはしない。
やむを得まい。警戒しすぎかもしれないが、もしも彼女と同じルートで帰ってるなんて学校の奴に知られたらかなわない。
……そう思って迂回する道を走っている最中だった。小弓をスーパーの前で見かけたのは。
「大丈夫か?」
結局歩は自転車を傍まで走らせ話しかけた。何故と言えば、スーパーの駐輪場から出てきた彼女の両手ともに、中身の詰まったビニールぶくろがぶら下がっていたからだ。
自転車にも乗っていない。重たそうな手で押している。いかにもバランスが危なっかしく見えた。
「早緑さん。どうしてここに?帰り道はあっちの川沿いまっすぐ──」
彼女は目を見開いて歩を見る。驚いて当然だと歩は思った。彼だって驚いてる。まさかわざわざ迂回したのに彼女も寄り道していたなんて。
だけど説明は入れておこう。まさか後をつけていたなんて疑われたら、居た堪れなさすぎる。そう考えて、
「お前が旅館に帰っていく後をつけていくようで申し訳ないと思い、遠回りしようとしたんだが……」
彼の弁明を千世川は黙って聞いていたが、歩が話し終えたら「早緑さんって」
「なんだ?」
「早緑さんって、余計な気遣いが過ぎてませんか?前から思ってましたけど」
その声には非難の色が混じっていた。呆れたように細めた目も合わせて。
(……別にいいだろ。気遣いのできる人間なんだ)
「それより、お使いか?その荷物」
不意に変わった話題に戸惑いつつ、小弓は手元を見る。「え?ああ、我が家の夕飯の具材です。大体家族の分はわたしが買って帰るようにしているので」
「そうか」
(当番みたいなものか。俺にはよくわからないが、ちゃんと家族のことも考えながら買い物をするのは大変なんだろう)
歩はじっと二つのビニールぶくろを見つめた。そして、おもむろに手を差し出した。
「じゃ、それ一つ貸せ」
「……あげませんよ」
「なんで俺が欲しがってるように見えた。返すに決まってるだろ。ほら」
催促すると、小弓は渋々ながら袋を一つ、歩に寄越した。
(なるほど、ちょっと重い)
歩は自分の自転車の買い物かごにそいつを降ろして乗り直した。
「ちょっ早緑さん」
「二つだと買い物かごに入らないだろ?俺が届けるから安心しろ。日頃世話になってるんだし」
そう言われては言葉が返せなかったのだろう。小弓はむっとどこか不満げな顔をしたが、「ありがとうございます。それではお願いします」と頭を軽く下げて買い物かごに袋を入れた。
先に行って待ってます、と小弓は自転車を走らせた。もう危なっかしくは見えない。とりあえず安心した。
お世話になっていたから何かお礼がしたいというのは、歩の本心だった。しかしこんなふうに小弓に直接、何か手を差し伸べることがあるとは全く想像していなかった。
(まあこれを機に何か仕事をくれるようになったら、こちらとしても願ったり叶ったりなんだが。あまりあの家族に世話になりっぱなしってのもな……)
たとえば、そう……荷物運びとか。
ただできれば、と歩は願った。小弓と関わりが薄そうな分野で働きたい。
今だってずっと、周りに同級生なんかがいないか気にしていたんだから。
平穏な暮らしを送るために。
その願いは儚くも、崩れ去ることになるのだが。