都市伝説を語らう研究者達の夕べ
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
放射線治療の立ち合いに術後の経過観察、そして腫瘍摘出手術の執刀。
普段通りの勤務をこなした私こと芹目アリサが職場から帰路につこうとしたのは、定時である18時の事だった。
「さてと…今日は梅尾博士がお見えになる日ね。博士から何か面白い話題を伺えると良いのだけど。」
同僚達によるアフターファイブの誘いを断ったのは、友人にして共同研究者でもある梅尾博士との会談を予定していたからだ。
研究所も兼ねている自宅の応接間に現れた梅尾博士は、至って健やかな様子だった。
「御元気そうですね、梅尾博士。術後の容態も安定しているようで何よりですよ。」
「御陰様で健康その物ですよ、芹目先生。脳腫瘍が見つかった時には学者人生も御仕舞いかと絶望したものでしたが、今では以前と同様に教壇に立てるようになりましたし、研究学会や学部の教職員会議もこなせるようになりましたからね。」
学者肌の老紳士という風貌を裏切らない丁寧な声色で応じた梅尾博士には、後遺症の兆候は少しも感じられなかった。
五條県立大学医学部付属病院の外科専門医である私と、畿内大学量子力学研究所の梅尾博士。
この一見すると全くの畑違いである両者に接点が生まれたのは、脳腫瘍を患った博士の執刀を私が担当した事がきっかけだった。
とはいえ患者と担当医としての関係性が解消された今となっても親子程に年の離れた私達の間で親密な交流が続いているのは、お互いがライフワークとしている研究テーマの意外な形での合致が大きいだろう。
昔から「袖すり合うも他生の縁」とは言うけれども、人の世の縁というのは誠に予期せぬ物だ。
「教職員会議と言えば、面白い話を聞きましたよ。論述式の筆記試験の解答用紙に、カレーライスの作り方を書いた学生がいたのだとか。私が学部生だった頃にも流行った噂話でしたが、今になって実行する学生が現れるとは思いませんでしたね。」
「回収したレポート用紙を窓から投げて遠くまで飛んだレポートから良い成績をつけているとか、試験の採点方法に纏わる噂話には枚挙に暇が御座いませんね。採点の様子が秘密のベールに包まれている以上、学生としてはアレコレと妄想を逞しくしてしまうのでょうな。」
こうした話題も、現役の大学教員である梅尾博士ならではだ。
ならば私も、医療従事者らしい話題を提供するのが筋だろう。
「医科大学や病院絡みの噂話では、死体洗いのアルバイトが有名ですね。解剖用の検体がホルマリンのプールに沈められていて、それを高給で雇われたアルバイトが洗浄していくという。そもそも厳しい管理体制が求められる死体の取り扱いをアルバイトに任せるのは非現実的ですし、有毒性の高いホルマリンをプールに満たすなんて危険極まりない事です。」
「検体を望まれた方としても、纏めてプールに投げ込まれる等というぞんざいな管理体制では浮かばれませんな。解剖時に耳を切り取って『壁に耳あり』という悪ふざけをする不謹慎な医学生が実在したなら、『死体がプールに浮かんでくれなかったら引き上げられないですよ。』とでも言ったかも知れませんが。」
どうやら博士も、解剖実習に纏わる噂話は御存知のようだ。
それならば、より踏み込んだ内容を語って良いだろう。
「唇を縫合して『お口にチャック』、胸部を切開して『胸が張り裂けそう』、或いは切り落とした首を手に持たせて『首提灯』という古典落語に見立てる。こうした検体を用いた悪趣味なブラックジョークは、解剖実習で決してやってはいけない事として先生方から事前に釘を差された事です。その為、その事が解剖実習中にふと脳裏を過ぎる医大生は決して少なくないと思われます。」
「成程…しかし、あくまでも仮定としての話であり、決行に踏み切った学生や医師は実在しないのでしょう?」
落ち着いた様子でパイプを吹かす博士の一言は、正しく我が意を得たりという物だった。
「仰る通りです、梅尾博士。少なくとも私のように医師免許が交付された者の中には。たとえ思いついたとしても、決して実行に移さない克己心。そして何より、相対する他者への敬意。それは社会人ならどの職種に就いても必要不可欠となる資質ですが、医師の場合は特に顕著なのです。そうでなければ、患者は安心して診察台や手術台に横たわる事が出来ないでしょう。何しろ医師である私達が手にする医療器具は、メスや注射器に限らず、その気になれば人間を殺傷する凶器とも成り得るのですから。」
「そうした克己心や自制心のない者には、医学を学ぶ資格はない。全く以って仰る通りです。そうして考えれば、噂話など他愛もない物なのですね。市井の人々の噂にも上がらない、水面下の真実に比べたら…」
その博士の一言で、この話題はお開きと相成った。
妄想を逞しくした門外漢の語る噂話など、所詮は他愛もない物なのだ。
そうして私は博士を伴い、自宅の地下に設けた研究室に足を踏み入れたのだ。
地上階の応接間や書斎では、此度の会見の主目的を果たす事など到底出来ないだろう。
「毎度の事では御座いますが、この地下研究室のコレクションは見事な物ですな…胃癌に皮膚癌に肝臓癌、ありとあらゆる部位の癌細胞や腫瘍が網羅されている…」
「脳腫瘍に至っては、各界の名士達から摘出したサンプルが今も順調に生体活動を続けておりますよ。勿論、梅尾博士の脳腫瘍もです!」
棚の一角を指差す私の声は、普段よりも感情的で上擦っていた。
どうやら私も、棚に並んだ培養ケースの列に目を輝かせる博士の様子に触発されたのだろう。
「これが先だって芹目先生に御返しした、私の脳腫瘍のサンプルですか?使える脳細胞の大半はバイオコンピューターの演算素子にしてしまい、御返し出来たのは殆ど残り滓だったと記憶しておりますが…そこから、ここまで培養し直したと?」
「摘出した腫瘍の再培養にかけては、私にも自信が御座いましてね。ここまで大きく育てる事が出来ましたよ。バイオチップ量産の為に博士の脳腫瘍が御入用でしたら、また何時でもお越し下さい。」
培養ケースの中で大きく肥大化した自身の脳腫瘍と対面する博士に応じながら、私はサンプルの入った携行用カプセルを差し出したのだ。
梅尾博士がライフワークとして開発を目指している次世代型コンピューターは、半導体の代わりに人間の脳細胞を演算素子に用いている点が最大の特徴だ。
謂わば一種のバイオコンピューターだが、生きた人間の脳細胞を合法的に採取する方法は困難極まる物だった。
そこで目を付けたのが患者から摘出されたばかりの脳腫瘍であり、癌細胞の研究と腫瘍摘出手術の第一人者である私を共同研究者に選んだのだ。
そして当然の事ではあるが、この共同研究には私にとっても旨味のある物だ。
「それは実に喜ばしくて心強い話ですな、芹目先生。また折を見て用立てて頂きますよ。そう言えば先生は、医師に必要不可欠な資質として『相対する他者への敬意』を挙げていらっしゃいましたが、この地下研究室の腫瘍達を見ておりますと、その事を改めて実感致しますよ。私を始めとする患者達は手術によって健康を取り戻し、手術で切除された腫瘍達も研究標本としてこうして生き続けている。医師として人体に敬意を払っていらっしゃるからこそ、患者と腫瘍の両方が生きられる道を模索されているのですね。」
「仰る通りですよ、梅尾博士。」
外科手術で患者の生命を救った上で、摘出した腫瘍や癌細胞にも第二の生を与える。
そんな私の提唱する理念は、培養液の中で生体活動を続ける腫瘍という形で第一段階を達成し、梅尾博士の開発した脳腫瘍由来のバイオチップで次なる段階に到達した。
この調子で行けば、全身が腫瘍と癌細胞で構成された人造人間の開発という最終段階への到達も夢ではないだろう。
良き理解者と協力者を得られたのは、私にとっても僥倖だった。
「実は喜ばしい事に、私の方にも吉報が御座いましてね。私の脳腫瘍を用いたバイオコンピューターなのですが、通常のAIと遜色のないレベルまで育成出来たのですよ。もう少し育てれば、知的生命体の頭脳として充分に仕上がるでしょう。」
「摘出した腫瘍は『研究用の標本』という正規の目的で譲渡手続きを済ませておりますから、病院側や患者達に疑問を抱かれる心配は御座いません。たとえ真実であっても余りに常識外れで途方もない物ならば、人の噂にすら上がらないという物ですよ。」
私と梅尾博士の共同研究の真相は誰も知らないし、仮に漏れても単なる与太話と一笑に付されて噂にも上がらないだろう。
市井の人々というのは、所詮は自分の信じたい物しか信じない。
そして「自分達の世界の常識が盤石な物である」という幻想を守る為なら、突拍子もない事が実際に起きていても平気で目を逸らしてしまう物だ。
噂にも上がらない水面下の真実も恐ろしいが、それ以上に恐ろしいのは正常化バイアスという認知の歪みだろう。
だけど秘密裏の研究を進めている私達としては、余人の正常化バイアスには感謝するばかりだ。
無邪気な彼等は常識を盲信して日常に生き続け、学究の徒である私達は誰に邪魔される事なく真理を探求する。
人類の科学と文明は、そうして進歩していくのだ。
これまでも、そしてこれからも。