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彩祈を消さないで  作者: 千桐加蓮
第一章 
7/8

文字

 アパートの玄関のドアを開けると、いい匂いが玄関まで充満していた。既に匂いで誘われるように腹の虫が鳴ってしまっている。食欲を刺激する匂いに誘われて俺は靴を脱いですぐキッチンに行く。キッチンに向かう俺に気付きながら、鍋の中を混ぜてお玉を使って掬った彼は

「おかえりなさい」

と言って微笑んだ。挨拶を交わした後、ちょうど炊き上がったご飯を掻き回しながら皿によそい始める先生に声を掛けるとすぐに答えてくれるので安心した。

「僕、これなら作れました」

お盆の上には大根の味噌汁が湯気を立てていて、指で摘める程度の小鉢にはきゅうりとネギが小さな山のようになっている。もちろん今炊いているご飯もおいしそうであったが、俺の腹の音は鳴り続けている。

「食べましょう」

テーブルについて、先生も一緒に「いただきます」をして食べ始めると先生は少し不安そうにして聞いてくる。

「どう? お口に合うかどうか分かんないんだけど」

俺は二度頷く。

「美味いと思う」

先生は嬉しそうに微笑んで、箸を握った。

「名無し先生って料理の先生とかじゃないの?」

「でも、味噌汁しか作れない。ご飯の炊き方は教えて貰ったから分かるけど」

「炊飯器の使い方が分からなかったって重度過ぎる記憶喪失なんじゃないか……?」

先生は首を小さく傾げる。

「これは分かる?」

俺は自分のスマホを見せる。

「あ、それ! はじめは手鏡かと思ってた。でも、操縦してるよね? なんですか、気になっていたから」

記憶を無くすとスマホが分からないのかと驚くことばかりである。

「そうか、記憶喪失だからか」

うんうんと納得した素振りで何度も俺は言う。

「なんか、建物ってこんなに高いんだとか思うよ。この黒い板の機械もすごいよね。なんか喋ってるし」

そう言って、テレビ画面に映る夕方ニュースの進行者を指差している。

「それ、テレビって言うんだ」

苦笑いで言った時、俺はもしかしてと頭を抱える。

「時空飛び越えて来たとか、そう記憶とかある?」

頭を抱えたまま先生に質問する。先生はスーパーのサラダにごまドレッシングをかけながら

「なんですか? それ」

目をぱちくりとさせている。嘘をついているようには見えない。

「じゃあ、異世界から来たとか?」

俺は、とうとう頭が痛くなってきた。

「あ、あの、僕なにかやらかしました?」

俺は頭に手を置きながら先生を見ると、先生はハッとした様子で

「そういえば僕」

と言って箸を置いたまま下を向く。

「そのテレビっていう機械で流れてた特集で文字の占いみたいなのがあって、やってみたんです」

そう言って、テーブルの上に置いてある裏紙の一つに『大吉』と書かれていた。

「達筆だな、普通に綺麗な字だと思う、けど」

「けど?」

先生は目をぱちくりとさせる。

「名前は分からないのに、文字は書けるのか?」

「写しただけだから」

「じゃあ、聞いた言葉を文字にできるか試してみようぜ」

この際だから、色々試す必要がある。記憶が戻って何か分かるかもしれない。それで、よく分からない文字列ができていたら、先生は異世界の住民だ。期待が持てた。

 とりあえず、ご飯を食べてお皿を洗ってから二人向かいあって椅子に座った。テーブルにはA4の裏紙を一枚置いた。

「じゃあ、『その一、記憶喪失。そのニ、ここは日本で、日本語を話します。ちなみに英語は得意じゃない』って書いて」

 鉛筆を右手で持って、何か書いている。割とスラスラと書けている。

【その一、思ひ出喪失。そのニ、ここは日の本に、大和言葉を話す。ちなみに英語は得意ならず】

先生の達筆な文字はそう書いてある。先生は誇らしげに口角を上げて俺を見ている。

「いつの時代だよ……」

思わず困り笑いで先生を見ると、先生も困惑しているらしい表情になってこちらを見ていた。

「なんか、脳裏で勝手にそう変換されたっていうか、そのまま書けっていうのは多分無理な気がする」

「あ、もしかして『その一、思ひ出喪失』は、記憶喪失のことか」

先生が頷いた。

「日の本って……」

俺は開いた口を閉じることを忘れてしまう。

「字とか和風チックだね」

「そうなのか?」

(じゃあ、あの記憶や夢は一体なんだよ)

俺の心の声を察したか、先生は言う。

「僕、病気ですか?」

俺は作り笑いで「まだ分からない」とだけ言ってお風呂に入るように言った。俺の服を着ているが、少しぶかぶかなので、何か新しいものでも購入してあげようかとも考えた。お風呂に浸かっている先生に、洗面所に替えの服を置くと言ってその場を去った時、先生を脳神経内科に連れて行くべきだろうかと考えた。


 スマホで記憶喪失と検索をかけた。あそこまで物を知らない人がいるものだろうか。そこに昔とも入れてみる。記憶の欠損の話は、怪奇現象を引き起こすものと堅苦しくかたい。脳がどうこうとは難しいというページが多かった気がするが、余白にはPTSDだとか多重人格の話。PTSDはともかく、多重人格? かと怪訝な顔を思わずしながらページを開いたが最後の方の言葉は目に入った。

『治らない記憶喪失もあります』

大学病院の先生の名前が隣に書いてあった。

「お風呂上がった」

気付けば、先生は俺が用意した黒のトレーナーと高校生の時に履いていたジャージのズボンを履いてソファーに座っている俺を、リビング入り口からキョトンとした顔で見ている。

「あ、うん」

「何かありました?」

「名無しの先生のために頑張ってるのだよ」

先生は、スマホ画面を見ようと近くに寄ってきて、見ようとするので、俺は画面を切る。先生は画面を見るなり

「黒いじゃないですか」

と、むすくれていた。俺は面白い奴だと頭を軽く撫でてみた。


「と、まあ、面白い奴なんだよ」

「あまりいじめるなよ」

大学の講義を聞き終わり、ノートを手提げバッグに片付けたりしながら辰馬と話す。

「え、宇治原くん同棲してるの!?」

前の席に座っていた活発そうな女が振り返る。ボブに揃えた髪からは花の香りの柔軟剤の匂いがした。

 その声が教室に響く。俺も辰馬も固まる。辰馬から聞いたことがあるのだが、この女は噂話が好きらしく、人の家庭内事情だったり、人間関係、好き嫌いをも調べ上げたりして、他人の弱みを握りしめて話すそうだ。いわゆる危ない女だと辰馬から聞いたが、まさか、俺の方に話しかけてくるとは

「やっぱ、イケメンは女侍らせてるよねー」

これまた後ろの席でクスクス笑いながら毒を吐いてるのは派手なファッションに身を包んだ女子二人組。昔ながらのカフェにいるモデルのような顔で羨ましくなる程に化粧をしていた。さらに髪をいじりながら言う。

「でも、当たり前かー! 当然彼女も美人なんでしょ?」

危ない女で認定している大野は詳しく訊こうと俺に近付いてくる。

周りを見ると、説明を求めるように見ている女子が多数だった。そそくさと帰っていく人もいた。俺としては、俺に興味を持たれすぎるのが気持ち悪い感覚だったので、居心地が悪かった。

「なんで、彼女がいる前提なの?」

俺がそう言うと

「え、そうじゃないの? だって、宇治原くんの虜になっちゃってる人もいるんだから」

「いや、晴矢が家に上げてるのは親戚の子だよ」

辰馬は、やれやれと苦笑いをする。それに「早とちりだろ」と言って、俺の方を見た。

「じゃあ、もしかして、晴矢くんってゲイだったりする?」

俺は、呆れ顔で大野を見た。大野は気にせず話を続ける。自分が正しいと言わんばかりに堂々としている。

「だって、女の子に見向きもしないし、鈍感にも程があるし、甘灰くんとほとんど一緒だしさ」

「違うし、辰馬を巻き込むなよ」

俺が言葉をはさむと、ニヤリとした笑顔をしてこちらを見る。まるで引っ掛かったと言わんばかりの、何とも嫌になる笑顔だ。

「で、誰が好きなの?」

大野はそのまま俺の隣に座る。グイグイ来るタイプなのかな……と思い思わずため息が出そうになる。教室内で辰馬だけが「俺、帰るよ。なんか用事できたってさっき電話あったし」と言って席を立っていたのが救いか、いや、あいつ絶対面白がってるなとまたため息を吐きながら俺は言う。

「俺も帰る」

「えー、恥ずかしがらなくていいからさあ」

「俺も用事があるんだ。じゃーね」

立ち上がって、逃げるように去ると大野は俺の隣にベッタリついてきていたが教室を出てから大野が先生に呼び出されている隙に逃げた。

 外は冷たい雨が降っていた。顔を隠し早歩きで大学を出た。自分の顔を好きにはなれない。美男子だと言われても、付き合いたいわけでもない女に褒められて嬉しいって方が無理な話だ。

 最寄駅からの帰り道は、傘をさしても濡れてしまうほど土砂降りで、駅にはタクシー待ちをしている人が多く並んでいる。

ふと前を見ると小さな子供達が水たまりを楽しそうにバシャバシャ踏んで跳ねていたりしている。『いいなあ』と思った。俺も小さい時はあんなふうに、はしゃいでいて周りは微笑ましく思ってくれていたのかと思う。母親は呆れたような、困ったような顔をしていた。

 土砂降りの中、俺は強い風と共に横へと押されていた。思わず傘の骨が頭に当たって少し痛かった。でも、その痛みのおかげで俺は現実へと呼び戻されていた。勝手に決めつけて、自分の美貌と言われている顔がコンプレックスだとおもっていて、そんなことを相談する相手もいなくて辛い。甘灰に元カノの愚痴を聞いてもらっていたが、俺の中身を見てくれない人だらけなのだと言うと、軽く受け流し、会話を終わらせられてしまった。

 そんな自分を好きになれなくて、何度も痛めてやりたくなって。

「雨、強いな」

 駅から離れたところで一瞬立ち止まると、傘が宙に浮いた。桜の花びらみたいに、散って、地面に落ちたのだ。俺は、傘を拾ってまた歩き出した。自分を見てくれる人なんていないんだと、大雨の音で耳が聞こえづらくなってきてた。

「晴矢!」

その声に身体が思い切り反応する。振り返ったら確かに声の主がいる。身長はそこまで高くない。だが、黒髪で撫で肩で女が好きそうなスマートな塩顔男だ。落ち着いた雰囲気のその男は、俺の傘を自分の持っている黒い大きな蝙蝠傘に入れると、自分のコートを脱いで俺に渡してくれる。そのコートからもいい香りがした。

「え、なに」

俺がそう言うと

「風邪引くから」

「いや、だから、なんで」

塩顔男は、ニコッと微笑んだ。

「名無しの先生が、いるんだよ。いい子で留守番してろよ」

「先程、親友と名乗る方が家にいらっしゃって、すごい扱きを女の人から受けたらしいから、お迎えに行ってあげた方がいいと」

続けて、駅までの道とコートと傘を貸してくれたと言って、続ける。

「心配だったし」

俺は彼の安堵した笑顔を見て頷いた。このホッとした表情をさせないように気を遣わなければ。

「分かったけど、親友とか言ってた人の名前教えて」

俺が問うと

「いえ、それしか言っていませんでした。僕を駅の方に案内してくれた後、すぐに帰ると言って帰ってしまったから」

「甘灰かあ」

俺と同じ美大に通っている人で、俺の家を知っている人は甘灰しかいないが、先に帰ると言って、俺のお迎えを先生にお願いしたのにはなんの意図があるのか分からない。それに、外に出るなという言いつけを守らなかったことになんも罪悪感が無さそうだった。それより、先生は息を少し切らして、俺の傍にいてくれている。

「怒られたんですか?」

「嫉妬? 自分のステータスの欲しさがあるとかそんなのかな」

雨で濡れた俺の髪の毛から雫がぽたっと落ちる。傘を持つ先生の顔が見たくなって、先生の顔を覗き込む。先生は理解できなかったように固まった後、口を尖らせて不満そうな顔をする。

「その人、自分が得したいってだけじゃん、見透かしたように言っても全部話したわけじゃないから腹が立つ」

俺に気持ちを吐いたみたいだが、それは俺の上の空。傘に当たる風のせいで、耳も痛くなってきたため、話をやめて、雨の音を防ぐように耳当てをする。

「晴矢は、伝えないの? 嫌だって」

「言える環境で育ってれば少しはひん曲がってない性格した男になっただろうよ」

先生はなんとも言えない顔で

「環境って、難しいね」

先生は困ったように微笑んで、傘を持ち直した。

 俺は立ち止まってしまう。頭に当てる雨の音が強くなって、耳が痛い。先生は不思議そうに俺を見上げて、俺の目を見た。俺もその目を見た。先生は少し悲しそうな顔をしていたがすぐに笑顔に戻ったから気のせいだったかもしれない。俺が再び歩き始めようとすると今度は先生が立ち止まった。

「中身まで、自分にある才能みたいなのを顔で潰された」

俺の声は土砂降りの雨と共に打ち消していきそうな、ささやかな声になる。

先生は、俺が恥ずかしくてそれ以上言えなくてもごもごしているのを見透かすようにして、笑顔でいた。今は、かっこ悪い自分を曝け出せそうな気がした。

「素直に甘えろよ」

先生は、自分の方に俺の手を置いた。先生は優しく俺に微笑む。

「晴矢は自分に素直じゃないね」

俺は顔が熱くなっているのをジトっと暑いため雨のせいにしようとしたが、心音がうるさくて、先生に聴こえてしまいそうで、俺は泣きそうになる。

 だから、自分の鼓動と耳に当たるうるさい風の音も聞こえないように耳をふさぎたい気持ちになった。でも、そうしようとする前に先生は俺の手を握ったせいで、先生の手も雨に当たってびちゃびちゃになっていくのを見て俺は何も言えずに先生の顔を見た。先生は切なそうに笑って

「帰りましょう」

傘を持ち直し、二人揃って歩き出した。

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