花弁雪
男から何か情報を聞き出せば、自分の夢の原因が分かるかもしれない。
単純な興味と好奇心が心を揺さぶり、自分の住んでいるアパートまでこの男を担いだ。
幸いなことに、男は細身で軽い。周り荷物を置いていなかったため、背負っていたリュックを前に持って、男を後ろに背負う。
雪が少し強くなる中、アパートまで歩いた。
多少通りすがりの人に見られたが、気にしてないふりをしながら歩いた。
自分の号室がある一階の一番奥まで行き、鍵を開けて男をソファーに寝かせた。足が少しソファーから飛び出てしまいそうだ。俺はこのソファーで寝たら足か頭が飛び出してしまうので、俺より身長が低いんだなと勝手に思った。着ていたダウンを脱ぎ、彼に掛けてあげる。
一先ず彼の目が覚めるまで待つかと考えていると、丁度良く寝ている男が寝返りした。「動いた」と思ったと同時にむくりと上体を起こす。
「あ、起きたね」
俺は、男の顔も見ずに棒読みで言う。
俺を見るなり周りをキョロキョロし始めて
「誰ですか?」
質問された。
「いや、さっき倒れてた君を運んでだ恩人」
「ああ」
「そして、君が凍死しないように、雪を凌げる俺の家までおんぶし、ここまで君を運んだ命の恩人でもある」
「なるほど」
男は全く分かっていないと言わんばかりの表情で俺を見て、とりあえず二度頷いていた後
「ありがとうございました」
丁寧にお礼を言った。
俺は、水道水をプラスチックのコップに入れて男に渡した。
「声が枯れてるから水飲みな」
「はい」
ゴクっと一口飲み、俺の顔を一瞥してきたので、俺から話を切り出す。
「で、どちら様なんですか?」
「どちら様?」
「いや、リピートしなくていいよ、お名前は?」
男の顔は段々と深刻な表情に変化する。ゆっくりと目線を俺に向けてきた。
「それ演技? だとしたら君、結構上手い方だと思うよ」
男は悟った顔になり、俯く。
「今、分かることは?」
俺は、ゆっくり思い出したことを俺に伝えるように続けた。
「なんか広い場所で君に助けられた。なんかとても大きい赤い建物が見えた」
「東京タワーね」
「赤い建物のこと?」
俺は、ひとまず一度頭を抱えた。鼻で大きく息を吸って口で大きく吐き、キョトンとしている男を再び見た。
「記憶喪失?」
男は首を傾げたので質問を変えた。
「他に思い出したこととかは? 財布もないし身分証明書も君持ってないから、俺も君の名前知りたくても調べようがないんだよね」
と、言い聞かせると男は失望したような顔で無言のまま頷いた。
「もう一個質問していい?」
「はい」
「九条大寿って知ってる?」
男は顔色を変えずに、少し考えている。
「知りません」
思い出すことを諦めたのだろう。
「そうか」
男は外を見る。
「雪が降ってます」
まるで、雪以外何かご存知みたいな言い方だと思った。
「お前の名前は分からんな」
「君は僕の名前、本当は分かってるの?」
そう問われたが、俺はこの男の名は知らない。もし知っていたとしても、この男に名前を伝えたら、この奇妙な状況を更に複雑化させてしまうだろう。俺は写真のように切り取られた記憶に目の前の男がいたということしか知らない。
だが、それも男に告げたら男が記憶を取り戻すとは限らない。何よりパニックになられたら困る。
「君のお名前も存じ上げないんですが、僕の名を知っていたら是非とも教えて頂けませんか?」
「あ……ごめん」
とりあえず謝る。すると男はまた考え出して、俺に言ってきた。
「とりあえず自己紹介しようか? 僕は記憶がない人です」
ハリがない声で男は自己紹介をする。
「……宇治原晴矢です。二十歳です。美大生です」
俺も語尾に『です』をつけ、丁寧語で話した。
「はるや?」
「晴れの日の『晴』に弓矢の『矢』で晴矢」
男は恐る恐る俺を覗いて聞いてくる。
「ここはどこ?」
「俺が一人暮らししている家」
俺は男に近づく。しゃがんで目線を合わせる。
「本当に、なんも分からないの?」
男の表情を見れば一目瞭然なのに、俺は思わず訊いた。
「すみません。はっきりした記憶はなくて」
「はっきりしてない記憶って何?」
俺はソファーの座る場所に肘をついた。少し食い気味に訊いてみると
「先生って呼ばれていた気がするんです」
「なるほど、まあ、なんも特定は出来ないけどね。でも、職業が絞れる」
「どんな職でしょうか?」
「学校の先生、もしくは塾講師とかじゃない? 君、スーツ着てるからスポーツ系の習い事とかの先生ではないんじゃない? 分かんないけど」
男はコクコクと小さく頷く。
「あとさ、なんで公園で寝てたのかとかは、覚えてるの? お酒飲んだとか、そういう記憶ある?」
少し質問し過ぎるかなと、不安に思った。けれど男は答えようと口を開く。
「名前は覚えてないんですが」
話を始めた。
「苦しかったことだけは覚えてます。喉が締まって、熱くなる感じがして」
「そうか」
よく分からないが、相槌を打って立とうとすると、男は俺が着ているセーターの裾を引っ張ってきた。
「捨てないで下さい。僕が晴矢様のお役に立てるかは現状不明ですが」
目が焦っている。俺は数秒間、男を見つめて微笑んだ。
「そういう趣味ないから。あと、『様』ってつけないで呼んで」
男が安堵したようにほっとした顔をしたので
「けど、一人で外には出ないで。東京は人が密集してるし、君が行方不明になったら今度こそお釈迦になるぞ」
「お釈迦は嫌です」
男は焦ったような目で見てくる。
「なら、暇かもしれないがここにいるんだな」
男は裾を離した。
「じゃあ、俺は先生って呼べばいいの? でもなんか嫌だな、学校の先生が俺の部屋にいるみたいで」
「嫌なら、別に晴矢が呼びやすい呼び方で構わないけど」
そう言いながら、俺がかけたダウンを畳む。
「いや、ネーミングセンスないから名無し先生って呼ぶ」
「ぴったりですね、名前分かりませんし」
「文句ある?」
俺の方が少し恥ずかしくなってしまい、そっぽを向く。
「いいえ、ありがとう」
柔らかい声だと思った。先生の微笑んだ顔は、雪にも劣らない綺麗な灯火のようだった。
外の雪は今日の夜には数センチ積もるらしい。明日はちゃんと電車は動くのだろうかと窓から降っている雪を眺めた。