3 苦手なタイプ
アリアドネとサラは16歳
「聞いたわよ。また振られたんでしょう」
「噂の回りが早すぎる……」
「貴方のお兄様がアネッサの利権を競り落としたのが効いたわね」
「あれだけやめてって言ったのに……ッ!」
ドアンは煙草屋を潰すつもりだと言っていた。最早それに関してはしょうがないと目をつぶっていた。
知らないうちに最近流行りのカフェテリアの利権まで手に入れるとは。
昨日の今日で、だ。
我が兄ながら恐るべき瞬発力である。
「諦めなさい。レグリオンに不可能は無いのでしょう。貴方の名誉を守るためなら店の一つや二つ綺麗に均してやり直すわ」
「強引なんですうちの家族は……」
「わかっていたことでしょうに。ふふ、今更だわ」
銀色の髪を耳に掛けながら蠱惑的に笑う。思い出し笑いのような微笑みでもあった。
サラは有名なドミニク侯爵家の長女だ。ドミニク侯爵家も私達と同じ魔法使いの一族だ。ただ国家魔法結界には携わらない国政の魔法使い―――つまるところ政治家なのでレゼの称号は持っていない。そして彼女一族は全ての人間が魔力を持っているわけではない。
そもそも産まれてくる人間全てが魔力を持っているレグリオンが異常なのだ。私だってこんな見た目に魔法が使えない魔法使いだが魔力はある。
そして私のことを噂で判断しない稀有な人間。またの名を幼馴染と言う。たまたまレグリオンの隣に屋敷があることから幼い頃からよく遊んだり相談に乗ってくれている。
"勘違いアリア"と呼ばれる私を友達と呼んでくれる優しい友達だ。
「でもアレは買い取って正解だと思うわよ? だって"アネッサ"は良くない話が多いし……」
「そうかな……彼処の店員のお姉さん、優しい人だったけどなぁ」
「店員が優しくても良くないことは行われるわよ」
「それもそうか」
被害は煙草屋で食い止められると思ったが、結局度々噂話が広められたあの場所をドアンはよく思わなかったようで、兄のご希望通り煙草屋はなくなってアネッサの経営者は挿げ替えられた。
兄は過激ではあるが横暴では無い。本当に悪い所がなければ制裁を加えたりしないのだ。多分それなりに良くないところがあったのだろう。実際、アネッサでは私の噂話以外にも薬物の取引やいじめの現場にもなっていたみたいだ。
「アネッサで"黒い夢"の取引があったみたいでね。直ぐに調査団が乗り込んでそのまま利権を売り出したようだわ」
「黒い夢!?」
「最近多いわよね、"暗黒魔術師"絡みの事件」
「私昨日普通に店に行ったんだけど……」
ミュリエルが魔法薬を届けに来たのはそういう理由があったのかと数日遅れて気がついた。わざわざ足を運んで手渡しをするなんて、とてもサービスが効いていると思ったのだ。
だってミュリエルは姿形で声をかけるような人間があまり好きではないから。
"暗黒魔術師"と言うのは"暗黒魔法"の使い手の総称だ。"暗黒魔法"は人の負の感情に付属する闇属性の魔法で、その一部は禁術に指定されており、また平時に城下で使用することを禁じられている魔法だ。
暗黒魔法はその強力さ故に戦時下では重宝されたが、平和な時代が続くと逆に帝国に混乱を招くとしてほとんど禁じられている。
暗黒魔法の殆どは人を害するものが多く、また洗脳魔法に特化しているものもありとても危険なのだ。何より暗黒魔法は強い精神力とかなりの修練を熟さなければ術者本人の魂を汚す。
城下にいる普通の人間が使えば確実に狂化状態に陥って死を迎えるだろう。
その中でも"黒い夢"というのは所謂麻薬のようなものだ。真っ黒な親指大の小瓶に詰められた黒い水のようなもの。香水のようにして体にふきかけて一夜を過ごせば欲しいものが手に入る。使用者は欲しいものの大きさによっては命を落とす。
例えば、欲しいものがあって、それを黒い夢に願ったとすれば自分が持つものを何か一つ失うことになる。それが好きな人、とかになれば身の回りの誰かを失うことになるのだ。
欲望が大きければそれに比例して代償がある。それでも望むことをやめられないのが人間の運命だった。
そんなものが取引されていた場所にいたなんて。私はぶるりと身体を震わせた。魔法使いにだって怖い魔法はある。
「まぁ貴方は魔法耐性だけは強いから安心ね」
「謎だよね……魔法使えないのに魔法耐性だけって」
そう、私は魔力は子どもレベル、魔法は使えない。致命的な血管ではあったがその魔法耐性―――もとい、"対魔力"だけ数値が異常に高かった。言うなれば魔法攻撃により大量の爆弾が落とされたとして、天文学的な数値で私には当たらないのだ。
これは数あるイタズラに置いて実績が出ている。
「でも大事よ? 洗脳や魅了耐性とかって即日学べるものじゃないもの。それは貴方の才能よ」
「へへ……才女に言われると嬉しいな」
「あら、もっと褒めなさい。語彙が少ないわよ」
サラは照れることなく言ってのけた。こういう自信満々なところもサラの好きなところである。何を隠そう、ドミニク伯爵家きっての才女でその才能はミュリエルも目をかけるレベルだ。
学園に通う殆どの男女がサラを誉めそやすのだが、彼女本人は「私より貴方の方がすごいのよ」といつも言う。それが嘘では無いのだからいつも驚きだ。
才能溢れる人間は平凡に憧れるとか言うやつだろうか。
と言ってもサラは貴族らしく平民に対して興味は無いので別の理由がありそうだ。
べちゃ、と音を立てて何かが机の上に落ちる。すんでのところで軌道を変えた水のような何かは私のケーキの上にぶっかかった。
微かに魔力の匂い。私に向けて投げられたようだ。これが私の魔法耐性だった。私には魔法が当たらない。
チッ、と苛立ちからか舌打ちのようなものが聞こえた。いや絶対舌打ちだ。
面倒だと思いながら魔法の起点を探す。直ぐに犯人が割れた。
「ごめんなさいね。あまりにも輝きが無かったものだから」
学園のすぐ側にあるカフェのテラスには私とサラだけがいた。アネッサとは違い長らく経営している年季の入った店で、普通の令嬢は寄り付かない。洒落っ気も最新さも無い落ち着いた雰囲気の喫茶店のようなものだから。
サラはびしょ濡れになった私のケーキを見ながらフゥ、と深くため息を着いた。マズい、キレる一歩手前だ。
「あらあらァ、勘違いアリアが金魚の糞をしているわぁ」
「ふふふ、おやめになって差し上げて、リュミエール様。そうせねば学園に通うこともできないのですよ」「ここは寛大な心で許して差し上げましょう?」
「あら、それは失礼」
子鳥のさえずりのようなものを聴きながら私は曖昧に笑った。リュミエール・フォン・フォンタナシアは腕を組みながら私を見下ろしている。
私の反応がお気に召さなかったのか、視線はサラの方を向く。
「この前の夜会、貴方も来ていたのですよね。サラリース様」
同じ侯爵家であり、同じ魔法使い見習いでもある彼女はことある事にサラを意識していた。多分サラと仲良くなりたいのだと思う。サラは侯爵家きっての才女であり、さらに言えば銀髪を持つ有望な魔法使い見習いなのだから。
髪色は魔力の強さに反映する。金色は誰もが認める極小数の強い魔力の持ち主だが、それ以外も明確に色分けがあった。金に次いで強い魔法使いの証である銀色、一般的な魔法使いの茶色、ほとんど魔力がないと言われる錆色──赤毛。それ以外は揃って魔力無しだ。
リュミエールの欲しい場所に私がいるから余計に私が嫌いなのだ。納得の理由だ。
「アリア、貴方また振られたのでしょう? 可哀想に手当たり次第に声をかけて……申し訳ないけれど、恋というのはそういうものじゃないのよ?」
サラと似たような台詞を吐きながら全く違う感情を乗せられる。居心地が悪いと思いながら、くどい仕草で私を舐めまわすように見下ろした。蛇のような目だと思った。
リュミエールが何かとアリアに突っかかる理由を理解していても気分が悪いのは変わらない。
リュミエールはわざとらしくハンカチを取りだして広げながら濡れても無い手を拭った。
「まぁ! リュミエール様、そちらのハンカチは……」
「あらッ、ごめんなさいね。間違えてしまったわ」
何を間違えたのだろうか。使う必要のないハンカチを取り出したこと?たしかに間違いでしょうね。
わざと見せたということはアピールポイントなのだろう。あからさまに縫い付けられている特別な刺繍に思わず私もサラも目を丸めた。
「その刺繍、帝国の紋章では?」
「ああ……見てしまったのね」
見てしまった、ではない。見せたのだろう。私は何を見せられているんだと思いながらその光景を見ていた。
サラも同じ心地なのだろう。呆れた、と言いたげな視線を向けているがリュミエールは気が付かない。むしろ「ごめんなさいね」と優越感に目を細めている。
申し訳ないが私は恐れ戦いた。それは羨ましくて、ではなく"あまりの不敬さに驚いてドン引きしていた"という意味で。
先程言っていた先日の夜会と言うやつに出席した時に皇太子に出会ったのだと言う。継承権第五位の末の皇太子様は私達と同い年でつい最近立太子された。一瞬の逢瀬だからこのハンカチを渡されたのだと彼女は言っているが、もしそれが本当だとしても一国の皇太子の行動を仲良くもない私たちに伝えるのはあまりにも恐れ多いことだ。
極めつけには―――。
「"レゼ"の名を貴方が持つなんてね? あなた知ってる? ミュリエル様もよく言っていたわよ。混ざり物がいると大変だって。ふふ、私の方が余程"レゼ"を上手く扱えるわ」
サラの魔力が高まる。私は慌ててサラを止めた。私への侮辱でサラが目立つことは無い。
そして私は腐ってもレゼ。魔力が少なくても魔法が使えなくても、レゼとしての誇りは捨てない。
そう、レゼであることは宿命だ。なりたくてなれわけでも、やめたくて辞められるものでも無い。それを理解している。
吐き出された嘘は全部わかっているのだから。
「―――フォンタナシア侯爵令嬢様、僭越ながら申し上げて宜しいですか?」
私は背筋を正して立ち上がった。
「はん、何か言いたいことでも? いいわ。許してあげる」
嘲るように笑いながら彼女は私を見定めた。その視線には覚えがある。貶していいと認めた標的に対する蔑みの視線だった。
そんなものは全く怖くない。
だって私は無敵のレゼ。レゼは誇り高き大魔法使い。
「失礼ながら皇族との関係を示唆することは禁じられています。そして―――レゼの名を斯様に扱うことを。私を貶すために御自身の一族を危険に晒すのは、悪手では無いでしょうか」
びくり、とリュミエールの肩が揺れた。一瞬困惑したのは彼女の金魚の糞でもある同じ伯爵家の令嬢達だ。
レゼは国から与えられた大魔法使いの称号だ。レゼの名を持つだけでその身元を保証され、レゼの名を持つ魔法使いの一族はそれだけで王侯貴族に等しい権力を持つ。もちろん私のようなレゼの下っ端が政治や魔法技術について口を出すことはない。しかし、それでも権力があるのだ。レゼとはそういうことだ。
レゼは一人に与えられるものでは無い。長らく帝国に安寧をもたらし続ける誇り高き魔法使い達への最高の褒賞なのだ。
だからこそレゼの名を語ったり貶めてはならない。レゼの名を語ることはすなわち死である。
「な、なによ……!」
「本心から申し上げております。私の姉が皇太子様と共に国家魔法結界の整備に当たる仕事をしていることは周知の事実だと思いますが―――貴方様がそこまで言い切るということは、この件に関して姉に質問させていただく必要がありそうですね。もし皇太子様がフォンタナシア伯爵令嬢様にそのような行動をしたのであれば、より一層話すべきではないかと思います」
姉の名を出したくはなかったが、さっさと退場してもらうにはこれしかない。お姉ちゃんは継承権第一位のルペルト皇太子と仲良しである。二人は息が合う時はとてつもなく仲がいいのだが、反りが合わない時は城壁の一つがぶっ飛んだりする。
まぁどれだけ姉が暴れても次の瞬間には完璧に修理してしまうので問題がない。
ルペルト皇太子は銀髪であることから魔力の高さも相まって人気の皇太子である。皇位継承者の中で唯一の魔法使いであることは皇位継承に有利であり不利であった。
つまるところ魔法使いと皇室が密接な関係になることを恐れているのだ。その他の貴族は。
そこの折り合いをつけるにはまだ時間がかかるのだとこの前お忍びで家に来た時に愚痴っていた。
何が言いたいかと言うと、それぐらい仲がいいことを世間でも認知されており―――つまりはリュミエールの嘘は直ぐにバレるという話だった。
先に脅えたのは背後にいる伯爵令嬢達だった。リュミエールの言葉を嘘と理解した、と言うよりも"レゼ"の名を汚したことへの恐怖だと思う。
「りゅ、リュミエール様……」
「興が削がれたわ。帰りましょう」
令嬢達の様子を見ながら歯ぎしりでもしそうな表情で睨みつけられる。御機嫌よう、と全然御機嫌ではない声で言われたので返事は出来なかった。最初から最後まで慌ただしい人であった。
サラは「喧しいのがやっと去ったわね」と言いながら新しいケーキをポケットマネーで注文してくれた。
再度二人のお茶会が始まればサラは盛大な溜息をこぼした。
「私がやりたかったのに、全部とられてしまったわ」
「何を言うつもりだったの……」
「お前が言うその夜会の時に、ランドール殿下に擦り寄って香水がキツすぎるとやんわり振られた所をこの目で見たし、今お前が持っているそのハンカチもプレゼントではなく"化粧が剥がれているよ"と哀れみから受け取ったものだと知っているけど、それでもこの茶番を続けなければならない? とね」
「あ〜〜〜〜〜勇気出して良かった!」
そんなこと言ったらプライドズタズタにされたリュミエールがどんな報復に出るもんか知れない。怖かったけど立ち向かってよかった。
サラは拳に溜めていた魔力を直ぐに霧散させた。恐ろしいことにサラの得意魔法は攻撃特化だ。攻撃力を底上げして拳で殴る。
そしてそれは姉と同じ得意魔法であった。
―――私の周りはど〜〜して血の気が多いのぉ!?
二人の兄も姉も揃って直ぐに攻撃態勢に入るのだ。
回復魔法を評価されている姉も気がつけば攻撃力を上昇させる魔法が得意になっていた。だからレグリオンは血の気が多いと言われてしまうのだ。
サラが右手を握っては開いてを繰り返す。
「ミュリエル様に教えていただいた秘孔突き、そろそろ試せるかと思ったんだけどね……」
「機会が来なくて良かったわ。これからも人体には当てないで、私との約束よ」
「魔法使いは出来ない約束はしないわよ」
悲しいことに魔法使いというのは正直な生き物だった。
私の周りには正直で血の気が多くて、私のことを大切にしてくれる人が多い。だからこそどうしようもなくやるせなくなる時がある。私のせいで必要のない嘲りを家族が受けるのか、友人が受けるのか、と考えるとどんよりした心地になるのだ。
いい子ぶってるとかそういうのではない。好きな人に無用の心配をかけるのがとんでもなく嫌なのだ。
「アリア、私は貴方が虐められているのを知っているわ」
「突然だね」
「私がそばにいるせいで余計にやっかみを受けてしまうのよね。美人で頭も良くて魔法も使える。まぁ非の打ち所が無いものね」
「おっしゃる通りですが…………」
「けどね、誰が何を言おうと私はあなたのそばにいるわ。貴方が嫌だと言ってもね。分かる?」
「あ、うん……もう嫌という程」
「だから貴方もうじうじ悩むのはよしなさいな。魔法使いって言うのはね、揃ってわがままで独裁的なのよ。だから貴方もどうなったって知らないの心地でいればいいの」
何度も距離を置こうとしても、家族も友人も、大切な人は離れてくれない。どんなに惨めな気持ちになっても、貴方を手放すことは出来ないと言われるのだ。
分不相応で恐れ多い。なのに突き放せない。
私も―――魔法使いだから。
「もちろん。とっくの昔に覚悟を決めてるわよ」
でなきゃ一日で失恋の傷が癒えたりしないもの。
それから課題の話をしたり、最近の流行りや、いつも通りの愚痴を交わした。何も考えず思うままに話すのは楽しい。サラはいつだって堂々と私を振り回すのだ。
「いけない、提出プリントを忘れたわ」
カバンの中を整理しながら、サラがこの世の終わりみたいなトーンで呟いた。有り得ない言葉に思わず聞き返す。
「え、サラが?」
「……初めてだわ。こんなこと」
「挙動不審になっちゃってるよ……だ、大丈夫。今気づいたんだから忘れてないよ。取りに行けばいいの!」
ガタガタと身体を震わせながらカバンの中を漁る。サラはおおよそ完璧な女の子だった。勉強も運動も何もかも、身嗜みや私生活に感じてまで完璧な女の子。それは努力して、頑張って、そういう類ではない。彼女は生まれながらに完璧なのだ。ミュリエルと同じである。
そんなサラが提出プリントを学校に忘れたのだと言う。一大事だ。明日槍が降るんじゃない?
「私、ドアン様から貴方の面倒を見るように頼まれているのに」
「何でお兄ちゃんはそこまで心配するかなぁ???」
「貴方は自分のことを卑下しがちだけど、レグリオンの星であることは確かなのだから自信を持ちなさい」
レグリオンの星―――"レグリオンに生まれる四番目の星は一族を繁栄させ国を闇から守るだろう"という託宣があったのだと言う。もちろん託宣と言っても予言のようなものではなく、占いに近いものだ。
ただそこまではっきり細部まで言伝があったのは初めてなので家族は私のことを四番目の星だと本気で思っている。
んなわけ。
もちろん家族が私を大切にするのは託宣でないことは明らかだ。嘘をついていないことは分かる。
「ドアン様は貴方が心配で仕方が無いのよ?」
「……わかってるわ」
諭されるように言いきられてしまい苦笑いを返す。昔からサラはドアンに甘いのだ。私がどれだけ兄のやばさを説明しても「でもカッコイイわよね」と一蹴される。
まあ美形なのは紛うことなき事実なのだ。
動揺して兄のことまでバラしてしまったサラが面白くて思わず笑ってしまう。仕方がないな、と言いながら私は席に着いた。
「さあ、サラ。じゃあ私はここで待ってるか、チャチャッと学校に取りに行って来なよ。そしたらお兄ちゃんとの約束、破ってないんだから」
「……プリントくらい朝一でやればいいわ」
「教室で朝一あんたがプリント解いてたらみんなびっくりするでしょうが! いいから取りに帰んなさいよ。どうせ五分もかからないわ」
ここは学校のすぐ前にある寂れた喫茶店だ。サラの足で走れば五分は本当にかからないだろう。
動く気のない私の様子を見て観念したのか、カバンは置いておくから、とサラが席を立った。
「……絶対他の人について行かないこと」
「私のこと赤ちゃんだと思ってる?」
何その初めてのお使いみたいなやつ。
「いいこと?」
「わかってるわよ!」
再三言い含められて私は思わず大きな声で返した。そこまで赤ちゃんではない。
◇ ◇ ◇
サラが頼んでくれたミルクティーが届いた。クリーム増量のシュガー多めだ。甘くてふわふわなところが好きだった。更に上に生クリームが雲みたいに乗っている。
すぅ、と鼻先で匂いを味わってから口をつける。感触からして白い髭が着いてしまったようだ。まぁ概ね飲む前から分かっていたことだ。
花の香りがする。甘い花の匂い。
男は了承も得ずに私の席の前に座った。
どっからどう見てもサラのカバンがあるのに、だ。しかも「相席いいですか?」の言葉もない驚くことに礼儀をかいたその男は貴族のような服に包まれていた。
―――こんなところ、お貴族様が来るとは思えないのに。
ここは学園に一番近い喫茶店だ。貴族の入りはそこまでないが、学園に通う平民以下の生徒が重宝している。
貴族と言うのはブランド物が好きで――それには製品の安全やルートの確保、相応しくない薬物が含まれない信頼がある、という理由もある――城下にある自営業とかに関心がないのだ。
しょうがない。貴族諸君に必要なのは未来を生きるためのコネで、益にならない休憩はしないのだ。
時たまサラのような珍しい貴族がいたりするけど。まぁサラは特別だ。身分と、それを超える才能があるから堂々と出来る。
実際自信が無い人間はラベルを補強して自分をよく見せたがるものなのだ。
「こんなところにカフェがあるとは思わなかったよ」
「……それは残念です。結構長く続いている店なんですよ」
暗に何で知らねぇんだよという嫌味を乗せたがあまり効いていない。
「名前を聞いても?」
「アリアドネです」
「そうか、アリアドネ。可愛い名前だね」
「……ありがとうございます」
さすがにサラの席に座る度胸は無いのだろう。空いていた隣の席に座る。おかげで私の近くだ。
サラが話がしたいと言うから今日は貸切ったのだ。もちろんサラが。
私達以外の客はいなかったから、四人分の椅子がある席で向かい合わせに喋っていた。
「いつもここにいるの?」
「はい。……時間があれば」
さっさと席を立ちたいのだが相手は貴族だ。しかも腕章には国家公務員の印が着いている。王城務めのエリートであることが伺えた。
レグリオンは確かに皇室から正式に"レゼ"を賜っている。だからいつだって不遜で、傲慢で、堂々としているのが私たちだ。だがそれは自分に自信のあるもの―――実力のあるものの特権だった。
私は確かにレゼだけれど、その力は外で証明したわけではない。人の言葉の真贋を見抜けることは確かに魔法使いたる理由にはなるのだが、一般人からすればレゼなのにそれくらいしか出来ないの?ということだ。
そう、それくらいしかできませんとも。
だから私が堂々と立ち向かえるのはレゼを貶された時だけ。私は私のためにレゼを使うことが出来ない。心の準備が出来ていないから。
「ね、話したいことがあるんだ」
「お戯れを……」
机の上で握りこんでいた両の拳に手を重ねられた。許可もなく触れるだなんて無礼な人だなと思う。
「なぁ、君ってミュリエルの妹だろ?」
「……はぁ」
うわ出た。いつものパターンの声掛けに思わず溜め息が出た。
【メモ達】
▶︎国家魔法結界
世界の中心にあるマグノリア帝国は周囲を他国に囲まれている上に魔法大国なので昔はよく戦争の標的にされていた。
国家魔法結界は"レゼ"の魔法使いを筆頭に帝国の優秀な魔法使い達が人生をかけて強化している国家間の争いを防ぐための結界。