心怪盗
ジャンルが分からなかったのでひとまず純文学に設定しております。
違うと感じたら気にせずお申し付けください
彼の怪盗は昼夜を問わない。彼の怪盗は予告状を出さない。彼の怪盗は金品を求めない。彼の怪盗は社会を脅かさない。彼の怪盗は知られない。彼の怪盗は実在しない。彼の怪盗が盗むのはただ一つ――人の心である。
心を盗むというのは虜にすることではない。文字通り盗むのである。奪うのである。心そのもの、感情と言っても言いだろう。
彼の怪盗はある一つの感情を盗むのみ。ただ全てを盗むわけではない。ある感情の内の一つを盗むのだ。
喜びにしてもそれは多種多様に渡るだろう。怪盗はその内の一つを盗む。得た喜び、失った喜び、知った喜び、共有した喜び……怪盗はどれか一つを盗む。
彼の怪盗の目的は分からない。人を幸せにするためか、己を祝福するためか。はたまた人を不幸にするためか、己を満たすためなのか、枯らすためなのか生かすためなのか、殺すためなのか。
彼の怪盗は今日も盗む。己の存在がそこにしかないからだ。
ベッドに腰掛け窓の外を眺める。三日月が部屋の中を微かに照らす。しかし、月明かりは僅かなもので部屋の主には照らされているという感覚はない。
月を見上げるとどこか遠くに飛んでいるような錯覚に陥る。部屋の主はいつもそれを楽しみ、心をどこかおいてけぼりにしていた。
それにずっと浸っていたい。その心と裏腹に飛べば飛ぶほど自分の存在が希薄になり、暗闇が迫っているように感じる。闇が自分を飲み込む前に目を伏せ自分へと為る。自分に為ったはずなのに心は重たく自重で地中深くに埋まりそうなる。
一つ息を吐き布団に体を預け目を閉じる。眠りにつかなければ心が消えてしまいそうだから。
心と体が真綿で支えられる。自分が保たれる。不安が、恐怖が消えていく。ある種の安心感に身を委ねていると
「初めまして。心怪盗です。あなたの心を盗みにきました。」
声がする。目を開き部屋の中にいる人物を睨みつける。安寧を邪魔された。
ありったけの怒りを視線に宿し侵入者を突き刺す。
「おやおや、そう純度の高い“怒り”をぶつけないでください。間違って盗んでしまう。」
笑っているのかくつくつ、と声がする。
現れた人物の顔は上手く認識できない。それどころか体躯も分からない。声にも雑音が混じる。気味が悪い。
「さて、あなたから何を盗もうか。“怒り”は違うし、うーん……」
悩みながらこちらを見ている。視線を感じる。
心を覗かれている? 違う、これは──
「ああ、これだ、これ。この記憶が大事なんだ。それとそれに付随する尤も強い感情──盗ませてもらうよ。」
手が伸びる。胸元にゆっくりと伸びてくる。逃げることも出来たはずなのに体が動かず手が体へと入っていく。
心を脳を記憶を探られる。かき混ぜられる。乱される。気持ち悪い。
「うーんと、えーと、どれだ? これか、いや──これだな。」
自分の何かに指が手がしっかりとかかる。ぞわりと体に何かが走る。
侵入者は目当ての物を探り当て手を引き抜く。
何かが欠ける。何か大事でとても小さな事だ。
「うんうん。この“悲しみ”。これが欲しかったんだよ。」
怪盗は光る感情を愛おしそうに撫でる。自分から離れたものなのに体が粟立つ。
「か、返して。それを、返せ!」
取られてはいけない。あれがないとあれが消えると私が別の私に為る。
怪盗が笑う。嗤う。顔は相変わらず分からない。
「だめです。これは盗られたもの私のもの。では、目的のものは手に入ったので私はこれにて。」
優雅に一礼をして窓から飛び降りる。部屋の主は布団から動けず眺めていた。
怪盗が部屋を出た瞬間に変わった。私が私に為った。
「お姉ちゃーん! 起きてるー? 明日の朝起こしてくれなーい?」
妹が部屋の外から大きな声で呼び掛けてくる。
いつものこと。妹はいつも部屋の外から私に大きな声で呼び掛ける。
ああ、なんて幸せか。部屋の主は布団から下りて窓へと近づく。
「お姉ちゃんもしかして寝てるのー?」
いつの日かの記憶。幸せの象徴。世界にとって些事でも私にとっては大切で大きな存在。その幻想に囚われる。
「起きているよ。少し待っていて。」
優しく微笑み部屋の主は妹に会うため窓から飛び出した。