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中編

※この話の終わり頃から、ようやくコメディ。

 噂が回るのは風よりも速い。それが醜聞であればなおのこと。


 ――エジェリー・バシュロ・ブランはお飾りの妻らしい。

 ――マティス侯爵がエジェリーと結婚したのは都合が良かったからではないか。

 ――家柄が古く、権威はあるが権力はなく、従順で地味な娘。

 ――いつも自宅のそばで目撃されていたブラン侯爵が、最近はとんと姿を見せないらしい。

 ――宴には新妻も連れず1人で現れるとか。

 ――そして、宴では美しい独身の娘たちと踊っている!



 そんな噂が王都を巡るのには、二ヶ月もあれば充分だった。

 アモロス伯爵邸の大広間にいても、あちこちからチラチラと視線が飛んでくる。

 好奇、憐憫、嘲笑、様々な感情がエジェリーに突き刺さる。


(……予想はしていたけれど)


 エジェリーは背筋を凜と伸ばし静かにしていた。そうでもしないと、体が震えそうだった。

 隣にいるマティスは不機嫌さを押し殺した無表情で、苛々するあまり周りの視線には気がついていないようだった。


(マティス様はどうなさるおつもりなのだろう。おおっぴらに私を「お飾りの妻」と呼ぶのかしら。そして……)


 考えれば考えるほど想像は嫌な方向へ膨らんでいった。


「エジェリー。私はシスト伯へ挨拶してくる。ここで待っていろ。動かないように」


 シスト伯はマティスの親友だった。目線をあげると、いたずらっ子のような表情をした長身のシスト伯が、遠くでエールの入ったゴブレットをひょいとあげてこちらへ合図を送って見せた。

 マティスは軽く手を挙げてみせてから、人の山を縫ってシスト伯に近づいていく。エジェリーから離れたとたん、美しく着飾った独身の娘たちや、娘を連れた貴族たちが、餌に群がる鳥のようにマティスに向かっていった。


 一方のエジェリーはーー。


「どんな手を使って侯爵夫人になったのかしら」

「でも哀れよねえ、お飾りとわざわざ明言されてしまうほどの無意味な妻なんて」


 クスクスという悪意に満ちた笑い声が聞こえた。

 はっとしたエジェリーは、いつの間にか意地の悪い顔をした中流貴族の娘たちに囲まれていることに気がついた。マティスが側を離れたとたんこれだ。


 宴を催しているアモロス伯爵の手前、彼女たちはおおっぴらにエジェリーを取り囲んだり罵ったりはしなかった。が、エジェリーに背を向けながら近づき、遠くにいる誰かを非難するかのように嫌味を言う。


「ねえ、マティス様は運命の女性を探しているそうよ」

「まだ新婚なのにねえ。……でも気持ちは分かるわよねえ?」

「新妻があれじゃあ、ねえ?」

「ねえ」


 クスクス、クスクス。


(大したことじゃない……こんなの、大丈夫。落ち着くのよ、落ち着いて、ブラン侯爵夫人がどうすべきか考えるの)


 エジェリーは表情を見せないように穏やかな微笑みを顔に貼り付けて、黙って心の中で呟いた。

 遠くにいるマティスとシスト伯は楽しげに話し、シスト伯は時折、エジェリーへチラチラと視線を投げてきている。


「聞いた? 結婚してから今日初めてなんですって。あの方が妻を連れて夜会に出たのは」

「アモロス様は結婚を取り持った張本人ですもの。あの方も断れなかったのよ」

「いやあね、可哀想! 妻が私たちくらいまともだったらよかったのにね」

「ふふ、そうよね。あれじゃあ……いくら着飾らせても野良犬を連れて歩いているようなものだもの。興ざめだわ」


 着飾った魅力的な若い貴族の娘たちが、どっと笑った。


 エジェリーはぐっと手を握りしめた……が、内心は意外と冷静だった。

 嫌味を言われるのは恐ろしいし、傷つく。だがマティスに直接なにか言われるよりはマシだった。

 それに、彼女たちがエジェリーを悪く言うのは単なる嫉妬だと分かっている。彼女たちがマティスに秋波を送っていたことも知っている。


「私を本妻にしてくださらないかしら」

「なんであなたなのよ、私よ。あなたのその髪色、まるでエジェ……あの妻にそっくりじゃない」

「全然違うわ! 一緒にしないでよね、あんなカビの生えたような惨めな女と」

「ふふん、私なんてこの前、二曲も踊っていただいたのよ?」

「なによ、私は手に口付けてもらったわ。人より長く、ね」

「私はーー」


 女たちは次々にマティスとのエピソードを語り、優越感に満ちた笑みを浮かべてはちらちらとエジェリーに視線をよこす。

 ーー私はこんなに愛されているのよ? あなたと違って。

 そんな声が聞こえてきそうな視線を。


 愛され自慢が過熱し始めた頃、1人が囁くように、しかし鋭い声で口を挟んだ。


「シッ! ちょっとあなたたち、あれ」


 あっという間にエジェリーの周りが静かになる。

 訝しく思ったエジェリーが顔をあげると、よく見知った顔がそこにあった。


「やあ、エジェリー。『元気そうで』なによりだなあ。さあ、こっちへ来なさい」


 穏やかな物言いなのに、地の底を這うような重苦しい声色。笑顔なのに誰かを射殺さんばかりの剣呑な目付き。

 そこにいたのはフェルナン・バシュロ伯爵。栗色の髪に鳶色の目をした、2カ月ぶりに会うエジェリーの兄だった。

 バシュロ伯爵家は確かに王都での権力はさほどない。だが軍事力は他の領主と同じほどあるし、領地も安定している。

 感情に任せて、面と向かってバシュロ伯爵家当主にケンカを売る者はさすがにいない。嫌味くらいは言ったとしても。

 エジェリーを取り巻いていた女たちはそそくさと散っていった。


 エジェリーは目を見張った。


「フェルナン、来てたの! 聞いてない……ちょ、ちょっと」

「いいから来るんだ」


 笑顔の下で怒り狂ったフェルナンは、エジェリーを強引に控えの間の一つへ連れ込み、詰め寄った。


「どうなっているんだ、エジェリー。なぜ黙っている。おまえが我慢する必要はないだろう」

「フェル、何を聞いたの?」

「何をだって? あれもこれもだ! ブラン侯爵はお前をお飾りの妻として迎えた、愛など欠片もない、既に不仲だ、由緒ある我が家(バシュロ)の血を欲したのは子供を作るためだけだとな! あの男は愛人を作ろうと女を物色しているそうじゃないか」


 エジェリーは言葉に詰まった。

 フェルナンは、エジェリーとマティスの結婚式に出た後すぐに王都を立ち、領地へ戻ったはずだ。それなのに、マティスの噂は充分に聞いているらしい。

 笑顔をひっこめたフェルナンは、青筋を立てて唇の端を震わせ、エジェリーの両肩を掴んだ。


「お前には矜持がないのか? それに、これはおまえだけの問題じゃない……我がバシュロ家が見下されているんだ。チッ、ジョゼット様のあの優しげな態度はお前を騙すつもりでーー」

「違うの、そうじゃない! ジョゼット様は」

「ならば、なぜ自分の息子を止めない? クソッ、マティスはどこだ。俺が直接」

「やめて、誤解があるのよ!」

「何が誤解だ! だいたいマティスはーー」

「私に何か用だろうか。そろそろ妻を返して頂きたいのだが」


 予想以上に早く、マティスが控えの間へやってきた。

 急な登場に隙を突かれたフェルナンから、マティスはエジェリーを奪い取るかのように引き寄せる。

 しかしフェルナンは怯まず、牙を向くような笑顔を浮かべて、エジェリーを掴むマティスの腕を押しとどめた。


「別に返さずともよかろう。しょせんお飾りの妻なんだろう?」

「お飾りだからこそ夜会には必要なのではないか」


 あっさりとエジェリーを「お飾り」呼ばわりしたマティスに、フェルナンは笑顔を消した。


「奇妙だな? あなたは妹を『お飾りだから』という理由で夜会に出さなかったのではないか」

「その通り。だがいずれも私の自由だ」

「貴様!!」

「待って!」


 エジェリーは掴みかかりそうなフェルナンの前に立ちはだかった。


「お願い、聞いて。あのねーー」

「エジェリー、いくぞ」

「おい、待て!」

「フェル、黙って見守ってて」


 お願い。


 エジェリーはマティスに控えの間から連れ出されそうになりながら、なんとかそれだけを伝える。

 フェルナンは鼻にしわを寄せたが、控えの間の外で騒ぐわけにはいかないと思ったのか、不承不承、頷いた。





 マティスとエジェリーが控えの間から出たとたん、二人はの側にでっぷりと肥えた中年の貴族の男が近寄ってきた。男はマティスを待ち構えていたようだった。彼の側には、娘と思しき美しい金髪の娘が頬を染めて立っていた。

 男は一通り丁寧に挨拶した後、娘をマティスの前に押し出し、猫なで声で言った。


「どうです、ブラン殿。父親に似ず美しいでしょう? はっは、我が娘ながら惚れ惚れしてしまうのですよ」

「ええ、夫となる男は幸運でしょうね」


 穏やかな物言いで褒めるマティスに、男は鼻の穴を膨らませてマティスにすり寄った。


「どうです、我が娘を……あなた様のものとするのは? 心も優しく良い子です」

「……ふ、お飾りとはいえ、妻がおりますので」

「いやあ、お飾りはお飾り。あなたを支える『本物の妻』が必要でしょう」

「妻は1人で充分ですので」

「はは、お若いのにさすが。慎重ですな」


 男はずいと身を乗り出して、ちらりと冷たい目でエジェリーを見た。顔を赤くしていた娘も、父親とそっくりの嘲笑を浮かべてエジェリーを見る。

 エジェリーは縋るようにマティスを見上げたが、マティスは黙っていろと言うかのように、エジェリーの腕に回した手に力を込めるばかりだった。

 そんな二人の様子に、男は思わずというように失笑した。


「にしても、あなたはなぜ、こんな……エジェリー殿を娶ったかな」

「むろん、条件に合っていたからですよ」

「お飾りの条件に?」

「ええ」

「この見た目ですからな」


 ニヤついた男はエジェリーへの侮辱を露わにするようになってきた。

 周囲はざわつき、視線をあちらこちらへ向けながらも意識をマティスとエジェリーに集中させている。 エジェリーは、やや離れたところで隠れるようにして立っているフェルナンが怒りを込めてこちらを注視していることにも気がついていた。


(お願いフェル、ここを乗り切ったらちゃんと向き合うから)


 内心で祈るものの、この男とマティスの出方によってはフェルナンが乱入してきてもおかしくはない。


 娘は媚びを露わにマティスにほほえみかけ、体を擦りつけるように寄せる。

 男は舌なめずりするような顔になった。


「なんなら愛妾でもかまいません。妻でなければ両家の関係が深まらないというわけでもございますまい」

「なに」

「妻が要らぬならばなおのこと……我が娘はいかがですかな。愛妾ならば条件(・・)など関係ありませんからな」


 この国では原則、離婚が認められていない。おまけに一夫多妻制だ。

 それゆえ、正妻という形でなくとも、いわゆる「実質的な妻」「愛妾」という形で娘を有力貴族の元へやり、なんとか権力のおこぼれに預かろうとする者も多くいるのである。


「しかし」

「ブラン殿、男として素直な欲求に従って良いのですよ。なにも正式な妻を迎えたからとて我慢しなければならないことはなにもないのです」

「ほう」


 マティスの目がギラリと光った気がした。

 エジェリーは嫌な予感がした。

 背後ではフェルナンが爆発しそうになっている。

 男はマティスの雰囲気が変わったのを敏感に感じ取って、得意げに話し出した。


「誰でも好みの美しい女を手元に置きたいと思うもの。あなた様もそうでしょう」

「ああ、もちろんだ」

「我々、貴族は血を守るために苦渋の決断をせねばならぬこともある。ブラン殿もそうでしたでしょう」

「ああ……その通りだ!」


 マティスの目は爛々と輝き、男は我が意を得たりと言わんばかりに頬を紅潮させて唾を飛ばしながら早口でまくし立てている。

 エジェリーはマティスをなんとかしようと「あの」「マティス様」と口を挟んだが、男の声にかき消されてしまった。


「けれども今、あなたは手を伸ばせば望みを手に入れることができるのです!我慢など無駄にすぎません!!」

「そうだな!」

「そうですとも! さあ、醜い『お飾りの妻』など放っておいて、我が娘の――」

「……あなたは何の話をしているんだ?」

「……は?」


 訝しげなマティスを前に、男が目を点にした。

 しーんとあたりは静まりかえった。

 マティスまわりの異様な雰囲気が広がって、しまいには大広間全体が静まりかえった。


 ぽかんとしていた男が、困惑したように言った。


「なにって、お飾りの妻――そこにいるエジェリー殿のことですよ」

「言ってることが支離滅裂だぞ」

「……?」


 男と娘は口を噤んで顔を見合わせた。

 こちらを注視していたあたりの客にもざわめきが広まる。


「あの、あの、マティス様! それは――ぷえっ」


 ようやくエジェリーが話しかけると、マティスはエジェリーの腰を抱き寄せ、口を塞ぐかのようにエジェリーの顔を自分の胸へ押し付けた。

 マティスはぽかんとしている親子に、真面目に頷いてみせた。


「ああ、言葉を間違えたのか。いや、気にしていない。エジェリーは……こんなにも完璧に……国宝の貴婦人の涙(おかざり)にも勝るとも劣らぬ美しさだろう? 『醜い』と言い間違えたところで、エジェリーの輝きは曇るものではない」


 今度こそ大広間は静まりかえった。


「……ハア?」


 妙に大きく響いたフェルナンの間抜けな声が、全員の気持ちを表していた。

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