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前編

※序盤はシリアスですが、ラブコメです。

 聞こえてきた何度目かのため息に、エジェリーは身を縮こまらせた。泣きそうになって俯くと、眼下にあるお茶の水面に情けない顔が写っているのが見えた。

 テーブルの向こう側にいる義母のジョゼットが、イライラしながらもなんとか自分を落ち着けようと深呼吸を試みている。だが高ぶる気持ちを抑えられないのか、カップを持つ右手はぶるぶると震え、膝に置かれた左手はハンカチがくしゃくしゃになるほど握りしめられていた。


「わたくしは――、エジェリーを愛している、エジェリーと結婚したいとマティス(むすこ)から告げられた時、本当に嬉しかったのです。マティスは真っ当な(・・・・)侯爵になる心構えがあるのだと。それなのに」

「……」


 ――それなのにどうして、あなたはマティスの「お飾りの妻」になってしまったの。


 押し殺したようなジョゼットの声は、エジェリーの心を写したかのように震え、かすれていた。




***




 マティス・ブランは父親から家督を早々に受け継いだ侯爵家の長男で、貴族の娘が憧れる若き貴公子の1人だった。

 髪は柔らかな蜂蜜色、瞳は落ち着いた深い青だというのに、外見にも性格にも全く甘さがない。長身で鞭のように引き締まった体格、いかなる時も顔色を変えない冷徹さ、刃のように鋭い目付き、そして無愛想だが決して不躾なことはしない隙のない態度。

 特別の美形ではないが整った顔立ちしたマティスは、女性には優しい物腰そしてと栄華を誇る侯爵という立ち場もあって、ある種の娘たちを魅了した。


 どんな女性にも一線を画して接するマティスに「あなただけを愛している」と言われたらどんなにいいことだろう――。


 そんな夢想が、サロンのあちこちで囁かれた。



 ところが1年ほど前にマティスが突然、とある娘に目をつけた。

 その娘がエジェリー・バシュロ。

 現在のマティスの妻、エジェリー・バシュロ・ブランである。









 エジェリーはマティスと出会ってからずっと夢見心地だった。


 アモロス家の夜会で始めて顔を合わせた1年前のあの日、鋭い深青に射抜かれ動けなくなったあの日、自宅へ戻ってもマティスの一瞬の視線がエジェリーから離れず、熱を放ちながらいつまでも体を焼いた。


 恋に落ちてしまったのだとすぐに気がついた。手の届かぬ貴公子に。


 ブラン侯爵家は今なお繁栄を続ける大貴族。

 一方のバシュロ伯爵家は、家柄こそブラン家より古いものの、古いだけで権力は衰える一方だ。領地

は安定しているが中央政府では軽い扱いを受けている。


 おまけに、マティスは女性に人気がある。

 一方のエジェリーは平凡そのものだ。

 両親は可愛いと言ってくれるし、軽く波打った栗色の長い髪は絹糸のように艶々としていた。アーモンド型の目と鳶色の瞳は自分でも気に入っている。


 しかし、それだけだ。


 美人だとちやほやされたこともなければ特段気遣いができるわけではなく、心清らかでも心優しいわけでもなく、友達は多くも少なくもなく、むろんモテるわけでもなく、とにかく普通なのである。


(……でも、密かに憧れるくらい、いいわよね)


 マティスを思い出してはなかなか寝付けなかったエジェリーが、そう自分に言い聞かせ続け、ようやく眠ったのは空が白み始めてからだった。

 翌日は案の定、寝不足になってうつらうつらしていたエジェリーだったが、マティスが家へやってきたので眠気は一気に吹き飛んでしまった。


 なにを思ったか、マティスは結婚前提の交際をサックリと申し込んできたのである。

 真っ赤になったエジェリーと真っ青になった両親、そして真っ白になったバシュロ伯爵 (エジェリーの兄のフェルナンだ)は、一斉に息を呑んで硬直した。

 だが結局、マティスとエジェリーの交際には誰も文句はなく、それどころか大歓迎であり、そのままトントン拍子で話が進み、今から2ヶ月前、ついに2人は結婚したのである。





 ――嘘みたい。


 結婚式の翌日、温かな寝台の上で目を覚ましたエジェリーはそう思った。

 だるい体は、隣で眠るマティスに抱きしめられている。トクトクと聞こえてくる鼓動が、触れた素肌から伝わる体温が、恥ずかしくて愛おしい。


 マティスは優しかった。恥ずかしがり何も知らないエジェリーをまるで壊れやすい宝石のように丁寧に扱った。

 そしてあの、情熱的な口づけ――。


 ぼうっとなっていると、マティスが薄らと瞼を開けた。


「起きたのか。……もう昼過ぎだな」

「ふふ、寝過ぎました」

「構わない」

「女主人がこれではいけませんね」


 領主の妻の仕事は多い。

 内容は領地によってまちまちだが、例えば城の内部管理から社交、文化の保護、使用人の統制、それから軍政まで、女でもできることならなんでもする。


 とはいえ、さすがに初夜の翌日からそこまで求められることはない。


 わかってはいるのだが、強いマティスの視線に恥ずかしくなったエジェリーは、照れ隠しにおどけてそう言った。




 だが、これが「始まり」だった。

 エジェリーは、これは愛に満ちた理想的な結婚だと信じていたのだ。

 この時までは。


 


 エジェリーの言葉に、マティスは顔をしかめた。


「なにを勘違いしている。あなたはしょせん、お飾りの妻だ。女主人などでない」

「……今、なんと?」


 エジェリーが思わず聞き返すと、マティスは鋭い目でエジェリーを一瞥し、ため息をついて寝台から身を起こした。


 そのとたん、暖炉でも温められなかった冬の冷気がシーツの中に入ってきてエジェリーの素肌を刺していく。

 さきほどまで温かった体がどんどん冷えていった。


「あなたに妻の仕事など任せられるか。ただ大人しく過ごしていろ」

「……ご冗談を」

「冗談を言っているようにでも?」


 マティスは呆れたように言う。

 問いたださなければと思うのに、マティスの冷たい視線にエジェリーは言葉を失った。


 そこにあったのは、愛に満ちた理想的な結婚生活などではなかったのだ。




***




 エジェリーがぼんやりとあの日のことを思い出していると、ジョゼットがもう一つため息をついて侍女を手招いた。


「マリー、あれを」

「はい」


 侍女がジョゼットに渡したのは、赤い封蝋に見慣れた印が押された手紙だった。

 ジョゼットはそれを卓に置くと、エジェリーに向かって押し出した。


「今年もアモロス伯爵邸で春を愛でる夜会をするそうよ。伯爵から送られてきたわ、我が家への招待状がね。マティスと行ってきなさい」

「マティス様と?」

「説得なさい、なんとしてでも」


 エジェリーは口ごもった。

 結婚してから2カ月になるが、エジェリーは未だにマティスと共に公の場へ出たことがない。

 マティスが嫌がるのだ。


 ――妻だから、あなたを連れて宴に出ねばならないだと? ぞっとする。


 結婚から1週間経ったあの日、夜会に呼ばれたマティスはそう言って、エジェリーを家に残して1人で出かけていった。

 それからも同じ調子で、マティスは決して人前へエジェリーを連れて行こうとしなかった。「お飾りの妻を友人たちへ紹介するつもりもない」とハッキリ言い残して。


 ジョゼットはエジェリーの様子に眉をつり上げ、身を乗り出してまくし立てるように言った。


「もう大方の貴族には知られてしまっています。あなたがマティスからお飾りの妻と呼ばれたことを。それどころか噂はもっと酷い、彼らの間でどう言われているのか知っているのですか。マティスは結婚してから家に寄りつかない、バシュロの古き血が欲しかっただけだ、夜会に1人で出歩いては運命の恋人を捜し求めている……」


 エジェリーはきつく目を瞑った。


(もう、そこまで言われているのね)


 心がじくじくと痛む。鉛を着たかのように体まで重く感じてしまう。

 ジョゼットはふと堅い声色を和らげ、子供に言い聞かせるように言った。


「エジェリー、聞きなさい。これは単にあなた個人の問題ではない。バシュロ家の問題でもありません。我々、ブラン侯爵家の問題なのです。ブラン侯爵夫人のあなたが、あなたしか――マティスを真っ当な道へ戻すことはできないのですよ」

「……はい」

「今回は、あなたたちが出会ったあのアモロス家の夜会です。アモロス伯爵はエジェリーにも会いたがっていました。となれば、さすがにマティスも断れないでしょう」

「ありがとうございます」


 エジェリーは少しだけほっとした。それなら夜会へは出られそうだ。


 だが本当の問題は……夜会でマティスとエジェリーがどう振る舞うかなのだ。

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