ディア・ファーザー
日も沈み、黄昏の茜雲が淡く辺りを照らす。最寄りの駅から家までは数分の道のりだが、その間にも薄暮の空はめくるめくように蠢き、あっという間に暁が闇夜に塗られてゆく。私が家に着いた頃には、一番星が瞬き始めるくらい空は暮夜の藍に染まっていた。
扉の前に立った私が錠に差し込んだ鍵を回すと、ガチャリ、と硬質な感触が手首に伝わってきた。そしてそのまま見慣れた扉を開け、一歩中に入る。
「……ただいま」
呟くように放たれたその声は、静まりかえった廊下の暗がりに沁みてゆくだけ。そして仄かな残響だけが私の耳を鳴らすのだった。
「まだ、帰ってきていないのね……。まあ、いつもの事だけれど」
私は微かなため息を漏らす。そして仄暗い中、感覚だけで靴を脱ぐと、手探りで明かりのスイッチを押した。
パチン、と小気味よい音がして、私の視界に明が満ち満ちる。しかしそこに映し出されるのは、鈍い光沢を放つフローリングの床と、ベージュの壁紙。今、この家には私しかいないということを再認識して、一抹の虚無感に呑まれる。
私は気の憂いを晴らすように自分の頬を叩くと、明るく照らされた廊下を歩いていった。
階段を上り、自室に入ってからまたも明かりを付けると、ようやく私の心が安心感で満たされてゆくような気がした。そして、そのまま床に荷物を放り投げ、自分のベッドにバタリと倒れ込む。
すると、毛布に沈み込んで包まれるような感触と共に、今日の疲れが一挙に押し寄せてくる。しかしその倦怠感は決して嫌な物ではなく、むしろ充実と満足で満たされた、心地の良い感覚だった。
そのまま眠りに沈んでゆこうとする精神をすんでのところで引き上げ、私は携帯電話を取り出す。そして通知欄を確認すると、新着のメッセージの存在を示すアイコンが表示されていた。
メッセージアプリを起動して確認してみると、そのメッセージは父からのものだった。
その内容は、今日も仕事で帰りが遅くなるので夕飯を作って食べておけ、という旨だった。
母が亡くなってから、父の帰りが遅くなることが明らかに増えたように感じる。父は、もう三日も連続で私が眠るまでに帰ってきていない。
母が亡くなったのは、私が中学三年だった時の夏休みのことだった。
――膵臓がんだった。母が身体の不調を訴えて病院に行ったときにはもう全身に転移していて、治る見込みは薄かった。そして、見つかってから一月も経たずに、そのまま帰らぬ人になったのだ。
今は、父と私の二人で暮らしている。家族三人で住むために父が買ったこの家も、二人だけで暮らすには広すぎて未だにがらんとしている部屋がいくつもある。母が亡くなったことを乗り越えた今でも、私はその部屋を見るたびに心のどこかで孤独を感じてしまうのだ。
私達にそんな転機が訪れてから、元来無愛想だった父が、さらに冷たくなってしまったような気がする。……いや、そもそも父は愛憎なんて持ち合わせていないのかもしれない。だって、父は、母の葬儀の時にさえ一切の涙を見せる事はなかったのだから。
……私も、きっとそうなのだろう。高校生になり中学生の頃から続けていた吹奏楽部に入った私は、最近になってより一層部活にのめり込むようになったから。今日、長い日が沈むまで部活に残っていたのは、秋の演奏会が近いという理由の他に、どこか間の抜けてしまった家から逃避したいと、無意識にそう思ってしまったからなのかもしれない。
私は暫くそのまま携帯電話を弄ると、ようやく起き上がって立ち上がる。父からの連絡通りに自分の夕飯を作るためだ。
未だに母の残滓が漂う台所を使うのはどこか憚られるのだが、そんなことを言っていてもお腹は減る。私は自分の部屋を出て台所に向かっていった。
「いただきます」
手を合わせてそう唱えてから、四人がけのテーブルに一人分だけ用意した料理を口に運ぶ。冷蔵庫に入っていた豚肉と適当なカット野菜を片手くらいの小さな鍋に放り込み、醤油とみりん、酢とチューブの大根おろしを混ぜて煮た即興のみぞれ煮である。
確かにおいしいし、お腹も膨れる。しかし、会話もなくただ自分で作った物を食べるだけの食事は何故か味気なくて、物足りなくて、どこか虚しかった。
夕食も終え、私は洗い物をしてから自室に戻った。そして、ベッドに寝転がって今日の部活で録音した自分の演奏を聴いてみる。
私が担当する楽器はトランペット。吹奏楽の花形であるトランペットは、主旋律を任せられることも多い楽器だ。責任も大きいが、だからこそやりがいのある楽器なのだ。
私は、中学生の時からトランペットを担当していた。何でもいいから楽器を鳴らしてみたい、と軽い気持ちで入部した私は、最初特にやりたい楽器もなかった。そして、私は流れるまま枠が空いていたトランペットを担当することになった。
幾らか月日が流れ、音をうまく出せるようになった頃には、私はトランペットを演奏することの虜になっていた。思った通りの音が出ずに苦悩したときも、それを克服したときも一緒だったトランペットに、私はいつしか愛着を持っていたのだ。そして三年になり引退する頃には、高校に入っても吹奏楽部に入ってトランペットを吹くと決意していた。
無事高校に入学した私は、その決意の通りに吹奏楽部に入部した。そして運良くまたトランペットを担当できることになったときは、本当に嬉しかったことを覚えている。
……自惚れているわけではないが、携帯電話のスピーカーから流れる私の音色は客観的に見てもまあまあ上手だと思う。高音が苦しそうになることなく伸びているし、音の継ぎ目も滑らかだ。
「でも、ユカ先輩はとは比べものにならないのよね……」
ユカ先輩とは私の二つ上の学年、つまり三年生の先輩である。担当は私と同じトランペット。私の尊敬する先輩である。
今回の演奏会でも顧問からソロパートを任せられており、一学年に一人ずついるトランペット担当の最上級生らしく、私とは別格の演奏技能を持っている。
かなり難しいソロパートの譜面を難なくこなし、その音色は流麗で力強く、それでいて優しさをも含んでいて、心に直接語りかけてくるようだった。
「私もいつかあんな風になれるかな……」
いつの間にか流していた自分の演奏も終わっていて、静まりかえった私の部屋に呟かれた言の葉が空虚に揺れて、消える。
――なぜか急に寂しさと空しさがこみ上げてきて、それから逃げるように携帯電話を弄り始める。そして、私は無限に続く虚構の荒野へと漕ぎ出してゆくのだった。
ガチャリ、と扉の方から音がして、私は目を覚ました。音のした方を見てみれば、黒々としたスーツを見に纏った男性の姿があった。
それは、私の父だった。その顔には隠しようがないほどの疲れがにじみ出している。
「……まだ起きてたのか。うたた寝は身体に良くないぞ。早く風呂に入ってちゃんと寝なさい」
父は気怠げにそう言ってから扉を閉めて立ち去ろうとする。
「――待って、父さん」
「ん、なんだ」
父は半身を翻して振り返る。
「あのさ、その……。吹奏楽部の演奏会が週末にあるんだけど、来ない?」
私がそう言うと、父は少し考えて、後ろを向いてから呟くように言った。
「すまん、今週も仕事が忙しいんだ」
「そう……。まあ、それならしょうがないね」
父は私の声を聴くか否か、扉を閉めて立ち去っていった。
今回、私が父を誘おうとしたのには理由があった。父が私の演奏を聞いたのは、母がまだ元気だった頃、中学生の私が吹奏楽部に入って初めての演奏会、その一年生バンドの時、それだけだった。父は母と一緒に演奏会に来てくれて、そのために私も一生懸命に練習したのだ。
はっきり言って全然うまく吹くことができなかったのだが、母は「上手だったよ」と、父は「これからも頑張れ」とそれぞれ励まして、応援してくれたのだった。
母が亡くなってから父とあまり話をしなくなって、そのことを思い出したのかもしれない。しかし、今の父はどうしても仕事が忙しいらしい。
「分かってはいるんだけどね……」
どうしようもない。あっさりと誘いを断られてしまった事に腹を立てたわけではないけれど、その日それきり父と話すことは、無かった。
*****
自分の時間を削って練習に励む日々を続け、ついに週末、つまり演奏会当日がやってきた。私の学校の秋の演奏会は、この地区にある中堅のホールを貸し切って行われる。部員の保護者はもちろん、地域の暇でしょうが無い老人たちや音楽に興味がある人、また未来の後輩たちも来る重要な演奏会である。コンクールではないので賞などはないのだが、私のような一年生や、大きな大会に出させてもらえない人なども演奏するので曲数も多い。そのため、部全体の気合いは十分なようで、パラパラと集まり始めた他の部員や先輩たちは楽器ごとにそれぞれ練習室に入って音合わせなどをし始める。
集合時間に余裕を持って到着した私は、それに倣って練習室に入ってゆく。防音の扉を開けると、二年の先輩が先に来ていて、挨拶をする。
そしてそのまま出席をとる時間になるまでチューニングや合わせの練習を続けていた。
集合時間を少し過ぎてから、顧問の先生に声を掛けられてリハーサル室に移動する。そして出席をとると、二年のトランペットの先輩が呼び出された。
先ほどまで一緒に練習していた先輩がいなくなってしまったのでしょうがなく練習室に戻って一人で練習をしてみる。
しかし、今の私はどこか上の空だった。身体が覚えた楽譜をなぞりながら、頭では別の事を考えている。
……それは、ユカ先輩のことだった。どんな時でも、どんなに早く顔を出しても、必ず私よりも早く来ていたユカ先輩が、今日はまだ来ていないのだ。
先ほど先輩が呼び出されたのはきっとそのことだろう。ユカ先輩はソロパートを担当している。つまり、ユカ先輩が演奏できないとすると、どうにかして誰か代替をしなければならないのだ。
ユカ先輩が来ない理由が寝坊などなら、大丈夫なのだが、あのユカ先輩が寝坊している様子など想像できない。ならば、何か来られない理由があるのだろうか。
そんなことを考えながら一人練習をしていると、突然扉が開け放たれた。少し驚いてそちらを見れば、そこには私を呼ぶ顧問の姿があった。
私は楽器を置いて、そちらに向かう。そして、顧問は空いている練習室に私を誘導した。
その練習室に入ると、顧問は扉を閉めて私と顧問二人だけになる。
「ユカさんの事なんだけれど、知ってる?」
顧問はいつものなれなれしい口調を少し正して言った。
「いえ、まだ先輩が来ていないことくらいしか……」
私は不安に思いながらそう呟く。
「……実はユカさん、昨日の部活の後、高熱を出して寝込んでしまったみたいなの。それで、無理をして先ほど顔を見せたのだけど、明らかに演奏できる状態ではなかったから無理矢理帰らせたわ。残念だけれど、今回の演奏会は欠席してもらうことにしたの。他の部員にうつされても困るし、何より無理をさせて何かあったら大変だからね。当の本人は出たがっていたけれど」
顧問は俯きがちに伝えた。
「そんな……」
薄々予想はしていたけれど、それでも実際に起きていることを直接聞くと、思うことがある。
「……それで、貴女にユカさんの代わりにソロパートを演奏して欲しいのよ」
「――えっ?」
……私が状況を飲み込めないでいると、顧問はそのまま先を続ける。
「ユカさんは三年生としてソロパートを担当していたでしょう? だから、ユカさんがいないとなると誰かが代わりをしなければならないのよ。それを、貴女がやってくれるととても助かるのだけれど」
「いや、ちょっと待ってください! 確かに代わりが必要なのは分かります。でも、何故私が代わりなのでしょうか? 二年生の先輩もいるのに……」
私は思わず顧問の話を遮って言った。
「……彼女は、高校に入ってから楽器を、トランペットを始めたことは知っているわよね? だから、二年生とはいっても、貴女の方が楽器歴が長いのよ」
「――で、でも、だからといって一年の私が先輩の代わりなんて、私には――」
――荷が、重すぎます。
そう言おうとするが、今までに見たことがない顧問の真摯な瞳に牽制されて、口ごもる。
「――ユカさんが貴女にして欲しい、と言ったのよ。もう二年の彼女にも相談して、了承してもらっているわ」
「でも、私はまだ一年だし…………」
ユカ先輩が私を推薦してくれた、という事を知っても、私は踏ん切りがつかずに逡巡していた。顧問の懇願するような視線を避けるように、私は目をそらす。
「――そうやって逃げないの! 一年生だから、という肩書きに甘えていつまでも逃げようとしちゃ、駄目。貴女はみんなに期待されているのよ。ユカさんにも、二年の彼女にも、もちろん私にも」
「それは……、卑怯ですよ……」
「貴女ならきっとできるって、みんな信じているわ」
……それだけを言い残して顧問は立ち去ってしまう。
取り残された私は、防音室の吸い込まれるような沈黙に包まれる。暫く立ち尽くすとその静寂に耐えきれなくなり、私は楽器を置いてきた練習室に戻った。
扉を開けると、先輩が一人で練習をしていた。彼女は私に気づいて声を掛けてくる。
「……わたしのことは気にしなくていいのよ。どうせ、わたしは普通の楽譜の部分でさえままならないのだからね。貴女は、すでにわたしよりもずっと上手よ。だから、思い切り吹いてきなさい」
先輩は陰りの一切無い微笑みをたたえて言う。先輩に背中を押され、私にもようやく決心がつく。
「……分かりました。頑張ります!」
演奏会は午後の二時からである。壁掛け時計を見てみれば、今の時刻は午前九時半。昼食の時間を練習に費やしても許す時間は四時間半だけ。
「……でも、やるしかない!」
もう、後戻りはできなかった。ユカ先輩や、期待してくれている全ての人に報いるために私が演奏を成功させるしかない。
今までに無いほど集中した私は、それから全力で練習を続けていくのだった。
ステージに立つと、煌々と私達を照らすライトの光輝と熱気にさらされる。その光を真鍮の楽器達が反射して、私はその眩しさに目を細める。こちらが明るすぎて薄暗く見える客席には、少し空席があるものの、かなりの人たちが犇めいていた。
席に着いた私は、高揚と緊張で早まった鼓動を抑えようと深呼吸をする。幾度もこなしてきたステージだが、今度は勝手が違う。今までの吹奏楽歴の中で、初めてのソロパートを任されているからである。しかも、当日になってから、突然。
勿論、練習はできる限りやったつもりだ。しかし、今の私は始めてステージにあがった時と同じくらい緊張していた。
前に立って客席に一礼をした顧問が指揮棒を構えると、すっと静寂が訪れる。そして、穏やかに演奏がスタートした。
最初の演目は、夏のコンクールで演奏した課題曲と自由曲。身体に染みついた感覚で私は難なく吹きこなしてゆく。
その二曲の演奏はあっという間に終わる。終わってしまう。そして、ついに次の曲が私のソロパートがある曲である。
私の鼓動がこれでもかというほど早まる。ぼんやりとした視界に映る顧問の振る指揮棒と共に曲が始まった。
……演奏が続き、ついに、私のソロパートが始まる。私は立ち上がって一歩前に出た。そして、他の楽器達が私一人にリードを受け渡す。
立っているのかそうでないのか分からないくらいに、私は緊張に呑まれていた。しかし、つい先ほどまで練習していたおかげか、なんとかソロパートをこなしてゆく。
――あと、一小節。
そう思って私は最後の一音を紡ぎ出す――
――そこで、私は気づいた。最後の小節に入る前のブレスを忘れてしまっていることに。
しかし、今さら気づいてももう遅い。案の定、最後のハイトーンの伸ばしに、息が詰まり、音が途切れてしまう。
――そして音は、掠れて、消えた。
……一瞬の静寂。一秒にも満たないその沈黙が、私には途方もないほど長く感じられた。
頭が真っ白になった私は、無意識に客席に礼をして椅子に座る。客席からは乾いた拍手の音が鳴るが、今の私に聞こえることはなかった。
そして演奏は続いてゆく。私は何も考えられなくなって、それ以降の演目を演奏したことを覚えてはいない――
……アンコールも終わり、ホール全体に絶え間ない拍手の音が反響する。いつの間にか、演奏が全て終わり、この演奏会はフィナーレを迎えていたのだ。
部長と顧問が一言ずつ話して、再び拍手の音が鳴り響き、私の耳に届く。そして、全員で一礼をして、全ての演目が終了となった。
私は上の空のまま、ステージを後にする。
――そのとき、ステージからの去り際、何気なく横目に見た客席には、見覚えのあるスーツ姿の影がちらりと見えた気がした。
「……父さん?」
思わずそう呟くが、足並みを揃えて退場する中で立ち止まるわけにもいかない。振り返ってチラチラと気にしながら、私は流されるようにステージの袖へと向かっていった。
「やっぱりすごいわね! 当日になってから突然やることになったソロをしっかりこなせるなんて!」
先輩は、演奏会が終わった後、そう言ってくれた。しかし私はその言葉が私を傷つけないための嘘であるように思えてならなかった。
顧問も、他のみんなも、同じように褒めるような言葉をかけてくれた。しかし、私の中に渦巻くのは後悔と自責の念だった。なぜあのときブレスを忘れてしまったのだろう、先輩ならもっと上手にできたのではないか、と。
片付けを終え、解散して家に帰る途中もずっとその繰り返しだった。
と、そのとき携帯電話が震え、私に通知があることを伝えてきた。
確認してみると、父からのメッセージだった。そして、そこには最寄りより二駅前の駅前で待っているから降りてこい、と書かれていた。
私は父の意図が分からずに、首を傾げた。それを無視して帰ることもできる。しかし、ステージから父の姿が見えた気がした事を思い出して、私は言われた通りに二駅前で電車から降りた。
その駅のある町は、県庁所在地ではないが、そこそこ大きな地方都市である。今はちょうど学生が帰宅する時間のため、駅前のロータリーには自動車がひしめき合っていた。
その中から父の車を探して座席に乗り込むと、いつものスーツを着た父がいた。
「どうしたの、突然。いつもは家にすらなかなか帰ってこないのに」
演奏でうまくいかなかった腹いせに、思わず角の立つ言い方をしてしまう。
「とりあえず、出るぞ」
父はいつものように無愛想な顔でそう言って、何処に行くのかも言わずに車を走らせる。
……特に話すこともなくて、車内に気まずい静寂が漂う。
その間に、私はあの瞬間を思い出していた。ステージから父の姿が見えたときのことを。演奏会に、父が来てくれていたという事なのか。
「ねえ、父さん。今日の演奏会、来てたよね?」
少し間が空いてから、父は答える。
「……気づいてたのか」
「うん。ステージから退場するとき、父さんが見えた気がしたの」
「……たまたま仕事が午前中で一段落したから行っただけだ。その後すぐに仕事に戻った」
「そう」
たとえ、そうだったとしても父が演奏会に来てくれたことは嬉しかった。しかし、それと同時に、あの失態を見られてしまった、という事に気がついて、私は少し憂鬱になる。
「……お前のソロパート、当日に突然言われてやったんだって?」
「ちょっと、なんで知っているのよ!?」
私は驚いて少し声を上げる。
「顧問の先生から話を聞いた。やるはずだった先輩が欠席してしまったから代わりにやったことも、自分がやると決めたあと必死になって練習したらしいということも」
「そんなことまで……」
なんだかこそばゆくて、顧問の悪戯っぽい笑顔が脳裏に浮かんだ。
「……良かったぞ、ステージ上のお前は」
父は呟くように言った。
「そんなことはないわよ。ソロパートでは緊張してミスをしちゃったし、その後もいろいろと細かいミスも……」
「……確かに演奏はあまり良くなかったかもしれない。父さんがどんなに良かった思っていても、お前がそう思うならば、きっとそうなんだろう」
私は、無意識に父さんを見据えていた。
「でも、さっき父さんが言った『良かった』は演奏の事じゃない。お前自身が、良かったんだ。毎日、毎日、一生懸命に遅くまで練習して、その成果を遺憾なく発揮している、その姿が」
父は、淡々と言葉を紡いだ。しかし、その単語一つ一つは、私に直接沈んでゆくような、そんな重さを含んでいた。
……その言葉にどう反応していいのか分からなくて、私はただただ黙って聞いていることしかできなかった。
「……着いたぞ」
暫く車を走らせた父は、駐車場に駐車してから私にそう言った。
どこに向かっているのか言われていなかった私は、何があるのか気になって外に出てみる。
――そこには、楽器店があった。
父は固まってしまった私を置いてそそくさと店内に入って行ってしまう。私は、慌てて父の背中を追いかけた。
中に入ると、多種多様な楽器が所狭しと陳列されていった。大きなグランドピアノに、壁に掛けられたアコースティックギター。そして、店の一番奥のショーウィンドウの中に、トランペットが並べられていた。
傷一つ無い新品の楽器達は、目線を釘付けにするような真鍮の輝きを放っていた。私は思わず息を呑む。
「この中から、好きな物をお前に買ってやる。今日のお祝いだ」
「えっ、本当にいいの!?」
自分の楽器を持っていると、愛着がわく以外に、家に自由に持ち帰って練習することができるという利点がある。
「勿論。そうでなかったら、何のためにこの店に来たことになるんだ」
父の言葉を聞いて、私はいくつか並べられたトランペットとそれぞれ見つめ合ってゆく。
「ありがとう、父さん」
私が小声でそう言うと、後ろで、こちらこそありがとう、と呟く声が聞こえる。しかし、目の前に夢中になっていた私は、その声を気に留めることはなかった。
*****
学校から帰宅した私は、窓から差し込む夕日をカーテンで遮って、部屋の明かりを付ける。そして、いつものように携帯電話の通知を確認すると、父からメッセージが入っていた。
内容もいつもと変わらず、遅くなるから夕飯は一人で食べろ、という事だった。
しかし、今の私はそれを見て寂しさを感じることはない。
台所に向かい、いつものように冷蔵庫を開けて料理を作り始める。しかし、使う鍋は、いつもより一回り大きい物だった。
作った料理を盛り付けて、席に着く。そして、「いただきます」と唱えると黙々と食べ始めた。
テーブルには、自分の分だけではなく、ラップを掛けられたもう一人分の料理が並べられている。
そして、その料理の前には、小さな紙が折りたたまれて、何気なく置かれていた。
――その手紙に書かれている言葉は、私と父以外、誰も知らない。
読んでいただきありがとうございます。
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