クーデレすぎる未来の嫁の面倒な7日間・バレンタイン番外編
2月14日。
菓子業界の陰謀により、女子が男子にチョコレートを送る文化がこの社会には根付いてしまっていた。
あちこちのスーパーやコンビニではきれいな箱に詰められ、包装紙やリボンでラッピングされた贈呈用のチョコレートが売りに出されていた。
だが俺、比良克樹が働いているのはドラッグストアだ。いつもよりチョコレート製品をやや多めに仕入れることはあっても、大々的にバレンタインの商戦に乗ることはなかった。
ちなみに俺は3月からべつの会社で働くことが決まっている。なのでここで働くのも今月の下旬までだ。レジで見慣れた客を相手をするのも見納めかと思うと感慨深いものがある。
やがて時間は過ぎ、俺のシフトの時間が終わった。
ほ、と安堵のため息を吐きながら休憩所に向かうと、ちょうど本田さんがパイプ椅子に座って休んでいた。
本田さんも俺と同じくらいにシフトが終わる予定だからこのまま帰るのだろう。
「比良くん比良くん、はい、あげる。今日バレンタインだからね」
そういいながら本田さんは俺に向かってチョコ菓子を突き出してきた。
ブラックイナズマチョコ。このドラッグストアでも売っている細長く、ナッツの入った準チョコレート菓子だ。低価で、それでいてボリュームがあって、子供だけでなく社会人にも人気の菓子だ。
「ありがとうございます……」
だがしかし、こうあからさまに義理チョコだと思われるものをよこさなくても。
……本田さん、俺のこと好きだって言わなかったっけ。
「なによ。もっと豪華なの欲しかったの? 比良くんには麻友ちゃんいるじゃない。本命チョコならそっちからもらってくれる?」
複雑な感情が表に出てしまっていたのか、本田さんはじとりと軽くにらみつけながら俺に言い放った。
が、次の瞬間、本田さんは立ち上がると俺の耳にささやきかけてきた。
「それとも私と浮気したい?」
「…………っ! し、しませんよ! するわけないじゃないですか! チョコ、ありがとうございました! こ、これで充分ですよ!」
俺は顔を近づけてくる本田さんから慌てて飛びのいた。本田さんはにんまりといたずらっぽい目で俺を見つめ返してきた。
「したいって言ったら麻友ちゃんに言いつけるとこだった」
「…………」
とんだトラップである。これだから女はおそろしい。
「……それじゃ俺はこれで帰るんで。おつかれさまでした」
俺は適当にエプロンと制服の上着を脱いでロッカーに入れ、自分のバッグを持って休憩所からつながっている裏口から外に出た。
◆
「おかえりなさいっ、克樹さん♥」
築30年の2DKのアパートの部屋のドアを開けると、さっそくとばかりに麻友は俺に向かって両手を突き出してきた。
「その手はなんなんだよ」
「なにって、今日はバレンタインじゃないですか。だからチョコレートください」
俺がやるのが当然とばかりに麻友は両手を突き出したままだ。鼻をふんと鳴らしてなぜか自慢げに。
「むしろおまえが俺にくれる側じゃねーのか?」
「え、なに勝手に私があげること前提で考えてるんですか。いまは逆チョコが流行なんですよ。もしかして克樹さん、チョコ用意してないんですか? はぁ~……がっかりです」
プレゼントを待ちわびる子供の顔から一転、麻友は心底残念そうなため息を吐いた。そして顔をうつむかせると俺に背中を向けてしまった。
「はぁ~、べつにいいですよ。どうせ克樹さんにとって私なんてべんりなお手伝いさんでしかないんでしょうから。ええ、普段の感謝の気持ちも表す必要もない、どうでもいい存在なんですね」
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……お、俺は、ちゃんと麻友のことを大切に思っているぞっ」
「チョコも用意していなかったのに?」
「うっ!」
痛い、痛すぎる。
思えば俺は麻友に世話になっていてばかりだ。
麻友にだって学業があるというのに炊事洗濯掃除をやってもらっていて。麻友がいなければいまの俺の生活はとっくの昔に元の汚部屋に戻っていただろう。
そのうえ、チョコまでもらうつもりでいたなんて……。
「……俺は……俺はなんてダメ人間なんだ……麻友の隣に立つ資格もない……っ!」
自分の情けなさにこれ以上立っていられなくなった俺は玄関で膝をつき、頭をうなだれた。
「克樹さん、克樹さん」
そんな俺の肩を麻友はぽんぽんと叩く。
「なんちゃってー。チョコ、ありますよ」
麻友は俺の目の前にラッピングされた小さな袋を見せてきた。自分で包装したのだろうか、そのリボンはほんの少しバランスが崩れていた。
「……い、一応手作りなんですっ。で、でも私、料理はできてもお菓子作りはあんまりやったことがなくて……だから簡単なのしか作れなかったんですけど……」
「ま、麻友ぅ……!」
俺は麻友の手から袋を受け取った。
麻友はほんのりと顔を染めながら俺の顔を見つめてきた。
少し偏ったリボンを解こうとして……やっぱりやめた。
俺は麻友に袋を返した。
「どうしたんですか? い、いらないんですか?」
「ちょっと待ってろ。俺もチョコ買ってくる」
「な、なんですかっ、……やっぱり手作りじゃダメだったんですかぁ……?」
麻友は小さな袋をぎゅっと抱きしめて泣きそうな顔をした。
「そういうわけじゃないっ。……俺ばかりもらうのはよくないと思ったんだ。俺も、麻友にチョコをあげたい。だから買ってくる」
「そ、そうですか……。それなら改めてチョコ交換、ですね。いってらっしゃい」
「ああ、コンビニので悪いけどな。すぐ戻る」
俺は麻友にそう言って、再び外に飛び出した。そして近くにあるコンビニまで走ってバレンタイン用のチョコを並べている棚の前に立った。
どれが一番いいのかわからなかったが、シックな赤い包装紙に包まれて白いリボンが巻かれたそれが一番かわいいように見えたのでそれにした。やっぱり逆チョコはそれなりに流行しているらしく、男の俺がレジにチョコを持って行っても妙な顔をされることはなかった。
俺はチョコを持ってアパートまで走った。
「た、だい、ま……」
息を切らせながらドアを開けると、麻友がキッチンのほうから顔を出した。
「おかえりなさい、克樹さん。コーヒー、淹れてますよ」
ほんのりと笑いながら麻友は俺を迎えてくれた。
キッチンに入ると、たしかにコタツの上にはマグカップがふたつ置かれていた。
麻友はいつも使っている自分のマグカップが置いてあるほうに座り、俺はその向かい側に座った。
「麻友。その……いつもありがとうな」
俺は買ってきたばかりのチョコの箱を麻友に手渡した。
「ふわぁ……ほ、本当に買ってきてくれたんですね……ありがとうございます。こ、こちらもつまらないものですがっ」
そう言って麻友はさっきの小さな袋を俺に両手で捧げてきた。
「ありがと」
改めてお礼を言って俺は袋を受け取った。
「…………」
麻友は俺が手渡した箱を持ちながら、俺を期待と不安の瞳で見つめてきた。俺があげたチョコよりも、まずは自分の作ったチョコの反応のほうが気になるようだ。
手作りと言っていたが、いったいどんなものを作ってきたのか。
普段の料理はうまいのでまずいものができあがるとは思えないが。
リボンを解き、中身をつまみ出すと……それは濃い茶色のチョコクッキーだった。形は少し歪で、明らかに手作りのものとわかる。
「なんか小学生のときにこういうのもらったような……」
「あー! ほかの女と比べるのやめてください!」
「わ、悪い……」
麻友が怒ったので俺は思わず謝った。
唇をとがらせて視線をそらした麻友の頬はわずかに赤く染まっていた。
「……私はその、初めてなんですからね……男のひとにチョコなんてあげるのは……」
「初めて……」
そう言われるとなんだか鼓動が高鳴ってしまう。
俺は麻友のいろんな初めてをもらっている。
キスも、身体も。
そのときの記憶がよみがえってしまい、この行為さえもどこか煽情的な行為のように思えてしまう。
ただ、チョコクッキーを食べようとしているだけなのに。
「い、いつまでも見てないで食べてくださいっ」
「わ、わかったっ」
麻友に言われて俺は慌ててクッキーを口に放り込んだ。
甘いココアの味が舌の上に広がる。
「ど、どうですか、味は……」
「悪くないんじゃねーの……ていうか普通にうまい」
俺の返答に麻友は唇をとがらせ、見るからに不満そうな顔をした。
「普通にってどういう意味ですか! もっと舌がとろけるようだとか、奥深い風味だとか、うますぎて爆発するーとかそういうのないんですかっ!」
「……っつてもレシピどおりに作ったんだろう」
「……まぁ、そうですけど」
「じゃあ、やっぱり普通にうまいよ。……まぁ、俺のために作ってくれたんだなって思ったら、なんか感慨深いし……店で売ってるクッキーよりはうまい気がする」
「そ、そうですか……」
ほ、と麻友は安堵のため息を吐き、不意に表情を緩めた。
「えへー……」
本当に心の底からうれしそうに麻友はほほ笑んだ。
その笑みに俺も心が弾み、どこかむずがゆくなり居心地が悪くなってしまう。
「お、おまえも食べろよ」
「あ、はい」
麻友は俺に言われ、コタツの上に置いていたチョコの箱へと手をかけた。そしてゆっくりとリボンを解き、丁寧に包装紙のテープをはがした。まるでほんの少しでも破れないように。
そして出てきた箱のふたを持ち上げた。
「わぁ……」
敷居の中に並べて納められている12個のチョコはまるで宝石のようだ。
麻友はひとつを手に取り、そしてそっと舌の上へと乗せた。
「……あ、このチョコおいしいです! いつもお店で買っているのよりずっとおいしいです!」
「本当か?」
「本当ですよ。きっとバレンタイン用だから特別なんでしょうね」
それなら買ってきた甲斐があるというものだ。
麻友はもうひとつを口に入れると、感極まったように「んーっ」と声を上げた。本当においしそうでよかった。
再び麻友はチョコを口に運ぼうとして、俺の視線に気づいた素振りを見せた。
「克樹さんも食べます?」
「ああ、そうだな……」
12個もあるのだから俺がひとつくらい食べてもいいだろう。
……だけど普通に食べるのはつまらない気がした。
俺は腰を上げ、麻友の向かい側から隣へと移動した。
「克樹、さん……?」
そしてチョコをひとつつまみ上げて、口の中に放り込んだ。そして俺がなにをしたいのかいまだによくわからず、薄く唇を開いたままの麻友へと顔を近づけ、唇を重ねた。
「……んっ! ……んん……っ」
麻友の肩が少しだけびくりと震えたが、抵抗されるということはなかった。
唇の薄皮膚を押しつけ合い、少しずつ少しずつ隙間をこじ開けていく。開かれた唇に寄りそうように唇を押し当て、チョコを乗せた舌先を麻友の口腔へと挿し込んだ。
「ん……っ、んむぅ……っ」
生ぬるい麻友の舌先が触れ、ひと口サイズのチョコは絡み合う舌背のあいだで転がった。
唾液と、口腔の熱の中でチョコはじわじわと溶けていく。
溶けたチョコを口腔の粘膜に塗り広げるように舌先を動かす。頬肉に、上顎に。
「……っ……! ふぁ、んんっ」
上顎をくすぐると麻友の肩がぴくりぴくりと動き、唇が離れそうになる。唇の隙間から熱く甘い吐息がこぼれた。
そんな麻友の頬を両手で軽く押さえ、俺はより深く麻友の唇へと吸いついた。チョコはほぼ形を失い、少しだけほろ苦く、甘ったるいチョコの味が唇の中を支配していた。
歯列をなぞるように舐めとれば、麻友の唇がふるふると震える。同じように、麻友の舌も俺の口腔へと挿し込まれてきた。
唇の合間でねちねちと舌粘膜を絡め合わせた。
あふれ出る唾液がチョコの味を少しずつ薄めていく。
「ん……ちゅる……っ」
麻友がその唾液を呑み込み、俺も口腔ごと唾液を吸い上げた。
ちゅるっ、ちゅくっ、ちゅずっ。
唾液が口腔でこねられるとその水音も耳朶にまで響く。舌背をねちねちと擦り合わせ続けているうちに、チョコの味はすでに消えていた。
俺は麻友の頬から手を離し、触れ合わせていた唇からも離れた。
「……こうしたら、チョコ食べるたびに思い出したりしない?」
「………………バカじゃないですか」
麻友はつい、と視線をそらし、コーヒーの入ったマグカップに口をつけた。
その耳は羞恥に紅色に染まっていた。
熱く、甘く、蕩けるような味。
この味はきっと忘れ得ない。
日常の中で、ふとした瞬間に思い出すことになるだろう。