北の大地より
縛るものすらない生は虚無である。
意思を持ち存在することは何かを律し何かに囚われることに他ならない。
北の大地は荒涼としている。冬は厳しく長く、作物はほとんど育たない。遠くに雪を頂いた稜線を眺めながら、獣は疎らな毛皮に肋を浮かせて彷徨う。濁った視線の先にある枯れ木の林では、はむ草が尽きた中、死と飢えの匂いを嗅ぎつけた草食動物が、死に物狂いで樹皮まで食んで生きようとしている。育むものもない空虚な土地では、生に貪欲なものしか生き延びることはできない。
世界の話をしよう。約23.43度傾いた豊かな星の片隅にあるここは、聖なる者たちが住まう楽園でも、中庸な種族が殖やす大地でもない。闘争と欺瞞が蔓延る魔界と呼ばれるものだ。天界・人界・魔界の三界はいずれも質量を持って確固として存在し、互いに干渉しあうものではあるが、その実は都内合わせた平行線でもある。重なることが無いからこそ、同じ場所に並列して存在し、同じ時間軸を進む。
魔界は5つの大陸と4つの外洋、3つの内海から構成され、そのうち最も広大な大陸が大帝ルシフェルの座す北の大陸。その次が炎帝べリアルが統べるソラマメ状の東の大陸、反対側の西方大陸はガープ大公が主宰する。そして丁度その二つの大陸の中央にアスタロト公が治める一大工業国がある。大陸面積としては陸上を統べる4人の支配者の中で最も狭いが、自治権を譲った南端の土地を含めれば、べリアル帝国領にも負けず劣らずの規模である。一方で陸とは違って海洋はそれ自体で一大連邦国を形成している。
海を含めた5大国は更に72の領地に分けられ、それぞれ名だたる貴族が統べている。序列5位であるマルバスもその一人で、ルシフェルに仕える辺境伯として、王都コンゲラートから南南東に約500マイルほど離れた領地を管理している。
領土面積は158エーカー(約64万㎢)で、北には運河、南には小さくも海に面した港があり、国内には腕利きの職人を擁しているなど、常在軍が33万、総人口が2300万と少なめなのを除けば、一見国内でもアタリと言うべき良き土地に見える。ところが、この領地は長期に渡って停滞している。
魔界と言うからにはこの世界は魔のものーー魔族や魔獣で成り立っており、その最大の特徴は、人智を超えた神秘、即ち魔法を行使できるところにはある。魔法は魔術と区別され、人が使える小手先の魔術は所詮自然発生的に溢れ出ている神秘の力を借りたものであるが、魔族や魔獣であれば、それを遥かに超える神秘の力を体内で生成できる。だが、3界の相互関係からそれにもある種のの制約がある。人間の魔力は借り物で少ない分、行使がたやすく、特に媒介は必要ない。それに反比例して、魔界の魔力は濃く、自然界と体内の生成分が拮抗するほど満ち溢れているが、制御には媒介が不可欠となる。また感受性についても、魔族のほうが実は効きがいい。とはいえ、大抵は有り余った魔力で十二分に対策はされているのだが。
魔力の媒介の最たるは鉱石である。魔法の影響力でほぼ全ての支配関係が決まるとも言えるこの世界では、宝石はただの豪奢な飾りではなく、魔力を閉じ込め、行使できる優秀なエネルギー媒体としての価値も有している。自然、採鉱は魔界において特別な意味を有し、場合によっては政治情勢すら左右しかねない。マルバスの領地ではこの鉱石の産出が全くなかった。少ないなどという話では無い。皆無である。
正確には、鉱脈自体は現存する。だが、その唯一の鉱脈と地脈の相性が悪すぎた。本来、鉱石はその魔法的な性質に見あった場所になる。研究者の言葉を借りるなら、力を持った石が地脈に惹かれるのだと。だが、マルバス領の鉱脈は先の大戦で滅びた竜種の死体が数万と折り重なって朽ち、地層の深くに飲み込まれたものが、活発な地殻変動により、再び隆起した高い山脈の中にある。竜種の強すぎる残留動力と資源に生成された石油のようなそれは、北では珍しい獄炎のもの。それが酷氷の大地に凍結され、辛うじて結晶化した不安定な状態なのである。従って、地中に埋まっていればこそ拮抗する両の力から存在を保てるが、地上に見えた途端、危うい均衡は崩れ、藻屑と消えるのだ。
領内屈指の職人達によってでも、未だそれを加工し常態化させる努力は実っていない。その試みがあるからこそ職人の技量は上がるのだが、なんとも皮肉な話である。従って、領内の動力は他領からの輸入に頼り切り、関税、商業組合や銀行の利権争い、果ては鉱石瓦解の際の環境被害など、多くの災いをこの地にもたらしていた。
いかに高い爵位を持つマルバス辺境伯であれども、これほどの事態には、手を焼いていた。物語は、金獅子マルバスの治世537年に幕を開いた。