ギルベルトと妖精猫風邪
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
元王様ケットシーにも苦手な物はあります。
98ギルベルトと妖精猫風邪
最初に異変に気付いたのはマリアンだった。
「おはよう」
起きて来たギルベルトがマリアンに抱き着く。
「おはよう、ギル」
まだ服を着ていないギルベルトの額にキスをして、マリアンは「あら?」と思った。
(起き抜けだからかしら。いつもより温かいみたい)
違和感は朝食の時に強くなった。ギルベルトが朝食を全部食べられなかったのだ。
「ギル、もしかして具合が悪いんじゃないの?」
マリアンの言葉に、リュディガーとアデリナがギルベルトの顔を覗き込む。
「ギル、鼻乾いてないか?」
「目も潤んでいますし」
「にゃう」
ギルベルトは食卓から居間に逃げて行ったが、途中で立ち止まりくしゃみをした。
「へぷしっ」
(目の潤みとくしゃみに熱って言うと……)
何となくマリアンは症状に心当たりがあった。去年エンデュミオン達が掛かった妖精猫風邪だ。ケットシーには重い風邪だと聞いた。
「リュディガー、ギルをベッドに戻して。ドクトリンデ・グレーテルを呼んでくるわ」
「やっぱり病気なの?」
「妖精猫風邪かもしれないわ。アデリナ、後片付けお願いね」
「はい」
マリアンはコートを着て、直ぐに魔女グレーテルの診療所へ走った。
「おはようございます」
ドアを開けて無人の待合室に声を掛ける。
「はいですー」
細く開いていた診察室のドアを開けて、マーヤが顔を出した。ちなみにマーヤはドアノブに手が届かない。
「どうぞですー」
マーヤに診察室の奥の居間に案内される。グレーテルは朝食の食器を洗っていたらしく、手拭いで手を拭いてからエプロンを外した。
「早くにどうしたんだい?」
「ギルが具合が悪いみたいなの。くしゃみと涙目、鼻も乾いているわ」
「ギルが?」
リュディガーの診察に来ているので、グレーテルもマーヤも、ギルベルトの存在を知っている。
「ギルはたまにカウンターに出ているんだったね。今の時季なら妖精猫風邪かもしれないね。どれ、往診に行こうかね」
「お願い」
グレーテルはマーヤにも出掛ける用意をさせ、往診鞄と薬草瓶を入れた籠を持った。
診療所のドアに〈往診中〉の札を下げ、マーヤはマリアンが抱いて〈針と紡糸〉に戻る。
リュディガーの部屋に入る前に、ギルベルトのくしゃみが連続で聞こえた。
「おやおや。ギル、具合が悪いのを我慢していたね?」
「にゃう……」
部屋に入るなりグレーテルに指摘され、ギルベルトの耳がぺたりと伏せた。
「ケットシーにとって、妖精猫風邪が軽い病ではないと知っているだろう?」
「……ミント苦手……」
ギルベルトの大きな目からポロポロ涙が落ちる。
「王様の時は掛からなかったのかい?」
「王様だからちゃんとミント飲んだ」
王様を辞したら、もうただのケットシーだ。我儘も言う。
「だけど、特効薬はミントしか無いんだよ。匙で一口でも良いから、食事の後に飲んでおくれ。霊峰蜂蜜を入れて貰うからね」
「うん……」
ギルベルトを診察し、部屋を出たグレーテルはマリアンに渋い顔を見せた。
「随分喉が赤くなっているよ。ギルは熱が出る前から気付いていたんだろうね。早くミントを飲んでいれば悪化しないんだが、嫌いだとなると予防薬にも使い辛いね」
「とりあえず、喉に染みない食事を考えるわ」
「あたしはこれから〈薬草と飴玉〉と<Langue de chat>に行って来る。悪いがマーヤを見ていてくれるかい?」
「ええ、アデリナと遊んでいて貰うわ」
〈針と紡糸〉を出て行ったグレーテルは暫くしてから戻って来て、「ルッツも妖精猫風邪だったよ」と言って苦笑した。ルッツもミントを拒否していると言う。
グレーテルがマーヤを連れて帰って行った後、ギルベルトは本当に一匙だけミントティーを飲んだ。しかしそれ以上は喉に染みて飲み込めないらしく、リュディガーが添い寝して様子を見る事にした。
「喉に染みない食事とミント……どうしましょう」
「本当にねぇ」
マリアンとアデリナは台所で二人並んで唸ってしまった。
ぽんっ。
居間に銀色の魔方陣が浮かび、エンデュミオンが現れた。
「エンディ」
「マリアン、ギルベルトが妖精猫風邪になったと聞いた」
「ええ、そうなのよ」
「ギルベルトはミントが苦手だろう。ルッツ用に孝宏が作ったミントの菓子を分けて貰って来た。食べさせてやってくれ」
エンデュミオンは足元の籠を前肢で示した。
「まあ、良いの?」
「うん。こっちは氷菓子だから冷凍庫に入れないと溶けてしまうぞ」
「有難う、エンデュミオン。お礼伝えてね」
「うん。その、ギルベルトはケットシーのエンデュミオンを育ててくれたのだ。だから」
前肢をもじもじさせそれだけ言って、エンデュミオンは〈転移〉で帰って行った。
「エンディも子供の時があったんですね」
「そりゃそうよ。ケットシーは子供の乳離れが済んでいたら、主について森を出るそうだから。きっとそういう子達を、ギルベルトが面倒を見ていたのね」
アデリナの少々失礼な物言いに、気持ちは解らないでもないマリアンは、微笑んで床から籠を取り上げた。籠の中にはホウロウの蓋付きの容器と紙袋、折り畳んだ紙が入っていた。
「ミントのお菓子の作り方だわ。あと、お粥……は味を付けていないリゾットみたいな物かしら。それと鰹節?」
まずマリアンはアデリナとホウロウの蓋を開けてみた。片方はゼリー、片方はシャーベットの様だ。どちらも黒森之國ではまだ菓子としては殆ど作られていない。ゼリーはスープのゼリー寄せの様に食事として用いられる事が多い。
スプーンでほんの少し取り、マリアンとアデリナは味見してみた。
「美味しい」
「こっちのシャーベットも檸檬の風味がして美味しいわ。どちらも食べやすいわね」
マリアンはミントティーシャーベットを小鉢に掬い取った。ギルベルトの喉が痛むなら、飲み込み易い方が良いと思ったからだ。
残りのシャーベットとゼリーは、大切に冷やしておく。
「ギル、起きてる?」
「うん……」
ギルベルトはリュディガーにしがみついて横になっていたが、もそもそと起き上がる。
「エンデュミオンがミントティーを使ったお菓子を持って来てくれたの。冷たいお菓子よ、食べてみない?檸檬の風味がして美味しいわよ」
「うん」
マリアンが渡した器から、リュディガーが木匙で掬ってギルベルトの口に入れてやる。
「どう?ギル」
「美味しい。これなら大丈夫」
ぱたぱたとギルベルトの尻尾の先が揺れる。
「良かったわ。作り方もくれたから作ってみるわね」
ギルベルトが綺麗に食べた器を持って、台所に戻ったマリアンは、コートを着て再び外に出た。今日は店のカウンターはアデリナに任せる事にする。
食品を売っている通りまで出て、倭之國の食品を売っている食料品店に行く。
孝宏が書いてくれたレシピには、倭之國の米を使ったと書いてあったのだ。それ程量は要らない様だが、売っているのはこの店位しか思い付かない。黒森之國ではリゾットは作るが、それは細長い米で作るのだ。
何かを作る時には、まずはレシピ通りに作ってみるのがマリアンだ。
この食料品店は古い。マリアンよりかなり歳上であろう森林族の男性フロレンツが店主だ。見た目は三十代にしか見えないが。
「おはようございます」
「おはよう、フラウ・マリアン。今日は何にするかね?」
「倭之國のお米を少し欲しいの」
「おや、珍しいね。ヒロ位しか倭之國の物は買わないかと思っていたが」
フロレンツが少し驚いた表情になる。
「ヒロにお粥の作り方を教えて貰ったの。今ギルが風邪を引いちゃって」
「ギル?」
「ギルベルトよ。リュディガーのケットシーなの。二人とも元気になったら出歩くわよ」
フロレンツは指折り何かを数えた。
「今、右区には五人もケットシーが居るのかね。領主はギルを知っているのかい?」
「まだ冒険者ギルドに登録していないから、知らないんじゃないかしら。出歩ける様になれば挨拶にも行けるけど。まだそんなに長く外に出られないのよ」
「ただでさえヴァイツェアの第二、第三継承者がリグハーヴスに居ると言うのに、双方にケットシーが憑くとはね」
(しかも元王様ケットシーだものね)
フロレンツもギルベルトを直接見たら、吃驚するだろう。
「そう言えばヘア・ハルトヴィヒにも連絡していないんじゃないかしら」
「それはしておいた方が良いね」
マリアンとリュディガーが婚約した以上に、ハルトヴィヒは度胆を抜かれるだろう。
倭之國の米を少し買い、鰹節の現物を見せて貰ってからマリアンは〈針と紡糸〉に帰って来た。鰹節はギルベルトの反応を見てからにしようと思ったのだ。
「えーっと、まずお米を研いでおいて……」
ティーカップでお米を量ったので、同じティーカップで水を鍋に五杯入れる。お湯が沸いたら研いで水を吸わせてから水を切った米を投入し軽く混ぜてから、きせ蓋で十五分程煮てから蓋をして十分程蒸らす。これが基本の白粥らしい。味見をしてみると、軟らかい米が甘く感じた。
孝宏のレシピには、「ケットシーは鰹節が好きなので、白粥に載せて食べる時に混ぜて下さい。出来立ては熱いので少し冷ましてあげて下さい」と書いてあった。恐らく、孝宏が言った事をエンデュミオンが代筆したのだろう。
丁度お昼になったので、マリアンは鰹節を載せたお粥とオニオンスープの上澄みをギルベルトに運んだ。リュディガーにも炒めた挽き肉を散らしたお粥と、玉葱とチーズ入りのオニオンスープだ。炒めた挽き肉は小皿にも載せて来た。ギルベルトが欲しがればお粥に追加してあげられる。
「ギル、お昼持って来たんだけど食べられそう?」
「うん……」
まだ耳が伏せがちなギルベルトには、マリアンが食べさせてあげる事にする。
「ヒロが作り方を教えてくれたの。あと鰹節を削ってくれたのよ。ギルベルトは好きかしら」
お粥の上でゆらゆら揺れる削り鰹を見たギルベルトの目が釘付けになった。ひくひくとピンクの鼻が動いている。
削り鰹とお粥を軽く混ぜ、木匙で掬って吹いて冷ましてから、ギルベルトの口元に近付ける。
ギルベルトは舌先でお粥の温度を確かめてから、匙を口に入れた。ふわあ、と顔が綻ぶ。
「……美味しい」
「喉は痛くない?」
「朝より楽」
「良かった」
ギルベルトの隣でリュディガーも、「何か甘いね」と言いながらお粥を食べている。
「鰹節美味しい」
マリアンが粥を冷ましてくれるのを待ちながら、ギルベルトが嬉しそうに言った。
「じゃあ家でも買って来ようかしら?」
「うん」
直ぐにギルベルトが返事をしたのに、マリアンは内心驚いた。余程気に入ったのだろう。勿論ギルベルトが喜ぶなら鰹節位買ってあげる。
ギルベルトが昼食を綺麗に平らげたので、マリアンは孝宏が作ってくれたミントティーゼリーで、フルーツポンチを作った。
それもきちんとギルベルトは食べた。
翌日にはギルベルトの体調は回復の兆しを見せたので、マリアンは孝宏がくれたミント菓子を食べさせ切った後も、レシピを見て菓子を作り続け、おやつとして皆で食べる事にした。〈薬〉として食べるより、おやつとして皆で食べた方が、ギルベルトも食べやすいと思ったからだ。
一週間後、すっかり元気になったギルベルトを連れてマリアンは食料品店に鰹節を買いに行き、フロレンツを驚愕させるのだった。
ミントが苦手なギルベルト。王様ケットシーの時は我慢していました。
エンデュミオンはちゃんとそれに気付いていて、ミントのお菓子を差し入れに行きました。
ギルベルトは唯一エンデュミオンを子供扱いしますし、エンデュミオンは唯一それを許します。
実はリュディガー、継承権第三位になっています。兄姉がいつの間にか継承権を放棄していました。
リュディガーの兄姉は既婚者です。ハルトヴィヒの近衛や、領主の住む街(森)の警備担当をしています。




