ギルベルトの到着
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
噂のあの子がやって来ます。
93ギルベルトの到着
「では、後を頼む。時々は顔を見せられると思う」
「いってらっしゃいませ!」
沢山の同胞に見送られ、集落を出る。
跡継ぎが育ち、漸く森を出られる。最初に会ってから五年が過ぎていた。
まだ名前は無い。だが、彼が現れるのを待ちきれなかった。
春の陽気の集落を出ると、森の中は雪景色だった。寒いが気が逸っているので、寒くない。
(矛盾しているな)
さくさくと凍り掛けている雪を踏む。
彼の気配はリグハーヴスに在った。直接〈転移〉するのは驚かせるだろうから、近くまで〈転移〉して、後は歩こう。
「リュディガー」
彼の名前を口の中で転がす。
少しだけ寒さが緩んだ気がした。
「行ってきまーす」
薬草魔女ブリギッテは、冷え性の老女に頼まれた、体を暖める効果のある薬草茶の袋を持ち手付きの籠に入れ〈薬草と飴玉〉を出た。
脚の弱っている老人にはリグハーヴスの雪は辛い。今日の客は左区に住んでいるから、余計だろう。〈薬草と飴玉〉は右区にある。
市場広場を抜けて行こうと、ブリギッテは路地に入った。
(あ、ケットシー)
路地にはケットシーが居た。何も着ておらず、きょろきょろしている。そして、一般的なケットシーの倍は大きかった。
(私の腰丈よりありそう)
漆黒のケットシーは襟元と胸元にふわふわした真っ白の毛が生えており、四肢の先と尻尾の先も白い。目の色は緑色だった。鼻と肉球はピンクだ。
ケットシーは路地に入って来たブリギッテに気が付いた。薬草の名前が銀色の糸で縫いとられた、薬草魔女の黒いマントをじっと見詰めてから、近付いてくる。
「こんにちは」
「こんにちは」
挨拶されたので、ブリギッテも挨拶を返した。ラルスより歳上の少年の声だった。
「この辺りにリュディガーと言う名前の樹木医は居ないだろうか?」
「ヘア・リュディガーなら、この路地を向こうに出て、左に行った所にある〈針と紡糸〉って言う仕立屋さんに居ますよ」
自分より遥かに歳上のケットシーだと本能的に気付いたブリギッテは、丁寧な言葉使いで教える。
「有難う」
「どういたしまして」
漆黒のケットシーは嬉しそうに、路地の出口に向かって歩いて行った。
黒い背中が角を曲がるのを見送り、ブリギッテは市場広場に向かって歩き出す。
服を着ていないのだから、あのケットシーは完全に主持ちではないのだろう。だが、リュディガーを名指しで捜していた。
(ケットシーの方から来るなんてあるのかしら)
帰ったらラルスに聞こうと決めて、ブリギッテは薬草茶の配達に向かった。
キイ、と店のドアが開いた。
「いらっしゃい……」
いらっしゃいませ、と言い掛けたマリアンは言葉尻を飲み込んでしまった。
ドアを開けて入って来たのは、大きな黒いケットシーだったのだ。
「リュディガーは居るか?」
「ええ、居るわ。あなたは王様?」
「王様だった。もう、ただのケットシーだ。だからリュディガーの所に来た」
「そうなの。良く来てくれたわね。リュディガーから話は聞いていたわ。アデリナ、一寸良いかしら」
マリアンが店の奥に声を掛けると、倉庫に居たアデリナが戻って来た。
「はい、フラウ・マリアン。あら!」
ケットシーを見て、アデリナが目を丸くする。
「リュディガーに知らせてくるから、お願いね」
「はい。どうぞごゆっくり。もうすぐ閉店時間ですし」
アデリナがカウンターに入り、マリアンはケットシーに声を掛けた。
「住居は二階なのよ」
「うん」
マリアンに付いて、ケットシーは二階への階段を上った。階段に濡れた肉球の跡が付く。雪の上をそのまま来たらしい。
「肢、冷たくなかった?」
「冷たい」
「リュディガーにお湯に入れて貰うと良いわ」
「うん」
居間ではリュディガーが長椅子に横になって転た寝していた。毛布を掛けてはいるが、肩からずり落ちている。
「寝るならベッドでって言っているのに、リュディガーったら」
「リュディガー、どうした?」
ケットシーは長椅子に近付き、リュディガーの顔を覗き込んだ。当初よりかなり回復して来たが、まだ寝ている時もある。そんな日は顔色も悪い。
「エンデュミオンに聞いたと思うけど、年末に〈黒き森〉で罠に掛かって怪我をしたの。血を多く失って、今はまだ療養中なのよ。大丈夫よ、良くなるから」
ぶるりと震え、尻尾を膨らませたケットシーの頭を、マリアンは撫でてやった。長めの毛が少しもつれている。
「ん……?」
「リュディガー」
「ん!?え?王様!?」
目を開けたら真正面にケットシーが居て、リュディガーは焦った。近い。
「王様はおしまい。だからリュディガーの所に来たんだ」
「こんな冬に!?雪積もってただろうに」
「途中まで〈転移〉して来たから」
「びっくりしたよ。うわあ、良く来たね」
リュディガーは起き上がって、笑顔でケットシーを抱き締めた。ケットシーもリュディガーにしがみつく。
「身体の具合はどうだ?」
「大丈夫だよ。寒かっただろう?」
「お湯を使うと良いわよ、リュディガー。ケットシーだって、風邪を引くでしょ?」
去年エンデュミオン達が風邪を引いていたのは記憶に新しい。
「うん。そうしようか」
「うん」
素直にケットシーは頷いた。
バスタブに温めのお湯を溜め、ケットシーにまずは肉球を暖めさせる。霜焼け予防だ。それからカモミールのバスキューブと少し熱いお湯を溜める。
ケットシーをバスタブに座らせて、リュディガーは身体を洗ってやった。耳に水が入らない様に注意してシャワーで泡を流し、ふわふわの浴布を被せてやる。
「リュディガー」
「んー?」
身体を拭いて貰いながら、ケットシーはポンポンと肉球でリュディガーの腕を叩いた。
「名前を着けてくれ」
「そっか、〈黒き森〉を出たんだもんね」
主を持って〈黒き森〉を出たケットシーは、主から名前を貰うのだ。
粗方水気を取って貰ったケットシーは、バスタブから床に下り、温かい風を喚んで身体を乾かした。
リュディガーは櫛を棚から取って、ケットシーを丁寧にとかす。
「ギルベルトはどうかな」
「ギルベルト?」
「うん。愛称はギルだね」
「ギルベルト……。ふふ」
尻尾がピンと立ち、ふるふると揺れる。気に入ってくれた様だ。しゃがんでお腹の毛をとかしていたリュディガーの頭をギルベルトが抱き締める。ふかふかの毛に顔が埋まってくすぐったい。
「ギルベルト嬉しい。有難うリュディガー」
「うん。これから宜しく、ギル」
ギルベルトの身体の毛をきちんと櫛梳ってから、リュディガーは一緒に居間に戻った。
「お疲れ様。喉が乾いたでしょう」
台所からマリアンがギルベルトに人肌のミルクティーをカップに入れて運んで来た。リュディガーの分は湯気が立っている。
小さなケットシーと違い、ギルベルトはカップを片手で持てた。飲み方は同じだったが。
ちゃむちゃむと緑色の目を細めて、美味しそうにミルクティーを舐める。
「マリアン、ギルベルトだよ。ギル、こちらはマリアン」
「リュディガーの嫁だな?ギルベルトの木の指輪をしている」
「うん。そう」
臆面なくリュディガーが頷く。ギルベルトはマリアンを見上げた。
「ギルベルトはここに居て良いのか?」
「勿論よ」
マリアンもアデリナも、楽しみにしていたのだから。
「服を作るから採寸させてね。どんな生地にしようかしら。軟らかいのが良いわね」
腕が鳴るわーと、マリアンが巻き尺を店に取りに行く。
「良い嫁だな、リュディガー」
「そうだろ?ギルは靴も作らないとね」
室内履きはマリアンかアデリナが作るだろうが、外靴は革で靴屋に作って貰わなければならない。
「この通りの<Langue de chat>にエンデュミオンとルッツとヴァルブルガが居るし、〈薬草と飴玉〉にラルスが居るよ。挨拶に行かないとね」
「若い薬草魔女ならさっき会った。ここを教えて貰った」
「それはフラウ・ブリギッテかな?薬草魔女ドロテーアのお孫さんだよ」
「うん。ラルスはドロテーアに憑いて行った筈だから。ドロテーアは元気なんだな」
「毎日お店に出ているみたいだよ」
「そうか」
マリアンは店を閉めたアデリナと一緒に、巻き尺や見本布を持って戻って来た。
「ふふ、やっぱり肉球は大きいのね」
「エンディ達の倍位でしょうか」
ギルベルトの採寸をしながら、マリアンとアデリナが華やぐ。
「明日型紙を起こして作り始めるわね」
「うん」
巻き尺や見本布を片付けたマリアンとアデリナが、二人で台所に立ち夕食を作り始める。リュディガーはその間にギルベルトを自分の部屋に案内したり、ここに来てから作った木彫りの動物を見せたりした。
ギルベルトは全ての物に、物珍しそうに緑色の目をキラキラさせた。
夕食の後は、リュディガーが風呂から出るのをギルベルトは寝室で起きて待っていた。水を飲みに台所に行くリュディガーに、とことことギルベルトが付いてくる。
「先に寝ていても良かったんだよ?」
「まだ眠くない」
「でも、ベッドには入って良い時間よ」
「うう」
マリアンに促され、ギルベルトは呻いた。しおしおと耳を倒し、マリアンとアデリナに交互に抱き着く。
「お休み。マリアン、アデリナ」
「お休みなさい。ギルベルト、リュディガー」
二人にキスをして、マリアンは微笑む。
寝室に行きベッドにリュディガーと横になり、ギルベルトは用意された枕に頭を載せた。リュディガーが毛布と羽根布団を、ギルベルトの肩まで引き上げる。
「リュディガーはマリアンと一緒に寝なくて良いのか?」
「いや、マリアンの部屋に行く時は行くけど、ギルとも一緒に寝たいな」
「ふふ」
ふくりと口元を膨らませ、ギルベルトはリュディガーの肩に頬を擦り付けた。
「ギルはさ、〈黒き森〉から出た事あったの?」
「ううん。初めて出たんだ」
では本当に色んな物が珍しいのだろう。
「じゃあ、俺の体調が戻ったら、一緒に出掛けようか。まずは服が出来たら、リグハーヴスの街を散歩しようよ」
「うんっ」
「灯り消すよ」
リュディガーは枕元の棚にある光鉱石のランプの灯りを消した。
暗くなった部屋で、パチパチとギルベルトが瞬きするのが解る。目が緑色に光っているからだ。
カーテンが引かれた窓の外から、ヒューヒューと風の吹き付ける音が聞こえる。もしかしたら、外は吹雪になっているのかもしれない。
(ふかふかするな)
隣に居るギルベルトの毛がパジャマに軟らかく当たる。そしてふっくらと暖かい。
〈黒き森〉のケットシーの集落で泊まった事のあるリュディガーだが、久し振りの感触だ。
すうすう、と直ぐに寝息が隣のギルベルトから聞こえて来る。
眠くないと言っていたが、〈黒き森〉から来た事の無いリグハーヴスに一人でやって来たのだ。疲れていたに違いない。
王様ケットシーは、他のケットシーよりも更に知識量が多いと言う。エンデュミオンの叡智はかなり例外だが、通常王様ケットシーは五十年から百年で、知識を次代に継承させ任期を終える。その辺りは森林族の公爵と同じだ。
王様を終えたケットシーは、〈黒き森〉でのんびり過ごす者もあれば、ギルベルトの様に主を見付けて森を出て行く事もある。
王様になるケットシーは身体が大きいのが特徴だ。〈黒き森〉から王様だった個体が出るのは、とても珍しかった。
(寝ている姿は仔ケットシーみたいだな)
リュディガーと一緒に出掛けるのならば、ギルベルトも冒険者ギルドに登録しないとならないだろう。身分証明にもなる。
(でも胸の毛に隠れちゃうかな)
木工細工で何か作ろうかな、とリュディガーは思う。軽い木でペンダントトップを作ろう。ギルベルトの木の枝はまだ残っている。
春になるまで、ゆっくりとギルベルトとリグハーヴスの街を歩こう。
春になったら、一緒に薬草採集に行こう。
ギルベルトの第二の人生は、始まったばかりだった。
元王様ケットシー・ギルベルト登場。
一般的なケットシーの倍の大きさがあります。温厚な性格のギルベルト。
エンデュミオンとラルスの育ての親です。エンデュミオンもギルベルトには頭が上がりません。
真っ白な胸毛と大きな肉球をしています。悪戯好きなのは、他のケットシーと同じです。




