イシュカのお客様
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ヴァイツェアからのお客様は誰かをお探しです。
91イシュカのお客様
年が開けて二日目、まだ黒森之國の店の殆どは休暇中だ。
<Langue de chat>の面々も、ケットシーと一緒に昨夜降り積もった雪の中、市場広場へと繰り出していた。新年市場だ。
年末に風邪を引き込んでいた孝宏はマフラーをしっかりと襟元に巻いて、エンデュミオンを抱いていた。
イシュカとテオもそれぞれヴァルブルガとルッツを抱いている。
カチヤはエンデュミオンが実家に〈転移〉で送って行って、里帰り中だ。
今年も雑多な物を売る冒険者の出店をひやかしたり、パン屋のカールと肉屋のアロイスの屋台で狂暴牛をトロトロに煮込んだ茶色いシチューに舌鼓を打った。
「っくしゅ!」
「む、冷えて来たか?孝宏」
くしゃみをした孝宏に、エンデュミオンが敏感に反応する。
「少し」
「振り返したらまずい、そろそろ帰ろうか」
イシュカが孝宏の髪にぽんと手を載せる。
「ルッツおりる」
右区に入る路地で下ろして貰ったルッツが、<Langue de chat>がある路地に向かって駆け出す。
「ルッツ、走ったら危ないぞ!」
テオが止める間も無く、路地の出口で通り掛かった人にぶつかり、ルッツが引っくり返った。
「うわ、ルッツ!」
「いたいー」
慌てて駆け付けると、ルッツが泣き出した。座り込んだ場所の雪がポツポツと赤い。
「あー、鼻血……」
鼻を強くぶつけてしまったらしい。
「ハンカチハンカチ」
「これをどうぞ」
コートの下のズボンからハンカチを出そうとしたテオに、ハンカチが差し出される。見上げた先には、淡いピンク色のショールを寒風を避ける様に髪に巻いた婦人が居た。隣には森林族の青年が居る。雰囲気からして夫婦だろう。
「すみません、有難うございます」
「いえ、わたくしにぶつかってしまったのです。ごめんなさいね」
「ふうー」
鼻をハンカチで押さえられ、ルッツがくぐもった鳴き声を上げる。
「テオ、ルッツを<Langue de chat>に連れて行け。ドクトリンデ・グレーテルを呼んで来るから」
「鼻血だよ?」
「直ぐに止まらないかもしれないだろう。まだ子供なんだし」
イシュカはヴァルブルガを抱いたまま、診療所へ走って行った。
「……ここに居ても冷えるだけだ。<Langue de chat>に戻ろう」
ぽしぽしと頭を掻きながらエンデュミオンが言った。ちらりと、テオがぶつかった夫婦らしき二人を見る。
「時間があるなら休んで行くと良い。ルッツがぶつかった詫びに、お茶位出す」
「……では、お言葉に甘えて」
黒髪の森林族の青年は、そう言って頭からショールを被っている女性を促したのだった。
孝宏は店の鍵を開け、先にテオとルッツを通した。先ずは怪我人だ。それから客人を招いた。
「そちらのお好きな席にお掛け下さい」
「有難う存じます」
女性の方がたおやかな動きで軽く膝を曲げる。準貴族かそれなりの教育を受けている人達の様だ。
テオはルッツを〈予約席〉に座らせ、汚れた茶色いケープを脱がせた。ケープを受け取り、孝宏は錆柄の後頭部を撫でた。
「ルッツ、軽く下を向いてるんだよ」
「あい」
涙目で返事をするルッツは、大きな耳をぺたんと伏せてしまっている。
「少々お待ち下さい」
孝宏はエンデュミオンにケープの洗濯を任せて、一階の台所に入った。薬缶でお湯を沸かし、紅茶を淹れる。大きめのティーポットで淹れた紅茶を、カップとミルクピッチャー、砂糖壺、霊峰蜂蜜の瓶と共に盆に載せて戻る。
閲覧スペースには、魔女グレーテルとマーヤが来ていた。イシュカとヴァルブルガも心配そうに覗きこ込む中、緑色の〈治癒〉の光が広がる。
「もう大丈夫だよ。ケットシーも子供は鼻の血管が切れやすいのさ」
「ありがと、グレーテル」
グレーテルの膝に載せられていたルッツが、お礼とばかりに抱き付いている。ちなみにグレーテルの胸はそれなりに大きい。子供だから許される行為である。
「ハンカチ、どうする?」
汚れたハンカチを持って、エンデュミオンが流石に躊躇う。
「代わりにヴァルブルガのあげる」
ヴァルブルガが、自分のポケットからハンカチを取って差し出す。刺繍がある面が内側に畳まれているので、白いハンカチに見える。
「と、ヴァルが言っていますが」
「宜しいのですか?」
「うん」
「有難う存じます」
女性客が微笑んで受け取る。ヴァルブルガはエンデュミオンから汚れたハンカチを貰い、水球を空中に出して洗い出す。
「ところで」と、エンデュミオンは首を傾げた。
「何故リグハーヴスにヴァイツェアのハルトヴィヒが居るんだ?お前はもう公爵になったのか?」
「な……」
鯖虎柄のケットシーに身元がばれ、ハルトヴィヒは驚いた。グレーテルが笑う。
「エンデュミオン、ハルトヴィヒは今の公爵だよ。リュディガーの兄だね」
「リュディガーに会いに来たのか?」
大きなキラキラする黄緑色の瞳で見上げるエンデュミオンに、黒髪の森林族ハルトヴィヒは毒気を抜かれる。
「それもあるが……エンデュミオン?本当に?」
「そうだが?」
「ふふ、可愛いだろう。ルッツもヴァルも可愛いがな」
「姉上……」
こめかみを押さえるハルトヴィヒに、グレーテルは彼の向かいに座る女性に目を見た。
「こちらは?」
「私の側妃エデルガルトだ」
「初めてお目に掛かるね」
「それは……」
言い淀むハルトヴィヒに、エデルガルトは髪を覆っていたショールを取って、軽く頭を下げた。
「エデルガルトと申します。フラウ・グレーテル」
「フラウなんて呼ばれるとくすぐったいねえ」
大概グレーテルはドクトリンデと呼ばれている。かなり長い間フラウと言う敬称を付けて呼ばれた事は無かった。
そんな彼らの姿を、孝宏はじっと眺めた。
(イシュカの髪の色ってあんまり見ないけど……)
エデルガルトは赤みの強い栗色の髪をしていた。緩く波打つ豊かな長い髪は、横髪を掬って後頭部で髪飾りを使って留められていた。
恐らく四十代にはなっているだろうが、若々しく美しい。
何となく、孝宏はイシュカとエデルガルトを見比べてしまった。髪の色がそっくりだからだろうか、似ている気がする。
(目の色は違うけど。イシュカの目ってどっちかって言うと森林族の色だしな)
イシュカは孤児だが、ヴァイツェア公爵領の血でも入っているのだろうか。ヴァイツェアにはあの髪の色が多いとか。
「にゃう?」
ハンカチを洗っていたヴァルブルガが、こてりと首を傾げた。綺麗に洗って乾かしたハンカチを前肢に持っている。
「どうした?ヴァル」
「同じなの」
ヴァルブルガはエデルガルトのハンカチをイシュカに渡した。白いハンカチには上品な青い小鳥とピンクと白の花が刺繍されていた。
「あ、本当だ」
「何だい?」
「いえ、フラウ・エデルガルトのハンカチにあった刺繍が、俺の家の柄と同じだったので。フラウ・エデルガルトにお渡ししたハンカチを見ていただければ解りますよ」
「何だって?エデルガルト見せてくれるかい」
エデルガルトがヴァルブルガのハンカチを開く。丸みのある青い小鳥とピンクと白の特徴ある小花が、白いハンカチを鮮やかに彩る。
「まあ……」
エデルガルトが瞠目し、キリリとグレーテルの顔が引き締まる。ぱん、と揃えた指先でテーブルを叩く。
「説明おし、ハルトヴィヒ」
ハルトヴィヒは溜め息を吐いて天井を見上げた。だが、エデルガルトはイシュカを見て微笑んだ。
「わたくしの坊やですわ。やっと会えましたわね」
「元気に産まれた筈の赤ん坊が急死して、検死もせずに埋葬したのかい。夫のお前にも見せずに。どう考えたっておかしいだろう。それとも同じ日に産まれた森林族の赤ん坊が元気だから、それで良いと思ったのかい?」
孝宏が淹れた紅茶を飲み、じろりとグレーテルはハルトヴィヒを睨んだ。
「私もおかしいとは思っていたが、ローレンツが全て済ました後だったのだ」
「ローレンツはお前の主じゃないんだよ。のさばらしておくんじゃないよ。あいつは森林族至上主義者なんだから。大体予想がつくがね。イシュカは精霊や妖精と親和性が高いが、魔法が使えないのさ。だからローレンツはイシュカを捨てたんだね」
「私の子だぞ!?」
「お前とて、エデルガルトの話を信じずに今まで来たんだろう?」
「う……」
ハルトヴィヒは言葉に詰まった。確かにエデルガルトの髪とハルトヴィヒの目を持つ赤ん坊なら、捜し出せたかもしれない。イシュカはエデルガルトに良く似ていた。
だが、王都の孤児院まで連れて行かれていたとは思わなかった。
「苦労させてしまったな」
「ふん。ヴァイツェアで育っていても、平原族の側妃の子なら、長子であろうと苦労しただろうよ」
いつの間にかエンデュミオンが菓子皿を持って、テーブルの横まで来ていた。
「有難う、エンディ。エデルガルトはどうしているかね」
「居間で皆とおやつをたべているぞ。ルッツとマーヤの飯事を見て楽しそうだ。言っておくが、エデルガルトはまともだぞ?」
菓子皿をグレーテルに受け取って貰い、エンデュミオンはとことこと居間に戻って行った。
グレーテルとハルトヴィヒは閲覧スペースに残り、話し合っていたのだ。
「どう言う意味だ?」
「エデルガルトは心の病にはなっていないと言う意味だろう。あたしも彼女は正常だと思うね」
離れに二十年余り幽閉されていたにも関わらず。
「お前に会う度子供はどうしたか聞くのは当然だろう。彼女には身内が居ない以上、消えた子供を捜すのはお前しか居ないんだから。自分は幽閉されているんだよ?」
そんな事も解らなかったのかい、とグレーテルに呆れられる。
「一応、本当に親子なのか教会で女神様にお伺いしておいで。それこそローレンツが煩いだろうから、司祭に証人になって貰うと良い」
「はい」
グレーテルは菓子皿から、焼き菓子を摘まんで齧じる。
「ハルトヴィヒもお上がり。孝宏の菓子は美味しいから」
「はい」
口に入れた菓子は、ハルトヴィヒが今まで食べた事が無い物だった。サクサクとして芳ばしい。
「美味しい……」
「孝宏は〈異界渡り〉だからね。珍しい物を作るよ」
「っ!……あの子が?」
ハルトヴィヒは噎せ掛けた。慌ててお茶を飲む。
「エンデュミオンとイシュカが保護人だからね。親子関係を回復しても、イシュカをヴァイツェアには連れて行けないよ。孝宏はリグハーヴスに降りたと、王と聖都が認定してしまっているから。それにもしヴァイツェアに連れて行ってごらん。正妃の息子の立場が無くなるだろう」
「つまりイシュカの継承権は剥奪しろと?」
「剥奪したくなければ、第二位にするんだね。イシュカは平原族だから、それであいつらも納得するだろうさ」
正妃の息子が結婚し世継ぎを作れば、ハルトヴィヒから公爵位を継承した時点で、イシュカの継承権は第三位に降りるのだ。不慮の事故でもない限り、イシュカが公爵位を継ぐ事はない。
「まずはリグハーヴスでやる事をやっておくんだね。正妃と次男には言って来たのかい?」
「いや。今頃王都から帰途についているだろう」
「ハルトヴィヒ……。まあ、確定してからでも良いかねえ」
とてとてと足音がして、ぴたりと止まる。
「おや」
グレーテルの視線の先に、ヴァルブルガが居た。居間のあるカウンターの奥の廊下から出て来たのだろう。
「ヴァル?」
カウンターの後ろからイシュカが現れ、ヴァルブルガを抱き上げて、丸い頭にキスをする。まるで人の子供にする仕草を、イシュカは普通にケットシーにもする。
「何か話したいのかい?」
グレーテルの問いに、ヴァルブルガは頷いた。
「うん……。イシュカ連れて行っちゃ厭なの」
グレーテルとハルトヴィヒは顔を見合わせた。
「安心しろ。連れて行ってもそこの教会位だから」
「本当?」
「そうさ。イシュカ、後で親子鑑定に教会に行っておいで。うやむやにしておく方が為にならないからね」
「そう、ですかね」
どこか他人事の様にイシュカが呟く。急に親が現れて、イシュカはまだ実感が無いのだろう。
ヴァイツェア公爵の継承権にも、きっと興味を示さないに違いない。
イシュカはルリユールの親方だから。
言葉通りにイシュカはハルトヴィヒとエデルガルト、ヴァルブルガと一緒に女神教会に赴いた。
司祭ベネディクトに親子鑑定を頼み、女神像に祈りを捧げると、祝福の光が降って来た。
「実の親子に間違いありませんよ」
ベネディクトは証明書を発行する段になり、ハルトヴィヒがヴァイツェア公爵だと解ってかなり驚いていた。しかもイシュカはハルトヴィヒの庶子ではないのだから。
陽が翳ってきた新年市場では、柱にロープを渡して吊るされた光鉱石のランプが灯り始めていた。
「綺麗ね」
「ここの祭はいつも賑やかですよ。明るい時間の方が店が多いですけど」
赤いフード付きケープを着たヴァルブルガを抱いたイシュカが、エデルガルトに説明する。
「イシュカと言う名前はどなたが着けたの?」
「俺の入っていた籠に、女性物のベストと〈Uisce〉と書いた紙片が入っていたそうです。それで孤児院のシスターがそのまま名付けてくれました」
「それは森林族だったわたくしの祖父の名前なのです」
「成程」
イシュカにも解る。つまりは、かなりハルトヴィヒとエデルガルトに近い者が、イシュカを誘拐したのだと。
「お前は関わらずとも良い」
「はい」
確かにイシュカの出る幕ではない。
「今晩はリグハーヴス公爵の邸にお泊まりですか?」
「ああ。明日はまた街に降りて来てリュディガーに会いに来る。エデルガルトはその間<Langue de chat>に居るか?」
「はい」
エデルガルトは嬉しそうに微笑んだ。
「お待ちしています。ヘア・リュディガーは、俺の叔父だと知ったら驚くでしょうね」
「知り合いなのか?」
「同じ路地の並びですから。うちは皆〈針と紡糸〉で服を作って貰っていますし。フラウ・マリアンもアデリナも良い人です」
「そうか」
ハルトヴィヒはヴァルブルガのハチワレの頭に掌を載せた。少し潤んだ様な緑色の瞳が、ハルトヴィヒを見上げる。
「イシュカを宜しく頼む」
「うん」
ふふ、と笑って、ヴァルブルガは目を細めた。
第91話・92話で、第79話『ケットシーのお届け物』からの伏線を回収。
イシュカの瞳は鮮やかな緑という、親の素性の伏線も回収です。
イシュカは森林族の血が入っているので、普通の平原族よりは長生きです。
忘れた頃に、伏線を回収していますね……。
エンデュミオンは慌てると、自分で回復出来ることをど忘れします(エンデュミオンは魔女に医術を習っていません。独学です)。
ルッツがグレーテルに抱き着いているのに、他意はありません。ルッツは懐いている人には誰にでも抱き着きます。




